~帝を偲ぶ、美しく高雅な上臈道中~
上臈参拝の由来

 

~語り継がれる悲哀の歴史~

 

 寿永4年(285年)、平家は壇ノ浦(関門海峡)で義経を総大将とする源氏に敗れました。主だった武将は入水、わずか8歳の安徳天皇も、二位の尼に抱かれ、三種の神器とともに入水され、平家は滅亡します。
建礼門院をはじめ平家の女官たちは里人に救われたものの宮仕えの育ちのため、これといった生計の法を知らず、付近の稲荷山などの草花を手折っては沖がかりの船人に売り、ほそぼそと生活をしていました。
それでも3月24日(旧暦)の安徳帝の御命日には毎年忘れず、昔ながらに威儀を正して帝の御影堂に参拝・香華(こうげ)を手向けるのでした。
やがて女官も絶えたあと、江戸時代になって稲荷町に遊郭ができ、廓の主人がその女官たちのやさしいまごころと美風を後世まで伝えようと、お抱えの遊女達 に参拝を続けさせたといわれています。そして、時代の変革と共に移り変わりながら、昭和41年から下関舞踊協会の奉仕で現在まで引き継がれ、悲しくも厳か な祭事として今に残っています。豪華絢爛な衣装を身に纏った5人の太夫が市内を練り歩く上臈道中は、赤間神宮でクライマックスを迎えます。


(しものせき海峡まつり・第23回パンフレットより引用)

上臈道中
赤間神宮

最終更新:2009年03月16日 10:25