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 *179年
 **光和二年(漢) 
 **皇帝
 劉宏(漢霊帝)
 **皇后
 (空位)
 **皇太子
 (空位)
 
 
 **三公
 太尉:橋玄(前光禄大夫・178~179)→段熲(前大中大夫・179)→劉寛(前衛尉・179~181)
 司徒:袁滂(前光禄勳・178~179)→劉郃(前大鴻臚・179)→楊賜(前光禄勳・179~181)
-司空:袁逢(前屯騎校尉・178~179)→張済(前太常)
+司空:袁逢(前屯騎校尉・178~179)→張済(前太常・179~184)
 
 
 **九卿
 太常:張済→
 光禄勳:楊賜→
 衛尉:劉寛→陽球→
 大僕:
 廷尉:
 大鴻臚:劉郃→
 宗正:
 大司農:
 少府:
 執金吾:
 
 **地方官
 司隷校尉:陽球
 
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 *主な事件
 -春 大疫。常侍を使わして、謁者を巡行に当たらせ医薬を処した《後漢書孝霊帝紀》
 -三月、司徒袁滂を免じ、大鴻臚の劉郃を司徒と為す《後漢書孝霊帝紀》
 -三月乙丑、太尉の橋玄が罷める。大中大夫の段熲を太尉とした《後漢書孝霊帝紀》
 -三月、京兆にて地震《後漢書孝霊帝紀》
 -三月、司空の袁逢が罷める。太常の張済を司空と為す《後漢書孝霊帝紀》
 -夏四月甲戌朔、日食あり《後漢書孝霊帝紀》太尉の段熲は日食があったので自ら弾劾し、有司が奏上し、詔をもって印綬を収め、廷尉に詣でた《後漢書皇甫張段列伝段頴*》
 -四月辛巳、中常侍の王甫及び太尉の段熲が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》司隷校尉の陽球は王甫を誅さんと奏上し併せて事は段熲に及んだ。段熲は獄中に就くと詰責され遂に鴆を飲んで死んだ。家属は辺境に移された。《後漢書皇甫張段列伝段熲》
 -四月丁酉、天下に大赦を下す。党人の禁錮で功少ないもの以下は許された《後漢書孝霊帝紀》
 -四月、東平王の劉端が亡くなった《後漢書孝霊帝紀》
 -五月、衛尉の劉寛を太尉と為す《後漢書孝霊帝紀》
 -秋七月、使匈奴中郎将の張脩を罪有りとして、獄に下し死ぬ。注に引く、時に張脩は単于の呼徴を檀において斬り、更に羌渠を単于に立てた。故に坐死す《後漢書孝霊帝紀》中郎將の張脩は単于に相応しくないとして斬り、右賢王の羌渠を単于に立てた。先触れもなく誅殺したので檻車を遣わし廷尉に下し抵罪《後漢書南匈奴列伝》
 -冬十月甲申、司徒の劉[合β]、永楽少府の陳球、衛尉の陽球、歩兵校尉の劉納は宦官を誅そうと謀るも、事が漏れ、皆獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》陳球の小妻は程璜之娘で、程璜は宦人で程大人と呼ばれていた。曹節等は重く程璜に賄賂と脅しをかけ、陳球の謀計を告げる。曹節は帝に「郃等は常に藩國と交通し、悪意が有ります。步兵校尉劉納及永樂少府陳球、衛尉陽球は不軌をなさんと謀議の書を交えております」帝は大いに怒り、策書をもって郃を免じ、郃と球及劉納、陽球らは皆下獄死した。球は時に年六十二。《後漢書王种陳列伝》
 -十月、巴郡の板楯蛮が叛く。御史中丞の蕭瑗を遣わし、益州刺史を督して之を討つ。勝てず《後漢書孝霊帝紀》巴郡の板楯がまた叛き、三蜀及漢中諸郡を寇掠する。靈帝は御史中丞蕭瑗を遣わして益州の兵を監督し討つが連年勝てず、帝は大いに兵を発せんと欲し、益州計吏に征討の方略を問い、漢中上計程包が答えた。「今は但明能な牧守を選び、自然に安んじすれば征伐の煩いは無い」と。帝は其言に従い、太守曹謙を遣わして詔を以って之を赦す。即皆降服する《後漢書南蠻西南夷列伝》
 -十二月、光禄勳の楊賜を司徒と為す《後漢書孝霊帝紀》
 -十二月、鮮卑が幽州并州を冦略す《後漢書孝霊帝紀》
 
 -この年、河間*王劉利が亡くなる《後漢書孝霊帝紀》
 -この年、洛陽の女の子が子を生んだが頭が二つ腕が四本だった《後漢書孝霊帝紀》
 
 
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 *誕生者
 
 
 *死没者
 王甫:中常侍・獄死
 段頴*:太尉・獄死
 陳球:永樂少府。獄死。弟の子に陳珪(沛相)がおり、その子が陳登(廣陵太守)。
 
 
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