瞑想と変性意識の違い

 これは私の考えであることを前提にお読みください。

最終的な結論はご自分で考えて出して下さい。
 
私の考える瞑想と変性意識の違いは、大きく言うならば顕在意識や潜在意識を無視するかしないかにあります。
簡単な図にしてみますと下記の通り。
 
瞑想と変性意識の違い図1
 
瞑想にも種類があると思います。何を目指す瞑想かによって若干方向性に違いがあると思います。ここでは単純形として無我の境地を目指す瞑想として考えています。
また変性意識とは青い線上のどの部分でも変性意識であると考えており、霊視が可能な意識層や、超能力が得られる意識層など、自分が得たい能力に応じて向かう意識層は違うと思いますが、その中でも自己成長を求める人たちの変性意識を前提としてお話してみることにします。
 
図では一直線でゴールまで到達していますが、実際にはどちらも顕在意識から潜在意識の最深部を目指して潜り、その途中のどこかまで潜ってまた戻る、を繰り返しながら、だんだんと深い意識に入れるよう訓練するものだと思っています。
また潜在意識が複数あるのは、潜在意識とは塊になった状態でいくつも層をなして存在すると私が考えているからです。
 
潜る際に、潜在意識とコンタクトを取り、更に顕在意識にもある程度自由を与えてアレコレ質問したりその回答を得たりしながら進むのが変性意識なのに対し、瞑想は顕在意識も潜在意識も黙らせた状態でひたすら潜るイメージです。図では瞑想が潜在意識の存在しない場所を通っているように見えますが、あくまでイメージ、潜在意識には意識を向けないため、上記のように表記してあります。
 
瞑想は変性意識よりもよりダイレクトにゴールを目指すように感じるかも知れませんが、上記の直線はあくまで理想の形であり、実際には瞑想にも変性意識にもメリットとデメリットがあると思っています。
また、瞑想もやり方の違いはあっても深層意識を目指す訳なので途中で映像が出てくる事はあると思いますし、変性意識にも瞑想的な部分はあります。
 
次の図は、上記とは違う側面から意識層を見たものです。
 
瞑想と変性意識の違い図2
 
私が考える意識層は球体で、その中心部が意識の最深部、神、宇宙の法則などと呼ばれる部分です。同心円の各線は潜在意識の意識層だと思って下さい。
私たちの意識は常にこの大きな球体のどこかに存在していて、表層に存在する人もいるでしょうし、少し内側に入ったところに存在する人もいるでしょう。表層知覚に意識がある人はバイタリティに溢れて現実的、内側に入った場所に意識がある人は空想好きでやや情緒不安定、のような特徴があります。
死ぬと肉体を脱ぎ、意識は表層と中央の途中のどこかに存在すると思っています。
 
表層近くのどこかから、私たちは瞑想や変性意識を使って球体の中央を目指します。
この言葉には少々語弊がありますね。私たちは「ここが中央だろう」と思う場所を目指します。
 
実際には顕在意識はどこが中央だかわかっておらず、進む道を誤ることもあるでしょう。
潜在意識を辿っていく変性意識の方法では、正しく潜在意識とコンタクトを取れていない場合、中央へ向かっているつもりが脱線して別な層へ向かってしまう。
また瞑想も、自分が目指している場所がどこなのか明確にしておかなければ、違う場所へと導かれると思っています。
 
今回の質問では、暮弥さんは無を目指したという事ですが、無のイメージは人によって違います。
無=無我の境地のイメージだったり、無=死であったり、無=不足=飢餓のイメージであったりするという事。このイメージは顕在意識のものだけでなく、潜在意識の持つイメージも含まれているため、顕在意識でココと指定してもズレた方向へ行くことがあるのではないかと予想します。
 
また、これは瞑想でも変性意識でも同様に言える事ですが、気持ちが「怒」や「悲」などに偏っている状態で行うならば、その気持ちと同じような気持ちを持つ意識層へ向かってしまうと思っています。
 
この図をスレメンさん数人にお見せしたところ、「愛」はどこですか、との質問がありました。
私は全ての感情は愛の別側面なのではないかと考えています。またこの球体全体、つまり意識とは全てが愛でできていると考えています。
意識層の中では「私たちが思うところの愛」が詰まっている場所ももちろんあると思います。それは家族への愛情であったり、食べ物や動物や神に対する愛情です。でもそれ以外の場所もすべて愛だと思っているため、図の中には愛の部分を作りませんでした。
また、図の中にある幻とは、人間が考える天国や地獄、極楽浄土といった幻想諸々を指しています。
実際には球体の中央以外は全て幻想だと私は考えていますが、話がややこしくなってしまうので省略します。
 
 
最後に余談ですが、私が思うところの理想の意識状態を図にしてみました。
 
瞑想と変性意識の違い図3
 
変性意識を行い過ぎると意識の位置が球体の内側へと移動します。表層部分から離れてしまうと、肉体を持った私たちは意識がぼんやりしてしまったり、やる気がなくなってしまったりします。
なのでグラウンディングを行いながら深い意識層へと行けるよう訓練もする。
私の思うところの理想の形とは、喜怒哀楽を捨てることではなく、すべてを包括して大きな自分になるという事。
 
で、肝心の質問のお返事ですが、瞑想を行う事で深い意識層へ入りやすくなると思います。図1のように、瞑想も変性意識も正しいものであればゴールは同じ、だからです。
また瞑想の種類によっては映像を伴うものもあるのかも知れませんので、その場合は変性意識とかなり似ていると思います。変性意識も深い深い部分へ行くと表層の意識はほとんど起きていられず静かになってきます。この辺は変性意識の瞑想的な部分だと思っています。
映像をシャットアウトして進む瞑想方式だと、深い意識には入れるけれど映像は見えにくい、となる方もいらっしゃると思います。
私は変性意識は得意ですが、何も考えないタイプの瞑想を行うとぐっすり眠ってしまいます。なので、最終的には映像が流れて来たらそれは放置するという形で瞑想を行う事にしました。
気持ちを落ち着かせるために、短時間、少し深い意識層まで行くだけの瞑想は、生活の合間合間にちょこちょこと行っております。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年02月24日 12:17
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。