この国において、春は別れと出会いの季節であることは、現在ではあくまで年度区分の都合上のことであって、取り立てて浪漫的又は叙情的な特別の理由があるわけではない。
それでもこの季節になると、各地で別れと出会いが生まれ、その数だけ涙と笑顔が生まれることは事実である。
そんな数多くの涙の一つが、このごくありふれた地方都市に所在する県立高等学校でも生まれようとしていた。麗らかな春の日差しに照らされて、制服に身を包んだ若者達が集まっている。
県立北高等学校卒業式。
若者達を新天地へ送り出す儀式が始まろうとしていた。もっとも、中には新天地ではない場所へ向かう者も含まれていたが。
それでもこの季節になると、各地で別れと出会いが生まれ、その数だけ涙と笑顔が生まれることは事実である。
そんな数多くの涙の一つが、このごくありふれた地方都市に所在する県立高等学校でも生まれようとしていた。麗らかな春の日差しに照らされて、制服に身を包んだ若者達が集まっている。
県立北高等学校卒業式。
若者達を新天地へ送り出す儀式が始まろうとしていた。もっとも、中には新天地ではない場所へ向かう者も含まれていたが。
「なんか信じられないわね。みくるちゃんがいなくなっちゃうなんて」
今やこの北高で、知らなければモグリとまで言われるほど有名な存在となった、SOS団団長・涼宮ハルヒ。彼女は「これも団長の務め」と、団員・朝比奈みくるを卒業式後、部室に呼び出していた。
「そうですね……涼宮さんに出会ってからの日々は、あっという間に過ぎてしまいました。何だか、涼宮さんに連れられてこの部室に初めて来た日のことが、ついこの間のことみたいに感じます」
みくるは、窓に向かって遠い目をしているハルヒに、肩越しに答えた。
「あれから、もう2年近く経ったんですねえ……」
みくるはここに来るまでに、友人との語らいに笑い、男子在校生一同の男泣き混じりのエールに苦笑し、ハルヒ以外のSOS団員から送られた祝福の言葉に涙していた。
ハルヒを除くSOS団員は、皆みくるの正体を知っている。そして、この後帰る場所も。
朝比奈みくる――未来から来た観測員。その行く先は、元居た未来。彼女を送り出した彼らとは、ここで最後の別れとなる。
この時間平面の光景も、これで見納め――同じく窓の外を遠い目で見ながら感慨にふけるみくるに、振り返ったハルヒが近付く。
「このでっかい胸も、もう揉み納めかぁ」
つんつん
「あひぃん、やめてください~」
ハルヒの指は、的確にみくるの乳首をつついていた。みくるは一気に現実の世界に引き戻された。
「この胸を独り占めできなくなるのかと思うと、寂しいわ」
「そんなぁ、あたしは胸だけの女なんですか?」
身をよじってハルヒの攻撃から胸を隠すみくるを、ハルヒは微妙な視線で見つめた。
「…………」
「そ、その沈黙は何ですか……? ひ、ひどい! あたしのこと、そんな風に見てたんですね!?」
みくるの抗議にハルヒは答えず、無言でみくるに抱き付いた。その肩は震えている。
「え、あの、涼宮さん?」
「……やっぱり、無理」
「へ?」
「みくるちゃんを笑顔で見送るなんてできない」
ハルヒは涙声になって言った。
「……もう二度と、みくるちゃんには会えないんでしょ?」
みくるは驚愕した。
「な、何でそんなことを!?」
「卒業後の進路は外国の大学ってなってるじゃない」
「そ、そりゃ、確かにそうですけど、だからって二度と会えないってわけじゃ……」
「行き先はカナダってことになってるけど、ほんとはもっとずっと遠いとこ行くんでしょ」
「え、う、あう……」
みくるは、表向きはカナダの大学に進学することになっているが、それは偽装であって、フェードアウトするように消息を絶ち、未来へ帰る算段になっていた。
「…………」
ハルヒは無言でみくるの瞳を見つめていた。
「や、でも、ほら、ちゃんと手紙とか送りますし、その、たまには帰国したりとか……」
「『この』みくるちゃんには、もう会えないんでしょ? 会えるのは、『もっと未来の』みくるちゃんじゃないの?」
「!?」
みくるは硬直した。
「え、あの……それってどういう……?」
「…………」
激しく狼狽するみくるをじっと見つめるハルヒ。その表情が悲しげなものに変わった。
「……だめねえ、みくるちゃん。やっぱり否定しなかった」
「……え!?」
「たまに帰国した時って言ったら、つまりは、今より未来でしょ? ということは、その時に会えるのは、今より未来のみくるちゃんになるのは当たり前じゃない」
「……あ。」
「そんな当たり前の問いなのに、そのうろたえよう。つまり、二度と会えないことは本当で、しかも、どうやらそれは『未来』に関係することらしいってことが、今の態度で明らかになったということよ」
「あ、あ、あ……」
みくるは後ずさりした。
「す、す、涼宮さん……あなた、一体どこまで知って……?」
ハルヒは真っ直ぐにみくるの瞳を見据えて言った。
「『禁則事項』よ」
「!?」
みくるは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。驚愕のあまり、声を出すことさえままならない。ハルヒは、そんなみくるを悲しげな表情で見下ろした。
「……その反応を見る限り、どうやら当たらずとも遠からず、って域を超えてるようね」
ハルヒは、声も出せずに目を白黒させてただ口をぱくぱくさせているみくるに歩み寄ると、跪いて抱きついた。
「あたし、待ってるから」
静かに、しかしはっきりと言った。
「みくるちゃんがこの部室を出た後も、ここでずっと待ってるから」
みくるを抱くハルヒの力が強くなった。
「いつか必ず会いに来て」
みくるはどう答えて良いか分からなかった。ハルヒの真意を量りかねる。
ハルヒは一度みくるを離すと、みくるの瞳を見つめて言った。
「『また、部室で』。いつか必ず。また会いましょう」
そこまで言うと、ハルヒは立ち上がり、みくるに背を向けて団長席近くの窓辺に向かった。
「さよなら、みくるちゃん」
その背中に何も言えなくて、みくるは、ただ「お元気で」と言い残し、部室を後にするしかなかった。
念のため未来に問い合わせてみたものの、やはり指示は変わっていなかった。当初の予定通り、朝比奈みくるはこの時間平面を辞し、本来の時間平面に帰還することが決まっていた。
「さよなら、涼宮さん……」
ハルヒをずっと待たせることになる事実に罪悪感を感じながらも、みくるは帰途につくしかなかった。自分の『本当の』居場所に帰るために。
「皆さん、お元気で……」
いつの時代も、別れは寂しい。ましてそれが、二度と会えない別れなら尚更。
今やこの北高で、知らなければモグリとまで言われるほど有名な存在となった、SOS団団長・涼宮ハルヒ。彼女は「これも団長の務め」と、団員・朝比奈みくるを卒業式後、部室に呼び出していた。
「そうですね……涼宮さんに出会ってからの日々は、あっという間に過ぎてしまいました。何だか、涼宮さんに連れられてこの部室に初めて来た日のことが、ついこの間のことみたいに感じます」
みくるは、窓に向かって遠い目をしているハルヒに、肩越しに答えた。
「あれから、もう2年近く経ったんですねえ……」
みくるはここに来るまでに、友人との語らいに笑い、男子在校生一同の男泣き混じりのエールに苦笑し、ハルヒ以外のSOS団員から送られた祝福の言葉に涙していた。
ハルヒを除くSOS団員は、皆みくるの正体を知っている。そして、この後帰る場所も。
朝比奈みくる――未来から来た観測員。その行く先は、元居た未来。彼女を送り出した彼らとは、ここで最後の別れとなる。
この時間平面の光景も、これで見納め――同じく窓の外を遠い目で見ながら感慨にふけるみくるに、振り返ったハルヒが近付く。
「このでっかい胸も、もう揉み納めかぁ」
つんつん
「あひぃん、やめてください~」
ハルヒの指は、的確にみくるの乳首をつついていた。みくるは一気に現実の世界に引き戻された。
「この胸を独り占めできなくなるのかと思うと、寂しいわ」
「そんなぁ、あたしは胸だけの女なんですか?」
身をよじってハルヒの攻撃から胸を隠すみくるを、ハルヒは微妙な視線で見つめた。
「…………」
「そ、その沈黙は何ですか……? ひ、ひどい! あたしのこと、そんな風に見てたんですね!?」
みくるの抗議にハルヒは答えず、無言でみくるに抱き付いた。その肩は震えている。
「え、あの、涼宮さん?」
「……やっぱり、無理」
「へ?」
「みくるちゃんを笑顔で見送るなんてできない」
ハルヒは涙声になって言った。
「……もう二度と、みくるちゃんには会えないんでしょ?」
みくるは驚愕した。
「な、何でそんなことを!?」
「卒業後の進路は外国の大学ってなってるじゃない」
「そ、そりゃ、確かにそうですけど、だからって二度と会えないってわけじゃ……」
「行き先はカナダってことになってるけど、ほんとはもっとずっと遠いとこ行くんでしょ」
「え、う、あう……」
みくるは、表向きはカナダの大学に進学することになっているが、それは偽装であって、フェードアウトするように消息を絶ち、未来へ帰る算段になっていた。
「…………」
ハルヒは無言でみくるの瞳を見つめていた。
「や、でも、ほら、ちゃんと手紙とか送りますし、その、たまには帰国したりとか……」
「『この』みくるちゃんには、もう会えないんでしょ? 会えるのは、『もっと未来の』みくるちゃんじゃないの?」
「!?」
みくるは硬直した。
「え、あの……それってどういう……?」
「…………」
激しく狼狽するみくるをじっと見つめるハルヒ。その表情が悲しげなものに変わった。
「……だめねえ、みくるちゃん。やっぱり否定しなかった」
「……え!?」
「たまに帰国した時って言ったら、つまりは、今より未来でしょ? ということは、その時に会えるのは、今より未来のみくるちゃんになるのは当たり前じゃない」
「……あ。」
「そんな当たり前の問いなのに、そのうろたえよう。つまり、二度と会えないことは本当で、しかも、どうやらそれは『未来』に関係することらしいってことが、今の態度で明らかになったということよ」
「あ、あ、あ……」
みくるは後ずさりした。
「す、す、涼宮さん……あなた、一体どこまで知って……?」
ハルヒは真っ直ぐにみくるの瞳を見据えて言った。
「『禁則事項』よ」
「!?」
みくるは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。驚愕のあまり、声を出すことさえままならない。ハルヒは、そんなみくるを悲しげな表情で見下ろした。
「……その反応を見る限り、どうやら当たらずとも遠からず、って域を超えてるようね」
ハルヒは、声も出せずに目を白黒させてただ口をぱくぱくさせているみくるに歩み寄ると、跪いて抱きついた。
「あたし、待ってるから」
静かに、しかしはっきりと言った。
「みくるちゃんがこの部室を出た後も、ここでずっと待ってるから」
みくるを抱くハルヒの力が強くなった。
「いつか必ず会いに来て」
みくるはどう答えて良いか分からなかった。ハルヒの真意を量りかねる。
ハルヒは一度みくるを離すと、みくるの瞳を見つめて言った。
「『また、部室で』。いつか必ず。また会いましょう」
そこまで言うと、ハルヒは立ち上がり、みくるに背を向けて団長席近くの窓辺に向かった。
「さよなら、みくるちゃん」
その背中に何も言えなくて、みくるは、ただ「お元気で」と言い残し、部室を後にするしかなかった。
念のため未来に問い合わせてみたものの、やはり指示は変わっていなかった。当初の予定通り、朝比奈みくるはこの時間平面を辞し、本来の時間平面に帰還することが決まっていた。
「さよなら、涼宮さん……」
ハルヒをずっと待たせることになる事実に罪悪感を感じながらも、みくるは帰途につくしかなかった。自分の『本当の』居場所に帰るために。
「皆さん、お元気で……」
いつの時代も、別れは寂しい。ましてそれが、二度と会えない別れなら尚更。
人気のない廊下は、自分の足音がよく聞こえる。歩調が乱れれば、すぐに分かる。今の自分は、一定の速度で歩いていると思う。早過ぎず、遅過ぎず。強過ぎず、弱過ぎず。足音からは、何の意図も個性も感じられないと思う。そのように訓練してきた。
ドアの上を見上げる。元から付いている表示板の下に、手書きの紙が貼り付けてある。
『文芸部』『SOS団』
ノックはしなかった。室内には一人だけ。
その人は、机の上に胡坐をかいて窓の外を見ていた。
「……余り待たせてはいないつもりだけど、待たせちゃったかな?」
待ち合わせの第一声としては、及第点であれば良いと思う。
「……そんなには待たされてないわ」
その人は窓の外を見たまま答えた。わたしはその人に近付く。
「振り返らないわよ」
足が止まる。
「……泣き顔を見られたくないんだったら、窓に映ってよく見えるけど?」
その人は涙を指で拭った。
「……あたしに見られたら、色々とまずいんじゃないの? 『朝比奈さん』」
思わず額に手を当てる。
「参ったなぁ……どこまで知ってるのかしら、あなたは」
「『禁則事項です』」
苦笑するしかなかった。
「よく考えたら、その台詞、あなたに言ったことない気がするのよね。どこで知ったのかしら」
その人に近付く。
「想像に任せるわ」
後ろから抱きしめた。
「あなたにはどんな隠し事も無駄なことかな、やっぱり」
その人は、前に回したわたしの手に、自分の手を重ねてきた。
「だから、素直に言います。涼宮さん。ずっと会いたかった」
あの時は、彼女に触れられることは幾度もあったが、わたしから彼女に触れることはどれだけあっただろう。
「今のみくるちゃん、いや、『朝比奈さん』は、さぞ立派になったんでしょうね」
『朝比奈さん』。あの時は、彼女からそう呼ばれたことは一度もなかった。
「どうぞ、『みくるちゃん』と呼んでください。あなたが遥か上の先輩であることに、変わりはないんですから」
「……良いの? そこまで言って」
「隠しても無駄なことを敢えて隠し通そうとは思いません」
「あんたがそう言うんなら、別に気にしないことにするわ」
さして気にした風ではない声で、彼女はそう言った。
「『わたし』にとっては、随分懐かしい人ですけど、涼宮さんにとっては、『わたし』は……」
「あたしのことは、名前で呼んで」
「え? でも……」
「あたしも名前で呼ぶからさ」
名前で、か。もしそれが本当に叶うならば、とてもうれしい。
「……分かりました」
「あ、でも待って」
「?」
「よく考えたら、あたしは知らないじゃない、名前」
「え、だから『みくるちゃん』と……」
「違う、そっちじゃなくて。『本当の名前』よ」
「あ……!」
彼女は勝ち誇った声で言った。
「はっはーん。その反応を見ると、やっぱり偽名だったみたいね」
「! ……あ、えと……」
「まあ、ほぼ確信してたけど、やっぱり本人から証言を引き出さないとね」
「やっぱり敵わないなあ……」
頬を掻くしかない。
「というわけで、白状しちゃいなさい! 本名!」
溜め息を一つ吐く。
「……隠し通すのは無理みたいですね。分かりました。わたしの本当の名前は――」
この時間平面の人間に、初めて正しい名前を名乗った。ついでに本当の年齢も。
「ふーん。そういう名前なんだ。あと、年齢はノーコメントよ」
『名前なんか記号に過ぎない』という人もいるけれど、それは違うのだと思う。
頬と頬が密着するくらいすぐそばにいるのに、お互いに直接顔は見ないで、窓に映る表情を見ている。片や初対面。片や久しぶりの再会。触れる肌と肌の間に、文字通り時空を隔てる壁がある。そんなぎこちない二人の関係。
それが本当の名前を名乗っただけで、こんなにも距離が近く感じられる。ましてや本当の名前で呼ばれたら。
「じゃあ、まずはあんたから名前で呼んでよね」
「はい」
太古から、人は『名前』に特別な意味を見出してきた。それは呪術がまかり通っていた、無知と迷信の時代の風習、と切り捨てることはできない。なぜなら、その当時も、わたしが暮らす本来の時間平面でも、人間の構造そのものは変わっていないから。太古の人も、わたしも、同じように、喜びに沸き、怒りに震え、哀しみに涙し、楽しさに笑う。人間は何も変わっていない。
わたしは万感の思いを込めてこう呼ぶ。『涼宮さん』ではない、この名前を。
「ハルヒ……」
言った。ついに言えた。わたしが彼女と過ごしていた時には、決して口にすることができなかった名前を言えた。
そして、次はわたし。彼女と過ごしていた時には、決して呼ばれることがなかった、呼ばれるはずがなかった名前で、呼ばれる。
「じゃあ――」
落ち着け、わたし。『心臓が口から飛び出そうな』という形容詞がぴったりなくらい、わたしの鼓動が高鳴っている。
「行くわよ――」
落ち着け。次に彼女の口から出る言葉を聞き逃すな。彼女の口が開く。
「――みくるちゃん!」
ドアの上を見上げる。元から付いている表示板の下に、手書きの紙が貼り付けてある。
『文芸部』『SOS団』
ノックはしなかった。室内には一人だけ。
その人は、机の上に胡坐をかいて窓の外を見ていた。
「……余り待たせてはいないつもりだけど、待たせちゃったかな?」
待ち合わせの第一声としては、及第点であれば良いと思う。
「……そんなには待たされてないわ」
その人は窓の外を見たまま答えた。わたしはその人に近付く。
「振り返らないわよ」
足が止まる。
「……泣き顔を見られたくないんだったら、窓に映ってよく見えるけど?」
その人は涙を指で拭った。
「……あたしに見られたら、色々とまずいんじゃないの? 『朝比奈さん』」
思わず額に手を当てる。
「参ったなぁ……どこまで知ってるのかしら、あなたは」
「『禁則事項です』」
苦笑するしかなかった。
「よく考えたら、その台詞、あなたに言ったことない気がするのよね。どこで知ったのかしら」
その人に近付く。
「想像に任せるわ」
後ろから抱きしめた。
「あなたにはどんな隠し事も無駄なことかな、やっぱり」
その人は、前に回したわたしの手に、自分の手を重ねてきた。
「だから、素直に言います。涼宮さん。ずっと会いたかった」
あの時は、彼女に触れられることは幾度もあったが、わたしから彼女に触れることはどれだけあっただろう。
「今のみくるちゃん、いや、『朝比奈さん』は、さぞ立派になったんでしょうね」
『朝比奈さん』。あの時は、彼女からそう呼ばれたことは一度もなかった。
「どうぞ、『みくるちゃん』と呼んでください。あなたが遥か上の先輩であることに、変わりはないんですから」
「……良いの? そこまで言って」
「隠しても無駄なことを敢えて隠し通そうとは思いません」
「あんたがそう言うんなら、別に気にしないことにするわ」
さして気にした風ではない声で、彼女はそう言った。
「『わたし』にとっては、随分懐かしい人ですけど、涼宮さんにとっては、『わたし』は……」
「あたしのことは、名前で呼んで」
「え? でも……」
「あたしも名前で呼ぶからさ」
名前で、か。もしそれが本当に叶うならば、とてもうれしい。
「……分かりました」
「あ、でも待って」
「?」
「よく考えたら、あたしは知らないじゃない、名前」
「え、だから『みくるちゃん』と……」
「違う、そっちじゃなくて。『本当の名前』よ」
「あ……!」
彼女は勝ち誇った声で言った。
「はっはーん。その反応を見ると、やっぱり偽名だったみたいね」
「! ……あ、えと……」
「まあ、ほぼ確信してたけど、やっぱり本人から証言を引き出さないとね」
「やっぱり敵わないなあ……」
頬を掻くしかない。
「というわけで、白状しちゃいなさい! 本名!」
溜め息を一つ吐く。
「……隠し通すのは無理みたいですね。分かりました。わたしの本当の名前は――」
この時間平面の人間に、初めて正しい名前を名乗った。ついでに本当の年齢も。
「ふーん。そういう名前なんだ。あと、年齢はノーコメントよ」
『名前なんか記号に過ぎない』という人もいるけれど、それは違うのだと思う。
頬と頬が密着するくらいすぐそばにいるのに、お互いに直接顔は見ないで、窓に映る表情を見ている。片や初対面。片や久しぶりの再会。触れる肌と肌の間に、文字通り時空を隔てる壁がある。そんなぎこちない二人の関係。
それが本当の名前を名乗っただけで、こんなにも距離が近く感じられる。ましてや本当の名前で呼ばれたら。
「じゃあ、まずはあんたから名前で呼んでよね」
「はい」
太古から、人は『名前』に特別な意味を見出してきた。それは呪術がまかり通っていた、無知と迷信の時代の風習、と切り捨てることはできない。なぜなら、その当時も、わたしが暮らす本来の時間平面でも、人間の構造そのものは変わっていないから。太古の人も、わたしも、同じように、喜びに沸き、怒りに震え、哀しみに涙し、楽しさに笑う。人間は何も変わっていない。
わたしは万感の思いを込めてこう呼ぶ。『涼宮さん』ではない、この名前を。
「ハルヒ……」
言った。ついに言えた。わたしが彼女と過ごしていた時には、決して口にすることができなかった名前を言えた。
そして、次はわたし。彼女と過ごしていた時には、決して呼ばれることがなかった、呼ばれるはずがなかった名前で、呼ばれる。
「じゃあ――」
落ち着け、わたし。『心臓が口から飛び出そうな』という形容詞がぴったりなくらい、わたしの鼓動が高鳴っている。
「行くわよ――」
落ち着け。次に彼女の口から出る言葉を聞き逃すな。彼女の口が開く。
「――みくるちゃん!」
「って、あら? そこまでオーバーリアクションしなくても……」
わたしはずりずりと彼女の体をガイドに滑り、床に突っ伏していた。
ひどい。ひどすぎる。あんまりだ。わたしの、この極限まで高まった期待をどうしてくれるの。
「ごっめーん。まさかそこまで全力で落胆するほど重大なことだとは思わなかったわ」
彼女はかんらかんらと、実に良い顔で笑っている。
「大人になってもやっぱりかわいいから、ちょっとからかってみたくなってさ」
本当に彼女は昔と変わっていない、と思って、わたしは今、その『昔』に来ていることを思い出した。今目の前にいる彼女は、その当時の彼女なのだ。変わっていようはずがない。変わっているとすれば、むしろわたしの方。
「よっ、と」
わたしは彼女に少々乱暴に引き起こされた。
拗ねて顔を伏せていると、顎に手を添えられ、ぐいっと正面を向かされる。ほぼ同じ高さにある、彼女の顔が間近にあった。
「そんなに拗ねないでよ、――」
わたしは不意に真顔になった彼女に本当の名前で呼ばれ、同時に強く抱き締められた。
「ん……」
急展開に次ぐ急展開に付いていけず、わたしの意識は朦朧とし始めている。そこに止めが刺された。
「あなたに『も』、会いたかった。すべてを知っている『あなた』に」
彼女に真顔で囁かれた。彼女は知っていた。わたしのことを、ずっと前から。
「ずっと、会いたかった……」
わたしはずりずりと彼女の体をガイドに滑り、床に突っ伏していた。
ひどい。ひどすぎる。あんまりだ。わたしの、この極限まで高まった期待をどうしてくれるの。
「ごっめーん。まさかそこまで全力で落胆するほど重大なことだとは思わなかったわ」
彼女はかんらかんらと、実に良い顔で笑っている。
「大人になってもやっぱりかわいいから、ちょっとからかってみたくなってさ」
本当に彼女は昔と変わっていない、と思って、わたしは今、その『昔』に来ていることを思い出した。今目の前にいる彼女は、その当時の彼女なのだ。変わっていようはずがない。変わっているとすれば、むしろわたしの方。
「よっ、と」
わたしは彼女に少々乱暴に引き起こされた。
拗ねて顔を伏せていると、顎に手を添えられ、ぐいっと正面を向かされる。ほぼ同じ高さにある、彼女の顔が間近にあった。
「そんなに拗ねないでよ、――」
わたしは不意に真顔になった彼女に本当の名前で呼ばれ、同時に強く抱き締められた。
「ん……」
急展開に次ぐ急展開に付いていけず、わたしの意識は朦朧とし始めている。そこに止めが刺された。
「あなたに『も』、会いたかった。すべてを知っている『あなた』に」
彼女に真顔で囁かれた。彼女は知っていた。わたしのことを、ずっと前から。
「ずっと、会いたかった……」
彼女の言葉に、わたしの腰は砕け散った。
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