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 大事なことは、成果に焦点を合わせることです。学歴など考えてはいけません。学歴は汚い言葉です。30年以上に及ぶコンサルタント経験から言えることは、学歴と成果の間には何の関係もないということです。両者の間には何の関係もありません。焦点を合わせるべきは、成果です。


 仕事のできない者が駄目な人間というわけではない。間違った場所に置かれているだけである。昔風にいえば、所を得ていないだけのことである。どこか別の場所向きというにすぎない。したがって、仕事のできない者が生産的となり成果をもたらす所がどこかを考え、「君は間違った所にいる。君の場所はあそこだ」といってやることが、マネジメントの仕事である。


 それでは、かつてと同じ種類の人間をもって、これら経営管理者の直面する新しい課題をいかに遂行することができるのか。
 答えは一つしかない。仕事の単純化である。そして、そのための方法も一つしかない。すなわち、勘や直感で行ってきたことをシステムと方法論によって行い、経験や体験によって行ってきたことを原則や概念によって行うことである。個別事象の偶発的な発見を、論理的総合的なパターン化による認識によって代えることである。
 事実、これまでの人類の進歩、すなわち新しい課題に取り組むための能力は、システムによって物事を単純化することで実現されてきている。



 わかっていることで最も重要なことは、仕事と働くことすなわち労働とが根本的に異なるということである。もちろん働く人が仕事を行うのであって、仕事は常に人が働くことによって行われる。しかし、仕事を生産的なものにするうえで必要なものと、人をして成果をあげさせるうえで必要なものとはまったく異なる。
 人は、仕事の論理と労働の力学の双方に沿ってマネジメントしなければならない。働く者が成果に満足したとしても、仕事が生産的でなければ失敗である。逆に仕事が生産的であっても、働く者が成果をあげられなければ失敗である。いずれの場合も長続きしない。
 仕事とは客観的なものである。なされるべきものである。そこにあるものである。したがって、仕事には物に対するアプローチをそのまま適用できる。そこには論理がある。それは、分析、統合、管理の対象となる。

 [...] 彼は企業の上級管理職向けの講演会で、社内に「無用の長物」を大勢抱えていると思うひとは挙手するよう求めた。多くの手が挙がったところで、ドラッカーは次のように尋ねた。「そのひとたちは、皆さんが面接を行い、採用を決定した時点から無用の長物だったのですか。それとも、入社後に無用の長物と化してしまったのですか」


 真の問題は「何が創造性を育むか」ではない。だれもが創造的とは限らないのは一体なぜなのか、ということだ。人間の可能性はどこで失われてしまったのか。なぜ、損なわれてしまったのだろうか。このように、有効な問いかけとは「ひとはなぜ創造するのか」ではなく、「ひとはなぜ創造し革新しようとしないのか」と問うことであろう。創造的行為を目の当たりにして、まるで奇跡ででもあるかのように驚嘆するのは、やめるべきだ。

完全なる経営?, pp. 18-19

 これと同じことを、共に働く人全員について行わなければならない。それぞれに、それぞれの仕事の仕方がある。それぞれの仕方で仕事をして当然である。重要なことは、共に働く者の強みである。仕事の仕方である。価値観である。これらのすべてが、人によって違うのが当たり前である。
 したがって成果を上げる秘訣の第一は、共に働く人たち、自らの仕事に不可欠な人たちを理解し、その強み、仕事の仕方、価値観を活用することである。仕事とは、仕事の論理だけでなく、共に働く人たちの仕事ぶりに依存するからである。


 もう一つは、コミュニケーションについて責任をもつことである。自らの強み、仕事の仕方、価値観、果たすべき貢献を知ったならば、それを誰に知らせなければならないか、誰に頼らなければならないか、誰が自分に頼っているかを考える必要がある。そして考えた結果を、それらの人に知らせる必要がある。もちろん、それらの人たちが理解できるかたちで伝えなければならない。読み手にはメモで、聞き手には口頭で伝えなければならない。


 ところが、他の人との関係について責任をもつことの重要性をかなり認識している人たちでさえ、実際には、話しかけたり問いかけたりしていないことが多い。押しつけがましい、詮索好き、何も知らないなどと思われたくないからだろう。完全な間違いである。
 共に働く人たちのところに行って、自らの強み、仕事の仕方、価値観、目標を話してみるならば、返ってくる答えは、必ず、聞いてよかった、どうしてもっと早く言ってくれなかったか、である。しかも、それでは、あなたの強み、仕事の仕方、価値観、目標について知っておくべきことはないかと聞くならば、ここでも、どうしてもっと早く聞いてくれなかったかである。


 受講者の参加理由のほとんどが、もうすぐ昇進して、新しい仕事に取り組まなければならないため、そのための勉強にやってきたというものですが、そこで私はこう話します。新しい仕事において最初に問うべきは、「あなたがやりたいことは何か」ではなく「なされるべきことは何か」であると。
 このことに、全員が多かれ少なかれショックを受けます。だれもが「昇進したら、自分がやろうと思っていること」をよくわかっています。しかし、ここからスタートしてしまうと、思わぬしっぺ返しを食らうことになるでしょう。
 正しくは「自分が適任で、しかも貢献できるもので、なされなければならないことは何か」を問うことです。これを知るには、組織のニーズを知っていなければなりません。
 たとえば、「フォーカス・オン・コントリビューション」(貢献の重視)、「ファイナル・シニア・マネジメント・セミナー」という二つのコースの受講者たちは、ある分野で頭角を現し、かつ10年くらい貢献し続けられそうなテーマから着手する傾向が見られました。
 そうなのです、みな自分のやりたいことから始めてしまうのです。ですから私は「そのアプローチは間違っています。もう忘れなさい」と繰り返したものです。


現代人が嘆きを訴えるのは、誇ることのできない仕事や、自動化され、何の努力も要しないまでに細分化された仕事を受け入れざるをえないという状況が、予想以上に進展しているせいかもしれない。このことを考えれば考えるほど、(訳注:マズローが当時見聞したと思われる労働環境のよくない)チューインガム工場やインチキ広告代理店、あるいは安物家具の製造工場で働かされていたら、自負心や自己愛、自尊心を抱くことなど不可能だという思いがつのってくる。~中略~
言うまでもなく、真の達成のためには価値あるりっぱな仕事が要求される。くだらない仕事を見事にやりとげたとしても、それを真の達成と呼ぶことはできない。「無益な仕事は、りっぱにやりとげる価値がない」。これが私の考えだ。


すなわち、どんなにつまらない雑用のように見える仕事──皿洗い、試験管の洗浄──であっても、それに従事する人間が仕事の目的──重要で好ましい、意味ある目的──に関与していれば意味のある仕事になり、関与していなければ無意味な仕事になる。


仕事を生産的なものにするためには、成果すなわち仕事のアウトプットを中心に考えなければならない。技能や知識などのインプットからスタートしてはならない。技能、情報、知識は道具にすぎない。


 さらに基本的なこととして、成果すなわち仕事からのアウトプットを中心に考えなければならない。技能や知識など仕事へのインプットからスタートしてはならない。それらは道具にすぎない。いかなる道具を、いつ何のために使うかは、アウトプットによって規定される。作業の組み立て、管理手段の設計、道具の仕様など必要な作業を決めるのは成果である。


 三人の石切り工の話がある。何をしているかを聞かれて、それぞれが「暮らしを立てている」「最高の石切りの仕事をしている」「教会を建てている」と答えた。第三の男こそマネジャーである。
 第一の男は、仕事で何を得ようとしているかを知っており、事実それを得ている。一日の報酬に対して一日の仕事をする。だがマネジャーではない。将来もマネジャーにはなれない。
 問題は第二の男である。熟練した技能は不可欠である。組織は最高の技能を要求しなければ二流の存在になる。しかし専門家は、単に石を磨き脚注を集めているにすぎなくとも、大きなことをしていると錯覚することがある。技能の重要性は強調しなければならないが、それは組織全体のニーズとの関連においてでなければならない。


仕事と原理


 科学的管理法の第一の盲点は、仕事は、最も単純な要素動作に分解しなければならないがゆえに、それら個々の要素動作の連鎖として仕事を組織し、しかも可能なかぎり一人の人間が一つの要素動作を行うように組織する必要があるという考えだった。
 テイラー自身は、仕事を統合する必要性を理解していた可能性がある。ハリー・ホップフはその必要を理解していた。しかし、彼ら以外の論者と実務家はすべて、仕事の組織化の本質が要素動作のみあると理解した。
 それは間違った理解である。それは、行動の原理と分析の原理を混同している。分解することと組み立てることは別である。両者の混同は、恐ろしく非科学的である。
 そもそも科学は、分解が絶対的に必要であっても、分解という作業そのものは、分解した事物の本質を明らかにするわけではないという認識からスタートしている。
 しかも仕事は、分解したとおりに行うことによって最も成果をあげるという考えは、エンジニアリング上も最低である。
 要素に分解された仕事と、仕事における行動そのものとの混同は、人的資源の特質に対する理解の欠如に原因がある。
 科学的管理法は人の仕事を組織しようとする。しかしそれは、検証や立証を試みもせずに、人をお粗末な出来の機械として扱っている。
 仕事を要素動作に分解することは完全に正しい。また、個々の要素動作を改善することによって仕事そのものを改善することも正しい。
 しかし、人の仕事を一つの要素動作に限定することによって、それをよく行えるようにするということは間違いである。機械についてさえ、そのようなことはいえない。人については、たわごとというべきである。
 人は、個々の動作はお粗末にしか行えない。そもそも、人を機械として見るならば、あまりに設計が貧弱である。
 ここで人の意思、個性、感情などの要因は度外視する。人を単なる生産的資源として、投入と産出というエンジニアリングの的視点からのみ見ることにする。しかし、そのように見たとしても、人の特有の能力は、多様な動作を行い、統合し、均衡をとり、コントロールし、評価測定し、判断することにあるという事実に変わりはない。
 確かに、個々の作業は分解し、研究し、改善しなければならない。しかし人的資源は、それらの要素動作を仕事として再び統合し、人に特有の能力を活用できるものとしなければ、生産的たりえない。

現代の経営 下?, pp. 147--148

 科学的管理法の第二の盲点は、「実行からの計画の分離」をその基本的な信条の一つとしていることにある。
 ここにおいても、分析の原理としてのみ健全なものが、行動の原理とされてしまっている。しかも、実行からの計画の分離という考えは、知識の奥義の独占によって、無知な農民を操るエリートという危険でいかがわしい思想を反映している。
 計画と実行が違うことを発見したことは、テイラーの最も価値ある洞察である。事前の計画が優れているほど仕事が容易になり、成果をあげるようになり、生産的になることを指摘したことは、ストップウォッチによる動作研究などよりも、アメリカの産業の興隆にはるかに大きな貢献となった。
 まさにこの考えを基礎として、今日のマネジメントのすべてがある。今日、目標管理について意味のある検討を行うことができるのも、計画を仕事の一側面としてとらえ、その重要性を強調したテイラーのおかげである。
 しかし、計画と実行の分離は、計画する者と実行する物とは別の人でなければならないということを意味はしない。
 産業社会は、二つの階級、すなわち、何をなすべきかを決定し、そのための仕事を設計し、その速度やリズムや動作を決め、命令する少数の人と、いわれたことをいわれたとおりに実行する多数の人に分けなければならないことを意味しない。
 計画と実行は、一つの仕事の二つの側面であって、二つの仕事ではない。この二つの側面をもたない仕事は、成果をあげることができない。

 まとまりのある仕事を与えられず、要素動作だけを教えられるとき、学んだことを捨てる能力は増大するどころか減少する。そのとき働く人たちは、知識や理解ではなく、経験や習慣だけを獲得する。
 さらにまた、計画するどころか知る必要もなく、単に実行しさえすればよいとするならば、あらゆる変化が、働く人たちにとって理解不能なものと感じられ、心理的な安定に対する脅威を意味することになる。

現代の経営 下?, pp.153-154

 働く人たちから最高の仕事を引き出すためには、いかなる動機づけが必要か。
 通常これに対するアメリカの産業界における答えは、「従業員の満足」である。しかし、この答えはほとんど意味をなさない、もし万一、従業員の満足が何らかの意味をもつとしても、それは企業のニーズを満たすに十分な動機づけとはならない。



本人が自覚しているか否かにかかわらず、あらゆる仕事が原理にもとづいている。企業家精神もまた、原理にもとづく。企業家精神の原理とは、変化を当然のこと、さらにいえば健全なこととすることである。


スレ