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 私は、
「それがどうした」
 という言葉が非常に好きである。
「交渉で勝ったけど、それがどうした」
「交渉で負けたけど、それがどうした」
 問題はそんな目先の勝ち負けではなく、流れの中で生き続けるという、これがいちばん大事なことなのだ。


 ある日、若く熱心な弟子のひとりが、知識を得る秘訣について教えてほしいとソクラテスに乞うた。ソクラテスはいいだろうと言って、若者を近くの川に連れていった。
「こうするのだ」と言うと、ソクラテスは若者を川に押し入れた。そして自分も川に飛び込み、若者の頭を水に入れて押さえつけた。
 若者は手足をバタつかせて必死に抵抗したが、ソクラテスは離さず、弟子の頭を押さえ続けた。若者はいよいよありったけの力で爪を立ててひっかき、暴れ、ようやく自由になって水から顔を上げることができた。
 するとソクラテスは尋ねた。
「溺れかけているとき、一番欲しかったものは何か?」
 若者はまだ荒い息をしながら答えた。
「空気です」
ソクラテスはほほえんで言った。
「おまえが空気を求めるほど必死に知識を求めるなら、それを手に入れられるだろう」
これ以上の真実はない。

営業の神様?, p.154-155

 チェスを学んでもチェスの技術しか身につかないと言うとみんな傾くのに、教室で学んでも(ほとんど)教室での技術しか身につかないと言うとみんな傾かない。

 私は自分の教育を学校に邪魔させたことがない。 マーク・トウェイン

 モーツァルトは言う。「私はオリジナルな曲を作ろうと努力したことなどこれっぽちもない」




 この35年というもの、私はギャラップ博士の切り拓いた道を進み続け、他の人が絵や切手を収集するように、広告を成功させる要因を集め続けてきた。こういった要因などどうでもいいと言うのなら、どうぞご自由に。目の見えない豚だってたまたまトリュフを見つけることはあるだろう。しかし、トリュフがオークの森に育つという知識は確実に役に立つのだ。




 いったいどういう訳で経験から学ぶことができないのだろう? 広告業界には探究心のある人間は来ないということか? 「クリエイティブな人間」には幾分かでも科学的な手法を理解する頭がないのか? 知識を身につけると決まりごとに従わざるを得なくなるとでも思っているのか?


 私は広告をエンターテインメントや芸術の一種だとは思わない。広告とはあくまで情報メディアだ。また自分の書いた広告を「クリエイティブ」だなどと言われたくもない。そうではなく、あまりにも面白くて「その商品を買わずにはいられない」と思ってもらいたい。古代ギリシャの雄弁家アイスキネスが演説すると、人々は「なんと話がうまい人だ」と感心したが、同じく雄弁家で政治家でもあったデモステネスが演説すると、誰もが「フィリッポス王を倒せ」と叫んだと言う。




 チャオは内心ニッコリと笑っていた。長足の進歩だ。チャオは偉大な投資戦略家で証券分析の父とも呼ばれるベンジャミン・グレアムとデビッド・ドッドの大好きな言葉を思い出した。「自分だけで考えろ、正確に考えろ」スティーブはその域に近づいていた。


義を見てせざるは勇無きなり

...日本古来の武道や芸道はいずれも、何かをし遂げるにはまず死の恐怖に直面しなければならないと教えています。水墨画であっても、華道であっても同様です。もちろん剣の達人になるには、死の恐怖を克服することは必須です。しかし他のことでも同様に、それが自由自在に行えるようになるには、同じような境地に達する必要があります。当然、私たちがこれまで話題にしてきたことにもあてはまります。なぜなら、軽蔑されるのではという不安、自分をさらけ出すことの不安について真剣に考え、不安の連鎖をたどっていくと結局、死の不安に行き着くからです。...

[[]], p.126

「あらゆる状況を想定して準備しておけば勝利が訪れる。これを人々は幸運と呼ぶ。事前に必要な予防策を講じるのを怠れば失敗は確実だ。これを人々は不運と呼ぶ」(ロアルド・アムンゼン著『南極点征服』)

ドラッカーは、チャールズ・ダーウィン、ジークムント・フロイト、フレデリック・ウィンスロー(F・W)・テイラー(一八五六-一九一五)と同じ種類の現場主義者だった。ダーウィンは鳩や亀について事細かにメモしていた。フロイトは診察室を人間観察に使っていた。テイラーも細かな事実を無数に記録していた。ドラッカーも事実を集めては、「これらのことは、いかなる基本と原則の存在を意味するか。いかにしてそれらを利用できるか」を考えていた。


思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
マザー・テレサ


父はいつも、ぐっすり眠れるといっていた。「心にやましいところがなければ、雷がなろうとも眠れる」という古い諺は正しいのではないかと思う。

ビジネスで失敗する人の10の法則, p.98


ロバート・ウッドラフはコカ・コーラ社の長老であり、現在の繁栄をもたらした第二の創業者だが、著名な劇作家オスカー・ワイルドの「世界は満足できない人間のものだ」という言葉が好きで、何度も引用していた。

ビジネスで失敗する人の10の法則, p.31


六百年ほど前、聖アウグスティヌスはこう論じている。「希望には美しい娘がふたりいる。その名は、怒りと勇気だ。ものごとが現状のようになっていることに対する怒り、そして、ものごとを本来の姿にする勇気である」

ビジネスで失敗する人の10の法則, p.211

...技術も変化し、ユーザも変わります。そして世界も変わるのです。その昔ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスが述べたように「人は同じ川に二度と入ることはできない」のです。」

  • Andy Huntへのインタビュー, Software Design 2012年6月号

フレーズ


これを聞いて、ウサギは吐き気がしてきました。
カウンセラーの部屋を後にして、ウサギは昔からの友だちである知恵者のフクロウを見上げて相談しました。フクロウはうなずいてこう言いました。
「かわいいウサギさん、そんな生き方は困ったものだ。自分の得意なことだけに集中させてくれる学校や会社がきっとあるはずだよ」
ウサギは元気が出ました。そして考えました。学校を卒業したら会社をつくろう。ウサギは他でもない走ることに、リスは木登りに、魚は泳ぎに専念できるような会社をつくろう。
草原の草に体を沈めながら、ウサギは静かにつぶやきました。
「僕の会社はきっとすばらしいところになるぞ」



ある大学でこんな授業があったという。 
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。

教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」

一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。

「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、
 大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、
その結果それ自体失うだろう


[...] フリードバーグが言った。「ナンセンスだよ。政府を信じては駄目だ。国民を騙すことばかり考えている連中だ。奴らが守る法といったら物理の法だけだよ」


[...] 合併の案件は、弁護士であるわれわれにとっては大きな商機と言えたが、思い出すのはあるパートナーが言った言葉だ。なぜ両社は合併しようとしているのかという質問に対して彼は、”2つの岩をくっつければ浮く、と彼らは期待してるのさ”、と答えた。

 この人はストア派の悟りに達していたのだ。災難に遭っても動じない、ストア派の言葉で言うところのアパテイアだ。言い換えるなら、彼は奪われるかもしれないものは自分のものだとは考えないのである。
 そういうものには自分自身の命も含まれる。セネカは毎日、すべてを失う覚悟をしていたが、それは彼自身の命にも当てはまる。陰謀に加わったと疑われた彼は、皇帝ネロに死を賜った。年代記によると、彼は自殺にあたってもまったく彼らしく振る舞った。取り乱すこともなく、毎日その覚悟をしていたかのように、自らの命を絶ったという。
 セネカは(書簡の形をとっていた)エッセイを、毎日valeという言葉で締めくくっている。よく「さようなら」と語訳されているが、この言葉は「価値(value)」や「勇気(valor)」と語源が同じであり、「強くあれ(つまり頑健であれ)」と「ふさわしくあれ」の両方の意味を持つ。vale。

強さと脆さ?, pp.144-145


奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、
驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。
どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。

そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。

過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。
彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、
奴隷になっても決してその精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。
その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、
あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、
肥え太った主人を 血祭りにあげた。

現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、
自らが奴隷であることに気付いてすらいない。

それどころか彼らは、
奴隷であることの中に自らの 唯一の誇りを見い出しさえしている。

by リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて

 人に魚を与えれば一日生かすことができるが、 人に魚釣りを教えれば一生養うことができる。 老子

 製品というものは、正直なものだ。製品にメーカーの思想も、そのまま表現されている。
 製品は絶対に嘘はいわない。いい訳もしない。
 メーカーにとっては、製品の一つがそのメーカーのすべてである。それによって世の評価を受けなければならない。誇大な宣伝も、いい訳めいたものも、そのためには何の助けにもならない。なぜかといえば、言葉や文章には嘘があっても、製品には嘘がないからである。



 人が人を差別するということを、私は諸悪の根源であると思っている。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という福沢諭吉の思想には、諸手をあげて賛成したい。
 私が子ども心におかしいなと感じたのは、家族の中でお風呂に入る順番が決まっているということに気がついたときからだった。子どもの曇りのない目には、それに似たことがいろいろ映ってきた。我慢のならないことがいっぱいあった。人は成長し、大人になるにつれて、そういう世の中だと割り切ったり、諦めたりしていくが、私はそれができずに今日に至っている。人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった。


 スティーブは言った。「いいか、ディック。仕事の世界は狭く、そして人生は長い。キャリアの中で同じ人間と何度も会うことになるだろう。それぞれの出会いで相手にどう接するかで、長い目で見たきみの印象が決まる。だから交渉をするときは、みんなが幸せになれるように、何かちょっとしたものをテーブルに残すんだ。全部独り占めしとうとしてはいけない」



 私にとって最高のアドバイスは、バンガロールの外れにあるジャングルに暮らす象使いから聞いたものだ。私はジャングルを歩くハイキングに参加していた。ふと見ると、3頭の大きな象が小さな杭につながれている。私は象使いに訪ねた。「あんなに大きな象なのに、あんなに小さな杭で大丈夫なんですか?」。彼は答えた。「象が子供のころ、杭を抜こうとしてできなかった。だから大きくなってからも、できないと思いこんで抜こうともしない。」


 ウィトゲンシュタインの名前が何回か出た(ウィトゲンシュタインはいつも曖昧な言い方をするので、どんなときでも名前を出せる)。


「5つの質問」を検討するにあたっては、まず初めに、一七世紀のかの偉大な哲人、ジョン・ダンの名文を想起していただきたい。「永遠にいたるは、明日への一歩から始めてはならない。積み重ねでは永遠にいたらない」。大きな一歩を考え、そのうえで「今日、何をするか」を問わなければならない。


「重要な決断をしなくてはならないんだよ」。何かを執筆するとなると、残された全精力をそそぎ込まなければならない。彼にはそのことがわかっていたのだ。「心理学に関して自分が書きうることを、きちんとすべて書いてきただろうか」彼はこう自問していた。


言うまでもなく、真の達成のためには価値あるりっぱな仕事が要求される。くだらない仕事を見事にやりとげたとしても、それを真の達成と呼ぶことはできない。「無益な仕事は、りっぱにやりとげる価値がない」。これが私の考えだ。


 「違う。世の中のああいう汚え仕組みなら誰でも知ってる。俺は、世の中、そんな仕組みでできてる当たり前だとか、そんなカラクリ知ってるだとか、誇らしげにぬかす連中が腐るほどいることにヘドが出る。俺は、そんな汚い仕組みで割り食う人間がいることを知っていながら切って捨てて、頭ん中は世渡りと損得勘定だけで汚え仕組みを作った側にっ、すり寄る人間のクズが大嫌いだっ!!」


 [...] あたりまえのことになかなか気づけなかったときには、この例を思い出そう。アインシュタインはこう言った。「自分が何をしているのかわかっているなら、それは研究とは言わないのではないかね?」


 自分の究極のアイディアをゆっくり蒸留していくために、私は怠け者になりたかった。カフェやラウンジに座り、デスクだの組織図だののことは忘れ、眠りたいだけ寝て、ガツガツ読み、それでいて誰にもなんにも説明しなくていい、そんなプロの瞑想家だ。私は放っておいてほしかった。ちょっとずつちょっとずつ、黒い白鳥という考えにもとづいて思想体系の全体を構築するために。


今日その大きな理論は、"M理論"と呼ばれている。その場にいた物理学者たちはショックに打ちのめされた。次の講演者であるラトガーズ大学のネイサン・サイバーグはウィッテンの話に度肝を抜かれ、「私はトラックの運転手になるべきだった」と言った。


人間関係学派に伝わる古い格言があります。「手だけを雇うことはできない。手には人間が丸ごとついてくる」



マサチューセッツ州の上院議員だった故ポール・ソンガスの言葉を借りれば、「死の床にあって、『オフィスでもっと時間を過ごせばよかった』と嘆いた者はいまだかつて一人もいない」のである。

HBR, 2008, 11月号, p. 17

 「多くの建築家が美の実現を目指しています。少なくともそう考えているはずです。しかし真剣に考えている人はごくわずかです。なぜならその理論化はきわめて難しいからです。私は中途半端な理論には興味がありません。それでは価値がないからです。繰り返して言いますが、私は本物を実際に作り出したいのです。
 実現は不可能だと思われていたことに、何年もかけて立ち向かった人がいます。たとえばライト兄弟がそうです。彼らは、たとえどんな困難でもどうしても空を飛びたいという一心で頑張ったのです。それは私の場合も同じで、どうしても成し遂げたい。決して妥協はしたくないのです。」


 「私の目標としていることが、今日もなお実現されていない、あるいは数百年間も実現されてこなかったということは、誰もまだ気づいていません。実際、私自身でさえ最初は気づきませんでした。しかし歴史的な問題を云々することは、さして重要ではありません。大切なのは、求めているものがたまたま現れたとき、あるいは現れたと思えるとき、できるだけ執拗かつ素直にそれを見つめることです。



I wanted to be able to do the real thing -- and for that I
had to know what the real thing is. The reason was not
intellectual curiosity -- but only the practical reason
that I wanted to be able to do it myself.


Poincare once said: "Sociologists discuss sociological
methods; physicists discuss physics." 


The truth is a powerful thing. It gives people courage. And as the person who is saying these things, I need courage, too. But the fact that what I have to say is true gives me great courage, and the will to go forward, because I know, and other people know it is the truth. […]


The new architecture I propose will ultimately supersede the present views, because it is true, because it is based on common sense and makes sense for ordinary people everywhere, and because it is based on good science. You can fool some of the people some of the time, but you cannot fool all the people all the time.


シュンペーターは答えを出さなかった。彼は答えを重視していなかった


馬を水辺まで歩かせることはできても、その水を無理やり飲ませることはできない


大事なのは相対的な不利さである。トラから逃げている二人の男についての笑い話がある。男の一人がジョギングシューズを履くために立ち止まる。
「何のためにそんなことをしているんだい」ともう一人の男が聞く。「ジョギングシューズを履いたって、トラより速く走れないよ。」
「そうさ」と最初の男が言う。「でも、君より速く走れるよ。」


まずスタートとして、ある檻に5匹のサルを入れる。

この檻の天井の真ん中に、バナナがヒモで吊るされていて、そのすぐ下にはバナナに届く台が用意されている。

時間がそう経つ前に、一匹のサルがバナナを取るために台に近づく。

その一匹が台に触れた瞬間に、他の4匹に冷水を浴びせる。しばらくして別のサルが同じように台に近づく。

同じように台に触れた瞬間に、他のサルたちに冷水を浴びせる。

しばらくして、別のサルが同じように台に近づくと、他のサルたちが一匹のサルを止めるようになる。

さて、ここで冷水は片付けて、5匹のうちの1匹のサルだけを別のサルに入れ替える。その新しいサルはバナナを見て台に近づく。そのサルが驚くことに、台に近づくと他のサルから攻撃される。もう一度試みるが、同じように攻撃されるのでそこでやめる。

次にもう1匹のサルを別のサルと入れ替える。新しいサルは台に近づいて、他のサルたちに攻撃される。最初の新しいサルは、その攻撃にしっかり参加する。

同じようにまた別のサルを入れ替える。そして4匹目、5匹目と入れ替え、最初にいた5匹はいなくなり、もはや冷水をかけられたサルはそこからいなくなる。

それにもかかわらず、誰かがバナナに近づくとみんなで攻撃する。

その理由は何か?

ずっとそれがそこのやり方とされてるからである。

こうやって企業ポリシーというものが作られるのである。


凡庸な物書きが気をつけるべきことは、荒削りで不正確な表現を、正確な表現に性急に置き換えないことである。そんなことをすれば、最初のひらめきが殺されてしまう。小さな植物にはまだ生命があったのに、正確さのために、枯れて、すっかり無価値となる。ゴミとして捨てられてしまいかねない。貧相でも植物のままであったなら、なにかの役には立っていたのだが。


ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。


これを信ずる人と信ぜぬ人とに、討論しあう共通の基盤はなく、ただみずからの信ずる見地から、互いに軽蔑しあう他はない。
プラトン


「レイモン・アロンのことばをもってまとめておこう。わたくしは、フランクフルト学派の著作を「知識人にとってのアヘン」であるとみなす」。


この状況は、次の60年前のジョークに似ている。一人の男が街灯の下で、探し物をしていた。どこで落とし物をしたのか聞かれた男、遠くを指差して「あそこだ」という。「じゃあ、なぜここで探しているんだ?」「あそこは暗くて、よく見えないんだ」



「スモール・イズ・ベスト」もまた、「ビッグ・イズ・ベスト」と同じ種類のドグマである。われわれはもはや、貧弱な政府と、教会と、学校しか組織のなかった19世紀に戻ることはできない。今日われわれが突入しつつある知識社会とは、組織社会である。



 フロイト、アドラー、ユング、フロム、ホーナイらのおかげで、正確で洗練された、実に見事な実験が可能になった。だが、報告された症例の少なくとも半分は、人間の抱える問題と何の関わりもないものであり、もっぱら同業の心理学者のために記述されたにすぎないのだ。私は、動物園の飼育係に、このカバは雄か雌かと尋ねたという婦人の話を思い出してしまう。飼育係はこう答えたという。「奥さん、こいつが雄か雌かなんてことは、他のカバが気にすればいいことだと思いますがね」


 私たちはすぐに、二人の答えが違うことを知った。しかし、問いは常に同じであることを知った。二人ともまだ若かったが、重要なのは問いであることを知っていた。そこで私たちは、それぞれが互いを使って、自分の考えを確かめていった


 哲学者であり、また数学者だったアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが1927年にAACSBにおける演説のなかで、現在を予言するような言葉を残している。
 「想像力は、事実から遊離したものではならない。なぜなら、それは事実を解明する手段からである」。この世の悲劇とは、想像力豊かな者には経験が不足し、経験豊かな者には想像力が欠けていることである。

ビジネススクールは病んでいる, ハーバード・ビジネス・レビュー, 9月号, pp. 115-116

漫画

  • びんちょうタン
  • 蒼天航路
  • 闇金ウシジマくん

アニメ

  • lain
  • グレンラガン
    • 兄貴
  • 舞-乙HiME
  • トップをねらえ!
  • トップをねらえ2!
  • ガングレイヴ
  • バジリスク

シーン

  • 舞HiME


セリフ


スレ





雰囲気


MAD




動画







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