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 自らの果たすべき貢献を考えることは、知識の段階から行動の段階への起点となる。問題は、何に貢献したいと思うかではない。何に貢献せよと言われたかでもない。何に貢献するべきかである。


 組織の中の人間が、貢献し、理解してもらうことについて責任をもてるようにするためには、基準が必要である。基準は具体的でなけれればならない。たとえば、前にも触れた緊急治療室の基準、つまり、運び込まれた人は一分以内にしかるべき医師の診断がうけられるようにするといった、具体的な基準でなければならない。
 基準は高く設定すべきである。しだいに基準をあげていくことはできない。発展途上国で仕事をするとき、私たちは皆、同じ間違いをする。訓練を受けておらず、未熟練な人たちばかりだから、低めの基準でスタートしようとする。しかし低めの基準からスタートしたら、高いレベルに行き着くことは絶対にない。「ゆっくり」ということは、低いこととは違う。確かに、新しい人々と新しいことを始めるときは、ゆっくりと歩を進めなければならない。間違いもある。しかし、基準は明確でなければならない。私には、何十年も前の老年いた恩師について、たくさんの想い出があるが、その先生は、小学校二年生の初日に、壁に立派なお手本を貼って、「こういうふうに書け」といった。誰もそんなふうに書けるはずはなかった。事実、その後も、私を含め、ほとんどが書けるようにはならなかった。しかし、粗雑な時は決して自慢できるものではない、ということはわかった。


 成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率のことである。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くの間違いをおかす。優れているほど新しいことを試みる。


マネジメント?, pp.145--146


 頭のよい者が、しばしば、あきれるほど成果をあげられない。彼らは、知的な能力が、そのまま成果に結びつくものではないということを十分に認識していない。知的な能力は、体系的な作業を通じてのみ、成果に結びつくものであることを知らない。逆に、あらゆる組織に、成果をあげる地道な人たちがいる。頭のよい者がしばしば創造性と混同する熱気や繁忙の中でほかの者が駆け回っている間に、寓話の亀のように一歩一歩進んで、先に目標に到達する。
 知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである。