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 建築家は、ルールが存在することを誰でも知っていますが、最近はそのルールが『制約』だと考えられているようです。これはまったく違います。しかし、このルールが生成力をもつはずだという説はどの文献にも見当たりません。遺伝学でも、このような考えが起こってからせいぜい十数年ですし、言語学でも同様です。私の知るかぎり、この考えが建築で議論されたことはまだありません。したがって、構造を生成するルールのシステムについての考えは、まだ一般には広がっていません。一般的にとられているのはまったく逆で、たったひとつの構造が残るまで消去法的にルールを使い、可能性の幅を狭めていきます。私たちのルールは、この考え方とは捉え方が異なります。生成的な意味では、ルールがものを作り出します。問題は、このようなルールによって建築から街全体までを生成しうると信じるかどうかです。


 もの同士の関係の構造がデザイナーの優れた創造力からではなく、このような言語から生じるという考えは、建築家にとって不愉快きわまりないものです。彼らは、自分たちが建築や街やその一部を創造したのであり、それが彼らの豊富なイマジネーションのたまものであると思っているのです。しかし私たちは次のような理論を立てました。ルールにはシステムがあり、建築家はこのルールを実体化することによって構造をつくり出せる。この構造はルールに内包されているので、できあがった構造はそのバリエーションのひとつにすぎない。つまり支配するのはその内部構造そのものである。このような理論は、建築家の自我にとっては非常にショックなものです。最近では一般の人ですら、建築家が環境を制御すると考えるようになってきています。つまり建築家が混沌とした状況に秩序を与えると考えられていますが、その秩序がルールのシステムから生まれた一バリエーションだとは想像だにしません。このことを理解するのは、一羽の鳥が遺伝子情報というルールからつくり出されるということを理解するのと同様に難しい。人々はこれをなかなか信じようとはしないのです。


 生成システムとは、ルールの相互作用だけがものを作りだすというシステムです。ここにはいかなる中間の力も介在しません。


 このような生成ルールの存在を認めたとしましょう。伝統的な建築においてはそのようなルールが働いていて、そのルールの中で建築行為も成立しています。しかし私の主張は、建築家が支持された順序に従ってルールの流れだけを辿っていけば、その結果建物がつくられるというものです。しかもいままで見たこともないような美しい建物を建てられるのです。これが私が『生成力』という言葉で意味していたことです。[...]


 ここ数年間の経験からいって、このことは建築家にはなかなか受け入れられないことです。建築の素人は、驚きはしますが、特に偏見をもつこともありません。しかし建築家にとってはそれが真実ではあって欲しくないし、試してみようともしません。誰がそれを成しうるとも考えません。真実ではないことは自明の理だとしているのです。というのも、生成システムを認めてしまうと、建築家という概念そのものが根底から崩れてしまう恐れがあるためです。しかし、建築家が何をすべきか、どのようにして建築を優れた芸術にまで高めるかという実践的問題は、これとは全く別なはずです。