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 なによりも気をつけなければならないことは、制作現場の現場的な都合が画面に見えてしまった瞬間から、映像のフィクションの世界は、フィクションでなくなってしまうのですから、それは作品を創る行為ではない、ということを本当に理解してほしいのです。

映像の原則, p.255

 日本では、コミック世代の視覚的な感覚が原因になって、映像が流れを感じさせないようになっていると感じます。
 ヨーロッパでは、アートを意識しすぎて、考えるものを目指していきますから、映像が流動的ではなくロジック的になっているだろう、とも推測します。
 アメリカでは、動けばいい……でもありません。
 基本的原因は、ヴィジュアル世代になり、人々が無尽蔵の映像を見るようになって、映像に不感症になってしまっていることだと感じられます。

映像の原則, p.216

 視覚にもリズム感があるとわからない方は、映像作品を一度、音を消して見てみてください。出来の良い作品は、音がなくても、なんとなくおもしろそうに感じられるものです。

映像の原則, p.22

 映像教育についても、映像制作に原則があると想像することのない人々が、教育する立場に立っていることも、若手育成ができない原因にもなっています。

映像の原則, p.50

 昔、呉服屋の小僧さんに入った若者は、まず、もっとも高価な反物を触らせられると聞きました。良いものを知れば、悪いものは自動的にわかるようになるからです。それを三年続ける。この精神です。
 悪いものを見ていては、良いものの良さは、絶対にわかりません。

映像の原則, p.61

 しかし、それらの監督たちは職人気質が強く、アカデミックになじむ性格がなかったために、映像学といったものを保持し、後継者につたえるという気風はありませんでした。
 それでも、彼らの作品の映像的な手法を知るだけでも、映像学は豊かになるはずなのですが、その視点を周囲のスタッフや研究者が体系として記録する場をもてなかったのは、日本の文化風土が技術の表層だけをとりいれるという悪い癖があったからだと感じています。
 すべての技術論が"実務での勘を育てればいい"というレベルに落ちてしまえば、原則とか映像学という認識は育ちようがありません。

映像の原則, p. 141