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 端的にいえば、社会に必要な「コミュニティー形成力」を演劇は持っている。それが演劇の持つ力だと思います。
 人間は本来価値観がバラバラで、同じ言葉でも、実際に受けるイメージは一人ひとり異なっています。同じ物を見ても、全く違うイメージを感じ取っているわけです。そういう、本来バラバラな人間が集まって、短期間に何かを作り出すということに関して、演劇はある種の知恵やノウハウを蓄積してきたのです。
 言い換えれば、演劇はコンテクスト、つまり文脈を摺り合わせるための知恵、ノウハウを提供することができるのです。
 人間はそれぞれ、多様な出自や価値観があって、同じ言葉を使っていても同じ意味で使っているとは限らない。合意を形成するためには、インプット(感じ方)はバラバラでもいいのだけど、アウトプット(表現)は統一しなければいけない。そこに何かのノウハウがあるんですね。


 演劇の観客は、実は、「イメージの共有のしにくいもの」が観たいのです。縄跳びのように、誰もが経験しているもの、ありきたりの動きでは、観客はすぐに飽きてしまいます。観客は、普段見ることのできない、経験したことのない、ゆえにイメージの共有のしにくいものを欲します。
 私は、観客が一番観たいもの、そして一番イメージの共有のしにくいものは、人間の心の中だろうと考えています。
 私たちは、普段、他人の心の中を見ることはできません。家族や恋人でさえも、本当の気持ちというのはよく分からない時が多くあります。
 しかし、優れた演劇や映画に出会うと、主人公の気持ちが痛いほど分かるということを私たちは経験しています。「あぁこの人、本当に悲しいんだろうな」とか「たしかに人間は、嬉しい時にこうなるな」といった気持ちになることも多いでしょう。こうして登場人物の気持ち、心の中が、直接的なイメージとして観る側に伝わった時に、演劇的な感動が起こります。私たち演劇人は、多くの場合、この感動を目指して作品を創ります。

演技と演出?, pp.37-38

 本文中でも繰り返し触れてきたように、「演出する」ということは、自己を把握し、自己を操作して、自己を演出すること(=演技)と、他者とのイメージを共有すること、あるいは、他人同士のイメージの共有を手助けすることの二つに分かれます。
 この二つの事柄は、まったく異なった方向を向いていながら、不可分のものです。(後略)


 喜劇、演劇的な笑いは、人間的なものが、社会的なものに浸食してきた時に起こります。先ほどの例で言うと、机の周りで真面目な話をしているところに、久保君の恋愛話が持ち込まれるので、面白くなるのです。これが、内部でも恋愛の話をしていたのでは、効果が出ません。
 私たちはよく、「タキシードを着た紳士がバナナの皮で滑ると面白い」と言います。タキシードを着た紳士は、社会的な存在の象徴です。しかし、どんなに威張っている人でも、社会的な地位の高い人でも、バナナの皮の上にのれば、物理的に滑って転ぶのです。ここに私たちは、人間存在の滑稽さを見いだします。



 実は、悲劇も同じような構造を持っています。シェイクスピアの『リア王』は、王様という社会的な存在の頂点に立つものが、家族というもっとも人間的な要素の一つに足元をすくわれる話です。ですから、この社会的なものに、人間的なものが浸食してくる構図というのは、すぐれた演劇全体に共通する構造と言ってもいいかもしれません。



 演劇は、ある人間が、他の人間と出会ったり、運命と直面したりして、人間的に成長したりダメになったり、その変化を描く時間芸術です。ですから、この変化のための適切な刺激を見つけられれば、演劇は成功します。すぐれた演出家は、みなこのさじ加減を会得しているのです。


 しかし、劇場はしょせん劇場で、演劇は、「虚構=フィクション」でしかありません。童話『裸の王様』と同じで、私たちがいくらしゃかりきになって素晴らしい舞台を創り上げても、子どもがトコトコとやってきて、
 「なんだか、おじさんたちは一生懸命やっているけど、ここは劇場じゃないか」
 と一言言ってしまえば、それで積み上げてきた虚構も夢も崩れていくはかない仕事です。
 けれども、それでも私たちは、たまさか優れた演劇作品に出会うと、そこが本物の砂漠以上の砂漠に見えたり、見たこともないくせに、「あぁ、大宇宙とは、きっとこのようなものだなぁ」と納得してしまったりします。
 それが芸術の力というものでしょう。

演技と演出?, pp.32-33

 ただし、演劇では、そのようなリアルの感覚をもたらすためには、まず舞台上で「イメージの共有」が行われていなければなりません。演劇は集団で行う芸術なので、そこが難しいところです。


 こう書くと、「でも、それは、演出ではなくて、『演技』でしょう」と考える人が多いと思います。たしかに、俳優は自分自身を演出し演技をします。ですから、俳優にとっては、この二つの境界線は曖昧です。では、自己を演出することと、他者を演出することには、はっきりとした違いがあるのでしょうか?


 私があえて、この本はハウ・ツー本だと言いきるのは、演劇を技術として語る習慣が少ない日本の演劇界の現状に対して、多少なりとも異を唱えたいという気持ちがあるからだ。だから、ここで言うハウ・ツー本とは、すなわち隠されてきた技術の蓄積の言語化という意味だ。

演劇入門, p. 4

 おそらく、私のこの戯曲創作作法も、「ダメな戯曲」の理由を検証するのには、適した方法なのだろうと思う。こうして、ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって、「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうというのが、私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは、本質的にこのような方向でしか考えられないものなのではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが、悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。

演劇入門, p. 81

 だが本書の目的は、あくまで、多くの観客(それが仮想のものであっても)が、「リアル」と感じるものは何かを探り当てる点にある。
「リアル」は人それぞれだと漠然と言い放つのは、たやすい。だが、それでもより普遍に近い「リアル」はあるのだ。少なくとも、多くの人がAよりBをリアルと感じる、その差異は明確にできるはずなのだ。私がいま見極めたいと思うのは、その差異の根拠である。

演劇入門, p. 24

 プロットを作る時には、まず最初に誰がその場にいれば面白いかを考える。次に誰が入ってくれば楽しいか、あるいは、誰がその場にいると都合が悪いか。それらの点だけを考えて、人の出入りの順番を決めていく。

演劇入門, p. 90

 演劇作品を創るという作業は、化学や物理学の実験に似ている。この喩えに従えば、私にとって演劇における戯曲の役割は、実験を行うための作業仮説にあたる。
 戯曲には、劇作家の見ている世界の見取り図が描かれている。「おそらく私はこのように世界を見ているのだろう」「おそらく私は、このように人間というものを捉えているのだろう」という、劇作家にとっての概念図のようなものだと言ってもいい。
 Aという人間がいる。そこにBという人間が入ってくる。Bが入ってきたことによって、Aはどのように変化するか。BはAと出会ってどのような反応を示すか。その変化や反応の過程についての仮説を書き記していくのが劇作家の仕事である。私がここまで記した戯曲創作の過程も、そのような筋道をたどってきたのではないかと思う。

演劇入門, p. 170