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 科学とは現象の説明を得るためのさまざまな定義やモデルを構築していくことです。その定義にあわないような現象に出くわした場合は、定義の方を現象に合わせて再構築するだけです。

「~省略~
 今日の科学は、自然現象を主に扱います。もちろん、「名づけえぬ質」は自然現象にも見られます。でもどちらかと言えば、人間にかかわる領域を扱うときの方がぴったりきます。というのも、この*質*の存在の有無が重要で決定的になってくるからです。科学が人間のかかわる現象を扱うようになるのでしょうか。もし、質が明らかになれば、私はこの題材があっという間に中心的なこととして扱われると思うのです。いま現在は、人間のかかわる現象は自然現象に向かうような真剣さでは扱われてはいません。
 絵画にしろ、建築にしろ、作品をつくるということを真剣に理解しようとすれば、そうした試みと科学の間の区別は完全になくなるでしょう。なぜならば、ミステリアスであるとはいえ、まったく現実の現象をとり扱っているのに変わりはないのですから。科学者が化学や物理の実験でしているように、認めるか認めないかということについて真剣に、そして正確に対応しなければなりません。
 今日、問題があるとすれば、芸術と科学の両方がこの現象を見失ってしまったことです。なぜなら芸術それ自身の目標を追及しうるほど真面目に扱われていないから。そして科学はこの*質*の存在を認めようとしないからです。しかし、私たちが話してきたパラダイムの枠組にはこのような問題は無用で、芸術と科学との間には何ら断絶はありません。」



 フロイトが精神分析の世界を開拓したのは、啓蒙思想の理性主義が、近代医学の発展に資しはしたものの、人の心の中までは踏み込めないでいることへの問題意識によっていた。
 とはいえ、彼は科学とその世界観を捨てるまでのことはできなかった。事実、彼は終生、精神分析が科学であるとの姿勢を崩さなかった。心の動きは、理性的科学的に、化学現象や電気現象、あるいは物理法則のように説明できるはずであるとした。
 まさにフロイトの精神分析こそ、理性的な科学と非理性的な心の動きを一つの理論にまとめ上げようとする壮大な試みだった。
 それは、啓蒙思想の子たるフロイトの理性主義者としてのフロイトと、魂の暗夜を生きる夢想家にして詩人としてのフロイトを一身に体現しようとする試みだった。そしてまさにこの二つのものを一つにまとめ上げてしまったことが、精神分析を重要なものとし、かつ脆弱なものとしていた。



ちなみに、西洋社会に重大なインパクトを与えた三人の思想家、すなわちマルクス、フロイト、ケインズのいずれもが、科学と魔術の統合、論理と経験の体系化を目指し、合理ならざるがゆえに我信じずの境地にあるものだったことは偶然ではない。


 科学が必要としているのは、憲兵隊よりもむしろ突撃部隊である。泥まみれで命がけの仕事だが、それでもだれかが地雷原に飛び出して行かねばならないのだ。


 ジャック・ルーブはかつて、あなたは神経学者なのかあるいは化学者、物理学者、心理学者、哲学者のどれなのかと質問された時、「私は問題を解くのです」とだけ答えた。確かにこれが普通の答えであるべきである。


 「我々は、なすべきことをしようとせずに、やり方を知っていることをする傾向がある」


 手段中心的傾向は、科学を階層化する強い傾向がある。全く有害なことなのであるが、物理学は生物学より「科学的」であると考えられており、生物学は心理学より科学的であり、心理学は社会学より科学的であるとされるのである。このような階層の仮定は、的確さ、完成度、技術の精密さに基づいてのみ可能である。問題中心的科学の観点からはそのような階層はけっして出てこないであろう。というのは、問題の本質から見て、失業とか人種偏見とか愛の問題が星やナトリウムや腎臓などに関する問題より重要でないとは誰も断言できないからである。


科学的方法

 科学的方法についてのわたくしの見解のすべては、この方法が次の4つのステップから成るということで要約できるでしょう。

 1.なんらかの問題を選択する--おそらく、つまずくことによって。

 2.暫定的な解決案としての理論を提起することで、その問題を解こうと試みる。

 3.自分たちの理論についての批判的討論を通じて、われわれの知識は誤りの排除によって成長し、このようにして自分たちの問題、理論、そして新しい解決案の必要性についての理解が進む。

 4.自分たちのもっともよい理論についてさえ批判的に討論することで、いつでも新しい問題が明らかになる。

 あるいは、これらの4ステップを4つのことばに直すと、問題--理論--批判--新しい問題となります。




引用

科学とは、多くの専門家が考えているような、定量化のことではない。もしそうならば、占星術は科学の女王となる。占星術は科学そのものでないことはもちろん、科学の応用でさえない。占星術は、現象を観察し、一般化して仮定とし、その仮定を観察によって検証する。しかしそれでも占星術は、科学ではなく迷信である。古代の航海上の記憶のヒントにすぎなかった獅子や魚への連想から、星座とその黄道内の動きに意味を与えるなどということなど、子どもじみた迷信以外の何者でもない。


つまり、科学であると言いうるには、一貫した整合的かつ総合的な前提、そして公理の構築に加えて、科学の対象となる世界、すなわち有意なる現象を合理的に定義しなければならない。しかも、この科学の世界に関する定義と基本とすべき公理の構築は、いかに雑なものにとどまろうとも、科学的な手法を適用する前になさなければならない。これがあって、初めて科学的な手法が適用可能になり、大きな力を発揮しうるのだ。


残念ながら、今日の経営科学は──文献的にも、実験的にも──原理ではなく手法に、意思決定ではなく手順に、その効果よりもツールとして、全体のパフォーマンスではなく部分の効率に目を奪われている


 ところが経営科学は、このみずからの世界を定義するという仕事をおざなりにしている。これがきちんとなされて、初めて経営科学のこれまでの仕事もようやく意味を持ちうる。少なくとも、本番前の準備と練習にほかならない。
 したがって、経営科学が人を誤解させたり、間違った方向に導いたりすることなく、真に世のなかに貢献するには、まずその対象について具体的に定義することである。そしてその基本的な定義の一つとなるものが、企業とは人間からなるシステムであるという洞察である。すなわち、経営科学の専門家は、仮説、意見、目標、ミス(とりわけ経営者による)も現存する事実として扱わなければならないのだ。
 経営科学が有意義な仕事を成し遂げるには、まさにそれらのものの研究と分析から始めなければならないのである。そして次になすべきは、基本とすべき前提と公理を確立することである。この作業抜きに経営科学が必要とする方法論を開発することなど望むべくもない。


[...] A natural science is a body of knowledge about some class of things -- objects or phenomena -- in the world: about the characteristics and properties that they have; about how they behave and interact with each other.


医学者はまた、実験的な手法に凝り固まっているため、機能的な仮説を考慮するのをためらうかもしれない。彼らのほとんどは、その教育の初期に、科学は実験的手法によってのみ発展するのだと強く教え込まれるが、それは間違っている。多くの科学の発展が理論によって始まっているし、仮説の検証の多くは、実験的手法に頼っていない。たとえば、地質学は地球の歴史を再現することはできないが、それでも、どうやって盆地や山脈ができたのかについて、はっきりとした結論を導き出すことができる。進化的仮説と同様、地質学の仮説も、手持ちの証拠を説明し、既存の記録にはない新しいことがらを予測することで、検証できるのである。


科学としての経済学はどこで道を踏み誤ったのだろう? 答え:頭のいい人たちが、自分の考えは厳密だ、自分がやっていることは科学なのだと自分にいい気かせるために、数学を使わないといけないと思い込んでしまったとき。

まぐれ?, p.219

理論

 この事実ならびに革命に対するわたくしの態度は、容易に説明することができる。ダーウィン的進化から始めよう。生物は、トライアル・アンド・エラーによって進化するが、その誤った試行──あるいは誤った突然変異──は、一般に、誤りの「担い手」であるその生物が除去されることによって除去される。ところが人間においては、叙述と論証の機能をもった言語が進化したことで、これが根本から変わってしまったというのが、わたくしの認識論の重要な要素である。人間は自分自身の暫定的な試行に対して、自分自分の理論に対して批判的になれるという可能性を獲得した。このような理論はもはやその生体や遺伝的システムのなかにくみこまれてはいない。それらの理論については、著者を殺したり、書物を焼いたりすることなく──すなわち理論の「担い手」を破壊することなく──批判的に論じたり、誤りを明らかにしたりすることができる。
 このようにして、われわれは根本的に新しい可能性に到達する。われわれの試行、われわれの暫定的な仮説は、自分たち自身を除去することなく、合理的な議論によって批判的に除去されうるということである。実際、これこそが合理的な批判的議論の目的である。


客観性


要するに、客観性は相互の合理的批判、批判的アプローチ、批判的伝統にもとづくのである。


 手段中心傾向は、むやみに定量化を過剰評価しそれ自体を目的とみる傾向が強い。この傾向は、手段中心的科学においては、何が語れたかよりも、どのように記述されているかに力点が置かれていることからも裏づけされる。そこで、的確さと精密さが、適切さと意味深さの対抗要素として持ち出されてくるのである。


 このような態度は、心理学やさまざまな社会科学には特に危険である。この場合、真に科学的であるべしとする指示は通常次のように説明される。すなわち、物理学や生命科学の技法を用いよと。そのため多くの心理学者や社会科学者達は、発展の程度、問題、データが自然科学のそれとは本質的に異なるという事実によって必要となる新しい技法を創造し開発することはせず、前からの技法を模倣するという傾向にある。科学における伝統はかえって危険であり、それへの忠誠は完全に危難である。




科学的研究

 自己実現者についての私の研究は、非常にうまくいったことを告白しなければならない。結局、それは大きな賭であり、直感的な信念を頑固に追及したのであり、その過程では、科学的方法の基本的基準や哲学的批判のいくつかを無視したりした。それは私自身が信じ、受け入れていた基準であったし、私は薄氷の上をスケートしていることもたいへんよくわかっていた。この探求は、不安、葛藤、そして自己疑惑などに逆らって進められたのである。


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