漣 01

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http://yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1291723688/434-514 『よう、久しぶり、生きてたか?』 「赤城、久しぶりだな。まぁ、なんとか生きてるよ」  電話の相手が、聞きようによっては嗚咽とも受け取れそうな、くぐもった湿っぽい笑いを漏らしていた。 『変わんねぇな、そうした素直じゃねぇところ……。ま、お前らしいちゃ、お前らしいよな』 「ほっとけ!」  口が悪いのはお互い様だ。 『でよ、どうよ? そっちは』  そいつはこっちも聞きたいところだった。生まれ育った街を離れて、この地に落ち着いて間もなく一月になろうとしていた。  何かも勝手が違って、戸惑うことばかりだったが、何とか、やってこれている。 「ぼちぼち……だな。首都圏と違って、こっちは、何もかも流れがゆったりとしている。平凡が一番な俺には、案外性に 合っている街なのかも知れねぇな」 『爺くせぇなぁ……』 「あらためて言われると、なんかムカつくな」  でも、まぁ、当たっているわな。なんせ、幼馴染が、あの麻奈実だ。十代にして『お婆ちゃん』といった風情のあいつと 長年付き合っていれば、そりゃ爺むさくもなるさ。 『おっと、怒るなって。別にお前と口論したくて電話したわけじゃねぇからな。でさ、ぶちゃけ、どうよ、そっちの大学は?  可愛い子とか居るか?』  何だ? いきなり。赤城って、こんなに軽薄な奴だったか? いや、軽薄か……。  アキバで自分の妹に似たエロい等身大の人形を買うか否かを本気で悩んでいた大馬鹿野郎だ。  もっとも、その軽薄な赤城と一緒になって、件のラブドールに興味津々だったのは、俺もなんだけどさ。 「居ねぇこたぁねぇけどさ……」 『何だよ、その奥歯に物がはさまったような言い方は』  俺が入学した大学の法学部には、結構、可愛らしい女子が居る。居るには居るのだが、極めて取っつきづらいのだ。 「ジモティのお嬢さんが圧倒的に多いのよ、女子は……」 『ああ~ん?』  赤城が、『なんじゃ、そりゃ?』と言いたげに、語尾を尻上がりに引き伸ばした。無理もねぇか、説明不足だったわな。 「こっちはさ、首都圏に対する対抗意識がすげぇんだよ。かつて、文化の中心だったっていう自負もあるから、 ことあるごとに『東京がなんや!』って感じだな。東京から来た奴だって、こっちじゃ田舎者扱いだぜ。 ましてや、千葉出身の俺なんか、こっちのお嬢さん方にしてみれば、ゴミみたいなもんだ」  受話器からは、赤城の『うへぇ……』という、絶句のような嘆息が聞こえてきた。 『要するに、そっちの大学の女子は、ジモティの箱入り娘だから、関東の田舎もんはアウト・オブ・眼中ってことか?』 「ああ、そういうこった……。すげぇ可愛い娘とかも居るけど、眺めるだけの、高嶺の花だな」  大学の同級生の女子は、お高くとまったお嬢様気取りの連中ばかりだから、付き合いにくいことこの上ない。  まぁ、実際に、何百年も続く名家の本物のお嬢様がごろごろ居るらしいから、それも仕方がないのだろう。彼女らは、 俺なんかとは住む世界が違うんだ。 『そいつぁ、つれぇなぁ……』 「いや、別に、彼女作りたくて大学に入ったわけじゃないからな」 『強がってんじゃねぇよ。彼女も出来ねぇようじゃ、不毛な青春だぜ』  強がり……、か。  たしかに、そうかもな。黒猫とも、麻奈実とも、あやせとも、沙織とも、そして桐乃とも、何の挨拶もなしに、ある日突然、 彼女らの前から姿を消した俺は、今や女っ気ゼロの不毛な青春を送っているに他ならない。 「まぁ、今んところは、不毛だわな。否定しねぇよ。なんせ、女どころか、野郎だって気心の知れそうな奴はいそうもねぇ からなぁ……。男のジモティは、キモいし、虫が好かねぇ。露骨に、関東の人間を見下してんだよ」  これじゃ、男の友達もしばらくは出来そうもないだろう。キモい奴等なんざぁ、こっちから願い下げだ。  しかし、電話で吐き捨てるような口調で言ったのはまずかったな。 『……、何か、大変そうだな……』  磊落であるはずの赤城が、気まずそうに言い淀んでいる。  俺のことを『うわ、こいつ、うぜぇ~』ぐらいには思っているのかも知れない。 「すまん、ちと、言い過ぎだったか……。でも、見知らぬ土地での初めての独り暮らしがこたえていないというと、それも 嘘になる。何にせよ、知り合いが一人も居ないってのは、ツライところではあるわな」 『ならさ……、こうしろよ』 「どうしろと?」 『お前以外にも、関東から来た奴が居るんじゃねぇの?』 「居るこたぁ居るみてぇだけどよ……」 『なら、そいつらとつるんでさ、ジモティに対抗すればいいんじゃねぇの? 一番いいのは、お前と同じように千葉から 出てきている奴を探して、そいつと仲良くなるってところかな』 「陳腐だなぁ……。そんなのは俺も考えてはいるけどさ、思ったほど簡単じゃねぇのよ」 『どうして簡単じゃないんだよ?』 「関東とか、東北とかから来ている奴は、みんな萎縮っつうか、なんつうか、ジモティにバカにされるのを恐れて、出身を 明かさないんだ。だから、誰が千葉出身かなんて分からねぇよ」 『う~ん、そうか……』  結局、俺は、この街では“お上りさん”なんだ。  片田舎から、アキバ辺りに初めてやって来た奴の心境ってこんなもんかな? いや、アキバはよそ者に排他的じゃ ないから、だいぶ違うか。  それに、俺が憂鬱になっている主な原因は、ジモティの排他性なんかじゃない。 「……こっちに気心の知れた奴が居ねぇことだけじゃなくて、いつになったら帰れるか……。そいつが大問題だな」  受話器から、赤城の『ふぅ~む……』という、くぐもった呟きが聞こえてきた。 『たしかにな……。お前がそっちに行った、いや、行かされた、か? その経緯は、俺も知ってるけどよ……』 「ああ……。桐乃が実家に居る限り、夏休みも帰ってくるな、ってお袋に言われたよ」 『ひでぇー話だ……。なんで、お前だけがそんな扱いなんだよ』 「しょうがねぇさ。損な役回りは、いつものこった……。親にしてみりゃ、桐乃の方が大事だろうし、俺だって、桐乃との ことを考えれば、こうした島流し同然の扱いも、理解は出来るさ」  俺自身も、捨て身の覚悟で、桐乃を護ったことがあったしな。その結果、親父にぶん殴られ、あやせからはビンタを 喰らった上に、変態扱いされている。 『でも、お前は、それでいいの?』 「妹のために、自ら汚れ役を引き受ける、お前なら分かるんじゃねぇの?」  電話の向こうの赤城はしばし沈黙していたが、俺と同じく妹が居て、その妹のために、ホモゲーすら買ってやったこと がある赤城は、俺の今の扱いを理不尽だとは思いながらも、理解はしてくれたようだ。 『だな……』    そうとも、悪友。兄貴ってのは、損な立場なんだよ。  俺としては、今の扱いに納得はしてねぇけどな……。 「まぁ、こっちの状況はこんなもんさ。ざまぁ、ねぇけどな……。代わりに、そっちはどうだ?」  話の出だしは、バカ話だったのに、状況が洒落にならないから、柄にもなくシリアス路線になっちまった。  だが、鬱な話は、これくらいにしておこう。正直、身がもたねぇや。 『お前の妹が、俺たちの高校に入学してきた』 「それは、島流しの俺だって知ってるよ」 『それと、お前の妹の親友とかいう子も一緒に入学してきたようだな』 「ほぉ……」  俺の妹の親友ってのは、新垣あやせのことだろう。あいつも桐乃と一緒に俺が卒業した高校に入学したのか。  初耳だったが、想定内だな。あやせは桐乃に執着しているから、どこへでもついていくだろうさ。  しかし、桐乃は何をやってんだ? あいつの学力だったら、もっと上の高校へ行けただろうに。 『会ったことはないけど、結構可愛らしいって評判みたいだな。何でも新垣議員の娘とかで、その上、モデルもやってんだな』  やっぱり、あやせか。加奈子は、どうやら一緒じゃないようだ。あいつはアホだから、俺らの高校すら合格は覚束ないだろう。  まぁ、それはともかく、見た目だけは、エンジェルなあやせたんが、俺の後輩ってわけか。 「うん、うん、会ってみれば分かるけど、桐乃の親友だけあって、かなり可愛いな」  中身はアレだけどね……。しかし、あのキチ▲イかと訝りたくなる変なところも、今となっちゃあ、チャームポイントに思 えてくるから、不思議なもんだ。 『ほぉ~っ、お前がそこまで言うとはな。お前、その新垣って子が結構タイプだな』  俺は、度肝を抜かれて、吹きそうになるのを辛うじてこらえた。ぶっちゃけ、俺にとっては、最も好みのタイプなんだが、 いかんせん、向こうは俺のことを毛嫌いしている。 「妙なことをいきなり言うな! まぁ、概ねはその通りだけどよ、今となっちゃどうにもならんだろ? 桐乃から隔離する ために、俺は、こんな遠くまで追いやられたんだ。その桐乃の友達と会うなんてこたぁ、もうあり得ねぇよ」  それに、あやせには、『ごめんなさい。生理的に無理です』とか言われたんだぜ。悲しすぎるだろ。 『……俺たちの高校の話はそれくらいにしておくとして……』  雰囲気を察したのか、赤城の奴は、高校がらみの話題を打ち切ってくれた。 「うん……」  だが、触れられたくない因縁が、俺とあやせの間にあるらしいことを奴にカミングアウトしちまったも同然だな。  まぁ、いいさ。こいつは、今の俺にとって、心を許せる数少ない相手だからな。 『とにかく、俺も、奇跡的に第一志望の大学に進学出来た』  赤城の口調が、いくぶんだが誇らしげに感じられた。第一志望に合格したんだから、当然か。 「おぅ、そうだったな。たしか国文だよな」  赤城は、ぱっと見、ただのサッカー馬鹿かと思いきや、これで結構頭がいい。それに、奴も、受験勉強の終盤は、必死 の追い込みで頑張っていたからな。そのおかげで、麻奈実と同じ大学、学部、学科に進学している。  正直、ちょっとうらやましいぜ。 『おうよ。だけどよ、大学の講義は進度がはぇえな。びっくりだぜ』 「そっちもそうか。俺は法学だが、学生の理解の程度なんかお構いなしにガンガンいきやがる」 『理系の奴等なんか泣いてたぞ。特に、大学での数学と高校数学とじゃ、"越えられない壁”があるとかで、みんな猛烈 にショックを受けてるよ』  高校数学は“ゆとり教育”(ゆるみ教育か?)の弊害で、昔に比べると本当に程度が低いらしいから、どこの大学に 行った奴でも苦労するだろうな。俺は文系でよかった……。これは、赤城も同意見だろう。 「そういや、麻奈実はどうしてる? 元気か」 『おぅ?! お、おう、田村さんなら元気だぜ。相変わらず天然入っているけどな」  むぅ? なんだ、赤城の野郎、麻奈実の話を振ると、しゃっくりみたいな素っ頓狂な声を出しやがって、気色悪いな。  まぁ、いいか……。ラブドールの購入を本気で検討する大馬鹿野郎だから、いい奴なんだが、多少は頭のおかしい ところがあるんだろう。  あ、それは、俺も同様かな。 「麻奈実には宜しく言っといてくれや。なんせ、こっちは、桐乃との接点がある人物とは、男であれ女であれ、こっちから 自主的に連絡することは禁じられているんだよ」  桐乃と接点がある人物からの電話やメールに応答することまでは禁じられてはいないが、今の居場所を探られる訳 にはいかないから、返事もおざなりなものになってしまう。  黒猫からは1回、沙織からは2回メールが来たが、その都度、返信は、時候の挨拶程度のものでお茶を濁してきた。 そんなこったから、連中にも愛想を尽かされたのか、ここしばらくは、電話もメールも、とんとご無沙汰だ。  特に、黒猫の場合は、告白されてから、恋愛めいた関係になったものの、結局は、俺の受験とかが影響して、うやむや に終わった。  “邪気眼電波女”な黒猫のことだ。恨んでいるだろうなぁ。  それに麻奈実との仲もなぁ……。 『おぅ、田村さんには、高坂は元気そうだったって伝えておくよ』  赤城が多少なりともフォローしてくれることを、期待せざるを得ない気分だ。 「すまねぇな。宜しく頼むわ」  そうはいっても、麻奈美とは疎遠にはなるだろうな。面と向かって話が出来ねぇってのは、かなり痛い。  くそ、こんなところに独りで居ると、何でもかんでも、考えることがネガティブになっちまう。 『だがな、高坂……』 「何だよ?」  『だがな』ってのは、何か嫌な言い方だな。  麻奈実のこととかで、補足することでもあるんだろうか。 『あ、い、いやぁ、何でもねぇよ』  何だ? こいつの狼狽ぶりは。らしくねぇなぁ。 「何でもないってのは、かえって何か怪しいな」 『お、おぅ……、何か話さなきゃいけないことがあったみたいなんだが、すまねぇ、ど忘れした……』 「お前、その若さで認知症かよ」 『そりゃ、ご挨拶だな。何せ、大学生活に完全に馴染んでねぇから、俺も頭の中が混乱してんだよ。入学した直後は、 大学でもサッカーやろうかと思ったが、とてもそんな余裕はなさそうだ』 「そっか……」  大学はサボろうと思えばいくらでもサボれるが、そうなると、就活とかで後々苦しくなる。赤城の奴、それを早くも自覚 しているんだろう。 『俺さぁ、高校の国語の教員になれたらいいなぁ、って思ってんだ』 「教員試験って、昔はともかく、今は難しいんだろ?」 『そうなんだ。だから、大学じゃ、ちょっくら真面目にやっていこうかと思ってさ。サッカーをやるにしても、部じゃなくて、 同好会とかのゆるいところじゃないと、学業との両立は難しいだろうな』 「しっかりしてんなぁ、お前」 『世の中、色々と厳しいからな。俺っちも現実的なことを考えねぇとまずいのさ。俺らだって、いずれは結婚して家庭を 持つだろ?』 「ああ……」  今んとこ、俺には、相手になってくれそうな女は皆無だけどな。 『そうなると、嫁さんや、ガキを食わしていかにゃならん。それ以前に、俺本人が、この社会で生き残っていかなくちゃ なんねぇ。だから、今のうちに、この社会で生きていける力っつうか、基盤みたいなもんを造っておきたくてな』 「お前、すげぇなぁ……」  翻って、俺はどうだ? 大学に合格したってだけで、将来設計は皆無だ。 『何をご謙遜を。お前の大学の方がレベル高いんだぜ? その気になれば、“国I”とかも楽勝だろうが』  “国I”とは、国家公務員採用I種試験のことで、いわゆるキャリア官僚になるための試験だ。難しい試験であることは、 いまさら説明不要だろう。 「楽勝じゃねぇよ。冗談じゃねぇ、今は講義についていくのが精一杯だ。今しばらくは、将来どころか、目先のことで 手一杯だぜ」 『そっか……、そうだな。国Iを楽勝とか言ったのは許してくれ』 「いいってことよ。俺たちゃ、毒舌を言い合える仲じゃねぇか」 『それもそうだったな』  電話の向こうで、赤城が苦笑している。バカな話が出来る男友達ってのは貴重だな。 「よかったら、夏休みにでもこっちに来てくれよ。この街は、寺とか神社とか辛気臭いのばっかだが、一応は観光地だからな」 『おう、考えとくよ。高坂も、早くこっちに帰ってこいや。また、アキバとかでつるもうじゃねぇか』 「ああ、そうしよう。いつか必ず、帰ってやるさ」 『その意気だ。頑張れよ、高坂。また、気が向いたら連絡するわ』 「ああ、俺も、久しぶりに声を聞けて嬉しかったぜ。じゃぁな……」  通話終了のボタンを押して、携帯電話機を折りたたんだ俺は、開け放たれていた窓から外にぼんやりと目をやった。 「いらかの波と、雲の波だな……」  白雲がたなびく空の下、鼠色をした瓦葺きの古い木造家屋が並んでいた。  麻奈実の実家である田村屋のような家がびっしりと集まっているような感じだ。 「日本にも、まだ、こんなところがあったんだな……」  かくいう俺が居るところも、瓦屋根の古くさい木造の下宿屋だ。  なんで、そんなところに居るのかって?  そりゃ、桐乃との仲を案じた親父とお袋に実家から追放されたからなんだよ。  特にお袋の嫌悪感はすさまじかった。 『京介は変態だから、年頃の娘と同じ屋根の下に住まわせるわけにはいかない』んだとさ。  けっ! 悪かったな、こんな変態でも、俺はあんたの実子なんだぜ。  実家を追い出された経緯は色々とムカつくこともあるが、故郷から遠く離れた街にあるとはいえ、本来なら、 合格しそうもない難関大学にパスしたんだからよしとするか。  合格したのは、奇跡といっていい。  何せ、首都圏の大学はダメで、俺が遠隔地で下宿することを考慮すると、財政上の理由から私立はダメ。 とにかく親父とお袋が言う条件は厳しかった。  その上、浪人は認めないってんだから必死にもなるわな。不合格でも実家を追い出されるとか言われた日にゃ、怠惰 な俺だって発奮するぜ。  そんな実家に居られないっていう危機感とか焦燥感とかが、いい意味で作用したのかも知れない。高校三年秋から の追い込みは、我ながらよくやったと思う。 「だが、そのせいで、麻奈美とは疎遠になっちまったな……」  志望校が違うから、結局、俺は独りで頑張らざるを得なかった。もちろん、冬期講習とかも積極的に利用したけどね。  長らく継続してきた麻奈実とのお勉強も、夏休み以降は、全くなかったな。 「必死こいて今の大学に合格したが、失ったものも少なくない……」  だけどよ、こうせざるを得なかったんだよ。もし、大学に合格しなくて、高卒でどっかに住み込みで働かされるなんて、 ぞっとするだろ?  学歴で人間の値打ちが決まる訳じゃないとか偉そうに言う奴がいるけど、現実は、そうじゃねぇからなぁ。  俺は、机に向き直ると、民法の専門書を開き、パソコンを起動した。連休明けの明後日に提出しなきゃならない レポートを書くためだ。  鬱になってる余裕なんか、ありゃしないのさ。 「高坂さん、お客さんですよ~」  レポート執筆のために、インターネットで判例を調べていた俺に、下宿屋のお婆さんが階下から呼ばわった。  はて、この街に知り合いは居ないし、入学して一箇月にもならないから、大学での友人と呼べる者だって皆無と言っ てよい。 「すいませーん、誰ですか?」 「はい、妹さんですよ~」  俺は自分の耳を疑った。  桐乃が来たのか? 冗談じゃない、ここの住所は、親父とお袋しか知らないはずだ。  とにかく俺は、押っ取り刀で階段を駆け下り、下宿屋の玄関に向かった。桐乃がここに来る?   どう考えてもあり得ないことだった。  玄関では、下宿屋のお婆さんと、ロングヘアの美少女が談笑していた。  その少女は、薄いクリーム色のブラウスに、ブラウスと共生地の膝丈よりちょっと短めのスカート、それに、空色の 薄手のカーディガンを羽織っていた。  襟元は、リボンタイっていうのだろうか、細い平紐状の青いタイが蝶結びにされている。  右手を大きなキャリーバッグのハンドルに副え、屈託のない笑顔で下宿屋のお婆さんと向き合っているその姿は、 連休を利用して、兄の下宿先を訪ねてきた妹そのまんまの雰囲気である。 「お、お前……」  その姿を認めて、言葉を詰まらせた俺に、その少女は、にっこりと微笑んだ。 「あら、高坂さん。妹さんがいらっしゃることは、ご両親から窺ってましたけど、こんなに可愛らしい方だったんですね。 それも、ご両親に代わって、下宿先のお兄さんを見舞うなんて、しっかりしたお嬢さんですこと」 「あ、い、いや……。こ、この子はですね……」  そう言いかけた俺に、件の少女は、すぅ~っ、と虹彩が消え入った眼を向けてくる。  こ、こぇええよ……。 「お久しぶりですね、お兄さん」  少女は、そう言って、物憂げに、肩に掛かっていた黒髪を払いのけた。石鹸のような清潔そうな香りが、俺の方にも 漂ってくる。  桐乃の親友で、この春、俺が卒業した高校に入学したという、新垣あやせが、そこに居た。 *  *  * 「まぁ、まぁ、遠路はるばる、ご苦労様です」  下宿屋のお婆さんは、あやせを一階の居間兼食堂に通し、茶と菓子を振る舞った。  食堂といっても、八畳ほどの和室なんだけどね。そこに大きめのちゃぶ台があって、そこに湯気を立てている茶碗と、 菓子を載せた漆塗りの皿が銘々分置かれていた。 「あの、お気遣いなく。それどころか、何もお知らせせずに、突然、お邪魔して申し訳ありませんでした」  そう言って、正座したあやせは、三つ指ついて、お婆さんに恭しく挨拶した。  うひゃ~、何、この外面のよさ。ぱっと見、あやせの奴は、清楚な女子高生だからな。中身がアレだと、初見で見抜ける 奴は居ないだろう。  かく言う俺だって、そうだったし……。 「いえ、いえ、そんなことはいいんですよ」  案の定、下宿屋のお婆さんは、コロッと丸め込まれちまったらしい。新垣あやせ、恐るべし。 「恐れ入ります。実は、母から、抜き打ちで兄の様子を見てくるように言われまして、それで、何のご連絡も出来なかった んです」  もっともらしい理屈まで付けてきやがる。恐ろしい女だな。こいつは。  それに、お前のかーちゃんは、PTAの会長様だろうが。嘘吐かれるのが大嫌いとか言ってるくせに、お前は、平気で 嘘を吐くんだな。 「で、兄ですが……」  あやせは、虹彩の失せた冷たい瞳を、一瞬だが、俺に向けてきた。やっべー。こいつは、俺の考えなんて、お見通し なんだろうな。  厄介な女だぜ。 「実家を出て、父や母の目がないのをいいことに、あ、あの……、エッチな漫画とか、ゲームとかにうつつを抜かして居る んじゃないかって、家族のみんな心配してまして、それで、わたしが遣わされたんです」  『エッチな』の台詞を言いながら、あやせは頬を朱に染めていた。  途中で言葉を淀ませたのも含めて、演技なんだろうな。そういや、こいつもモデルなんだった。こんな芝居はお手の物 なのかも知れない。 「高坂さんも、お年頃ですからねぇ……」  つか、お婆さん。いい加減に同意しないでください。俺は、こっちに来てから、エロゲとかやってないっすよ。  エロ本だって、買ってないです。  ……エロサイトは見ますけどね……。 「でも、兄は、ちょっと要注意なんです。恥ずかしい話ですが、い、妹といかがわしいことをするような、そんなアブナイ 漫画やゲームに耽っていまして……。それも、ただ、それに入れ込むだけならまだしも、妹の親友に、そんな漫画を 見せようとするんですから、どうしようもない変態です」 「んなぁこたぁ、ねぇよ!! お前、デタラメ言ってんじゃねぇ!!」  たまりかねて俺は絶叫したが、痛い所を突かれて逆ギレしたようにしか見えなかったかもな。実際、妹の親友である、 あやせに、メルルのエロ同人を見せたのは本当だったし。  『でも、あれは、お前と桐乃を仲直りさせるための、俺なりの捨て身の特攻だったんだ』、と抗弁したかったが、 思いとどまった。その抗弁で、さらなる墓穴を掘ることは明白だからね。 「まぁ……。妹さんに手を出すような漫画とかはいけませんよ、高坂さん」  あああああ……、お婆さんが、哀れみと軽蔑が入り混じった、冷やかな視線を向けてくるじゃぁねぇか!   お婆さん、これは嘘っぱちです。誤解ですよ。勘弁してください。  焦りまくる俺を尻目に、あやせは、『してやったり』とばかりにほくそ笑んでいやがる。 「見ての通りです。うろたえているのが、何よりの証拠ですね」  うわぁ、こいつ、本当に悪魔だ。  今まで、お婆さんは、俺のことを品行方正な大学生だと思ってくれていたのに、何もかも台無しじゃねぇか。  と、とにかく反論だ。このまま、あやせのいいように俺の品格が貶められるのを座視しているわけにゃいかねぇ。 「証拠、証拠というが、俺は、いかがわしい漫画とか、ゲームの類は一切持っていない。どうせ、お前のことだろうから、 俺の部屋を家捜しする魂胆なんだろ? それで白黒つけようじゃねぇか」  実際、エロ漫画とか、エロ同人とか、エロゲとか、元々あれは桐乃の趣味だ。俺は、そういった類のものに桐乃みたい な執着はないから、全部実家に置いてきた。  俺が実家を旅立ったのは、桐乃の奴が卒業旅行とかで、モデル仲間と海外に行っている時で、何の挨拶も出来な かったから、せめて、自分のブツをあいつにくれてやったんだ。喜んでくれたかどうかは知らんけどな。  そんな物思いに一瞬耽っていた俺を、あやせが、半眼のじっとりとした目で睨んでいる。  お婆さん、こいつのヤバそうな目を見てくださいよ。  しかし、あいにくと、あやせはお婆さんには顔を向けていない。  こうしたところも考えた上で、この態度や表情なんだろうな。たちが悪すぎる。 「いいでしょう。一休みしたら、お兄さんのお部屋を捜索します。それで、何かいかがわしいものが出てきたら、 通報しますよ」  通報って、どこに? お前の本当の母親であるPTA会長様か? それとも、父親である新垣議員か?   もう、どうでもいいよ。  だが、そっちがそうなら、こっちも相応の要求をさせてもらおうか。 「もし、何も出てこなかったら、さっきお前が言った、『どうしようもない変態』云々の発言は、全面的に撤回しろ」 「撤回? お兄さんが変態なのは、紛う事なき事実です。この下宿にそういった類のものがなかったとしても、 実家に置いてきただけですから、お兄さんが変態である事実を全面的に撤回することは出来ません!」 「お、お前なぁ……」  畜生、いかがわしいブツを桐乃にくれてやったことを知っていやがるらしい。  可愛い顔して、本当にきっつい性格だな。ていうか、こいつにしろ、桐乃にしろ、黒猫にしろ、美人ってのは、どうして こうも性格に問題がある奴が多いんだ。頭がクラクラしてきたぜ。  その点、麻奈実は、フツーで、こいつらに比べれば、人格的には、はるかにまともだったな。 「何ですか、その反抗的な目は。でも、まぁ、いいでしょう。今回、お邪魔したのは、お兄さんを監視するためだけじゃない んです」 「何だって?」  今、さらっとだけど、監視って言わなかったか?! 何すか、俺は、その一挙手一投足どころか、下手をすれば、箸の上 げ下ろしまで、文句を付けられるんすか? あやせさん。  あやせは、俺の詰るような口調は意に介さず、キャリーバッグを開けて、一通の封筒を取り出し、俺に差し出した。 「お姉さんから言付かってきました」  なるほど、封筒には、『高坂京介さまへ 田村麻奈実』とだけ記してある。 「読んでいいのか?」  あやせが、無言で頷いたのを認めて、俺は、封筒の端を破り、便箋を取り出した。  その便箋には、一緒に勉強していた頃にノートとかで見慣れた、麻奈実のものに間違いない筆跡で、以下の文言が したためられていた。 『きょうちゃんへ  ご無沙汰しています。  そちらでの生活はいかがでしょうか。  ただ、とっても残念なことを、きょうちゃんにお伝えしなければなりません。  わたし、今は、きょうちゃんとは別の人とお付き合いしています。  ごめんね、きょうちゃん。  でも、きょうちゃんも悪いんだよ。         きょうちゃんの、ばか』 「な、なんだとぉ……」  便箋を持った両手が、アル中患者のそれのように、小刻みに痙攣していた。  麻奈実特有のか細い筆跡で綴られた文字が、じわっと滲んで見えてきたと思ったら、不覚にも、俺は大粒の涙をこぼ していた。その涙は、両の頬を伝って、ぽたぽたと、膝の上に滴っている。  畜生、普段のあいつの口調そのままで綴られているから、余計にこたえるじゃねぇか。  まるで、面と向かってあいつに言われているような感じだ。 「ふん、ふん……。ご愁傷様ですけど、自業自得ですね。お兄さん」  肩越しに麻奈実からの手紙を読んでいた、あやせは、すまし顔で平然と抜かしやがった。 「あら、あら、高坂さん。どうしたんですか……」  下宿屋のお婆さんが、心持ち眉をひそめた心配そうな表情で、俺を見ている。  そりゃそうだ、俺はというと、涙を流しながら、茫然自失の態だったんだろうから。  だが、あやせは、お婆さんにとんでもないデマを吹き込みやがった。 「兄は、幼馴染だった人に振られたんです。その人、お兄さんの彼女だったんで、私も“お姉さん”って呼んでいたんです けど、お兄さんが、エッチな、それも妹を陵辱するような破廉恥な漫画やゲームに入り浸っていたんで、愛想を尽かされ たんですね」  信じられますか、皆さん。こいつ、笑いながら、こんなこと言ってるんですぜ。俺をどんだけ貶めれば気が済むんですかね。 「お、おい! いい加減なことばっか抜かすな」  俺のささやかな抗議にも、あやせの奴は、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべてやがる。しかも、なお悪いことに、 「まぁ……。それは高坂さんがいけませんねぇ」 「お、お婆さん、こいつの言うことを真に受けないでください! 俺は、無実なんです。あやせの言っていることは 事実無根なんですよ」  そうは言っても、説得力ないわな。お婆さんの中では、俺は、エロゲ、エロアニメ、エロ漫画で脳味噌がピンクに 染まった重症患者だっていうバイアスが完全に固定されてしまったみたいだ。  それに……、 「なぁ、麻奈美の言う、“別の人”って誰なんだ? 麻奈美と親しくしていた、お前なら知ってるよな……」 「……知りません……。知っていても、お話出来ません」  このアマ、つーんとした、すまし顔で鼻を天井の方へ向けやがった。 「その様子じゃ、知ってるな……」  俺は、あやせの態度にムカつき、ぷるぷると小刻みに震える手を、あやせの方へ、のろのろと伸ばしていった。 「何ですか、その手は。ブチ殺しますよ!」  こいつの決め台詞、久しぶりに聞いたな。 「まぁ、まぁ……、ブチ殺すなんて物騒な。高坂さんも、妹さんも、落ち着いて……。特に高坂さん、あなたはお兄さん なんですから、妹さんにはもっと寛容でいなくちゃいけませんよ」  剣呑な雰囲気に、お婆さんが、おろおろしている。 「見ていてください、兄は、こんな時でも、実の妹にセクハラをするんですよ」 「また、デタラメこいてんじゃねぇ!」  とはいえ、実はその通りだよ。本当に、お前は、俺の思っていることを何でもお見通しなんだな。  何なら、リクエストどおりに、その貧相な乳でも揉んでやるぜ。  俺が左手で、あやせの右胸を、むんずとばかりに掴もうとした刹那、緊張感を打ち破るように、俺のジーンズの ポケットから着信音が鳴り響いた。 「お兄さん、電話だか、メールだかが届いていますよ」  すんでのところで手を止めた俺を、むっとした膨れっ面で、あやせが睨んでいる。  言われなくたって、分かってるよ。ムカつくが、セクハラはひとまず中断だ。  お婆さんは、着信音で俺とあやせの諍いが水入りになったことを安堵したのか、ほっと、大きなため息を吐いた。 「赤城からじゃねぇか……」  さっき、電話で長話したばかりだが、ささくれた俺の心を癒してくれるのは、やっぱり遠慮なくものが言える男友達だぜ。  俺は、早速、赤城からのメールを開き、読み始めた。 「……………!!」  だが、先ほど以上に、手がどうしようもなく痙攣し、手にしていた携帯電話機を畳の上に落としてしまった。おまけに、 あやせがそれを、ひょいとばかりに拾っていきやがる。 「えーと……、『高坂、すまない。俺、田村さんと付き合っているんだ。さっきの電話で、そのことも伝えるつもりだったけど、 お前に彼女が居ないと聞いて、言いそびれてしまった。お前の分まで俺と田村さんは幸せになるから、悪く思わないで くれ』、だそうです……」 「うわぁああああああああああああああっ~~~~っ!!」  俺は、頭を抱えて、畳の上をのたうち回った。  何て残酷なんだ。これじゃぁ、傷口を開いて、塩をすり込むようなもんじゃねぇか。 「田村さんっていうのは、もしかしたら……」 「ええ、お姉さんのことです。で、兄にメールを送ってきた赤城さんっていうのは、兄の友人で、兄やお姉さんと同じ高校 出身の人です」 「まぁ……、お友達に彼女を寝取られちゃったんですね」  お、お婆さんまで、肺腑をえぐるようなことを、さらっと言わないでください。  そんなもんなんだけどさ……。 「お兄さん、いい加減に転げまわるのはやめてください。みっともないでしょう」  あやせに冷たく罵られても、俺はひとしきり悶絶し、いじけ切って、壁際にうずくまった。  麻奈美を粗末にしたばちが当たったんだろう。  よりにもよって、一番親しい友人に取られるなんて、悪夢としか言いようがない。 「妹さん……、え~と……」 「申し遅れました。わたし、高坂あやせ、といいます。あやせと呼んでください」  こんなときに、笑顔で自己紹介っすか、あやせさん。それに、偽名使うなんて大嘘吐きもいいところじゃないすか。 「じゃぁ、あやせさん。お兄さんは、かなり精神的なショックを受けているようですから、そっとしといてあげましょう。いくら なんでも、彼女だった人が、友人に寝取られるのはつらい事ですからね」  お婆さん、あなたはどうしても麻奈美が赤城に寝取られたことにしたいんですか? あなたも何げに残酷っすね。 「大丈夫です。兄は変態だけど、打たれ強いですから。しばらくほうっておけば、勝手に立ち直ります」  畜生、人を何だと思っているんだ。毎度毎度、ひでぇ扱いだなぁ。 「……、そうですか。じゃぁ、夕餉のための買い物がありますから、あやせさんは、高坂さんの様子を見ててくださいな。 でも……」 「ああ、兄がわたしに襲いかかるかも知れませんが、防犯ブザーがありますから」  そう言って、あやせは、カーディガンのポケットから、いつぞや俺をビビらせたブツを取り出した。 「まぁ、用意がよろしいこと。じゃぁ、安心でしょうね」 「ええ、これがあれば、いくら変態で鬼畜な兄でも、私には手が出せません」  俺は、二人の会話を聞いて、さめざめと泣いた。  このほんの一時間ほどで、実に多くのものを失った。  麻奈美の件は、正直なところ、どうしようもなかったのかも知れない。去年の春以降、すれ違いが目立っていたから、 麻奈美が俺を振ったのも当然の帰結なんだろう。  しかし、相手が、最も気心の知れた赤城であったのは、ショックだった。 「お兄さん、いつまで泣いているんですか」 「うるへー!」  時が経ち、気持ちの整理がつけば、麻奈美と赤城のことを祝福してやれるようになるかも知れない。今はそんな心境 には到底なれねぇけどな。  それよりも、失った信用は元には戻らないだろう。  お婆さんは、あやせの口からでまかせを完全に信じ込み、俺を稀代の変態野郎だと思い込んでしまっている。  暮らし始めて一箇月弱。この下宿は居心地がいいんだが、別の下宿屋に引っ越したくなったよ。いや、マジで……。  しかし、下宿屋のお婆さんに変態と思われているから、別の下宿に引っ越したいなんて、親には言えないから無理 だけどな。 「顔が涙と汗と鼻水で、どろどろですよ」 「お前……、誰のせいでこうなったと思ってんの?」  こんな抗議、あやせ様に効き目がないことは百も承知なのだが、つい反射的に口をついて出てしまった。  どうせ、反応は、『全部、お兄さんが悪いんじゃないですか、ブチ殺しますよ!』が関の山だろう。  だが……、 「そうですね、わたしもちょっとやり過ぎました。手紙の内容は、わたしも薄々は勘付いていましたが、まさか赤城さんから 最悪のタイミングでメールが来るとは思いませんでしたから……」 「ちょ、ちょっと……?!」  しかも、驚いたことに、あやせの奴は、カーディガンの、防犯ベルを入れているのとは別のポケットから、空色の ハンカチを取り出して、ぐしょ濡れの俺の顔を拭おうとするのだ。 「じっとしてくれないと、お兄さんの顔を拭けないじゃないですか」 「え? な、何だってぇ!」  俺は、眼前に突き出された、あやせのハンカチを避けるべく、のけぞりながら首を左右に振った。 「何ですか、逃げようとするなんて、駄々っ子みたいで、みっともないですね」 「いや、だから…… あやせって、俺のことが大嫌いなはずだよな。そんな大嫌いな奴の、涙や汗や鼻水を自分の きれいなハンカチで拭っていいのか? 気持ち悪くねぇの?」  あやせは、俺のコメントに一瞬、柳眉を逆立て、目を剥いたが、すぐに『うふふ』という謎めいた笑みを浮かべた。 「当たり前じゃないですか、大嫌いなお兄さんの体液が染み付いたハンカチなんて、気持ち悪くて、もう使えませんから、 多分、捨てちゃうでしょうね……」 「そうかい……」  想定内の返事だが、実際に聞かされると、胸が痛いよな。しかし、そのハンカチだって、何かのブランド品みたいだが、 捨てちまうのか……。  俺って、あやせに、どんだけ嫌われているんだろう。これも、セクハラしてきたことのばちが当たったんだな。 「気持ちが悪いですけど、さすがに肩越しにお姉さんからの手紙を盗み見たり、お兄さんの携帯電話機を拾って、勝手 にメールを読んだのはやり過ぎでしたから、せめてもの罪滅ぼしみたいなものと思ってください」  そう言いながら、あやせは俺に向かって屈み込み、空色のハンカチで俺の顔を優しく拭い始めた。  うわ、やべぇ。あやせの顔と胸が目の前にありやがる。こ、こうして間近で見ると、決して大きくはないけど、出るところ は出てんだな。股間のハイパー兵器をなだめるのに苦労するぜ。 「で、でも、妹陵辱ものが大好きな鬼畜ド変態ってのは否定してくれないんだな」  気を紛らわすつもりもあって、嫌味っぽく言ってしまった。 「お兄さんが、その手の本を私に見せたのは事実ですから、それは無理ですね。それに、お兄さんはそういう人なん だって、他の女の人に思ってもらった方が、好都合なんです」 「好都合?!」  意外な反応だった。てっきり、『ブチ殺しますよ!!』の常套句が出るもんだと思っていたんだがな。 「あ、いえ、今、好都合と言ったのは、説明不足でした。お兄さんが変態であることを、他の女の人に知ってもらった方が、 お兄さんの毒牙にかかる人を未然に防ぐことが出来ますから、そうした意味で好都合なんです」  ひでぇ……。ここまで言われると、もう、人類の敵みたいなもんだな。いっそ、ブチ殺してくれよ。  あまりの言われように、俺は仏頂面だったろうが、そんなことをあやせは全く意に介さず、 「はい、きれいになりました……」  と呟いて、件のハンカチを元通り、ポケットの中に仕舞った。  あれ? いいんですか、あやせさん。大嫌いなおいらの体液が染み付いたハンカチをカーディガンのポケットに突っ 込んだら、カーディガンまで、おいらの体液で穢れてしまいますぜ。しかし、“体液”って、なんかいやらしい響きだな。 「まぁ、顔を拭いてくれたことには、礼を言うぜ。ありがとうよ」 「どういたしまして」  最後の方のハンカチの扱いは不可解だったが、追及するのも面倒くさい。  それに意に反して、ご機嫌な笑顔を浮かべているあやせを見るのは、やっぱいいわ。  こいつは、こんな風に笑ってくれていれば、本当に俺好みの美少女なんだけどね。  そんなことを思いながら、俺は、ちゃぶ台前に座り直した。せっかく、お婆さんがお茶を淹れてくれている。多少冷めて はいるが、ありがたく頂戴しておこう。それに、お婆さんが居ない今、確認しておかねばならないことがあった。 「なんで、ここが分かった……」  ちゃぶ台で俺と差し向かいで座っているあやせは、頬をぽっと赤らめて、恥ずかしそうにうつむいた。 「だって、お兄さんは、性犯罪者予備軍ですから、野放しには出来ません。ですので、父の顧問弁護士さんにお願いして、 合法・非合法の手段を問わずに、お兄さんの住所を調べてもらったんですよ」 「何だよそりゃ?! 俺って、とんでもない変態扱いじゃねぇか!!」 「でも、さっき“好都合”って言ったように、お兄さんが鬼畜ド変態だっていう方が、わたしにとっては、何かと都合がいい んですよ」 「お前はよくても、こっちには最悪だよ」 「あら、そうですか」  あやせの奴、面相を歪めて、にやりとしてやがる。  性格が相当に悪い桐乃の親友だけあって、このあやせも相当に食えない女だな。  しかし、父親の顧問弁護士に相談か……、それなら証拠調べにかこつけて、住民票を調べることも出来るだろうな。  あやせは未成年だから、何の面識もない弁護士に依頼しても、民法五条一項に規定の未成年者の法律行為に該当 するから、絶対に請け負ってはもらえない。だが、面識のありそうな、父親の顧問弁護士なら話は違ってくる。 「さっき、顧問弁護士とかって言ったよな?」 「ええ、それが何か?」 「だとすると、その顧問弁護士には、どうやって俺の居場所を調べるように依頼したんだ? お前が父親を通さずに、 その顧問弁護士に直接依頼したのか? それとも、父親を通じて、その顧問弁護士に依頼したのか?」 「もちろん、父を通じて依頼しました。父にも、お兄さんはとんでもない鬼畜ド変態だから、わたしの貞操が危険です、 って訴えたら、すぐに弁護士さんに頼んでくれました」 「おいっ! そりゃねぇだろぉ」  そうじゃないかと思ったが、やっぱりね……。これで、あやせの親父さんにも、俺が変態だって認識されちまったな。  でも、もう、怒る気力も湧かねぇや。  俺は、茶を飲み終え、自分の茶碗を持ち、やおら立ち上がった。 「どこへ行くんです?」  すかさず、あやせの鋭い声が飛んでくる。本当に、一挙手一投足を監視されているんだな、俺……。 「自分の茶碗を台所に持って行くんだよ。この下宿屋は、おばあさん一人が切り盛りしているから、世話になっている 俺も、少しでも手伝っておこうと思ってさ……」 「意外に殊勝なんですね」  皮肉っぽく聞こえたが、まぁ、いいか。  俺は、茶碗を洗って、食器類を伏せておく網棚に載せた。  誰に命じられたわけでもないが、お婆さんの負荷は少しでも軽くしてやりたいからな。  そのまま、あやせの前を素通りし、二階の自分の部屋に向かった。そういや、俺、レポート書きかけだったんだよな。 「お兄さん、勝手に、わたしから離れないでください!」  俺を詰る声が背後で聞こえたが、無視した。  ほっとけば、俺の後をついて来るだろう。何せ、俺を監視しているんだろうからな。  案の定、梯子みたいに急な階段を上る俺の後ろから、ことことという可愛らしい足音が聞こえてきた。 「ここが、お兄さんの部屋ですか……」 「まぁな……」  階段を上ると、二階を縦に貫く廊下の端に出る。その廊下の端から数えて三番目、二階の一番奥まった部屋で俺は 寝起きをしている。間取りは六畳。だが、畳が、この地方特有の『京間』とか言うやつで、関東のものよりも大きいから、 六畳間にしては思ったよりも広い。   「殺風景ですね」 「開口一番それかよ。たしかに、パソコンを載せた座り机と、本棚と小さな箪笥しかねぇからな」  俺は、背後に居るであろうあやせには構わず、自分の部屋に上がり込み、座り机の前に座った。  不意打ちのような、あやせの来訪で、レポートを書く予定がだいぶ狂っていた。 「さてと……。判例のPDFをダウンロードしといたんだよな」  俺は、マウスを左右に軽く動かした。画面がブラックアウトしていたパソコンが息を吹き返す。 「お兄さん、このパソコンでいやらしいゲームをやっているんですね? 通報しますよ」 「はぁ? 画面見ろよ。これのどこがエロゲなんだよ」  画面には、レポートを書きかけているワープロソフトのウィンドゥと、判例検索用の裁判所のホームページが表示され ている。 「たしかに、今は勉強で使っているようですが、いつもそうじゃないでしょ? 夜になれば、はぁはぁしながら、エッチな ゲームをしているに決まっています」 「そうかい……」  あやせの思い込みって、ここまでくると病的だな。  俺は、机に向かうと、書きかけだったレポートの執筆に再び取りかかった。  ゴールデンウィークだっていうのに、こんなものを書かされるとは、可愛くないぜ、法学部のタコ教授は……。  しかし、こんなときはパソコンが役に立つ。判例だって、簡単に検索で見つかるし、法律の条文だって、インターネット で公開されている。  それらを適当にコピペして、専門書に書いてある法解釈をコメントしておけば万全だ。  沙織からもらったパソコンは、ようやくエロゲ以外の本来の用途で使われている。  あやせが来る前に、コピペすべきデータはダウンロード済みだったので、作業は思ったよりもはかどりそうだ。  だが、俺は、背後でなにやら不穏な気配を感じて、振り返った。 「あっ! お前、何やってんだ」 「性犯罪者予備軍宅の家宅捜索です」  あやせは、俺の箪笥を勝手に開けて、その中身をあらためていた。  そして……。 「こ、これは?!」  あやせは、顔を真っ赤にしながらも、手にした布切れを俺に向かって広げて見せた。 「バカ、俺のパンツに何しやがる!」 「なんか、一部分が黄色くなっているんですね。いやらしい……」 「返せっ! この変態」  俺は、あやせから白いブリーフを奪い取った。 「変態は、お兄さんでしょ? 何ですか、さっきの黄色い部分は」 「洗濯しても落ちなかったシミだよ!」 「そんなシミが着くのは、お兄さんが、いつもいやらしい妄想に浸っているから、何かの変な体液が、そ、その、あ、あそこ か……ら、にじみ出て、それでパンツを汚しているんでしょう。きっと、そうに違いありません」  うわぁ、ここまでおかしいとは思わなかったな。 「あそこってどこだよ? 言ってみな」  あやせの顔が、ゆでだこのように真っ赤になった。 「言える訳ないじゃないですかぁ、この変態! ブチ殺しますよ」 「言えないようなら、最初っから、俺のパンツなんかいじくるんじゃねぇ! 第一、下着が黄色くなるなんてのは、男も女も 同じだろうが。お前のパンツだって、古くなれば黄色くなるんじゃねぇの? 第一、仕送りもケチられている俺じゃ、局部 が黄色くなった程度じゃ、下着は捨てられないんだよ。それぐらい察しろ」 「うるさい変態! しゃべるな変態! わたしのパンツは、こんな風にはなりません。いい加減なことを言わないでください」  あやせは、耳の先まで真っ赤にして、目には涙を浮かべながら、畳の上に仁王立ちし、全身をぷるぷると震わせて いる。清純なんだか、変態なんだか、よく分からん女だな。それはさておき……。 「ところで、俺の箪笥に何かあった? いやらしい漫画とか、ゲームとか」 「……今のところ、ないです……」  あったりまえだ。いかがわしいブツは、全部桐乃に預けてきたからな。あやせだって、その辺のことは桐乃から聞いて いそうだけどね。 「だったら、俺がどうしようもない変態だってのを、お婆さんの前で撤回してもらおうか。俺が変態だっていう証拠が出て こないんだからな」 「そ、それは……」  あやせは、目に涙をためて、悔しそうに眉をひそめている。やったね。我が軍の勝利だ。  だが、あやせは、レポートを書くために起動させている俺のデスクトップパソコンに目を留めた。 「あれ……、あれをまだ捜索していません!」  やべぇ! 使っちゃいないが、エロゲをインストールしたままだったことを思い出した。  エロサイトを見るときは、勉強用のアカウントとは別のでログオンしているから問題ねぇが、エロゲは、どのアカウント からでも起動出来るからな。 「うわぁ、やめろ! 今は大事なレポートを書いている最中なんだ。下手にいじられたら、ダメになっちまう!!」  それがパソコンをいじってほしくない主な理由だが、エロゲがインストールされたままっていうのもあるわな。 「なんだか怪しいですね。ちょっと、見せてください」  無駄に勘が鋭いんだよな、こいつは。だが、ここでパソコンの中身を知られるわけにはいかねぇ。 「何しやがる! レポートを書きかけだってのは、見りゃ分かるだろ?!」  俺は、座り机の上に覆いかぶさるようにしてパソコンを護った。 「そこをどきなさい! 間違いありません、そのパソコンに何かを隠しているんですね」  その俺の背中にあやせがしがみついて、俺を机から引き剥がそうとしている。  うへぇ、ドサクサだけど、あやせの胸が俺の背中に押し付けられているじゃねぇか。小さいけれど、マシュマロみたいな、 ぷよん、とした感触がいい。  は? 何、喜んでんだ俺……。そんな場合じゃねぇだろ。 「あ、あやせっ! そんなに押すな、パソコンがひっくり返っちまう」 「そんなこと言って、ごまかすつもりなんでしょ? そこをどかないと、ブチ殺しますよ」 「うわぁ、本当に危ないんだって!」 「危ないものが入っているんですね! もう、これは通報ですよ、通報!」  あやせの胸が、さらに強く俺の背中に押し付けられている。もう、パソコンさえ護れれば、変態でも何でもいいや。 「あ、あやせ。お前って、結構、おっぱいあるんだな」  半ばやけくそになって、俺は、思ったことを口にした。 「な、ななななななっ~~~~~~~!!」  効果てきめんだった。あやせは、俺の背中から飛び退るように離れると、両手で自分の胸を押さえて、羞恥と怒りから、 これまでにないほど赤面していた。  次の刹那、俺の左頬には、強烈な平手打ちが見舞われた。 「いってぇ~~」 「この、変態! 死ねェエエエエエェエエエエエエエエエエェ------!!」  あやせは俺ににじり寄り、さらに二発、三発目の平手打ちを俺の頬に喰らわせた。いわゆる、往復ビンタだ。 「も、もう、いい加減にしろ! そんだけ俺をひっぱたけば十分だろうがぁ!」  たまりかねた俺は、さらに四発目を喰らわそうと、バックスイングしたあやせの右の手首をつかまえた。 「な、何をするんですか!」  とっさに、あやせが俺につかまれた腕を引きながらのけぞったから、たまらない。  俺とあやせはバランスを崩し、畳の上に、ひっくり返った。  いてぇ……。 「こ、これって、デジャブ?!」  一昨年の夏に、桐乃ともみ合って転倒した時のように、俺はあやせの身体を下敷きにしていた。それも、右手は、 あやせの左の乳房を、むんずとばかりに押さえていて、もっとヤバイことに、俺の股間は、スカートがめくれて、薄い 布切れ一枚だけで護られている、あやせの大事な部分にぴったりと合わさっていたのだ。  あまりの状況に、俺もあやせも、思考力が麻痺したのか、ほんの一、二秒だったろうが、身じろぎすら出来ずに、 固まってしまっていた。  右掌には、先ほど背中で感じていた、ふっくらとした乳房がすっぽりと収まっていて、布切れで遮られてはいたものの、 カチカチに固くなっていた俺のイチモツが、あやせの秘密の花園の柔らかな感触を捉えていた。  右掌には、ドクドクという、あやせの鼓動が伝わってくる。 「うわぁ!! すまねぇ、こ、これは事故なんだ、不可抗力なんだよぉ!!」  俺は、慌てて、あやせの身体から、飛び退くようにして、離れた。その際に、不本意だが、右手に力がこもってしまい、 それがあやせに、苦悶の表情を浮かべさせ、大粒の涙を双眸からあふれさせた。 「う、うううっ、お兄さん、あんまりですぅ!」 「な、泣くなよ。事故だけど、俺も悪かった、こ、このとおり、謝るから」  畳の上に仰向けになって泣いているあやせに、俺は土下座した。  しかし、あやせは、身体を海老のように縮こませ、そっぽを向いてしまった。  俺みたいな大嫌いな奴に、レイプ寸前の体勢でのしかかられたんだ。ショックだろうなぁ。 「お、お兄さんに、襲われちゃいました……」  俺に背を向けたあやせは、左手に持ったハンカチで口元を押さえ、もう一方の手を下腹部あたりにあてがいながら、 幽霊のように恨みがましく俺を呪っている。  俺は、そんなあやせに返す言葉はなかった。事故とはいえ、乳房をわしづかみにして、カチカチになったイチモツを、 秘密の花園にご対面させてしまったんだから、もう、どうしようもない変態で確定だ。  ん? あやせが口元を押さえているハンカチは、さっき俺の顔を拭ったやつじゃねぇか。だが、 『そのハンカチって、俺の涙と汗と鼻水が染み込んでいますぜ、あやせさん』というツッコミは、とてもじゃないが、口に 出来なかった。  あやせは、おろおろする俺をよそに、ひとしきり涙を流した後、ゆっくりと上半身を持ち上げた。  俺は、マジで恐怖したね。いよいよ、ブチ殺される時が来たんだと覚悟したよ。  だが、あやせは、俺に背を向けたままで、呟くように言った。 「……お兄さん、お手洗いはどこですか……」 「お、おぅ、か、階段を下りて、右に行った突き当たりだ。そ、そこにあるから……」  それを聞いたあやせは、ゆらゆらと立ち上がり、口元を例のハンカチで押さえたまま、階下のトイレに向かった。  時間にして、十五分以上も経った頃だろうか。トイレの水を流す音が聞こえてきた。  あやせの奴、相当に気持ちが悪かったんだな……。  あやせがトイレに行っている間に、俺は意を決して、パソコンからエロゲを全てアンインストールした。  こんなものをインストールしていたから、さっきみたいな事故が起きたんだ。それに、こっちに来てからというものの、 一度も使っていないのだから、今後も使うことはないだろう。 「正直、もったいねぇけどな……」  それでも、全てアンインストールした後は、妙にさばさばした、よく言えば清々しいような気持ちになった。  元々、エロゲには桐乃ほど執着していなかったからかも知れない。  エロゲを全てアンインストールし終えて間もなく、階段を上る足音がした。 「来たか……」  俺は、再び覚悟した。不可抗力とはいえ、あやせの上にのしかかって、その乳房をわしづかみにし、あまっさえ、乙女 の大事な部分に、彼女の下着と俺のズボン越しとはいえ、怒張したハイパー兵器を突撃させてしまったのだ。  ブチ殺されても文句は言えそうもない。  だが、部屋に入ってきたあやせは、いくぶん頬を上気させてはいたが、さっぱりとした、むしろ心地よさげな表情だった。 目元は心なしか潤んではいたが、口元にはかすかな笑みさえ浮かべている。そして、左手には、例のハンカチがしっかり と握られていた。 「お、おぃ?」  襖を開けて部屋に入ってきたあやせは、困惑する俺には構わず、そのまましずしずと畳の上を進み、窓際の座り机に 向かっていた俺のすぐ傍に腰を下ろし、ひざを崩して横座りになった。 「だ、大丈夫か? 何か顔、赤いぞ……」 「お兄さん…」  小首を傾げたままあやせ俺をじっと見つめ、「ふぅ~」と、深く息を吐き出した。その吐息には、甘い香りと、男を惑わす 妖しさが漂っているような気がした。 「な、何だよ?!」 「さっきは、パソコンを調べようとして、ちょっと無茶をして申し訳ありませんでした」 「お、おぅ?」 「お兄さんにしてみれば、そのパソコンは、勉強のための大事な道具なんですよね。それを、パソコンに詳しくないわたし が、乱暴に扱っていいわけがありません」  なんだ、この態度の豹変ぶりは。てっきりブチ殺されるかと思っていたのに、どういうこった。 「でも、そのパソコンに何が入っているかを知っておきたいんです。わたしも落ち着きましたから、お兄さんの操作で、 そのパソコンの中身を見せて下さい」 「あ、ああ…、そ、それなら、お易い御用だ」  俺がそう言う前に、あやせは、おれの左隣に正座し直して、画面とマウスを操作する俺の手元を交互に見ていた。 「このとおり、あるのは大学に提出するレポートとか、裁判とか法律関係の文献とかが大半だ。インストールしている アプリケーションだって、執筆用のワープロソフトと、表計算ソフト、ブラウザ、メールソフトぐらいだな」  『マイドキュメント』にも『マイコンピュータ』にも、怪しいフィルがなく、『プログラム(P)』のリストにもエロゲらしいものがないことを確認すると、あやせは、瞑目して、軽くため息を吐いた。 「分かりました。どうやら、お兄さんが下宿先で、いかがわしいゲームや漫画やアニメに入り浸っているというのは、 わたしの誤解だったかも知れませんね」 「わ、分かってくれたか……」    そうは言っても冷や汗ものだよな。あやせがトイレにこもっている隙に、エロゲをアンインストールしたばっかなんだから。  もし、アンインストールが完了しないうちに、あやせが戻ってきていたら、どうなっていたことか。 「ただ、押入れの中はまだ見ていません。よろしかったら、見せていただけますか?」 「ああ、そいつは、構わねぇよ」  俺は努めて鷹揚に頷いた。  さすが、あやせ、執念深いぜ。だが、押入れには、布団と座布団ぐらいしか入ってないから、中を見られてもどうって ことはない。 「布団が二組あるんですね」 「予備のつもりなんだか、何だか知らねぇけど、とにかく、俺がここに来たときには、既にこうだったよ」  この下宿屋は、基本的に一人部屋だが、まれには二人部屋として使うことがあるのかも知れない。  例えば、同郷の仲のよい者同士で同じ部屋を共有するとか、あるいは、兄弟で共有するとかだ。 「この布団があれば……」 「この布団がどうかしたのか?」 「いえ、何でもありません。気にしないでください」  そう、すげなく言ったあやせは、不機嫌そうに眉をひそめ、押入れの襖を閉めた。  結局、彼女が見つけたかった、いかがわしいブツが、押入れにもなかったのが気に入らないのだろう。  逆に、俺はほっとして、レポートの執筆に取り組んだ。  階下では、いつの間にか帰ってきていたお婆さんが夕餉の支度を始めたらしい。台所から、トントンと、まな板の上で 何かを切るような音が聞こえてきた。  言い忘れていたが、この下宿屋は、今やこの街でも希少な、賄い付きだ。台所に立ったことすらない愚息の身を、 お袋も多少は案じてくれたということか。俺をお婆さんに監視させるという狙いがあるのかも知れないが、それはそれ でいいと思う。俺はお婆さんの手料理は旨いと思うし、ワンルームのマンションか何かに独りっきりっていうのは、実家 を追放されたも同然で、この街に知り合いが全く居ないという状況下では、多分、精神的にもたないだろう。 「お兄さん……」 「何だよ」 「さっきお兄さんは、お婆さんの負荷を軽くするために、出来ることをやっている、とかって言いましたよね?」 「まぁ、茶碗を台所に運んで、洗ったりとかする程度だけどな」 「だとしたら、わたしも出来ることをしたいと思っています。ですので、ちょっと、お婆さんの台所仕事をお手伝いして きますから」  あやせは、すっくと立ち上がり、先ほどトイレに向かった時とは、まるで違う軽やかな足取りで、俺の部屋から出て行った。 どうやら、晩飯まで食っていくつもりらしい。参ったね……。 「でも、やっぱり、マジで可愛いな」  お婆さんを自発的に手伝うとか、根は素直な娘なんだろうな。  ラブリーマイエンジェルあやせたん。しかし、向こうは俺のことをえらく嫌っている。  あやせが忌み嫌うエロゲが好きだという桐乃をかばうために、俺が近親相姦上等の鬼畜ド変態で、桐乃に悪影響を 及ぼした諸悪の根源だという散々な汚れ役を買って出たからなのだが、そのために、あやせに振られるとは、もったい ないことをしたもんだ。 「だがよ、過ぎたことだ。今さら、どうしようもないわな」  俺は、T大の内田先生が書いた『民法I』から通説を引用し自分なりの考察も書き添えて、レポートの執筆を終えた。  さらに、書き上がったレポートのデータをUSBメモリにコピーする。 「これでよし……」  明日は、大学近くにある『フェデックス・キンコーズ』でプリントアウトしてもらうことにしよう。 「プリンタがあればなぁ……」  仕送りは、生活費とか、必要な書籍を買うだけで精一杯の額だから、プリンタは当分買えそうもない。 「高坂さん。夕飯ですよ」  階下から俺を呼ばわるお婆さんの声がした。さて、今晩は、あやせたんと、差し向かいで晩飯をいただくことにしようか。 「お?」  階段を下りて、居間兼食堂の八畳間に赴くと、あやせが夕餉の配膳をしていた。 「あ、お兄さん。お勉強お疲れ様です。こっちのお野菜って、関東のとはだいぶ違うんですね。ニンジンなんか、こんなに 長いんでびっくりしました」  あやせが、にこにこしながら両手を一メートルほど広げた。 「京人参っていうやつらしいぜ。この地方は、外来のものじゃなくて、伝統的な農産物を大事にしているらしいからな」  とはいえ、学食とか、外食で出てくるのは、そうじゃねぇけどな。多分、コスト最優先で輸入野菜とかを使っているん だろう。 「純粋な和食のお夕飯なんて、うちじゃあんまりやらないけど、いいもんですね。薄い味付けも上品だし……」  お婆さんから借りたらしい割烹着姿が意外とさまになっている。  こいつは何を着ても似合うが、エプロンとか、割烹着のようなものも似合うな。料理の腕前は未知数だが、案外、いい 嫁さんになるのかも知れねぇ。  『ブチ殺します』の常套句には辟易だけどね……。 「今日は、焼き魚に、野菜と鶏肉の煮物、それにほうれん草の胡麻和えとか、なんだな……」  あやせが味噌汁の入った椀をちゃぶ台に載せた。この地方独特の、甘みの強い白味噌を使っている。 「お味噌汁とかも、関東とはぜんぜん違うんですね」  あやせは、いい意味で軽いカルチャーショックを味わっているのだろうか。口調が、ちょっと上ずっている。  ああ、そう言えば、あやせがこんなに嬉しそうに俺に話しかけてくるのは、一昨年の夏以来だよな。  その後は、『変態』とか、『死ね』とか、『ブチ殺します』とか、『大嫌いです』とか、見るも無残なひどい有様だけどよ。 「さぁ、さぁ、夕餉にしましょうかね」  割烹着を脱いだ下宿の女主人が、ご飯を入れたおひつをちゃぶ台のすぐ脇に置いた。  この下宿は、主と、世話になっている学生とが、一緒に食事をする。もっとも、ここに下宿している学生は、俺だけなん だけどね。 「アットホームって言うんですか? 下宿屋って感じがしませんね」  下宿生も家族のように扱い、正座して、ちゃぶ台で食事をする。  NHKが朝にやっている、昭和三十年代あたりを舞台にしたドラマそのまんまの暮らしが、ここにはあるのだ。 「もう一品、付いてきた小鉢は、がんもどきと茸かな……」 「ここでは、飛ぶ龍の頭と書いて、『ひりょうず』って呼んでいるんですよ」  お婆さんの指摘に、なるほどねと納得した。『がんもどき』よりもこっちのほうが語感が絶対にいい。古臭くて閉鎖的 な感じはするが、風雅な雰囲気が健在な、この街では、関東と同じものであっても、呼び名の語感がより耳に心地よい 場合が少なくない。 「では、いただきましょう」  お婆さんの一言を皮切りに、俺とあやせは、配膳された夕食を口にした。実家で、お袋は、カレーとか、ハンバーグとか、 味付けが明確、悪く言えばドギツイものばっか作っていて、こんな風に、上品な和食はこしらえたことがなかったな。 「お兄さん、ほのかな薄味で、美味しいです」  あやせが煮物を一口食べて、悦に入っている。 「味だけじゃなく、見た目も、こっちの方がきれいだよな」  この地方の煮物は、薄口しょうゆと昆布だしで味付けしているから、関東の煮物のように、どす黒くない。 「和食って、低カロリーなんですよね。体重が気になる、わたしみたいな女の子には、こうした食事が一番なんでしょうね」 「あら、あやせさんは、ほっそりしていて、それ以上、やせる必要はなさそうですよ」 「いえ、わたし、結構太りやすい体質なんで、食べるものには気を遣っているんですよ」  あやせのスレンダーな肢体を見ていると、とてもそうは思えないのだが、そういえば、こいつが食事をしているの見る のは初めてかも知れないな。  桐乃の奴は、暴食しても太らないが、あいつは運動やってるからな。あやせのような、特にスポーツをしていないよう な子は、食べる物にも相当気を遣っているんだろう。それに、こいつはモデルだから、太ることは絶対に許されない。 「だから、実家でも、和食中心のご飯にしようかって、思っています。 ですから、今日、ここで、晩御飯の支度のお手伝いが出来たのは、ものすごく勉強になりました」 「へぇ……」 「何ですか、お兄さん、その無気力な返事は。わたしは、わたしなりに、ちゃんと、お手伝いをしたんですからね」 「いや、別に……、悪意があって『へぇ』とか言ったわけじゃねぇから」 「高坂さん、あやせさんは、この年頃のお嬢さんにしては、しっかりしてますよ。お料理のお手伝いも、ちゃんとやってくれ ました」 「まぁ、兄は、わたしに対しては、いつもこんなふうに無愛想ですから、いいんですよ。むしろ、私が兄に謝らなければなら ないことを忘れていました」 「?」  怪訝に思いつつ、俺は、あやせの言動に注目していたが、そのあやせが、俺に向かって、いきなり土下座した。 「お、おぃ!」  俺の専売特許を奪いやがった。 「お兄さんの部屋やパソコンの中身を調べましたが、いかがわしい漫画やゲーム、アニメの類は見つかりませんでした。 ですから、『どうしようもない変態』と言ったことは、撤回します。すみませんでした」  俺は、予想外の事態に混乱したね、マジで。だって、俺のことが大嫌いだっていう、あのあやせが土下座だぜ。  俺は狐か何かに化かされてるんじゃないかって思ったくらいだ。 「わ、分かったから、土下座なんて、もうやめろ!」  それでも、あやせは、額を畳に擦り付けるようにして、時間にして五、六秒ほど土下座を続け、やおら姿勢を元通りにした。 「はぁ~」  起き上がって、深呼吸するように大きくため息をついたあやせは、バラ色の頬に悪意のなさそうな笑顔を浮かべていた。  それを認め、あっけにとられていた俺は、ちょっと安堵した。お婆さんも同様だろう。  いきなりの土下座ってのは、驚かされるもんなんだな。やられてみて初めて分かったよ。 「まぁ、まぁ、とにかく、お夕飯を早く食べちゃいましょう。せっかく、あやせさんが手伝ってくださった料理が冷めてしまいますから」  仕切り直しをするような、お婆さんの一言で、俺たちは、食事を再開した。  あやせの奴、俺を散々に貶めておいて、それを謝罪するとはどういう風の吹き回しだろう。とにかく、この女の考える ことは、桐乃や黒猫以上によく分からない。  ただ、俺としては、お婆さんに変態と決め付けられずに済んだことで、正直ほっとした。居心地のよいこの下宿屋を 出て行くのは、ちょっと辛いからな。  夕食後は、自室に戻って、インターネットでニュースを見たり、動画サイトを見た。  いつもなら、エロサイトも鑑賞するところだが、今日はあやせが居るから、それはさすがに手控えた。  今は、階下でお婆さんと談笑しているようだが、いつ何時、俺の部屋にやって来るか分かったものではない。  もし、むき出しのリヴァイアサンをしごきながら、エロ動画を睨み倒しているのを見られたら、今日が俺の命日になっちまう。 「しかし、ロクなニュースがなかったな……」  事業仕分けで、国立大学への補助を減額するとか抜かしていやがった。これ以上、学費を上げられたら、たまった もんじゃない。 「なんだかんだで、八時近いのか」  そろそろ風呂に入るか。浴槽は朝方洗っておいたから、後は湯を張るだけでいい。  しかし、あやせの奴、まだ、帰らないんだな。まさか、このままここに泊まるんじゃないだろうか。空き部屋はあるから、 泊まれないことはないものの……、だが、いいのか? いろんな意味で。  俺は、ネットサーフィンを切り上げると、階下に向かった。 「それで、兄ったら、友達をかばう為に、その友達のお父さんに土下座して許しを乞うたんです。その友達のお父さんは、 とてもおっかない人だったんですが、いきなりの土下座に毒気を抜かれて、結局、友達を許してくれたんですよ」  む? 何の話だろう。  どうやら、これは、桐乃のオタク趣味を許してもらうために、俺が犠牲になった事件のことらしい。  元の話は、桐乃からでも聞いたのだろうか。   「その友達のお父さんは警察官で、融通のきかない人なんですが、兄の『諸悪の根源はこの俺です』という、捨て身の 謝罪で、その友達を許すことにしたそうです」  事件を相当に脚色しているが、俺のことを悪く言っているわけじゃないから、まぁ、いいか……。  しかし、女二人が、ああも楽しそうに談笑していると、あやせに「帰れ」とは言いにくいよな。俺は、二人の脇をそっと 抜けて、脱衣所に向かい、そこで、お婆さんに聞こえるように、「そろそろ風呂にしますけど、いいですかぁ?!」と問うた。  遠回しに、あやせが帰るように促したつもりだった。だが、 「あらあら、もうこんな時間だわ。妹さんも今晩はお風呂に入って、泊まっていきなさい」  何だとぉ!! 「ちょ、ちょっと待ってください! いくら家族でも、ここに泊めるのは、いろいろと問題があるでしょうに。俺は反対です」  そう叫ぶように抗議しながら、俺は、大慌てで八畳間に取って返した。 「いいじゃありませんか、高坂さん。あやせさんは、ご両親にもここに泊まることの了解を得ていらしたそうですから、 それを無下にすることは出来ません。今晩一晩くらいなら、泊めてあげましょうよ」  下宿のお婆さんの申し出に、あやせは、頬を染めて、頷いている。  大嫌いな奴と同じ屋根の下で寝るなんて、やはりあやせはキチ▲イか? とにかく、こいつの考えることは、よく分からん。 「でも、終電には、まだ間に合いますよ」  今の時間なら、余裕で間に合うだろう。 「いえ、いえ、最終の新幹線は、ものすごく混みますからね。それに、お酒を飲んで酔っ払っている人も居るし、 あやせさんのようなか弱いお嬢さんを独りっきりで帰らせるのは酷というものです」 「そうすかねぇ……」  どうにも納得はいかなかったが、家主であるお婆さんが泊めるというのなら、店子に過ぎない俺に反論の余地はない。  観念した俺は、浴室に行き、浴槽に湯を張った。  古臭い木造家屋だが、トイレは当然水洗だし、浴槽は琺瑯引きのバスタブだ。  そのバスタブにヒートポンプ方式のエコ給湯器で沸かした湯を張っていく。  ここへ来た当初は、建物がこれだけ古いんだから、木の風呂桶だろうと思ったのだが、万事がクラシックなこの街 でも、さすがに木の浴槽は使ってはいなかった。  エコ給湯器は大型の外部タンクを持っているので、蛇口をひねると、勢いよく湯がほとばしり出る。 「それにしても、急に訪ねてきたり、俺を変態扱いしたことを謝罪したり、挙句の果てには、この下宿に泊まっていくなん て、あやせの振る舞いには不可解な点が多過ぎる」  一瞬、本当は、あやせは俺のことを嫌ってはおらず、嫌いだというのは、好意の裏返しかと思った。だが、俺は、それが 俺自身の妄想に過ぎないことに気付き、その妄想を脳内から振り払うつもりで、かぶりを強く左右に振った。 「あり得ねぇことを考えるもんじゃねぇな……」  勢いよくほとばしり出る湯は、そんなくだらないことを思っているうちに、浴槽を満たしていく。  俺は、浴槽の七分目くらいまで湯を入れると、蛇口をひねって湯を止めた。 「湯加減はこんなもんだろうか?」  手を入れると、毛穴が広がって、そこから暖かさが、じわっとしみ込んでくるような感じがした。  やや温めだが、ここの浴槽は、必要に応じて追い炊き出来るから、この程度でいいだろう。  俺は、浴槽に蓋をして、八畳間に戻ることにした。  八畳間では、先ほどと同様に、あやせとお婆さんがおしゃべりをしている。世代が違っても、女同士のおしゃべりという のは、長くなるものらしい。 「あの~、風呂が沸きましたけど……」  その一言で、お婆さんは、はっとしたように俺のほうを向いた。 「そうですね、お客さんである、あやせさんから、お風呂に入ってください」  俺も、そうした方がいいような気がした。もし、俺の方が先に入ったりしたら、俺の汗とか、何とか……が混じったお湯 に浸かることになるから、あやせは絶対に嫌がるはずだ。  だが、あやせの言い分は、その斜め上を行っていた。 「お、お兄さんは、わ、わたしが入浴した後の、わたしが浸かったお湯で、劣情してしまいますから、それは出来ません。 ですから、お兄さんが先に入ってください」 「お前、なんつー言い草だ!」  さっき、俺を変態扱いしたことを土下座して詫びたばっかだってのに、何なんですか? これ……。  頭が痛くなってきたよ。マジで……。 「じゃ、じゃあ、高坂さんが先に入りなさい。あやせさんは、その後ということで……」  何だか、お婆さんが、再びおれを疑惑のまなざしで見ているような気がする。  いくら何でも、風呂の湯で性的に興奮なんかしません、って!  あやせの言い草にムカつきながらも、俺は一番風呂を浴びた。まぁ、これはこれで爽快だわな。  湯から上がり、寝間着代わりにしているスウェットの上下を着て、八畳間に戻ると、あやせが入れ替わりに入浴しよう と、キャリーバックから着替えを取り出そうとしているところだった。  こいつ、最初っから、ここに泊まるつもりだったんだな。道理で、でかいバッグを引きずって来たわけだ。  あやせが入浴している間に、俺はテレビでニュース番組を眺めていた。今日は、あやせが闖入したおかげで、色々と 予定が狂ってしまったし、何かと疲れた。もう、とっとと眠ってしまいたかったが、あやせより先に寝るのははばかられた。  俺は、ここでは、あやせの兄ということになっているから、その兄が、初めて兄の下宿先を訪れた妹を放置して、勝手 に寝るというのは、いかにも不自然な感じがする。 「ああ、いい湯でした……」  待つこと、三十分ほどで、あやせは、頬を上気させたご満悦の態で八畳間に戻ってきた。洗いたての髪が艶やかで、 まさに烏の濡れ羽色といった感じだ。  どうやら、俺のエキスがしみ出た湯は、彼女にとって不快なものではなかったらしい。何なんだろうね、本当に。 「お兄さん、何、変な顔してるんですか。また、エッチなことを考えていたんでしょ!」  俺の怪訝そうな表情を鋭く読み取ったあやせが、突っ込みを入れてきた。 「いや、別に、エッチなことなんか考えてねぇよ。それよか、用意がいいんだな」  あやせの寝間着は、空色のパジャマだった。桐乃は、年不相応に、ネグリジェみたいな寝間着を着ているから、目の やり場に困るが、こうした普通のパジャマだったら、そういった気遣いはない。  それにしても、あやせって、本当に青系統の色が好きだな。本人には言えないが、ひっくり返った時に見た下着も、 青い水玉模様だった。 「さすがにここは千葉からは遠いですから、もしかしたら泊まることになるかも知れないと思ってパジャマとか着替えも 持ってきたんです」 「それにしても、外泊なんかして大丈夫なのか? お前のお母さん、PTAの会長が許すとは思えないけどな」 「それなら、大丈夫です。モデルの仕事でこの街に来ているってことにしていますから。先ほど、母にも電話をしておき ましたし……」 「そうかい……」  あやせは嘘を吐かれるのは嫌いなくせに、自身は結構嘘吐きなんだよな。まぁ、いいけど。  しかし、モデルの仕事でこの街に来ている? そんなもん、事務所に電話すれば一発で嘘がばれちまう。  本当に大丈夫なのかね? 「それよりも、お婆さんはどうされたんですか? いらっしゃらないようですけど」 「あ、ああ、何でも、不意なお客さんの登場とかで、いろいろあって疲れたんで、今日は風呂に入らずに寝るんだとさ」  俺の方が、もっと疲れていますけどね。 「わたしも、ちょっと疲れました。そろそろ寝ることにします。何でも、わたし用の布団は、二階に敷いてあるそうです」  何で、自分の布団が敷いてある場所を、わざわざ確認するように言うんだろ。  こいつ、さっきからおかしいな。いや、こいつがおかしいのは前からか。 「俺も寝ることにするか……」  立ち上がって階段に向かう俺に、あやせもついてきた。八畳間の明かりを消して、梯子のように急な階段を俺が先頭 に立って上った。 「なぁ、布団が敷いてある部屋ってのは、どの部屋なんだ?」 「それが、お婆さんは何もおっしゃらなかったんです。多分、お兄さんの隣の部屋なんじゃないでしょうか、気持ち悪い ですけど」  一言多いんだよ……。気持ち悪ければ、こんなところに泊まらなけりゃいいだろうに。 「ここが、お前の部屋なのか?」  そう言いながら、俺の隣部屋の襖を開けたが、部屋は空っぽで布団は敷いていなかった。その隣の部屋も同様だった。 「変ですね。二階に布団が敷いてあるはずなんですが……」 「お婆さんも年だから、忘れたのかも知れねぇな」 「仕方がありませんね。では、お兄さんの部屋にもう一組あった布団をこっちに敷くことにしますが、いいですか?」 「おぅ……、それでもいいとは思うけど、こっちの押入れに入っているかも知れねぇ布団じゃダメなのか?」  俺のもっともな指摘に、あやせは、不満そうに頬を膨らませたような気がした。気のせいかな……。 「こっちの部屋の押入れには何が入っているか分かりません。それに、今は人に貸していない部屋の押入れのものを、 家主の許可なく勝手に使うのは、よくないでしょ?」  上目遣いに、そう言われちゃねぇ。俺は、うかつにも頷いてしまった。こんな小娘でも、俺という男を弄んでいるだな。 女って、ずるいし、怖いよ。 「しょうがねぇなぁ……」  俺は、自室に行って、もう一組の布団を持ってくることにした。その俺の背後に、張り付くように、あやせが付き従って いる。 「別に、ついてこなくていいよ……」 「いいえ、自分の布団は自分で敷きますから。変態なお兄さんの手を煩わすつもりはありません」 「そうかい……」  ムカつく一言だが、今に始まったことじゃない。  俺は、あやせには構わず、自室の襖を開けた、 「な、何なんだ、こりゃ!!」 「ふ、ふ、ふ、布団がお兄さんの部屋に二つ並んで敷いてあります。は、は、は、破廉恥な!」  どうなってるんだ? あの婆さん、まさかボケが出たんじゃないか?   俺とあやせを、同室で寝泊りさせるなんて、正気の沙汰じゃない。  大体が、こんな風に布団を並べて寝たりする前に、俺があやせにブチ殺されてしまうじゃねぇか。  俺は、恐る恐る、あやせの顔色を窺った。  案の定、あやせは、怒りと羞恥からか、顔を真っ赤にしてうつむいている。  だが、何か口元がにやけているような気がしたが、まさかね。 「しょうがねぇから、お前の分の布団は、あっちの部屋に持っていくから、それならいいだろ?」  俺だって、本音は、あやせと一緒に寝たいけどな。だけど、まだ、お陀仏にはなりたくねぇ。  よっこらせ、と手前に敷いてある布団を掛け布団ごと一式持ち上げようとした。  こっちの布団は、俺が使ったことがない奴だから、あやせも気を悪くしないだろう。  だが、あやせは、俺のスウェットの脇を引っ張り、いやいやをするように首を左右に振った。 「何だよ。お前だって、気持ちが悪いだろ、大嫌いな俺と同じ部屋で寝るなんて」 「せっかく、お婆さんが敷いてくれたんですから、それを無にするのは失礼というものです。わたしは、お兄さんと一緒で も我慢しますから、このままで結構です」  言うなり、奥の方に敷いてある布団の中に、もぐり込んじまった。  おい、おい、そっちの布団は、俺が毎日使っている奴だぞ。  指摘しようかと思ったが、今あやせが寝ている布団が、俺が普段使っている布団だと知ったら、あやせの奴、 『け、けがらわしい。ブチ殺しますよ!!』とか絶叫して、大騒ぎするに違いない。  寝る前のドタバタは勘弁してもらいたいし、下宿の主にも近所にも迷惑だからな。 「お兄さん、いつまで入り口近くに突っ立っているんですか。もう、夜も遅いんですから、さっさと寝てください」 「へい、へい……」  難詰するようなキツイ口調で言われた俺は、渋々とあてがわれた布団にもぐり込んだ。  隣の布団を横目で窺うと、あやせは目を閉じて仰向けになっていた。 「とにかく、無事に朝が来ればいいけどな……」  女子と、同じ部屋で、布団を並べて眠るってのは、高校2年の秋、麻奈実と一緒の時以来だ。  あの時も、寝付けなかったが、今晩は、あの時とは比較にならないほどスリリングだな。  何か間違いをしでかしたら、俺は明日の朝には冷たい骸になっているかも知れねぇ。  俺、明日の朝生きてるだろうか……。

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