俺の幼馴染がこんなに不人気なわけがない06


俺の幼馴染がこんなに不人気なわけがない


俺はそのとき麻奈実が突然何を言いだしたのかわからなかった。
「きょうちゃんが桐乃ちゃんを連れ戻すためにアメリカまで行ってたから休んでいたなんて、うそだよね?」
あぁ、そのことかと思いながら……確かに馬鹿みたいで信じがたい話ではあるが、俺は即座に麻奈実の言葉を否定していた。
「うそじゃねぇよ。俺は確かに学校を休んでアメリカまで行って、桐乃を日本に連れ戻してきたさ」
「うぅん、というよりも学校を私と同じ日から学校を休んでたってのも、うそでしょ?」
麻奈美のやつは俺の声がまるで耳に入っていなかった。
麻奈実の様子がおかしいのはわかっていたが、どうもこれはさっきまでのおかしいとは違っていた。何というか狂気をはらんでいた。
「あー、麻奈実。ひとまず落ち着いてくれ、俺がついていけてない」
それでもさっきより俺が落ち着いていたのは一度麻奈実と普通の話ができたおかげだろう。俺の心に麻奈実は意外と大丈夫という慢心が入り込んでいた。
だからこんな言い方をしてしまったのだろう。とうに麻奈実の心の歯車はくるう寸前であったというのに。
「もういいからね、きょうちゃん。無理しなくても大丈夫だから。やっぱり私みたいな地味な女の子と話してても、楽しくないんでしょう?」
俺はこんな必死な表情をしている麻奈実に対しても、未だ支離滅裂なこと言っているという印象を抱いていた。
どうしてさっきみたく、真剣にとりあってやる気にならなかったのだろうか。
「さっき言ってくれたあの長い言葉も、その前の励ましも、最初に言ってくれた私の顔を見たいって言葉も……みんなみんなうそなんでしょう?」
最後のこの言葉は、もはや悲鳴に近かった声色だったはずだ。それなのに、呑気なことに俺はそう言われて、麻奈実を気づかう前に逆上していた。
「なっ……! 麻奈実、いい加減にしやがれ。俺はお前をマジに心配して、一つの偽りもなく素直に俺の気持ちを言ってきた! それを全部うそなんて……さっきから、なんでそんなに俺の言葉を信じてくれねぇんだよ!?」
「信じられるわけないでしょ!!」
馬鹿な俺は頭に血が上っていた。自分の信頼を無くした要因を考えるために今夜は徹夜だなどと決めた覚悟はどこへ行ってしまったのか。
俺の叫びが最後の着火剤。麻奈実の心の炎は涙ぐらいじゃ消えないほど燃え上がっていた。
「私見たもん! 見る気なんて無かったし、そんなの見たくも無かったのに……。けど、見ちゃったんだもん……」
そのときもはや麻奈実の目に悲しみや哀らしさなどは消え去っており、ただまっすぐ俺の顔を睨みつけるだけであった。
「あの日、きょうちゃんが黒猫さんと、キスしてるところ! 私は見たのっ!」
麻奈実の大絶叫は俺の鼓膜を通して脳を揺らすのに十分なほどであった。

俺の目の前で絶叫した麻奈実。
俺の頬にひやりとした液体があるのを感じた。
それは今しがた絶叫した麻奈実の口から飛んだツバでもなく、麻奈実の瞳のはしに溜まった涙でもなく、俺からでた冷や汗であった。
なぜ、こうなってしまったのだろうか。俺の心を焦りが支配する。
そして、どうして俺は今……、どうして、どうしてこんなに後ろめたい気持ちで心がいっぱいなのだろう。

「あの日、きょうちゃんが桐乃ちゃんから来ためーるを見て、すっごく怖い顔になって、様子がおかしくなったまま別れたよね?」
そういうことだったのか。
「私は心配だった。きょうちゃんのことがとにかく心配だった。なんだったら、助けてあげたかった。だからきょうちゃんと別れたあと、私引き返して後を追ったの」
なんてこったい。まったくもって想像の範囲外だった。
「学校に着いて、きょうちゃんを探し回って、校舎裏でようやく見つけたと思って近づいていった。そしたらさ、そしたら……黒猫ちゃんが、きょうちゃんの頬にっ……!」
黒猫とはそういう関係じゃねぇ。黒猫にそういう気持ちがあるとかの話は、まだしてないんだ。
「信じられなかった! なにそれ? 桐乃ちゃんからのめーるは? あやせちゃんにかけた電話は? 全部うそだった。わざわざ黒猫さんに会うための言い訳だった!」
でも麻奈実からしたら関係ない。そりゃそうだ、人気のない校舎裏で同じ部活動の仲が良い先輩と後輩が居て、後輩の方からキスをしている景色なんて第三者から見れば、十人が十人その二人はそういう仲なんだと思ってしまう。
「それで、桐乃ちゃんのために学校を休んでアメリカまで行ってたから、私がずっと休んでるのを知らなかったなんて、信じられるわけがないでしょう!? どうせ私が休んでるのを良かれと思って、ずっと黒猫さんと遊んでたに決まってる」
信用なんて失って当たり前だ。俺が麻奈実の立場だったら、信用を失うどころか軽蔑している。
「……ていうか、ひどいよきょうちゃん。いくら私と下校してる途中でどうしても黒猫さんに会いたくなったからって、アメリカで一人頑張ってる桐乃ちゃんをダシに使うなんて……」
麻奈実の心情は、まさしくこの一言につきていたのだろう。
俺が麻奈実の信用を失った理由は、俺が黒猫と恋仲にあり、なおかつ幼馴染との下校中に色欲をかもしだした俺が、自然な形で黒猫と会うためにアメリカ留学中の桐乃を利用したと、麻奈実が勘違いしているからなのだ。
「いやっ、麻奈実それはちがっ」
「言い訳なんて見苦しい真似しないで」
「言い訳じゃねぇって! あのときに来たメールは、本当に桐乃から来たメールだ!」
「……違うって言うなら、あのとき来た桐乃ちゃんからのめーる、いま見せてよ」
「えっ? ……いやっ、それは。その……」
それは出来ない。あのときのメールの内容は、あまりに衝撃的で今でも一字一句覚えている。
『アンタに預けたあたしのコレクション ぜんぶ 捨てて』
このメールを麻奈実に見せるということは、内容の意味についても説明しなくてはいけない。
それはつまり、麻奈実に桐乃の趣味をばらすことになってしまう。
「……出来ないんだ。それともめーる消しちゃった? それならめーるの内容言うだけでも良いよ。嘘じゃないなら言えるよね?」
「…………」
俺は何も言えなかった。
これなら即座にハッタリでも言えばまかり通ったかもしれないが、元々混乱していた俺に嘘八百を並べる冷静さもなければ、麻奈実を信じさせることのできる内容を言える自信も無かった。
無言を貫くことしか出来ない俺を見て、麻奈実はため息を一つ吐いた。
「……やっぱり、うそだったんだね。そこまでして黒猫ちゃんに会いたいなら、毎日ずっといっしょに居れば良いよ。
朝からいっしょに登校して、お昼ご飯もいっしょに食べて、放課後もいっしょに部活で遊んで、いっしょに仲良く帰れば良いよ? だけどその代わり、二度と私と幼馴染面しないで」


麻奈実が俺に怒っていることは理解した。信用を失った原因も把握した。
確かに麻奈実の怒りはもっともである。俺が黒猫とのお付き合いのために、妹を利用して幼馴染との接近を避けた。今の麻奈実には、俺がそういうことをする人間に見えている。
「わかったでしょ。そんなきょうちゃんが、いくら私のことを心配してるとかなんとか言ってきても、信じられるわけがないの……」
とある人でなしが、お前との楽しかった日々はくだらなくない、とっても大切な日々だったんだ、だから引き篭もる幼馴染の身が心配だ、と言っている。
これでその幼馴染がその人でなしの言う事を信じるというのなら、もはやその幼馴染は聖人君子をも軽く凌駕する清い存在なのではないだろうか。
「……わかったよ、麻奈実」
あぁ、わかったとも。なんてひどいすれ違いだコノヤロー。だけど今の俺に麻奈実の信頼を取り戻すための絶対的な方法が無い。仮に今、桐乃に電話をかけて事情を説明させても、俺が桐乃にそう言わせるよう懇願したとこいつは思うかもしれない。
なんせ今の麻奈実から見たら、俺はそういうこともやりかねない人でなしだからな。
俺に今、麻奈実を信用させる方法は無い。お前は俺が黒猫といちゃいちゃラブラブしてて、お前との幼馴染の関係が手に余って困り果てた末に、アメリカにいる妹を利用している最低な男に見えているんだろうからな。
「でもな、俺がお前を心配しているこの気持ち、それだけは信用してくれ! そして、お前のためなら俺は何でもする気でいるということも。お前のために、俺は明日からずっとお前が学校に来るまで毎日ここに来ようとしていることも。頼む、信じてくれ……」
今はそれだけで十分だと俺は考えた。
俺のことをいかに最低で頭にドが付くほどのクズな奴と勘違いされたままでも今は構わない。ゆっくりと時間をかければいずれ誤解も解けるだろう。
しかし、このまま麻奈実を引き篭もりになってしまうほどの苦悩と一人で戦わせてなどいられるか。それを指くわえてただ見ているのもだ。
「……無理だよ」
「頼む……頼むから……」
気付いたら、いつの間にか俺は土下座をしていた。麻奈実に対して土下座をする日が来るとは思いもしなかった。
顔を伏せているので麻奈実の表情は見えない。俺の懇願に麻奈実は一体どういう反応を示してくれるんだろうか。
拒絶か許容、後者であれば良し。前者でも良し。前者なら俺の顔をあげる時間がまだまだ先になるだけのこと。
俺はお前に以前よりも優しくなったと言ったが、それはある意味あきらめが悪くなったとも言えるんだぜ?


「……さっき、『お前のためなら何でもする気でいる』って、言ったよね。あれ、本当?」
「あっ、あぁ。勿論だとも」
永遠とも思えるような静寂をやぶった麻奈実の言葉。
俺は内心やったと思い、希望の光に照らされる奴隷のような面持ちで顔をあげる。
……おぉ、こわいこわい。あいもかわらず麻奈実は今まで俺が見た事ないほど怖い表情をしていた。
顔のどのパーツとっても笑っていない。というか表情が無い。まだ怒ってる顔の方が怖くないと言えるだろう。
麻奈実の顔を見ながらそんなことを考えていたら、俺の視線に気付いたのか麻奈実は僅かに口の端を上げる。
この後の麻奈実の言葉を聞いた後、今しがた麻奈実が浮かべた笑みを表すのに、悔しくも魔性の笑みという単語が一番的確だと思ってしまった。
「じゃあ、今すぐ黒猫さんに電話かけて。それでお前の事が大ッ嫌いだ、付きまとわれていい迷惑だ、って言って。そうしたら信用する」
おう、オーケーオーケー! 第一黒猫とはまだ恋人とかそういう話はしてないし、それぐらいのことで済むのなら……って、オイ!
「なっ!? い、いくらなんでもそれは……」
というよりも、そりゃおかしいだろうよ!? 確かに麻奈実は俺と黒猫が恋仲であると勘違いし、挙句その影響で俺が最低なことをしている奴に見えているのだろう?
だけどそれで黒猫に別れの電話をかけたら許すって、話の流れが合わねぇって。
むしろ麻奈実の言うとおりにすれば、俺は幼馴染の信用を取り戻すために黒猫の気持ちを踏み躙るゲス野郎になってしまう。
……さっきよりも余計に信用が置けない人間のする行動になっているように感じるのは、俺だの気のせいだろうか?
「出来ないの? 何でもするって言ったのに」
それでも麻奈実は狼狽する俺に冷たく言い放つ。
くそっ、冷静になってくれ麻奈実。お前の言う通りの行動を俺がとったしよう。だが、それでは何の解決にもなってないことに。
お前の悩みは解決されないし、俺の信用が本当の意味で戻るわけでもない。ただ「黒猫」が傷つくだけなのだと。
「…………あぁ、出来ない」
「そう……」
俺が申し訳無さそうに言うと、麻奈実は寂しそうに呟く。
まるで初めからその答えが返ってくるのはわかっていたと言いたげな表情だ。
ちくしょう、そんな顔をしないでくれ。お前は俺よりも何倍も頭が良いから、ちょっと頭を冷やしてくれればわかるはずだ。
自分の言っていることがいかに支離滅裂で、自分の提案した条件がどれほど無駄であるかを。
「いくらなんでもそれはねぇよ、麻奈実。今の状況で悪いのは、うまく身の潔白を説明できない俺だ。黒猫に罪はない……」
「……ふぅん、黒猫ちゃんには優しいんだね」
何とか麻奈実に今一度思いなおして欲しいという意図を込めて麻奈実の言ったことを否定するが、返ってきたのは苦々しげな表情を浮かべながら放たれた皮肉だった。
チッ、なんだなんだその言い回しは。まるで黒猫を目の敵にしたような言い方するじゃねぇか。麻奈実らしくもねぇ。
桐乃にいらねぇこと吹き込まれた影響で黒猫が麻奈実のことを嫌っているのは気付いていたが、ひょっとして麻奈実も黒猫のことが嫌いなのか?


「そういうことじゃねぇって! 第一、今回のことで黒猫は何も関係ないだろ!?」
「関係ない……って?」
「俺はお前の信頼を無くしちまった。だからお前は今引き篭もるほど深刻な状況なのに、俺は助けになってやることが出来ない。でもそれと黒猫のことは別のことだろう?」
どうかこれでわかってくれ。麻奈実が自分の言葉の浅さに気付いてくれと、俺は心の中で祈った。
両手を広げ自分の身体全体を使って俺の考えを伝えようとした。
そんな俺の姿を見て、麻奈実はしばしの沈黙のあと、すっと重い腰をあげて立ち上がった。
俺は土下座から顔と身体を上げた状態、言うなれば正座の姿勢をしていたのだが、何かせねばならないという衝動に駆られて俺も麻奈実につられて立ち上がっていた。
「…………きょうちゃん」
すると麻奈実は俺の名を呼んだ。フルネームではないけれど、長年麻奈実に呼び親しまれた、もう一つの俺。俺の分身のような名前であった。
いつもと違うのは麻奈実の声が震えていたことだけ。
「バカ」
返事をしようかと思った瞬間、小さな声で確かに麻奈実の口はその二文字を囁いていた。
その後、俺は顔面に鈍い衝撃を感じとってから、身体が大きく後ろに吹き飛ばされていた。
「ぶへっ!?」
いい歳をして何とも情けない声が上がってしまった。
ドーンッ、と大きくも低い音が響く。俺の身体は一瞬何者かに支えられたような感覚を覚えたあとに、ゆらりと床に身体を打ち付けていた。
「痛ぇっ……!?」
身体全体が軋むような痛みを感じながらも、先ほどの顔に感じた痛みの方がひどく痛くて鼻の頭あたりを中心に手で押さえていた。
麻奈実の部屋を閉じきっていた襖が俺の身体によって廊下側へと倒れていることに気付く。
どうやらさっき俺の身体を支えていると錯覚したものはこの襖のようで、襖がいくらか床に倒れこむ衝撃を吸収してくれたから身体全体の痛みほうは和らいだのだろう。
あまりに一瞬の出来事で何が起きたか頭で理解ができていなかった。しかし、前方にいる麻奈実へと視線を向けると、同じく一瞬で何が起きたかを頭で理解していた。
一歩前に出された足と軸足の見事なバランスに、ありあまる力の余波を受けたのか強く握り締められた左手。痛みに耐えるような表情と震える右腕。
そして、つい先ほど俺の顔面を直撃した、麻奈実の前方に勇ましく突き出された右の握り拳。
俺は麻奈実に、グーで殴られていた。それも顔を。

「なっ、なにすんだっ!?」
俺は麻奈実に、グーで殴られていた。
こんな一行を俺の人生でお目にかかることになるなんて、今までの俺は一回でも考えただろうか。いや、ない。
今俺が怒鳴っているこの瞬間ですら、何か悪い夢を見ている気分だった。
でも目の前にいる麻奈実は、やはり俺がよく知る幼馴染の麻奈実であって、それ以外の何者でもなく、またそれ以上それ以下でもない。
何度見直そうともそれは俺の幼馴染であり俺を殴りとばした、ただの麻奈実であった。
「きょうちゃんのバカァッ!! 私が今何で悩んでるかも、どうしてきょうちゃんが信用できないかも、きょうちゃんは何もわかってない!!」
「何もわかってないって何だよ!?」
麻奈実も俺と同じできっと自分達が出せる最大音量で叫んだに違いない。
先ほど無表情が一番怖いと言ったが訂正する。やっぱり、人間感情を剥き出しにして怒った表情が一番怖い。
眼鏡の奥にある麻奈実の瞳はキッと俺だけを睨みつけ、歯を動物のキバのようにギリギリと隙間からのぞかせながら、声には怒りを抑えるといった一切のためらいが無かった。
ひょっとしたら俺が全力で言い返したのは、あまりに攻撃的な麻奈実の姿に命の危機を感じた俺の生存本能が、麻奈実に対して威嚇をしたのかもしれない。
二人の視線が直行する中、田村家の階段を慌ただしくドタドタと誰かが駆け上がってくる音がする。
そりゃ襖がはずれて倒れるほどの音がしたんだ。一階で事の成り行きを気にしていた田村家の皆様だって、何事かと思って様子を見に来るだろうよ。
一番初めにたどり着いたのはロック、次に親父さん。そうして少し遅れてから爺ちゃんと婆ちゃんがやって来た。
倒れた襖から部屋を覗き込んでいるのだろうが、俺はもうそちらに意識をやる余裕など無い。
麻奈実が倒れこんだ俺の襟元を掴んで、涙を流しながら絶叫したからだ。
「私はきょうちゃんが大好きなのッ!」
…………えっ?
「幼馴染としてじゃなくて、女の子として、ずっとずっと昔から、きょうちゃんのことが大好きだったの!!」
…………。
「それなのに、信じられない。きょうちゃんは何もわかってなかった!
黒猫さんとキスしているのを見ただけで、私が死ぬほどショックだったことも、そのせいで食事も喉が通らないのも、ずっと部屋から出たくなくて、誰とも会いたく無くなって、だから引き篭もってるってことも。
私よりも黒猫ちゃんのことを大切にしてるきょうちゃんなんか……信用できなくなっちゃったってことも、全部わかってなかった!!」
俺がアメリカに行くきっかけは、黒猫から受けた「呪い」だった。
その「呪い」は黒猫の世界では俺がへたれたら全身から出血するというものだったが、俺の生きる平凡な世界ではキスと呼ばれるもので、好意を寄せる者にしかしないものだ。
その「呪い」を、麻奈実は目撃していた。
麻奈実は幼馴染であったが、いつからか俺に好意を寄せ、いつの間にか俺を一人の男として見ていた。
俺が黒猫に「呪い」を受けたのを目撃してから、麻奈実は家に引き篭もった。
俺が麻奈実の心配をして家に見舞いへ来た。
麻奈実は俺を信用せず、「たかが幼馴染」と言った。
麻奈実にとって、「幼馴染」とは、確かに「たかが」という副詞が冠されるに相応しい立ち位置だったのだ。
…………………………あっ、繋がった。全部、繋がった。


「帰って。きょうちゃんなんて、もう顔も見たくない」
吐き捨てられた言葉が現実には見えずとも、確かに俺の身体へと突き刺さった。
襟元から手が離れたかと思うと、麻奈実はすっと俺に背を向けた。
振り返りざまに見えた麻奈実の顔は、ただの一人の少女の、悲しさに震える泣き顔であった。
「みんなの顔も見たくない。襖が倒れてるからって、もし部屋に入ってきたら私本気で許さないから」
あぁ、俺は何ということをしてしまったのだろう。
もしこの状況を第三者が見たら、麻奈実のことを一方的に悪く思うかもしれない。
麻奈実の様子を心配して見に来た俺に、自分の言いたい事だけ吐き捨て、その思いが伝わらないことに苛立ち俺を殴った自分勝手な女の子。そんな風に見えるだろう。
だが、違うのだ。
普段の麻奈実は俺を殴るどころか、虫を殺すのも可哀想だと考えてしまうほど優しいのだ。
ただただ怠惰な人生を過ごしてきて、出来の良い妹に嫉妬して忌み嫌い、妹に人生相談という名目の命令でエロゲーを強制的にやらされ、麻奈実といっしょでなければ勉強をする気もあまり起きないような、
そんなどうしようもない俺の幼馴染であってくれて、そればかりか俺のことを幼馴染以上の存在といつの間にか見逸れてくれていた。
それが麻奈実であった。
では、その優しい麻奈実にすらグーで殴られた俺は、どれほど最低な人間なのか。
今日の会話の中ですら、俺の人間性の酷さを片鱗だけでも容易に見て取れる。
田村家の皆様が心配するなか、俺が行けば何とかなるなどというわけのわからぬ自論を頭の中で展開。俺が行けば以前に、俺自身が今回の件の元凶であったというのに。
そのくせ麻奈実に少しきついことを言われれば、俺はたかだか今日一日会えなかっただけ寂しかったんだぞと絶叫プラス長大な演説。アメリカに行って何日間も麻奈実を放置していたといのに。
優しすぎた麻奈実はそんな俺の安っぽい演説にすら反応してくれて、部屋から顔をのぞかせた後に部屋の中にまで入れてくれた。お前の心中の方が俺よりもよほど荒れていたはずなのに。
それだけで俺は有頂天、まるでもういつもの麻奈実を取り戻したかのように、何の警戒もせず麻奈実の心のデリケートゾーンを土足で走り回っていた。
絵に描いたような自分勝手、自己中心。我が田んぼに引いた水などもう既に溢れている。

第一、俺は今までの麻奈実と過ごした日々で、薄っすらとだが気付いていたはずだ。
麻奈実が俺に幼馴染以上の特別な感情を寄せていることを。
クラス中の皆からは付き合っているようにしか見えず、桐乃曰くキモいくらいにベタベタ。
時折幼馴染の行動の意味がわからなくなるだと? どう見ても照れ隠しです。本当にありがとうございました。
俺は本当にどうしようもないクズなのだ。
俺は心の中で麻奈実が俺に異性として好意を寄せていると気付きながら、麻奈実と幼馴染の関係であることがあまりに心地よくて、その関係を崩さないようあえて麻奈実の気持ちに明確な答えを示さぬようにしていたのだ。
そのことに、ついさっき麻奈実に大好きだと言われ気付いた。
俺はずっと麻奈実との関係の進展を誤魔化してきた。
麻奈実が俺に黒猫がキスをしているところを見たと言ったとき、俺が焦りを感じ後ろめたさを覚えたのが何よりの証拠だった。
俺が麻奈実のことを本当にただの幼馴染と認識し、麻奈実だって俺のことをただの幼馴染と考えているに違いないと思っていれば、黒猫とのキスを見られたと言われたところで俺は何も思わないはずだ。
それなのに焦りと後ろめたさを俺が感じたのは、麻奈実が俺に寄せる純粋な乙女心に感付いていたからに他ならない。
俺は麻奈実の気持ちに気付いていながら、自分のことだけを考えて行動しつづけていた。
幼馴染という関係の永続調和、恋人でも無ければただの友人でもない。永久に望んだ幼馴染。
その結果、我慢の末の限界突破。麻奈実をグーで殴らせるほど、怒らせてしまったのだ。
俺は正真正銘のクズであったのだ。
「…………麻奈実。俺、帰るわ」
崩れた襟元を正しながら立ち上がり、俺は別れの言葉を告げた。
本来なら今も背を向けて肩を揺らしながら泣いている麻奈実を支えたくて仕方無かったが、俺にはその資格は無いと思ったからだ。
ずっと麻奈実を騙し誤魔化し、幼馴染であることを強制していた俺には、たとえ麻奈実から傍にきて支えて欲しいと頼まれても、行く気にはなれなかった。
震える背中に、俺も背を向ける。
「今まで、すまなかった」
麻奈実の返事は無い。もはや「さようなら」と、別れの言葉すら交わせないのだ。
最後のその俺の言葉には嗚咽が混じっていた。男泣きというには、いささか不純すぎる。かつて男泣きをしてきた全ての日本男児に申し訳が立たない。
なんせ、この期におよんで俺が涙を流し惜しんでいるのは、麻奈実との幼馴染の関係が崩れてしまったことへの悲しみと寂しさからなのだから。
きっと麻奈実が今流している涙は、俺を殴ってしまったことへの断罪であろうというのに。

「……失礼します」
麻奈実の部屋のはずれた襖からのぞく田村一家に一礼する。これは挨拶でなく謝罪だ。
麻奈実を助け出せなかったことではなく、皆様の大切な麻奈実をずっと苦しめていたことの。
安心してください。もう二度とあなた方の麻奈実には、一切手を出しません。
それどころか、もう麻奈実の顔を思い浮かべることすらしないよう、努力します。
「……あ、あんちゃん!」
「とめるなロック。……今は手加減できそうにねぇ。次引き止めたら、殺すぞ」
今にも泣きそうなロックであったが、俺が睨みつけたとたんヘビ睨まれたカエルのように身体を硬直させた。なんだ、そんなに俺の顔が怖かったのか?
冗談言っちゃいけねぇ。さっきの麻奈実の方がよっぽど怖い顔してだろうよ。
……チッ、しまった。さっそく麻奈実の顔を思い浮かべてしまった。
田村家の皆様すいません。もう少しだけ、せめてこの傷が癒えるまで、俺というクズに麻奈実の顔を頭の中だけで思い浮かべる権利を下さい。
そうして俺は田村一家が立ち尽くす襖前を通り抜けて、階段を一歩一歩下りていく。
ふと足を止めて、今この階段から飛び降りたらどうなるだろうと考える。
死にたくなったわけではない。ただ、さっきの襖が倒れた音よりも凄い音がするだろうから、麻奈実が心配して見にきてくれるかもしれないと思っただけだ。
…………実に危ない。麻奈実が来てくれると思ったら、俺は本当に飛び降りかねない。
気が付いたら明らかに転落するほどの大股一歩を踏み出しかけていた。
俺は気をしっかりもったうえで、ややぎこちない足取りになりながら階段を下りきる。
その後の記憶は覚えていない。
足早に麻奈実の家を出たあとは、夕暮れの視界が涙で歪む中、家に帰るまで道に迷わないよう必死だったから。






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最終更新:2010年03月08日 09:42
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