どれぐらいの時が経っただろうか。十秒は経っていたのかもしれないし、一瞬に過ぎなかったのかもしれない。だがそんなことはもはや重要ではなかったんだ。
考えても見て欲しい、覆いかぶさっているのが「あの」沙織だぜ?
格好こそいつものガチオタスタイルにせよ、あの状況では沙織の顔(というか瞳)しか見ていなかったし、その彫り込まれた様な完璧なスタイル――主に胸――が密着した現状では全く問題にならない。
となれば男としての生理本能がもたげないはずがないし、事実そうだった。
・・・ヤバい。これは、間違いなくヤバい。
別に沙織を抱きたくないという意味では勿論ない。むしろそんな事をこの状況下で考えられる奴は不能だと決め付けてもいいぐらいだと思う。
俺がなけなしの理性で考えていたのは、まず沙織の貞操だった。沙織のような完璧お嬢様の貞節を、何者でもない俺が、ましてやこんな成り行きで奪うなど論外だ。
もう1つ、今は1階に親父がいる。俺の部屋は鍵がかからないため、万一親父が上に上がってきてこの事が露見しようものなら間違いなく半殺しだろう。今の俺には親父を納得させるだけの材料もない。
そんな俺の思惑もよそに、この目の前の少女の瞳はとろんと揺らめいていた。
「京介、さん・・・」
ぐっ・・・!落ち着け俺!理性を保て!
とはいいつつも、同時に今此処で沙織を振り払うなんてこともできないとも感じ、そんな二律背反は結局俺を固まらせることしか出来なかった。
情けないにも程があると自嘲するも、上から柔らかそうな唇が徐々に近づいてくるのをスローモーションのように感じた。
そして互いの距離が数cmにも満たなくなった瞬間――
俺の携帯が突如として鳴り出した。
「「!!」」
互いに条件反射で飛びのく。状況的には渡りに船だったので俺は勢い良く携帯に手を伸ばした。
「桐乃から?」
独り言とも語りかけるとも取れるような声量で呟くと、俺は電話に出た。微かに沙織の表情が硬くなったと思ったのは気のせいだっただろうか。
「もしもし?」
『もしもし、あんた今何やってんの?』
「別に何も…?」
『まさか沙織にちょっかい出したりしてないでしょうね!』
桐乃の声が突然トーンダウンしたのでビクッとしたが、平静を装って返答する俺。こういう処世術だけは達者なのが悲しすぎる。
「そんなわけないだろ。んで何の用だよ?」
『ああ、ちょっとモデル友達と夕食することになったから少し遅くなる、ってお父さんに伝えて欲しいと思ってさ』
「そりゃ構わないが――んなこと直接言やあよかろうに」
『べ、別にどうだっていいじゃないそんなこと!経路がちょっと違うだけなんだから』
もっともなようで意味の分からない返答を聞かされて腑に落ちない部分はあったが、下手に詮索してもヤブヘビになるのが目に見えていたので適当に流すことに決めた。
「へーへーわかりましたよ。他に何か用件はあるか?」
『・・・別にない。それじゃ言っといて』
「はいよ。じゃあな」
電話を切り、一息深呼吸をつくと、沙織は眼鏡をかけなおしていた。
「桐乃が少し帰るのが遅くなるってさ」
「・・・左様でござるか。そ、それじゃあそろそろ拙者もお暇させていただくでござるよ」
「あ、ああもうこんな時間か」
時間はもう5時前を指していた。遅いというほどでもないが、沙織の家の距離と、女の子一人で帰るということを考えれば確かに結構な時間だ。
あんなことがあったから多少の躊躇があったが、流石に女の子を一人で帰すわけにはいかないし、何より沙織とはまだ話すことが生まれた。
「それじゃあ、駅まで送っていくけど」
「そんな・・・京介どのの手を煩わせるようなことはござらんよ」
そう返答する沙織の態度は妙にぎこちない。まるで俺を通したもっと大きな何かに遠慮しているような素振りだった。だからってはいそうですかなんて言う訳もない。
「女の子を夜道1人で歩かせるなんて許したら俺が親父にぶっ飛ばされるさ」
苦笑交じりにはにかむと、沙織の顔が俄かに赤く染まっていった気がする。
「そ、それじゃあ京介どのに拙者めのエスコートをお願いするでござる」
「かしこまりました、沙織お嬢様」
「っ!」
沙織の軽口を真っ向から受け止める俺。似合わないのも柄じゃないのも重々承知してるさ。この時点で俺にはある程度覚悟が固まっていたのだから。
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「・・・って訳で、彼女を送ってくるよ」
1階に沙織と下りてきた俺はリビングの親父にそう伝えた。もちろん彼女とは今はまだ形式的なものではない、単なる代名詞だ。当の沙織は玄関口にいる。
「・・・そうか。京介、一つだけ聞いておく」
元から恐ろしい風貌の親父の顔が更に厳めしくなる。相変わらず気圧されそうになるが、大体聞かれる事は想像がついていたのでじっと耐える。
「今日中に帰ってくるのか?」
「・・・帰ってこない場合は?」
「質問を質問で返したらテストは0点だ、京介。・・・まあいい、帰ってこなかったらお前の体は少なくとも2,3回は宙に舞うと思え」
「生かしてくれるのなら御の字だろうさ」
そんなような事があったなら、それだけの制裁をもらっても等価交換というものだろう。相応の諦観と決意が俺を支配していた。
「・・・それだけの覚悟があるのならいい。京介、泣かすんじゃないぞ」
「・・・ああ」
そう答えると俺は玄関口にいる沙織と合流し、駅へと並んで歩き出した。
最終更新:2010年08月05日 01:32