7-69



 目を瞑ると無性に心地良くて、
 鼻孔を擽るこの香りは、この身を指の先から髪の先まで侵していく。
 汗の匂いと――彼の人の匂い。

「――っふ」

「んー?」

 勉強机に向かいながら勉強している“先輩”と
 先輩のベッドで横になりながらくつろいでいる“後輩”。
 彼の妹は今日は部活で帰りが遅く、
 共通の友人である沙織は用事で来れないらしい。
 そんな……“二人っきり”の時間を、私達らしく静かに過ごす。
 それがちょっとだけ可笑しくて、小さく笑ってしまった。
 だってそうじゃないか?
 年頃の男女が同じ部屋で二人っきり。
 彼の両親は家におらず、その妹も居ない。
 ホントウに、二人っきり。
 なのに何もせず、だらだらと、時間を潰してる。
 勉強をしながら、趣味のパソコンを弄りながら。
 潰してる。

「先輩、何かいいネタになりそうな漫画は無いのかしら?」

「……。勉強してる先輩に言う事じゃないよな?」

 あと、漫画はあんまり読まないんだ。と、つれない声。
 ふむ――困った。

「先輩」

「次はなんだよ?」

「なんか喋って」


「勉強でもしろよ、勉強でも」

 それもそうだけど。
 普通、と、友達と一緒に居るのに勉強って選択肢はどうかしら?
 まったく――この愚かで馬鹿で、どうしようもない兄は。

「はぁ」

「桐乃もそう遅くならないうちに帰ってくるだろうから、もう少し我慢してくれ」

「……別に、ソコはどうでも良いのだけれど」

「ふぅん」

 また、無言。
 カリカリとノートをはしるシャープペンの音と、カタカタとキーボードを叩く音。
 それだけ――それだけの、空間。
 それが妙に居心地が良い……。
 どれくらい、そうしていたか。
 気付いたらシャープペンの音が消え、続いて、キーボードの音も消える。

「――はぁ」

「ねぇ、先輩」

「んぁ?」

 一瞬の静寂の間。
 そこに割って入り、

「シナリオを一通り書いてみたのだけれど、目を通してもらっても良いかしら?」

「ん? シナリオ?」

「ええ、どうかしら?」


 トントン、と私の隣のスペースを叩く。
 隣に来なさい、と。

「へーへー」

 いつかのように隣に来たこの人は、やっぱり何時かのように――私なんか何も気にしないように、あっさりと隣に。
 ……べつに、誰にでも隣を許している訳でもないのだけれど。
 この馬鹿はどうせ何も気にしないんだろう。まったく。

「はぁ」

「いきなりかよ」

「疲れただけよ。少し」

 ――彼の匂い……香りが、強くなる。
 溜息を吐くように息を吐き、少しだけ強く――香りを吸う。

「これ、どうかしら?」

「ん、少し待ってな」

 初めてお願いした時は、あんなにも照れていたのに。
 今では、だ。
 読むのが少し遅い兄の横顔を、覗き見る。
 本自体、文字自体を読み慣れていないのだろう。
 いつも集中して読むその横顔は、あまり見慣れたものじゃない。
 ……もしかしたら、知っているのは私だけ、か。

「ふふ」

 ん? とその視線が私に向く。
 笑ったの……聞かれた、かしら?

「読めねぇ文字とかないから大丈夫だかんな?」


「そんな心配してないわよ」

 馬鹿ね。
 まったく。
 今度は声に出さず、肩を震わせて笑うと――その肩が、もう一人の肩に触れる。

「まぁ、読めない時は聞いて頂戴」

「……まだ、大丈夫だ」

 クス、と笑い――ガチャ、とドアが開いた

「きょ――」

 そして、いきなりドアを開けた人は固まった。
 私と、先輩、も。

「……………………………」

「……………………………」

「……………………………」

 よく考えてみてほしい。
 掃除か、用事があったのかはどうでも良い。
 息子の部屋に入ったら、息子は知らない女と一緒にベッドに横になっているのだ。
 しかも、妙に密着して。
 それも……息子はともかく、その少女は多分――そう、満更でもない顔を、して。
 私ならリア充爆発しろ、と。散ってしまえ、と。
 うん。ごめんなさい。今の無し。

「…………今度からは、ノックするわ」

 妙に優しい言葉を残して、今度は静かにドアが閉められた。

「……………………………」

「……………………………」

 しばし、無言。
 視線はドアに。
 ノーパソの起動音が妙に耳に入ってくる。

「ちょっとまてぇぇぇえええ!!!!!」

 はぁ。
 部屋からで、駆けてリビングに向かう背に……小さくため息を一つ。
 どうせ……あーだこーだと、“言い訳”をするんだろうなぁ、と。
 そもそも、貴方の母親は今日は用事で居ないのじゃなかったかしら?
 まったく。





「部屋にカギでも付ける事をお勧めするわ」

「うむ、否定の言葉もない」

 なんとか“誤解”を解いてきたと言う彼に、まずは一言。
 その一端が自分にあるとはいえ、まずは言っておきたい。
 というか、言っておかなければならないだろう。

「それとも、両親に見られるのが好きなのかしら?」

「んなわけあるかっ」

「どうだか。それに鍵なんて、そう高くもないでしょうに」

「親父がそう言うのにちょっとな」

 ふぅん。
 そういうものかしら……それとも、娘と息子の違いというものか。
 たしか――あの子、の部屋には鍵が付いていたようだし。

「ま、今度相談するわ」

「お勧めするわ。妹の無茶に付き合うのならなおさら、ね」

「うへ……できれば、勘弁してほしいんだがな」

 それは無理でしょ――貴方が、あの子の兄であるのなら。
 そして、私と一緒に居てくれるのなら。
 ……その“勘弁”を。そういうのを、ちょっと想像できないのは、多分私が……。

「どうした?」

「相変わらず変な顔ね」

「何でいきなりダメ出し!?」

 良いでしょ、別に。
 小さな声で、聞こえるように呟く。
 よ、っと。

「これ」

「ん?」

 いましがた焼き終わったCD-Rをそのまま渡す。

「シナリオ……明日、感想を聞かせて」

「あぁ、帰んのか?」

 パソコンの電源を落とし、それをバッグになおす。

「ええ。さっきの後じゃ、ね」

「気にしなくても……」



 貴方が気にしなくても、私が気にするのよ。
 まったく。
 鈍感と言うか、何というか。

「はぁ」

「何で溜息!?」

「判らないなら、判らないままでいなさい」

「え!? 俺が悪いのか!?」

 貴方以外のだれが悪いの? 私?
 そう視線を向けると、逸らされた。ヘタレめ。
 また“呪い”をかけてやろうか――。

「何でそこで黙るんだよ?」

「五月蠅い、ヘタレ」

「酷いよね、それ!?」

 ふん。
 部屋を出、階段を下りると……母親は、どうやらキッチンのようなので。

「お邪魔しました」

 リビングから小さく声を掛けておく。
 一応、礼儀というものだ。
 あまり興味は無い――興味は無いが、もうしばらく……もう少し、厄介になりそうだし。
 他意は無い。多分。あんまり。

「ちょ、ちょ……そこまで送って行くぞ」

「別に。勉強でもしていたらどうです、先輩?」

「んー、でもなぁ」




 すぐソコですし、と断る。
 その気持ちは嬉しいが、これ以上迷惑を掛けるのも気が引けてしまう。
 学校でも、放課後でも……私生活でも、迷惑を掛けてしまっている、し。

「いいです、本当に」

「そうか?」

「ええ。さっき渡したの、結構な量ですから早く読んでくださいね?」

 まったく。
 まったく、まったく、まったく、まったくっ。

「先輩」

「ん、じゃ、またな?」

「先輩は多分、凄く鈍いと思うんです」

 キッチンまで届くように、自分でも驚くような猫を被った声でそう“呪い”の言葉を紡ぐ。
 だってそうではないか。

「へ?」

 外に出、ドアを閉める。
 そして、小さくため息を一つ。
 小さく高鳴る胸を感じながら、溜息を深く、深く――吐く。
 鈍いのは彼か、それとも私か。
 そう考えると溜息も出てしまうものだ。
 はぁ……。





おまけ

「ねぇ、京介?」

 黒猫は、何であんなに怒ってたんだ?
 さっきまでそこまで怒って無かったよなぁ。
 首を傾げるが、理由なんか判る筈もない。
 と、玄関で首を捻ってたら後ろから声を掛けられた。

「ん?」

「部屋に鍵、付ける?」

「おふくろ、妙な気は使わないでくれっ」

 マジで! 勘弁してくれっ!!
 あんたまで黒猫と同じ事言うのは勘弁してくれ。

「そ、そう?」

「そう! 別に、入る時にドアのノック忘れなけりゃいいだけだろ?」

「そうかしらぁ」

 その話は終わりっ。
 とばかりに階段を駆け上がる。
 ったく。
 黒猫にも妙な気つかわれるし、まったく。
 ツいてねーなぁ。
 はぁ。

「でも彼女――」

「彼女じゃねぇつってんだろ!?」

「えー? まー、ねぇ?」

 ったく!!
 ホント、ツいてねぇ。

「……麻奈実ちゃんもだし……」

「ボソボソ不吉な事言ってんじゃねぇ!!」

 しまいにゃ泣くぞ、俺が!


 2~3日後に俺の部屋にも鍵が付く事になるが、
    多分この件とは関係ない。多分。絶対……関係無いと、思う。





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最終更新:2010年10月22日 22:00
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