「何よ、これ。」
桐乃が擦れた声で呟く。俺が今まで見たことの無い表情で。
怒りか、悲しみか、そのどちらの感情なのか、その目からは読み取ることができない。
「何の真似よ…これ。」
桐乃が一歩後ろへ後ずさる。ガタンと扉にぶつかる音が響く。
そのままその場に倒れてしまいそうな。
「いや、待て桐乃!誤解だ!これは事故なん―――」
「嘘つかないで!」
ビリビリビリ。桐乃の声が部屋にこだまする。俺の弁解を遮るように。
「バカにしないで!あんた今その黒いのに―――」
そこで、一瞬言い淀む。そして、そのまま下を向き、消え入りそうな声で呟く。
「――黒猫に…キスをしようとしたじゃない。」
――――っ!
俺はキスをしようとしていたのか?確かに黒猫の唇には惹かれていた。
だが、顔を近づけてはいないはず…いや、分からない。本当に分からない。
頭が真っ白になるとは、正にこのことだろう。
「…ふっ、黒猫も黒猫よ。何、駄目って?バッカみたい」
そう言って口元は笑おうとしているように見えた。だが引き攣った唇は
意図した形を作ることができず、桐乃は顔をさらに埋める。
肩が、震えているような気がした。
「桐乃…」
泣いているのか?
「うるさい!」
桐乃はキッと俺を睨み叫ぶ。
「この変態!!あーあ、あんたら似合いのカップルよ!
そのままラブホでもどこでも行けば!?じゃあね!!」
踵を返し、桐乃が部屋を飛び出した。まるで、何かから逃げるように。
「おい!待てよ!!」
慌てて俺は追いかける。追いかけながら考える。あの表情の意味を。
なんでここまで怒るんだ?親友を取られた気がするからか?
「おい!桐乃!!開けろよ!話を聞いてくれ!!」
「うるさい!あっち行け!」
俺は祈るようにドアを叩く。ここで引き下がったら、何かを失う気がした。
何を?分からない。ただ、これまで築き上げてきたもの全てを失う気がした。
だから桐乃、開けてくれ…頼むから開けてくれ…
1時間後、俺は呆然とした状態で自室に帰っていた。結局、そのドアが開かれることはなかった。
情けない話だが、その時の俺は、傍からみて抜け殻そのものだったのだろう。
「…ごめんなさい。」
意外なその一言にハッとして振り向く。見ると黒猫が肩をすぼませ俯いている。
つーか何でおまえが謝るんだよ!確かにこの状況を作ったのはおまえだ。
けど、悪いのはキスをしようとした俺だろうがよ!
そう――そう言おうとしたのに、何も…何も喋れないんだよ。言葉が出てこないんだよ。
少し長い沈黙のあと、
「…帰るわね。」
そう一言呟き、黒猫は俺の部屋をあとにした。
――数日後。
あれから俺は桐乃と一言も会話できていない。今まで何度も喧嘩してきた俺たちだが、
今回はいつもと違うような気がする。あいつは俺と顔を合わす度に、ビクッと体を震わせ視線を外すんだ。
まるで、何かに怯えているように。
「はぁ、どうすりゃいいんだよ。」
俺はため息をつき、天井を仰ぐ。そういえばあれから黒猫とも会っていない。
あいつはあいつで相当落ち込んでるだろうな。普段から毒舌振りまいてはいるが、人一倍責任感の
強いやつだからなぁ。
沙織ならどうするかな。…そうじゃん!なんで今まで気づかなかったんだろう。あいつに相談してみよう!
そう思った矢先、
ピリピリピリ
突然メールの着信音が部屋に響いた。誰だ?沙織か?恐る恐る携帯を開く。差出人は…黒猫だった。
「三時に駅前のカフェに来て頂戴」
「あれからあの子とは話をできたかしら?」
手をつけてないホワイトモカを前に、黒猫が切り出した。
「いや、全く。…今回ばかりはホントお手上げだよ。」
「そう…」
そんなやりとりの後、俺たちは黙り込んでしまう。店内には静かなカントリーミュージックが流れていた。
この穏やかな店内を見てると、先日の出来事が嘘のようにさえ感じてしまうな。
「あいつ、おまえを取られるのがよっぽど怖かったんだろうな。」
なんとなしに俺が呟くと、黒猫が驚いたようにこちらを見据え、そして呆れたような口調で言った。
「はぁ…あなたは、本当に何も分かっていないようね。察しが悪いにも程があると言うものだわ」
「ふん。どうせ俺は頭の悪い鈍い男だよ。」
そうは言ったものの、黒猫の言いたいことも少しは分かる気がする。こいつは兄を取られるのが怖いとでも
言いたいのだろう。それも少なからずあるかもしれない。たぶんその両方。兄と親友。その両方がいなくなる。
そんなことを危惧し、あいつは怯えているのだろう。
「…沙織に相談してみるか。」
「そうね。けどその前に―――」
窓の外に目を向けていた黒猫がこちらに向き直る。
「寄ってもらいたいところがあるの。」
最終更新:2010年11月22日 16:11