これは童貞と処女を卒業した、一組のカップルの物語である。
「なあ、カチカチになってるけどさ……やっぱり、怖いか?」
胡坐の上に腰を落とした彼女の背中が面白いように跳ね、つられてベッドが少し軋んだ。
「かっ、かか、カチカチになってるのは、先輩の粗末なイチモツでしょう?」
ムードもなにもあったもんじゃねえな!
まさか下ネタを返されるとは……まあ、それだけ緊張してるってことなんだろう。
いやに背筋を伸ばして「た、ただの人間ごときに、この私が怖がるなんて……」と邪気眼をぶり返している黒猫を、多少強引に抱き寄せた。
「きゃっ」
暖かい。分厚いブレザーの上からは、しかし確かに、血の通った女の子の温もりと柔らかさが伝わってくる。
黒猫――俺の後輩であり、桐乃の親友でもある彼女、五更瑠璃と恋人になってから早や半年、昨日無事に受験を終えた俺はようやくこうして……。
……待て、早や半年?
いや……おまえ、六ヶ月だぞ?
そりゃあ、振り返ってみれば短く感じるかもしれねえよ。
でもその間、俺は、一体、どれほど、この身を焦がしていたことか……!
ああ、思い起こせばこの六ヶ月間、いつものよーに、桐乃の世話を焼いてやったり、いつものよーに、受験勉強に追われたり……。
そう、いつものように!
慌ただしい日々を送るばかりで、黒猫とはまったく恋人らしいことができなかった!
“とっくにやることヤっちゃってんじゃないの?”
ヤっちゃってないよ! 桐乃みたいなこと言うんじゃないよ!
“半年間も付き合ってナニもしてないの?”
したよ。
したけど!
したと言ってもキスだけだよ!
一度そういう雰囲気になったことはあったけど、
『せっ、先輩……受験が終わるまで、こ、こういうのは、ダメ……』
って押し戻されたよ!
黒猫との交際は断じて身体目的じゃないけどさ、性欲をもてあます健全な高校生がキス止まりって!
せっかく可愛い恋人が出来て、年齢=彼女いない歴という等式に終止符を打てたと思ったら……半年間もおあずけ喰らって…………。
『……今は私なんかに現を抜かさないで、貴方は貴方の“使命”を果たしなさい』
……いや、やめよう。もういいんだ。
黒猫に気負わせてしまったのは、偏に俺の不甲斐なさのせいでもあるのだから。
自惚れかもしれないけどさ、俺と同じように、きっと黒猫も寂しかったはずだって。
むしろ今までよく愛想を尽かさないでくれたとさえ思う。彼女の慈悲深さには感謝もしたい。
殆ど部活に顔を出せず、碌にデートにも連れて行けず……フラれる不安がなかったと言えば嘘になる。
そんな心労と受験のストレスとで、胃に穴が開くような思いもしたさ。
……でも、それもすべて!
すべて! 昨日までのこと!
『もし、ちゃんと最後まで頑張ったら、その時は…………私が、“ご褒美”をあげるから』
ああ……! 俺はなんて出来た彼女を持ったんだ!
半年間!
長かった、辛かった! よく耐えた! よく頑張った!
アニメだったら2クールもの間だ! いやその例えはおかしいか! まあいいや! もはや受験結果さえどうでもいい!
今や、すべて、なにもかも!
本命の二次試験を終えた、昨日までのことなんだ――――!!
「せ、先輩、ちょっと痛いわ……それと、鼻息がくすぐったい」
気付いたら黒猫が腕の中で身じろぎしていた。
「あ、すまん」
ふっと腕の力を抜くと、黒猫は肩を竦めて一層縮こまってしまった。
いかんいかん、暴走して黒猫に一生モノのトラウマを植え付けてしまったら本末転倒だ。
黒猫もこういったことは初めてなんだから、なるべくキレイな思い出にしてやらないとな……。
……しかし、向かい合ってなくてよかった。表情筋がだらしなくたわんでいるのが自分でもよく分かる。
どうしてもにやけてしまう俺を一体誰が責められよう。
だって、ついに想いを遂げる時がやってきたんだぜ?
こんなに愛らしい女の子と相思相愛になって、付き合い、イベントを重ね、キスをして、ついに、ついに……!
もーっ、まいっちゃうなー! こんな真昼間から、ウヘヘヘ……。
それだけでも感無量だというのに、このやわらかな素肌に好きなだけ触り、好きなだけ口づけることができると思うと……おお、もう。
「黒猫……」
欲望の色を声に出さないようにして、今度はそっと抱き入れた。
長く綺麗な黒猫の髪から幽かに漂っていた女の子の匂いが鼻一杯に広がる。
甘ったるい芳香。体温がすぐ隣にあると言うだけで、何だか心がほっとする。
でも、胸の一番奥がぎゅっと締められるような感じがして、喉に物が閊えたようで、なんとなく気持ちが悪い。
ああ、俺たちのご先祖は、こうやって連綿と生を繋いできたのか。
おぞましや人類。
というか縄文時代とかどうしてたんだろう……。
「せ、先輩……」
強張った声にはっと我に返る。
いやいや、人類史に思いを馳せてる場合じゃないだろ!
KOOLになれ京介……緊張しているのは、きっと黒猫だって同じこと。
俺がリードしてやらなくてどうするんだ。
大丈夫、俺はヤれる!
だって今日このよき日の為に、ちゃんとイメージトレーニングを積んできたんだから。
“性交渉をするときは避妊をしましょう”
教科書に載っているのはここまでだ。
でも、その前後のリアルな手順となると、童貞には全く未知の領域となる。
ナニをアソコに入れればいいということは分かってるさ。
だが、実際どのように愛撫をすればよいのか。
どんな流れで胸を揉み、あるいは吸えばよいのか。
いかなる順序で相手の服や下着を脱がせばよいのか。
どのタイミングで自身も裸になり、挿入を宣言すればよいのか。
初体験を控えた童貞の誰もが抱いた疑問のはずだ。俺もその例外ではなかった。
散々エロゲをやっただろうって?
馬鹿言ってはいけない。俺が欲しいのは実践的なノウハウだ。
左クリック連打で済むHシーンの何が参考になるというのだ。
ましてや俺がプレイしたことがあるのは発情妹AVGだけ。まったくお話にもならない。
素人モノのAVについても一考した。が、やめた。
アレはアトラクション、いわゆる見世物みたいなものであって、実際の行為とは少し趣が違うと聞く。
エロゲほどではないが、AVだって当てには出来まい。
とはいえ、指針もなしにあれこれと手間取ってしまうのはなんとなく格好悪い。
できることならスマートにエスコートして、いいところを見せてやりたい。
だが、一体何が信頼できる資料たりえるのか。
グーグル先生も答えてくれない。
俺は数日、頭を抱えた。
その時だった。
『カップル盗撮モノはどうだ?』
プロジェクトに光が差した。
カメラを意識していない、男女の自然な営み。それはまさしく実のある見本ではないか!
ふと思いついたそれは、閃光のようなアイディアだった。
今こうして黒猫を後ろから抱きかかえているのも、盗撮モノによくあるシーンから着想を得たからだ。
今思えば、あれはカメラに女性の裸体を写そうとする意図もあったのかもしれない。
だが、よく考えてみれば仰向けに押し倒してしまうのは恥ずかしがりの黒猫には酷だろうし、服も脱がしにくい。
それになにより、最愛の女の子の裸を直視してしまったら、溜まってる劣情が爆発してしまうかもしれない。
考えれば考えるほど、背面から抱きしめるというその選択肢は合理的に思えてならなかった。
眼差されぬ飾り気のない行為。
真実の愛が、そこにはある。
盗撮モノは、すっかり俺の胸中に入っていた。
それから俺は数か月もの間、受験勉強と並行して、地道に盗撮モノの研究を続けたのだった。
――そして今、努力が実を成す時が来た。
本試の翌日の昼、学校に顔を見せて教師に試験の手ごたえを伝えた後、受験期間中だと言うことでそのまま家に帰ったら、家からはお袋が消えていて、自室には制服姿の黒猫がいた。
最初はもちろん戸惑ったさ!
まさか黒猫がいるとは思わなかったし、ましてや今から“そういうこと”ができるだなんて、完全に理解の範疇の外だった。
だが、こんなこともあろうかと! 俺は常に深爪にしてやすり掛けを欠かさなかったのだ!
準備万端だった俺は期待を押し隠しつつ、努めて冷静に黒猫をベッドにいざなったのだった。
股間は熱く、頭は冷静に。
俺のスカッドミサイルは既に天を指していたが、戦闘意欲は深く醸成されていた。
焦って気持ちばかり走ってはいけない。
一見滑稽な努力を続けてきたのは、なにも自分が恥をかきたくなかったからという理由だけじゃないんだから。
腕の中にすっぽり収まって、ずっとカチコチに固まっている黒猫。
盗撮モノを初体験の範にしたと言ったら泣いてしまいそうだが、行為中に泣かれるよりはマシってもんだ。
俺はセックスの自然な作法というものを完璧に修めてきた。
そんな自信と愛着が、俺の背骨に刺さった緊張をゆっくり解きほぐしていった。
そうさ、何も案ずることはない。
理論上、俺はセックスの達人なんだから。
最終更新:2011年01月17日 11:54