黒猫の幸福 01


 最初に好きになったのは、声。
 それから大きな掌と、どこか含羞のある笑顔。

 気付いたら視線が引き寄せられていた。
 私の…友達の、お兄さん。
 真っ直ぐな目で私を見てくれるひと。

 私のためにどれだけ必死になってくれたか。
 私のことを心底思いやってくれているか。
 それを知ったとき、それを実感したとき、私の心の奥底に、不思議な火が灯った。
 その火はあの人の顔を見るたびに熱くなり、あの人の声を聴くたびに大きくなった。

 その火は炎となり、私の胸の底に疼きを産む。
 ただの肉体に過ぎないと思っていたこの身体が、熱く火照ってしまう。

 この薄汚れた現世の、仮初めの肉体があの人を見るたびに脈動する。
 心臓が尋常じゃないくらいに胸の中で踊ってしまう。
 うまく呼吸ができない。
 あの人の匂いを嗅ぐだけで。
 あの人の近くに居るだけで。
 私のこの現世(うつしよ)の身体は熱く滾ってしまう。

 夜、布団の中で目を閉じると浮かんでくるのはあの人の顔。
 朝目が覚めて、最初に聴きたくなるのはあの人の声。

 それだけで。
 それだけで、この仮初の肉体は熱く甘く蕩けていってしまいそうになる。


 それが恋だと認識したのは、しばらく後のこと。
 そう。恋。
 小説の中では何度も読んだことのある、感情。
 それは虚構の中のできごと。そう思っていた。
 創作のなかでは書いた事はあるが、私の上には訪れないと思っていた生の感情。
 そう考えていたその感情を私は生まれて初めて実感していた。

 恋。
 そう。恋。
 ばら色の感情。
 あの人のことを考えるだけで幸せになれる。
 あの人の姿を見るだけで、心の底が浮き立つような感情に浸れる。
 あの人がメールをくれるだけで、世界の色彩がうきうきと回りだす。

 恋とはこんなに苦しいものだと、私は今生(こんじょう)で始めて知った。

 あの人のことを思うだけで底知れぬ多幸感に浸れるということを。
 あの人の声を思い出すだけで、胸の奥が切なく甘く疼くということを。
 あの人の匂いを嗅ぐだけで、体の芯が熱く震えてしまうということを。




 そう。恋。
……でも。


 でも。

 それが実るはずがないということも、私は判っていた。
 こんな肉体の私を、あの人は好いてはくれない。
 薄すぎて女の子らしくない胸。
 華奢すぎる肉体。
 そんなものをあの人が好いてくれる筈が無い。
 あの女、あの人の妹より格段に女の子らしくない身体。
 沙織なんかとは比べることすら恥ずかしいくらい、小さな胸。低い背。


 そんな冷徹な思考は私の胸の中心に鋼の冷たく暗い杭として打ち込まれる。
 どんな滾りも、あの人が私の想いに答えてくれるはずがないという現実が打ちのめす。



 あの人を想って、初めてしてしまった行為。
 私の薄い胸の先端の突起を指でなぞる。
 これはあの人の指。
 そう思い込んで薄い胸に指を這わせる。

 妹たちと並べた布団の中で。
 妹たちが寝入った後で。
 こっそりと、パジャマの中の下穿きの内に手を差し入れる。


 同時にあの人の声を脳裏に思い浮かべる。
 あの人の体温が私に伝わってくる。
 あの人の声。あの人の匂い。あの人の優しさ。
 妄想の中だけでも、それに耽溺することは無常の喜びだった。
 ゆっくりと指を這わせる。
 濡れたあそこに、かすかに指を触れさせて
 枕カバーを噛み締め、声が漏れそうになるのを防ぐ。

 絶頂が近くなるにつれて、涙が零れてしまう。
 あの人は、別の人を好きになってしまう。
 あの人は、私じゃない人を好きになる。
 あの人の優しい視線は、私以外の誰かに注がれる。
 あの人が微笑む相手は、私ではない他の誰か。

 妄想の中でもいい。
 そう思って私は息を殺しながら手指を動かし自涜に浸る。
 そうでもしないと溢れてしまう。
 そうでもしないと破裂してしまう。
 あの人を思って。
 あの人の声を思い浮かべて。

 私は背徳の悦楽を極めていた。
 重荷を心に抱いたまま、あの人からは離れられない。
 妹の友達でもいい。
 近くにいられるだけでいい。
 そう思っていた。
 この人の近くにいられるだけで幸せ。
 それ以上は望むまい。
 そう思っていたとき。


「黒猫。俺と、付き合ってくれ」

 言葉が出てこない。
 唇は動くけれど、言葉は空気の中に溶けていってしまう。
「俺の彼女になってくれ」

 夢。
 きっとコレは夢。
 夢だから、この人は私の夢見ていた言葉を言ってくれている。
 きっとそう。そうに違いない。


――夢なら、覚めないで。
 心の底からそう願った。


 気がつくと、目の前はすべてが制服の胸だった。

 温かい。
 この人の胸は、まるでその人となりを現すみたいに暖かかった。
 その腕に抱かれて、その胸に顔を埋めているだけで、足が地に着かないくらいの多幸感に洗われてしまう。
 足の裏からゾクゾクするような喜びの感覚が沸きあがってきて、それが私の背筋を通って登ってくる。
 そして脳天から爆ぜるように突き抜けていく。

 いつの間にか、私はこの人の腕の中に包まれている。
 頬を押し当てているのは、意外に筋肉質なこの人の胸板。
 親友のお兄さんの、固くて熱い、大胸筋。


 大きくて優しい掌が私の頭を撫でてくれている。
 指が太くて、力強くて。でも、そっと触れてくれてるその優しさはまるで私の心に直接触れているみたいだった。


「な、なにを、いきなり、言っているのよ」
 恥ずかしすぎてそんな言葉しか紡げない自分の舌を噛み切りたくなった。


「俺は黒猫のことが好きだ。黒猫のことが可愛くてたまんない。黒猫が大切で、大好きだ」

 呼吸が止まった。
 息ができない。
 胸の奥が苦しい。

 温かい波が胸の奥から湧き出てくる。
 全身の骨の芯が甘くなって溶けてしまいそう。
 この人の制服の背に掴まった掌さえ、力が抜けてしまう。
 体重をこの人に預けながら、息のできない胸で必死に声を出す。

「…わ……わた…し…わたしも、よ」
 必死に搾り出すようにそれだけを答えた。
 そう口にした途端、私の足は重力を感じられなくなった。
 宙に浮かんでいるかのような高揚感。
 この人が私を思ってくれているという喜び。
 私の好きだという気持ちをこの人に伝えられたという

 熱い。熱い、灼熱が私の唇を覆っていた。

 それがキスだと気付いたのは彼が私の頬に手を当てたときだった。
 舌が蕩けてしまいそう。

 唇から伝わってくる熱い感覚。

 涙で溢れた瞼を開いた。
 すると、その瞬間から世界が変わった。変わってしまった。
 彩りという言葉の意味を知った。
 世界が突如として色を持った。
 私が今まで見ていた世界の色は色じゃなかった。
 この人のことを好きになる前には考えられなかった。

 私の腕を掴んでいる太くて、力強い掌。
 それが私の手首を軽々と掴んで私の体を抱きしめている。

 言葉なんかにはできない。
 甘い甘い痺れがこの人に触れられた肌から伝わってくる。
 私の骨の芯を甘くしていく。
 グズグズに蕩かしていってしまう。





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最終更新:2011年03月14日 18:11
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