風(前編) 03

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*  *  *
『あと、一時間ほどで到着するでおじゃる』

 次の日曜日の午前十時頃、相変わらずヘンテコな言葉遣いのメールを沙織から受け取った俺は、新幹線が停車
する中央駅に向かった。
 いつものように、路面電車に乗り、終点で下車。そこからはこの街を南北に貫いている地下鉄に乗り換える。

「こんな骨董品ばかりで出来ている街に地下鉄とはね……」

 恐ろしくミスマッチなんだが、渋滞に巻き込まれたら身動きがとれなくなる路線バスよりも断然便利ではある。
 ただし、首都圏の地下鉄に比べて初乗りの料金が高めなのはいただけないけどな。

「ちと早めに来ちまったかな」

 駅の時刻表を見たところ、沙織と黒猫が乗った新幹線は、あと二十分ほどで到着するようだ。
 手持ち無沙汰な俺は、新幹線の改札口からコンコースをぶらぶらと所在無くうろついていたが、何とはなしに駅の
北口に出てしまっていた。

「そういや、こっちの方は、あんま来ないからな……」

 この中央駅辺りに足を向けたのは、大学受験の時と、合格して今の下宿屋に手荷物持って引っ越してきた時と、この
前の連休であやせを見送った時と、それに奨学金の申請書を親元に郵送するために駅前の中央郵便局に行った時く
らいだ。
 俺は、そんなことを思いながら、街並みをぼんやりと眺めていた。
 何らかの規制でもあるのか、この街には高層建築らしいものが見当たらない。そのせいで、千葉や東京の街並みを
見慣れた目には、えらく大昔の景観を見せられているような気分になる。

「ビル自体も古くさいのが多いけどな……」

 モルタルがねずみ色に変色した雑居ビルの一つに、原色を多用した、この街には場違いといえる派手な看板が
掛かっていた。
 アキバにある著名なアニメショップの支店が、あのビルにあるんだ。
 あの店があることは、大学受験を終えて、ひとまず千葉に戻る時に気が付いたが、未だに行ったことはない。
 この街に島流し同然に隠遁させられたことで、オタク趣味を持つ沙織や黒猫、それに桐乃との関係がぷっつりと
途絶えてしまった。
 もともと、積極的にオタク趣味にのめり込んでいなかったせいもあって、桐乃たちの影響がなくなってしまえば、
この種の店に足を向けようという気も失せてしまったようだ。

「それに、アキバを思い出させるような店は、あいつらのことも思い出させるから、辛いんだよな」

 だが、今日は、そのあいつらがやって来るんだ。俺は、腕時計で時刻を確認した。間もなく、あいつらが乗った新幹線
が到着する。


「京介氏ぃーーーーーーーーー!!」

 ぐるぐる眼鏡にバンダナ、それにチェックのカッターシャツの裾をジーンズに突っ込むという、相変わらずのオタク
ファッションの沙織が右手を高々と上げ、それをブンブンと振り回している。
 その傍らには、黒を基調としたゴスロリファッションで異彩を放つ黒猫が付き添っていた。

「お前ら!」

 本当に来てくれたんだな。首都圏から数百キロも離れたこの街に。
 先日、メールと電話で沙織と連絡した時には、あまり気に留めなかったが、首都圏からここに来るってのは、時間的に
も経済的にも、そうそう簡単じゃねぇからな。
 おっと、いけねぇ。不覚にも涙腺が緩みそうになっちまったぜ。そこをぐっとこらえて、改札口から出てきた沙織、それに
黒猫と、がっちりと握手をした。

「あら、もっとしょぼくれているかと思ったけど、意外にも元気そうなのね。肩透かしだわ……」

 赤いカラコンを嵌めた瞳を瞬きもさせずに、辛辣なことをさらっと言う。こいつも相変わらずだ。そのくせ、不意打ちの
ようにキスをしたり、『付き合ってください』とかをのたまうんだから、女ってずるいよな。

「まぁ、まぁ、黒猫氏も、不器用な照れ隠しはほどほどに……」

「照れだなんて、そんなことあるわけがないでしょう?」

 抗議しかけた黒猫に、沙織は、「チッ、チッ、チッ、チッ……」と、軽く舌打ちしながら、右の人差し指を振って見せた。

「そういう素直でないところが、黒猫氏の個性ではありますが、ここは素直に京介氏との再会を喜ばれた方が宜しかろ
うと思いまするぞ」

「……余計なお世話よ」

 恨めしげな半眼を沙織に向けていやがる。
 だが、沙織は沙織で、後頭部をポリポリと掻きながら、「いやぁ~。この黒猫氏のリアクションも、久方ぶりでござる」
なんて、余裕をかましていた。
 でも、本当に久しぶりだな、こんなやりとり。これに桐乃がいれば完璧なんだが……。

「それよりも、まずは、この街にあるアニメショップに行こうではありませんか。帰りの電車のことを考えますと、時間は限
られておりますからな」

「そうだな……」

 場を仕切るのは、いつだって沙織なんだ。サークルの主催者であるし、その正体は大富豪のお嬢様だからな。帝王学
とでも言うんだろうか。マネージメントのコツとか極意みたいなもんを、既に教え込まれているか、教えられなくても、沙織
自身が家族とのやりとりで自然に身に付けてきたのかも知れない。
 おそらく、保科さんもそうなんだろう。下々の俺には、想像も出来ねぇや。
 おっと、それはさておき、

「しかし、その店なんだが、思った以上にしょぼい感じだぜ」

 前述のように行ったことはなかったが、ちっぽけな雑居ビルの一角にあるってだけで、おおよその規模は分かるからな。

「それでも、ご当地特有のものがあるかも知れないでしょ? 遠路はるばるやって来た私たちを落胆させるようなことを
わざわざ口にするなんて、本当に気配りに欠けているのね」

 そりゃー、お前に言われたくねぇよ、と言ってやりたかったが、まぁ、やめておいた。
 こんな痛い台詞も、こいつの個性なんだからな。

 で、肝心のショップだったが、見事にアキバにある本店の劣化版だった。
 売り場の面積が本店よりも限られているから、どうしても売れ筋というか、メジャーなものばかりで、本場を知っている
俺たちには物足りなかった。

「う~~ん。まぁ、こんなもんでござろうか……」

 沙織も黒猫も、それほど落胆していないようだ。
 黒猫も口ではああ言ったものの、この店自体には、さほどの期待はしていなかったと見える。


「まぁ、東京とかに比べると、ちっぽけな街だからな……」

「拙者たちは、この店を目当てにこの街へ来た訳ではござらんから、お気になさらずに……」

 そうだよな。何だか面はゆいが、こいつらは、俺に会うためにやって来てくれたんだ。
 俺も、こいつらが楽しめるようなところに案内してやらないといけねぇ。
 だからと言って、これからどうするかはノーアイディアなんだけどな。

「とにかく、食事にしようぜ。ちょっと早いけど、今のうちなら、どの店も空いているだろう」

 何を食うかって? そりゃ、オタク連中にはジャンクフードが似合うのさ。
 俺も沙織も黒猫も、ひとまずは駅前のハンバーガーショップに入ることにした。

「で、午後はどうする?」

 この前のあやせのように、寺社を訪ねるってのも考えたが、沙織や黒猫が喜んでくれるかどうかは微妙だった。
 それに、保科さんと出くわした禅寺は微妙に行きづらい。
 保科さんの級友だってだけで、拝観料も、茶代も茶菓子代も受け取ってもらえなかったのが、何だか引け目になってしまっていた。

 どうしたものかと内心思案していた俺をよそに、沙織も黒猫も、黙々とハンバーガーと付け合わせのポテトを平らげ、
沙織に至っては、最後にコーラをストローでズウズウとすすり上げて、やおら、にんまりとした。

「もし、宜しければ、拙者にお任せあれ。以前から行ってみたかったエリアが、この街にはござる」

「あ、そ、そうなの?」

 ホスト形無しだな。まぁ、下宿と大学を往復するのが関の山の毎日じゃ、この街のことを何も分かっちゃいないも同然
だから仕方がない。

「あまり期待は出来そうにないけれど、沙織のおすすめが何なのか、少しだけ気にはなるわね……」

 黒猫も異存はないらしい。

「では、参りましょうぞ。まずは、駅前の七番のバス乗り場でバスに乗るのでござる」

「バスで行くのか?」

 沙織は、この街のガイドブックのバス路線網のページを開いて頷いている。
 市内のバス路線は、とんでもなく複雑で、渋滞にも嵌りやすいから、俺は滅多に乗ったことがなかった。

「まぁ、見知らぬ街を探訪するには、バスが一番でござるよ。地元の人がよく利用されるから、その街の個性というか
匂いというか、そんなものをじかに感じ取ることが出来るのでおじゃる」

「たしかに、そうかも知れないけどよ……」

 一つ路線を間違えただけで、バスってのはとんでもないところに行っちまうからなぁ。
 しかし、沙織は、自信たっぷりだから、こいつを信じて行ってみるか。
 こういう自信ありげなところも、サークルとかの主宰者に必須の資質なんだろうな。

「それでは、いざ、参ろうではござらんか」

 沙織に促されて俺たちはバス乗り場に向かうことにした。
 細長い島状のプラットフォームには、鉄パイプの先端に『市営バス 7番乗り場』とだけペンキで手書きされた丸い

鉄板が取り付けられ、その下には四角い鉄板にこれもペンキで手書きされた時刻表が申し訳程度にくっ付いている
ポールがぽつねんと突っ立っていた。このレトロなしょぼさが、いかにもこの街らしい。首都圏には、こんな一昔以上前
のバス停なんか、もうありゃしないからな。

「ありがたいことに、バスが待っていてくれてるぜ」

「でも、時刻表では間もなく発車時刻でこざるぞ。各々方、お急ぎを」

 沙織に言われ、あたふたと乗り込んだ途端、バスは身震いするようにブルブルとエンジンを始動し、ドアを閉じて動き
出した。

「間一髪ね。沙織と一緒だと、無駄にスリリングなことがあって、本当に飽きないわ……」

 黒猫の指摘は、毎度のことながらシニカルだが、俺も同意見だな。だが、それがいい。
 
 ガタゴトという騒音が目立つ、この街に似つかわしい古臭さを漂わせたバスに揺られること二十分。俺たちは、この
街の東側にある繁華街に行き着いた。
 この街が変わっている点はいくつもあるが、その一つは、中央駅の周辺には大手の百貨店とか中央郵便局とかが
あるにはあるが、繁華街と呼べるほどの賑わいはないことだ。
 本当の繁華街は、中央駅から離れた、盆地の中央付近に散在していた。
 これは、鉄道が古くからの街並みを避けて、盆地の南の縁をなぞるように敷設されたためだろう。
 新幹線が通るようになっても、この街が本当に賑わっているところは、昔も今も変わらないらしい。
 だが……、

「ここなの?」

 バスから降りた俺と黒猫は、沙織に訝るような視線を向けた。
 だって、繁華街とはいっても、大通りから狭くて薄暗い路地がいくつも延びているだけで、東京や千葉のそれとは
かなり趣きが違う。

「たしか、この路地で間違いないはずなんでおじゃるが……」

 沙織は、目当ての店のホームページか何かを印刷した紙切れで、その店の場所を確かめているようだった。

「いったい、俺たちをどこへ連れていくんだよ」

 ここに至っては、もう、俺の出る幕はねぇな。あとは、沙織だけが頼りだ。

 その沙織は、その紙切れに記されている住所と、電柱とかに書かれている番地とを見比べながら、目的地を探っている。

「交番で訊いた方がよかねぇか?」

 あ、そうは言っても、交番がどこにあるか分かってないよな。俺って、どんだけ間抜けなんだか。

「まだ、分からないの?」

 黒猫も、埒があきそうもない沙織にイラついてきたのか、赤い瞳から繰り出す視線が、心なしか刺々しい。
 だが、沙織は、時折、「う~~ん」と呻吟はするものの、磊落そのもので、紙切れに記されている住所とガイドブックの
地図とを照合し始めた。

「おお!!」

「わ、分かったんだな?!」


 沙織は、にんまりと頷いた。

「京介氏に、黒猫氏、気を揉ませたようで、あいすみませぬ。しかし、この路地に、目指す店がござるよ」

「ここか?」

 沙織には悪いが、思わず詰るように言っちまったぜ。
 だって、その路地は、狭くて、薄暗くって、入口付近にある洋品店は品揃えがどれも婆臭そうで、見るからに垢抜け
ない感じがしたからだ。
 どう見ても、地元のおばちゃん向け。それも、昨今の不況で寂れまくっている場末の商店街以外の何ものでもない。

「入り口の雰囲気が、何となくいただけないわね……」

 黒猫も容赦がない。たしかに、入り口からしてこの寂れようじゃ、奥の方はさらにどうしようもない状態だろう。
 おそらくは、シャッターが閉まった、廃業店舗が立ち並んでいるのが精々ではないかと思われた。

「まぁ、まぁ、ロクに見もしないで、結論を急いではなりませぬぞ。拙者が入手した事前情報によれば、この奥には、あっと
驚くような宝の山があるはずなのでござるよ」

 にぱっ! という感じで口元を緩めた沙織を見ていると、『そんなもんかいな……』という気がしてくるからな。実際、
今までも、沙織の見立てが外れたことはない。ここは、こいつを信じて、行ってみっか。
 俺と黒猫は、いつものように喜色満面といった風情の沙織に続いて、その路地に足を踏み入れた。

「うわ……。ここは、この街でも、極めつけにレトロだな」

 入口付近にあった垢抜けない洋品店の隣には呉服店があったが、振袖とかの派手なものばかりではなく、いつぞや
保科さんが着ていたような紬の反物が並んでいた。

「京介氏。ここのお店はなかなかいい反物が揃っているようでおじゃるぞ。そこの結城紬なんか、昨今珍しい草木染め
で、おそらくかなり昔に織られた、ビンテージ品でありましょうぞ」

「これがそうなの?」

 黒猫と俺はショーケース越しに沙織が指差す反物を一瞥し、それからプライスタグを見て仰天した。

「何だよ、こりゃ、軽く自動車が買える値段じゃねぇか!」

 一見、寂れたような店に、こんなもんがゴロゴロしてるんだぜ。本当に、この街は油断がならねぇな。

「その隣の隣は、おもちゃ屋だけど、品揃えが怪しい感じだわ」

 黒猫の指差す方向には、ブリキの玩具、セルロイドの人形、それにこの地方独特の独楽や凧等の郷土玩具が、所狭
しとカオスのように渾然とした状態で並べられている玩具店が、アーケードの薄暗い白熱電球に照らされて佇んでいた。

「冥界の眷属が経営しているのかしらね……。時の流れから取り残された、この世にあって、この世にない、そんな雰囲気ね……」

 そいつは俺も同感だな。白熱灯に照らされた人形の顔が、薄闇から浮かび上がって見えるんだからさ。

「こういうお店には、初期のガンプラとかも置いてあることが多いんでござるよ」

 品揃えは、昨今のレプリカなんかじゃなくて、デッドストック、つまりは大昔の新品未使用品ばかりのようだ。
 ただ、残念なことに、入り口には「本日休業」の札が掛けられていて、店の奥は真っ暗だった。
 いや、この方がよかったかな?

 なまじ踏み込んでしまっていたら、色々とお宝が出てきて、大散財ってことになったかも知れねぇからな。

 その後は、怪しげな漢方薬店、老舗っぽい和菓子屋、牛肉に衣をつけて揚げた『ビフカツ』を食べさせる店が続く。
 ついでだけど、この地方でカツっていうとトンカツよりも、このビフカツのことを指すらしい。

 ビフカツ屋を過ぎると、コッペパンやアンパンを自製して売っているこじんまりとした昔ながらのパン屋があり、
その隣に、沙織お目当ての店が並んでいた。

「おお、ここでござるよ!」

 下の階が一段低くなって半地下状になっていて、そこはモデルガンやエアガンのショップになっていた。その上の階、
一階と呼ぶべきか二階と呼ぶべきか中途半端な高さにある店は、軍の放出品を扱ういわゆるミリタリーショップのようだ。

「お前のお目当ては下の階か? それとも上か?」

 そういえば、こいつはサバイバルゲームにも関わっていたんだよな。
 昨年、横浜の自宅をアポなしで訪問したら、電動エアガンを手に迷彩服で登場しやがった。

「もちろん、両方でおじゃるよ。しかし、京介氏や黒猫氏にも楽しんでいただけるように、まずはファッションから攻めて
みましょうぞ」

「言っておくけど、私にあなたのようなミリオタ趣味はないわよ」

 咎めるような黒猫の視線を笑顔で受け流し、沙織は彼女の右手を取った。

「いやいや、黒猫氏にも絶対に気に入っていただけると思いまするぞ。この店は、軍の放出品と申しましても、ヨーロッパ
の、それも五十年代、六十年代のビンテージ物を主に扱っているという話でござる。昔の軍用品は、今のように機能一
点張りではござらんから、デザインも言うなれば時代がかった重厚なものにござる。素材も、良質のウールを惜しげもな
く使っていて、今では同じようなものを手に入れようとすると、大変な金額が掛かりそうなものがあるのでござるよ」

 ビンテージ物っていうと、保科さんの紬や、路地の入口付近で見た結城紬の反物を連想してしまった。

「そんな昔のものが残っているんだとしたら、とてつもなく高価なんじゃないか?」

「いやいや、そこが官給品の面白いところにござる。軍は、使用済又は未使用のままデッドストックとなった被服とかを
民間の業者に払い下げるのでござるが、その際に、購入した価額以上では払い下げ申さん。廃棄処分に準じる扱いだ
からでござるよ。加えて、昔と今とでは貨幣価値に大きな差がござる。今は昔に比べてインフレ状態でありますれば、軍
が購入した価額であっても、今となっては低廉ということにもなるのでござる」

「なるほどねぇ……」

 末は女流実業家間違いなしの沙織が言うと説得力あるよな。

「でも、中古品、つまりは廃棄処分になるような古着が多そうな感じだけど、大丈夫かしら……。私は、ボロをまとうような
グランジなファッションは願い下げよ」

 うわぁ、相変わらず遠慮がねぇな……。しかし、こいつの指摘も頷ける部分はある。
 俺も、『どうなんだ?』と問うつもりで、沙織のぐるぐる眼鏡のレンズ部分に目線を向けた。

「まぁ、『廃棄処分に準じる』というのは、いささか言い方に問題がござった。古着となったものにはそれなりにダメージ
があるものもござろうが、着られないほどのオンボロは扱ってはおらぬようですぞ。それに、この店は、新品未使用の
デッドストックを出来るだけ多く扱うようにしているとのことでござる」

「そう、新品があるというのなら、まぁ、救いがあるわね。でも……」


 沙織に手を引かれたままの黒猫は、ためらうように背を丸め、腰が引けていた。
 どうやら、オタはオタでも、ジャンルの違う世界に踏み込むのが内心は怖いんだろう。強気な発言ばかりが目立つが、
その実、人見知りしがちな黒猫の、悪く言えば弱さ、よく言えば繊細さ故なんだろう。

「なぁ、お前の趣味には合わないかも知れないけど、せっかく沙織が連れてきてくれたんだ。入るだけは入ってみようぜ」

「…………………」

 黒猫は、赤い瞳を俺に向け、暫し無言だったが、やおら、こっくりと頷いた。

「黒猫氏も、百聞は一見にしかずでござる。なに、入ってみて趣味に合わないようであれば、早々に退散しましょうぞ」

 俺たちは沙織を先頭に、沙織に手を引かれた黒猫、そして俺が、上階のミリタリーショップへと入って行った。

「古着特有の匂いかしら……」

 黒猫が、本当に猫のように鼻をひくつかせながら呟いた。
 たしかに、体育倉庫のような埃臭さと、箪笥を開けた時に感じるウール特有の匂いと、防虫剤らしい薬品臭さが店内
には漂っていた。

「でも、そんなに嫌な匂いじゃねぇな。俺はあんまり気にならない」

 意外にも店内は整理整頓が行き届いていて、アイテムが国別にまとめられていた。
 コートやジャケット等の被服類はハンガーにきちんと掛けられ、時計や飛行機か何かの計器とかのメカは、ガラス
ケースにきちんと収められている。

「う~~ん、何と申すべきか……、若者向けのファッションの店みたいで、これはこれで宜しいのでござろうが……」

 迷彩服も着こなす沙織にしてみれば、もっと雑然としていた方が、放出品を扱う店っぽいとでも思っていたんだろう。
だが、それが、いい意味で肩透かしを喰らったらしい。

「俺みたいな素人は、こうしたきちんとした店の方が、好みのアイテムを見つけやすくて助かるけどな」

「それもそうでおじゃるな……。ひとまずは、各々方で、めぼしい物がないか個別に探索してみてはいかがでござろう」

「え? お、おい!」

 言うが早いか、沙織は俺たちをその場に残して、店の奥の方へと進んでいく。
 ミリタリーものには正直疎い俺は、正直、どこから見ていいものか見当もつかない。それは黒猫も同様らしかった。

「よかったら、一緒に品物を見て回らない?」

「そうだな、俺も、軍の放出品を持っていないわけじゃねぇが、沙織ほどのオタじゃねぇからな……」

 俺が持っている軍の放出品と言えば、あやせと一緒に出かけた時に着ていた戦車兵用のジャケットだけだからな。

「沙織は、サバゲーもこなすミリオタですもの。彼女は特別よ……。いろんな意味で……」

「そいつは、たしかにそうだよな……」

 沙織が本当は何者なのか、例えば、沙織の実家がどこにあって、沙織の一族がどんなビジネスをしているのか、俺も
黒猫も皆目分かっていない。
 もしかしたら、こうして俺たちを率いて遊んでいるのも、実業家たるための訓練の一環なのかも知れない。

 そう考えると、俺も黒猫も、そして桐乃も、体よく沙織の訓練に付き合わされているようなものなんだろう。
 だが、それでいい。束の間であれ、こうして一緒に過ごすことが出来て、それが楽しいんだ。
 何の不足もない。少なくとも、この俺には。

「旧ソ連とか、中共のは野暮ったくて、いただけないわね……」

 国別の区分けには、ロシアや中国以外にも、クロアチアとか、チェコとか、ブルガリアとか旧東側のものあったが、ここ
は無難に西側のグッズから攻めることにした。
 俺と黒猫が佇んでいるところの間近には、『フランス軍』と『ドイツ連邦軍』の区分けがあって、コートやら、ジャケット
やらの被服が、一列になってハンガーラックで吊るされていた。
 その多くは、usedらしい、くたびれた感じが否めないものだったが、闇雲同然に手さぐりで吊るされている被服類をま
さぐっていたら、明らかに新品と思しき毛織物の感触を俺の指先は感じ取った。

「何だか知らねぇけど、こいつは古着じゃなくてデッドストックみたいだぜ」

「そう……、でも、手さぐりじゃ何が何だか分からないでしょうに……」

「たしかにそうだが、何か、こいつはとんでもない掘り出し物のような感じがするんだよな」

 俺は、半ば冗談で、そんなことを口にした。だが、実際に、探り当てた商品をハンガーから外して手に取ってみて、それ
が本当に掘り出し物であることに俺はもちろん、黒猫も仰天した。

「な、何じゃこりゃ……」

「マ、マント、なんじゃないかしら……」

 重量感のあるウールの生地で出来てはいたが、その形状はまさしくマントだった。色は、漆黒に近い濃紺で、本当に
闇の眷属あたりが着用しそうな雰囲気だ。
 商品のタグには、『フランス軍ウール・ケープ デッドストック』とだけ書いてあった。肝心の年代が不明だったが、
おそらくは、五十年代、下手をすれば四十年代というところだろう。とんでもないビンテージ品だ。

「き、着てみるか?」

「う、うん……」

 元々は男性用だから、黒猫にはサイズ的にどうかと思ったが、黒猫の足首よりもちょっと上という辺りに裾がくる程度
で、これなら無様に引きずったりしないだろう。
 というか、これぐらい裾が長い方が、往年のマントらしい感じがする。

「おい、おい、似合うぜ!」

「……お世辞なんて、陳腐なことを言わないでもらいたいわ……」

「いや、本当に似合っているんだぜ」

 黒を基調としたゴスロリファッションをすっぽりと覆うマント。本当に決まりすぎて怖いくらいだった。
 このマントが、これほど似合う奴ってのは、世の中にそうは居そうもない。
 しかし、これも軍の制服だったんだな。こんなのが制服だったなんて、フランス、というか時代が時代だったんだろうか。
 いずれにしても半端ねぇぜ。

「おお! 黒猫氏、お似合いではござらんか」

 何やら、コート類を漁っていたらしい沙織も、マントを着た黒猫に気が付いた。

「だろ? ゴシック調のファッションが似合うから、こいつにマントは本当にマッチするよな」


「そ、そんなに似合うの?」

「ああ、掛け値なしに似合うぜ。何なら、そこの姿見で確認してみろよ」

「う、うん……」

 店内の大きな鏡には、黒っぽいマントを纏った黒猫の姿が映し出された。
 黒猫は、自分の姿に初めは戸惑いを覚えたのか、口を真一文字に引き結び、背筋を伸ばすようにして身を強張らせ
ていた。だが、やがて、おずおずとではあるが、首を左右に回したり、上体をひねったりして、ポーズをとり始めた。

「やっぱり似合うじゃねぇか。それと、着心地はどうだ?」

「悪くないわね。重くてどうしようもないかと思ったけど、着てみると、意外に重さは気にならないわ」

 クールであるはずの黒猫が、頬を微かに染めている。
 日常的にゴスロリファッションでキメているくせに、マントくらいで気恥ずかしいのだろうか。こいつにも結構かわいい
ところがあるじゃねぇか。
 やがて黒猫は、得心したかのように、鏡に映る自分に向かって、こっくりと頷いた。購入することにしたらしい。

「虫食いとかのダメージがないかどうかも、今のうちに確認しておいた方がいいだろうな」

 多少のダメージは、裁縫が得意な黒猫のことだから問題にはならないだろう。
 だが、購入前に知っていた方が、購入後に分かるよりも、後々の精神衛生上いいからな。

「それは、問題なさそうね。虫食いもないし、縫製に問題があるような箇所もなさそうね」

「そういや、いくらなんだろうな?」

 この期に及ぶまで、俺も黒猫も未だにプライスタグを確認していなかった。

「消費税込みで九千八百円……。本当にとんでもない掘り出し物ね……」

「桁が一つ間違っているんじゃねぇか? 最近の英国のブランドものコートなんか、中国で作らせているらしいのに、
その十倍はしやがるぞ」

 俺たちは、念のために、もう一度、アラビア数字で『9,800円』と書かれているタグを確認した。
 何度見ても、九と八の右には零が二つしかない。

「沙織が言ったように、本当に放出品って、とんでもないお宝があるものなのね……」

「だな……」

 意匠だって洗練されている。下手なデザイナーズブランドとかよりもよっぽどセンスがいい。

「それはそうと、あなたは何も買わないの?」

 先月は引越しとか、教材や書籍の購入とかで物入りだったが、今月は、先月とかに比べれば、予算には少しは余裕
がある。
 仕送りが減額されるおそれはあるが、不確定要素に怯えているのも何だかバカらしい。

「うん、俺もジャケットか何かを買うことにするよ」

「どんなジャケットが欲しいの? ジャンパーみたいな奴とか?」

「いや、そうしたもんは既にあるから、出来ればブレザーみたいなジャケットが欲しいんだ」


「そんなものが都合よくあるかしら……」

 たしかに……。軍のジャケットっていうと、フライトジャケットとか、俺のジャケットみたいなブルゾン形式か、あとは何
だか作業服っぽい野戦服ってのが相場だからな。
 だが、各国の海軍の制服は、濃紺のウール地に金ボタンのブレザーというのが大半だから、もしかしたら、俺の好み
通りのブツが見つかる可能性が全くない訳じゃない。

「フランス軍の隣はドイツ軍の被服なんだな」

 『ドイツ連邦軍』と記された札が掛かっているハンガーラックには、黒猫が買うことになったマントが見つかったフラン
ス軍の被服が掛かっているハンガーラックと同様に、コートやジャケット類がぎっしりと収められていた。
 その多くは、緑色系の陸軍の野戦服だったが、一部分、全体の二、三割ほどが、濃紺の服で占められている。

「何だか、色だけは紺色のブレザーっぽいのがあるようね」

「そんな感じだな。もし、本当にブレザーなら、願ったり叶ったりだ」

 俺は、その濃紺の服が集まっている辺りから、おもむろに一着を取り出してみた。
 前身頃に金色のボタンが二列に設けられたそれは、濃紺のダブルのブレザーそのものだった。

「これが軍服?」

「普通にブレザーだよな」

 これなら、ドレスシャツとネクタイ以外に、白系のタートルネックの薄手のセーターに合わせるとかの着こなしが出来
そうだ。
 肩も普通のスーツなんかと同じで、階級章とかを付けるエポレット等はない。
 金ボタンに錨のマークがレリーフになっている点を除けば、海軍のものらしい雰囲気は皆無だ。それだけに、普段でも
抵抗なく着用できるだろう。

「サイズはどう?」

 手元にあるのは日本の寸法換算でM寸相当だった。改めてハンガーラックを探ると、L寸相当の品も見つかった。
 どちらかというと細身である俺の体格だとLかMかで悩むところだが、まずはLを着用してみた。外国の、それも軍
用だから、筋骨隆々の大男が本来は着用するようなものなんだろう。多少はブカブカなことを覚悟した。

「お、何だこりゃ。ずいぶんとスリムに作られていやがる」

 肩幅、胸囲りは、誂えたようにぴったりだった。袖丈もちょうどいい。

「すごく似合うわね」

 相変わらず抑揚に乏しい口調で黒猫がぽつりと言った。
 だが、変に感情を込めてない言い方こそが、黒猫の偽りない気持ちを現しているんだろう。

「ダブルのブレザーってのは、一度着てみたかったんだ。だけど、洋品店では、細身の俺にはダブルは似合わないって
言われてな、それで今まで着てこなかったのさ」

「そんなことはないでしょ。その店員の見立てが間違っていたのよ。多分、昔の映画とかで、恰幅のいいギャングのボス
とかが、好んでダブルの服を着ていたから、ダブルは細身の人には似合わないっていう先入観が生まれたんでしょうね。
要は、思考力のないバカな連中の戯言に過ぎないわ」

「俺を擁護してくれているんだろうが、その言い方は……ちょっとなぁ……」


 その後は、『お前、そうした毒のある言い方、そろそろ考え直した方がいいぞ』とでも続けたかったが、やめておいた。

「でも、現に、細身のあなたに海軍のダブルのブレザーが似合っている。体格がよくなければダブルは似合わないって
のは、結局は迷信みたいなものなのよ。要するに、バカな奴ほど、変な先入観とか、偏見とかでものを判断するのね。
個々の事象でものを考えない。だから愚かなんだわ。人間は……」

「…………………」

 そう、どこまで行っても、黒猫は黒猫なんだ。俺なんかが忠告出来るような存在なんかじゃない。

「ところで、その海軍の制服だけど、結局は買うの? 買わないの?」

「買うことにするよ。値段も驚きの三千八百円だしな」

 ちゃんとしたウール地で、ほつれがどこにもない完璧なデッドストックだった。それでこの値段なんだからな。
 放出品恐るべし。
 何にせよ、俺みたいな貧乏学生にはありがたい。これからは、この店で、衣類を調達することになりそうだな。

 俺は、L寸のブレザーを着たままで、M寸の物をハンガーラックに戻した。
 Lでジャストフィットだったから、Mじゃきつくてどうしようもないのは明らかだ。

「おお、京介氏、お似合いではござらんか!」

 その声で振り返ると、灰色のロングコートを着てご満悦の沙織が、にぱっ、と微笑していた。
 裾が膝下まで届くそのコートは、前身頃がダブルで、袖先が折り返しになっているのが印象的だった。どっかで見た
ことがあるようなコートだな、と思ったら、戦争映画とかに出てくるナチスの将校が着ていた物にそっくりだった。

「お前、すごいコートを着ているな。ナチスの将校かと思ったぜ」

「おお、さすがは京介氏。しかし、ナチスのコートではござらん。これはスウェーデンの将校用のコートにござる。デザイン
は、往年のナチスのコートに酷似しておりますが、ヨーロッパの軍用コートというものは、大体がこんなデザインなんで
ござるよ」

 それにしても、かっこいいな。
 そういえば、男性用なのにこれも結構細身に出来ているようで、沙織が着ても、ダブついた感じがしていなかった。

「沙織は、上背があるからな。こうした海外ものは似合うんだろう」

「いやいや、ヨーロッパの軍服は、思いのほか細身に出来ているのでござるよ。その辺が、米軍のものとは大きく違う
ところでござる」

「そうなのね……」

 そう呟いて、黒猫は、ブレザー姿の俺を見ている。
 どうりで、痩せている俺にもドイツ軍のブレザーが似合ったわけだ。

「京介氏のブレザーもなかなかの掘り出し物でござるが、黒猫氏は、また、とんでもない値打ち物を見つけましたな。
先ほども申しましたが、とてもお似合いでござるよ」

 そういえば、黒猫もマントを羽織ったままだった。

「そう……。闇の眷属にふさわしいマントでしょ?」

 褒められてまんざらでもないのか、黒猫は、右手をゆっくりと斜め上に伸ばし、マントの裾を優雅にはためかせた。
 生地が分厚いから、普通なら冬場にしか着れそうもないが、黒猫なら夏コミでも根性で着こなしそうだ。


 買う物も決まったので、レジで清算した。沙織のコートも、しなやかなウール地で出来ていて、仕立てもよいのだが、
usedということもあってか、六千円もしなかったようだ。


「さて、次は、階下でモデルガンを見てみましょうぞ」

 黒猫はもちろん、俺も、モデルガンとか、エアガンの類にはあまり興味はなかったが、他ならぬこの店に連れてきて
くれた沙織が行きたがっているのだ。それを拒絶するわけにはいかないよな。

 階段を下りて、商店街の通りよりも一段低くなった店舗に入ると、そこは、黒光りするモデルガンやエアガンであふれ
ていた。

「すげぇな……」

 おもちゃ屋とか、模型店の一角でモデルガンとかが売られていることしか知らない俺にとって、モデルガン専門店に
足を踏み入れたのは、これが最初だったかも知れない。

「こうした魔道具もよいものね……」

 黒猫も銃器類に多少は興味が出てきたらしい。ベクトルは多少違っていても、オタクという点では、沙織とも共通点
があるんだろう。

「それにしても、この店は、最新式の電動エアガンはもちろん、今や希少となった金属モデルガンが多数ありますぞ」

 沙織が指さした方には、金色に輝くハンドガンが展示されているコーナーがあった。

「売り物なのかな?」

 今はBB弾を打ち出すエアガンが主流で、そうではない昔ながらの金属製のモデルガンは、あまり製造されていな
いということを、以前に沙織あたりから聞いたような気がする。
 だとすれば、金属製のモデルガンは単に展示してあるだけで、非売品かも知れない。

「値札が付いているわね」

 黒猫の指摘に、ガラスケースの中に目をやると、各々のモデルガンの銃身あたりに、切手サイズぐらいの手書きの
値札が白い糸でくくりつけられていた。

「一応は、売り物のようでござるな……」

 しかし、値段が値段だ。
 プラスチック製のエアガンというか、フロンガスで実銃っぽく動くブローバック・ガスガンが一万円強というところを、
金属製のモデルガンは、どれも二万円以上するんだ。
 金属製の方がコストが高いのだろうし、今や希少となったこともプライスに影響しているんだろう。

「俺にゃあ、おいそれと買えるもんじゃねぇなあ……」

 沙織は別だろうがな。
 しかし、今の俺に比べれば多少はマシな程度の資本力しかないであろう黒猫が、ガラスケースの中を食い入るように
見詰めている。

「何事でおじゃるかな? 黒猫氏」

 沙織の指摘に、黒猫は無言で、右手の人差し指をガラスケースの中に向かって突き出した。
 そこには、精密な彫刻が施された金色の拳銃が、黒い十字型をした勲章のようなものとセットになって展示されていた。

「おお、黒猫氏、お目が高い。これは、ナチスの大立者で、国家元帥だったヘルマン・ゲーリング愛用のルガーを忠実に
再現したモデルですぞ」

「そうなの……」

 そのあっさりとした返答で、黒猫の興味の対象が、モデルガン本体ではなく、それに付随しているものであると分かった。

「なぁ、拳銃の隣にある勲章みたいなもんは何なんだ?」

「あれは、騎士鉄十字章でござる。ナチスドイツにおいて、軍人が獲得し得る最高の戦功章で、受章者は当時、ドイツ社
会で英雄とみなされ申した」

「そういう代物なんだ……」

 中央に鉤十字がレリーフになっているのは好みが分かれるだろうが、周囲を銀色の金属で縁取りされた黒い十字は、
いかにも黒猫が好みそうな意匠だった。

「モデルガンじゃなくて、あの勲章が欲しいんだな?」

 俺の問い掛けに黒猫は、こっくりと頷いた。
 だが値札には、三万六千円と記されている。

「ちょっとなぁ……、甲斐性なしの俺には、不可能に近い金額だぜ……」

 昨年のコミケで御鏡が作ったシルバーアクセサリーを買ったように、目の前にある騎士鉄十字章をモデルガンごと
黒猫に買ってやりたかった。だが、それは金額的には到底不可能だった。

「……別にいいわよ……。それほど欲しいと思った訳じゃないから」

 そう言いながらも、目は勲章に釘付けになったままだ。こいつは、こういうところで嘘がバレるんだよな。
 さて、どうしたものか。

 沙織も、下顎に手を当てて、何やら考えているような雰囲気だった。
 その沙織が、決心したかの如く口元を一文字に引き結び、何かを確かめるかのように、軽く頷いたように見えた。

「黒猫氏、そのモデルガンと騎士鉄十字章は、拙者が購入致しますぞ」

「そう……、沙織が買うのなら仕方がないわね」

 資本力がある者が、欲しい物を優先的に手に入れる。
 古今東西から変わらぬ、商取引の原則の一つだ。
 だが、沙織には、金にあかせて何かを買い占めるというような下品な振る舞いは、およそ似合わない。
 沙織のことだ。購入したモデルガンと騎士鉄十字章のうち、後者を黒猫に譲るつもりなんだろう。
 そうすることで黒猫は目当ての勲章を入手できる。だが、黒猫の自尊心はどうなんるんだ。

「でも……、施しだったらいらないわ……」

 案の定、誇り高き闇の眷属は、沙織の狙いをお見通しだった。
 ささやかだが、腹の底から搾り出されたような黒猫の抗議の声に、沙織は、口元を『ω』な風にすぼめ、後頭部をポリ
ポリと引っ掻いた。

「いや、いや、黒猫氏、それは早合点というものにござるよ。拙者、別に黒猫氏にその騎士鉄十字章を差し上げたくて、
モデルガンを買うわけではござらん。純粋に、彫刻が施されたルガーが欲しいから買うまででござる。然るに、拙者に
とって、その騎士鉄十字章は無用の物ゆえ、黒猫氏に譲渡するというわけでおじゃるよ」

「いや、だから……、沙織の好意は分かるが、勲章を只で貰う黒猫のプライドはどうなるんだよ」

 詰るつもりはなかったんだが、ついついきつい言い方になっちまったかも知れない。
 ぐるぐる眼鏡の奥にある沙織の瞳が、微かに色を帯びたような気がした。

「京介氏、拙者はいつ、『只』などと申しましたかな? 拙者は騎士鉄十字章を黒猫氏に譲渡するとだけ申した。黒猫
氏さえ宜しければ、相当の対価をお支払いいただいた上で、拙者は騎士鉄十字章を黒猫氏に譲渡する。これならいか
がでござろう」

「お、おう、たしかに……」

 さすがは未来のエグゼクティブだな。一瞬だが、いつもへらへら笑っている時とは、まるで違う迫力に圧倒された。
 それに、相当の対価を条件に騎士鉄十字章を黒猫に譲渡する。商取引の原則にも適っているじゃねぇか。

「……それでいいわ……」

 それなりの対価を支払うのであれば、黒猫の自尊心も傷付かない。
 今さらながら、沙織って奴のマネージメントの上手さを思い知らされたな。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに、沙織は店員にそのモデルガンと騎士鉄十字章のセットを購入する旨を告
げ、レジで代金を支払っていた。

「おお、京介氏、いかがなされましたかな? 拙者と黒猫氏は、ここでの買い物は済みましてござるよ。京介氏にこの店
での買い物とかがないようでしたら、そろそろお茶の時間に致しとうござるが、宜しいですかな?」

 先ほどの迫力は微塵も感じさせない、屈託のない笑顔だった。
 その笑顔を前に、俺は、「あ、ああ……」といった気抜けした返事をしちまったな。
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最終更新:2011年07月26日 22:57
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