風(前編) 04

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「では、この商店街を抜けましょうぞ。ここを抜けると、この街でも一番大きな神社の前に続く大通りに出るはずでおじゃ
る。その大通りを神社の方に向かって行くと、この街でも指折りの歴史を持つ老舗のホテルがありますれば、そこのホテ
ルの喫茶室でお茶でもいただきましょうぞ」

 そう言うと、右手にスウェーデン軍のコートが入った紙袋を、左手に先ほど購入したモデルガンと騎士鉄十字章が
入った紙袋をそれぞれ提げて、颯爽と歩き出した。
 なんだかんだ言っても、場を仕切るのは、いつも沙織なんだ。
 俺は、苦笑すると、沙織のすぐ背後に居て、マントの入った紙袋を大事そうに抱えた黒猫を追いかけるようにして、
歩き出した。

 薄暗いアーケードは、その後もしばらくは続き、琴や三味線等の和楽器を扱う店、茶と茶道具を扱う店とか、いかにも
この街らしい老舗が軒を連ねていた。

「こんなバーもあるのね……」

 和風な店の並びに、忽然と重厚なレンガ造りのショットバーらしきものが現れた。
 レンガの角が丸まっているところとか、漆喰の黒ずみ具合とかで、その建物も相当に古いであろうことが分かった。
 おそらくは、昭和初期か、下手すれば大正の頃に出来たのかも知れない。

「真昼間だから、今の時間は閉店してるんだな」

 未成年の俺たちは、当分はお呼びでないところなんだが、いずれ、分別がついた大人になれたら来てみたい店だ。
 そのとき、俺は独りさびしく飲んでいるんだろうか。それとも、気心の知れた仲間と一緒なんだろうか、又は、伴侶と
なるような女性を伴っているんだろうか。

「あそこの和菓子屋が、この商店街の最後の店のようでござる」

 餡の入った生麩を笹でくるんだ菓子が売られていた。この類の菓子は、さすがに田村屋でも作っていなかったな。
 どうやら、この地方独特のものらしい。
 その店の前を通り過ぎると、アーケードは終わりだった。

「アーケードを抜けると、こんなにも明るかったんだな……」

 片側二車線の大通りには、初夏の陽光が降り注いでいた。
 薄暗い白熱灯でぼんやりと照らされていた、あの商店街は、この大通りに出てみると、異空間だったんじゃないか
という気がしてくる。
 それに、アーケードの中は、地元の人間が圧倒的に多いような感じだったが、この大通りは、よそ行きというほどでも
ないんだろうが、ちょっと派手めな服を着て、二、三人で連れだってあちこちをきょろきょろと見渡しながら歩く、旅行者っ
ぽいのが目立っていた。

「おお、あれが目指すホテルのようでござるぞ。あちらの喫茶室か何かで、お茶でも飲みながら、各々方がご購入なされ
た品々を吟味致しましょうぞ」

 沙織が右手を突き出した方向には、都心のホテルとかに比べると、こじんまりしていて古びてはいるものの、佇まいに
老舗らしい風格があるホテルが建っていた。

「あのホテルなんだな?」

 名前だけは、俺も聞いたことがあった。
 何でも、地元の者は、ここで披露宴をするのが一種のステータスであることを下宿の女主人が言っていた。
 それが本当かどうかは分からないが、とにかく格式あるホテルであることはたしかなようだ。

「何となく敷居が高そう……。コーヒー一杯だけで二千円も取ったりしないでしょうね?」

 黒猫が、赤い瞳で沙織の顔を訝しげにねめつけている。
 コーヒー一杯だけで二千円というのは、さすがにないとは思いたいが、本当のところはどうだか分からないからな。
 それに、典型的なオタクファッションの沙織に、異彩を放つゴスロリファッションの黒猫、あ、ついでに垢抜けない学生
の雰囲気丸出しの俺が行っても大丈夫なのか? 入ろうとした途端に、体よく門前払いとかは、かなり凹むからな。

「どうなんだ? 茶代も気がかりだが、そもそも、俺たちなんかでも入れそうなところなのか?」

 まさかとは思うが、本当はセレブに属する沙織の根回しとかがあって、こんな場違いな格好でも、喫茶室に入れたり
して……。
 だが、当の沙織は……、

「え~と、このホテルの喫茶室は……」

 ガイドブックを開いて何やらブツブツと呟いている。
 どうやら、沙織も、そのホテルでは『一見さん』に過ぎないらしい。
 こりゃ、身なりとか、古着が入った紙袋を抱えている怪しさとかでペケかも知れねぇな。

 だが、ここまで来て引き返すのも癪な話だ。
 俺たちのことはお構いなしに、ずんずん先を行く沙織の後に、ひとまずは従うしかない。
 その沙織は、今や、他所ではほとんど見られなくなった、手動式の回転ドアを右手で押している。俺と黒猫も、沙織の
すぐ背後にへばりつくようにして、ホテルのロビーに足を踏み入れた。
 広さ自体は、都心のホテルと大差はない感じだったが、高い天井と、その天井付近に、フレスコ画なんだろうか、空と
雲と、雪を抱いた山々と、豊穣の緑野が、うっすらとした色使いで描かれているのが、まずは目についた。


「おお! 天井のフレスコ画も含めて、これは紛れもなく、戦前以前の物件でしょうな。絵もすばらしいですが、灰色の大
理石を磨き上げ、要所に彫刻を施した、いい仕事をしておりますぞ。今となっては、こうした良質の石材は少のうござるし、
何よりも、このようなすばらしい彫刻やフレスコ画を施せる職人は居りませぬ。したがって、これと同じようなホテルは、
もう建てられないでしょうな」

「緋色の絨毯に、暗灰色の石材。魔界の者が棲み付きそうな雰囲気とでも、言うべきかしら」

 石材の色は、どちらかというとニュートラルグレーなんだけどな。シックな雰囲気も、黒猫にかかれば、万事がこんな
調子だ。
 たしかに暗い感じはするが、今風の、何が何でも明るい雰囲気ってのは、無理に元気を装っているというか、空々し
いっていうか、とにかく薄っぺらな感じは否めないからな。俺みたいな地味な奴は、こうした適度に暗い方が何となく
落ち着くし、そこはかとなく感じられるノスタルジーが好きだ。
 そういや、さっき買い物をした商店街も、薄暗くてノスタルジーを感じさせるってところは同じだな。通っている大学の
建物も古臭いが、その方が俺にとっては居心地がいい。

「で、喫茶室でおじゃるが……」

 ロビーのすばらしさに気を取られて、ここへ来た本来の目的を一時失念していた。
 ホテルの喫茶室は、宿泊客以外も利用しやすいように、というか、宿泊客でないよそ者は出来るだけ奥へは入れな
いようにするため、大概は一階にあるもんだ。
 果たせるかな。ロビーの右側には『喫茶室』と書かれた札が下がっている入り口が、観音開きになっている重厚な扉
を開けて控えていた。

「とにかく、入ってみましょうぞ」

 黒猫が指摘したように、敷居が高そうで、俺たちは場違いな存在そのものという感じなんだが、沙織のみならず黒猫
までが、

「とにかく、堂々としていれば、係りの者も何も文句は言えないでしょうね」

 と言って、心持ち胸を張って、扉をくぐっていく。俺も、彼女らに続いた。男子たる者が怯んでどうする。

「こっちは、ロビーと違って、明るい雰囲気なんだな」

 壁の色はベージュで、テーブルとかの調度品も黒を基調とした落ち着いた雰囲気の物だったが、東側と南側が
ガラス張りとでも表現出来そうなほどの広い窓で覆われており、そこから外の光が白いレースのカーテンを通して、
やんわりと導かれていた。

「シックな雰囲気なのに明るい……。悪くないわね」

 俺も同感だな。何でもかんでも白系統の色で統一して、無理やりに明るさを演出したようなのは、どうにもいただけない。

 そんなことを言い合いながら、俺たちは、喫茶室の入り口付近に三人で固まって、ウェイターを待った。
 俺たちの存在に気付いた黒いスーツに蝶ネクタイがよく似合う長身の初老の男性が近づいてきた。
 フロアマネージャーとか給仕長といったところだろうか。
 門前払いか否か、ちょっとした正念場といった雰囲気に、俺は下げていた両手の拳を、ぐっと握り締めた。

「三名様でいらっしゃいますか?」

 もしかしたら慇懃無礼という感じがしないではなかったが、あくまでも穏やかな物腰だった。

「そうです。わたくしども三名、こちらでお茶をいただきたいのですが、宜しいでしょうか?」

 いつもの変てこな言葉遣いではなく、育ちのよさを窺わせる穏やかな言い方だった。
 いや、この言い方こそが、本来の沙織なんだよな。

 フロアマネージャーらしい初老の男性は、沙織の一言に一瞬意外そうに瞠目したような感じだった。
 オタク丸出しの垢抜けない大女から、令嬢のような応答があるとは思っていなかったんだろう。
 だが、一瞬意外に思っても、その初老の男性は、沙織の本質を見抜いたのかも知れない。

「それでしたら、窓際にお席をご用意できます。どうぞ、こちらへ……」

 接客を長くやっているんだろうから、人を見掛だけでは判断しないんだな。
 初老のウェイターは、俺たちのそれぞれのために、椅子を引いて、その椅子に座るように促すと、

「では、ご注文がお決まりでしたら、お呼びください」

 とだけ告げて、フロアの端の方へと引っ込んで行った。一連の所作が流れるようで無駄がない。プロだな……。

「さて、各々方、何をいただくか決めようではござらんか」

 メニューを開いてみた。

「意外にリーズナブルな感じかしら……」

 『コーヒー一杯で二千円』とか言っていた黒猫が、ほっとしたように呟いた。

「ここは、コーヒーだけじゃなくて、紅茶も充実しているだな」

 メニューには、『ダージリン 850円』、『アッサム 800円』とか、産地別にいくつかの紅茶の種類が列挙されていた。

「まぁ、少々お高いですが、紅茶はポットで供されるようですぞ。そうであれば、むしろ、割安でござろう」

 たしかにな。ポットだったら、少なくとも二杯は飲めるだろうから、決して高くはない。
 俺は、スリランカ産のウバをミルクティーで頼むことにした。黒猫と沙織は、ダージリンをやはりミルクティーで頼むようだ。

「ケーキもあるのね……」

 俺はそんなに甘い物に執着はないからパスだったが、黒猫と沙織はチョコレートを使ったザッハトルテを注文した。

「では、黒猫氏。お茶とケーキが来るまでの間に、例の騎士鉄十字章の譲渡についての商談を致しましょうぞ」

「そうね……」

「なら、俺はちょっと席を外すよ。当事者たちだけの方が、具体的な金額を交渉しやすいだろうしさ」

 俺は、右掌を二人に向けて軽く振りながら立ち上がった。
 そういえば、携帯はマナーモードにして、メールも全然チェックしていなかったからな。
 買い物の途中で、携帯が振動したような気がしたが、面倒臭かったから無視していた。

 喫茶室を出て、ロビーの片隅に佇んだ俺は、携帯電話機を開き、メールや電話の着信を確認した。
 着信があったとしても、どうせスパムか何かだろう程度にしか思わなかった。何せ、実家や桐乃とは、通話やメールは
ご法度だったし、頼れる友人である赤城とは麻奈実を巡って微妙な関係になっちまったんだ。メールを寄越しそうな
沙織や黒猫は、今は一緒に行動している。だから、まっとうな相手からの連絡はまず考えられない。だが……、

「げっ!!」


 俺は、メールの着信リストに、新垣あやせからのものを認めて絶句した。
 しまった、久しぶりに黒猫や沙織に会えたんで、こいつのことをすっかり忘れていた。

「け、件名が、『大至急電話をください!』だとぉ?!」

 件名からしてヤバそうな雰囲気がプンプンする。
 俺は、震える指で、そのメールを選択して、読み始めた。

『お兄さん! どういうことですか?!
今しがた、五更先輩から、彼女がお兄さんの住む街に行っているっていう挑発的なメールが届きました。
どういうことですか? 今すぐ電話で説明してください。
ことと次第によっては、ブチ殺しますよ!!』

「(うわあっ!)」

 なんてこった! 
 その場で頭を抱えて絶叫したかったが、ここは閑静なロビーだ。俺は、歯噛みしながら、辛うじてその衝動を抑え込んだ。

 俺はあらためて、あやせからのメールの時刻を目にし、それが今から一時間ほど前であることを確認した。
 そろそろ、しびれを切らして、ブチ切れる寸前だろう。
 黒猫があやせのメアドをなぜ知っているのか、黒猫が何でまたあやせに挑発的なメールを送ったのか、いろいろと
不可解な要素はあるが、兎にも角にも、あやせへの電話が先決だった。
 桐乃の親友であるあやせへの電話は、両親、特にお袋からは厳禁されていたが、こいつは既に俺の居場所を知って
いる。いまさら電話をするな云々は無意味だ。

「も、もしもし……」

 我ながら、腰が引けて、おっかなびっくりなのが情けない。

『お兄さん……』

 電話の相手は、それだけ言うと、ちょっと押し黙った。この間合いが何とも不気味だ。

「い、いやぁ、わりぃ。さっきメール貰ってたんだなぁ。そ、それで、電話したんだが、まぁ、ちょっと連絡が遅くなってすま
ねぇ……」

 場の雰囲気を和ますつもりで、ちょっとおどけたような口調で話しかけた。
 だが、そいつが逆効果だったのかも知れねぇな。
 こっちの釈明が終わらないうちに、俺の耳には、いきなり、『バカァ~、死ね!!』の悪罵がぶつけられた。さらに……、

『何を今まで、もたもたしていたんですか! 大方、五更先輩とのデートで、鼻の下をでれっと伸ばしていたんでしょ?! 
けがらわしい、破廉恥です。もう~っ、死ねっ!! 大体が、何でそっちに五更先輩が行ってるんですかぁ! お兄さんの
居場所は桐乃にも、桐乃に関係する人たち全てにも秘密だったはずじゃないですかぁ! どういうことですか?!
ちゃんと分かるように説明してください。まさか、お兄さんが五更先輩に居場所を白状したんですか?! どうなんです? 
さっさと答えてください! さもないと、今からでもそっちに行って、ブチ殺しますよ!!』

 耳をつんざくような大音響で、かつマシンガンのような勢いでまくし立てられた。
 こりゃ、黒猫があやせに送ったとかいう挑発的なメールの内容とか、何で黒猫があやせのメアドを知っているのかと
かを、あやせ本人から訊くのは後回しだな。
 だが、この剣幕で、あやせと黒猫の高校での関係がどんなものなのか、大体は想像できた。

「ちょ、ちょっと、もう、ちょっと、ゆっくりしゃべってくれぇ! そんなに早口で、まくし立てられたんじゃ、こっちは対応の
しようがねぇよ」


『お兄さんがさっさと電話をしてこないからです。それともう一つ、保科さんの野点の件はどうなっているんですか? 
それについても、お兄さんからは何の連絡もないようですけど。もし、わたしを除け者にして、お兄さんだけが保科さんの
野点に出て、その後で保科さんと何かしようものなら、本当に、ほ・ん・と・う・に、もう、ほ~~ん・と・にぃ! 包丁で
めった刺しにして、ブチ殺しますからね!!』

 今さらながら、あやせって、こえ~~~。
 こいつの『ブチ殺します』ってのは、どこまで冗談だか分からねぇからな。

「ほ、保科さんの件なら、い、今のところ、何ら音沙汰なしだ」

『また、嘘吐いているんですね? その舌、閻魔様に代わって、引っこ抜きますよ!』

「ま、待て、待て、と、とにかく落ち着け!」

 本当にこいつは、異常なまでに保科さんのことを敵視してやがる。

『だって、野点は来週の土曜日だっていうのに、何も連絡がないはずがありません!』

「いや、本当だってば……」

『でも、お兄さんは、大学で保科さんに毎日会っているんでしょ? それなのに、何の返事も貰っていないのは不自然
です!』

「お前なぁ……。大学ってのは高校と違って、クラスメートとの関係なんて疎遠なもんなんだぞ。それに保科さんは学園
のマドンナで高嶺の花。俺みたいな只の学生がおいそれと話しかけていい相手じゃないんだよ」

『でも、毎日同じ教室に居るんじゃないんですか? それなのに、返事がない? 明らかにおかしいじゃありませんか!』

「大学の教室って知ってるか? 学部生はかなりの数が居るから、大きな階段教室で講義を受けるんだぞ。映画とか
テレビドラマとかで、お前も見たことはあるだろ?」

『そりゃ、ありますけど……』

「その教室で、保科さんは、はるか前の方に座っていて、俺は後ろの窓際だ。保科さんとは同じ教室に居ることは居るが、
互いにかすりもしねぇよ。どうだ? これなら、毎日同じ教室に居ても、話す機会なんか、ないってことが分かるよな?」

 本当は、階段教室を使うのは、講義の極々一部なんだが、まぁいいか……。
 保科さんと話せないってのは、階段教室なんかのせいじゃない。
 実のところは、さえない俺じゃ、学園屈指の美女であり、本物のご令嬢である彼女に、俺自身が気後れして近寄れ
ないんだよな。

『……、何だか嘘臭いですけどぉ……』

 半分は嘘だよな。階段教室だからなんてのは口からでまかせに近いもんだし。
 でも、保科さんから音沙汰なしってのは本当だからな。

「信じられないなら、保科さんに直接訊けよ。もっとも、俺は彼女の電話番号も居場所も知らない。彼女に連絡を取りた
かったら、俺の居場所を探ったように、お前の父親の顧問弁護士とかに相談してみるんだな」

 半ばやけくそになって、突き放すような言い方になってしまったが、あやせにしてみれば、俺が強硬な態度を取るとは
思わなかったのかも知れない。

『くぅ……、この変態……』


 どんな反論があるかと思いきや、彼女にとっての常套句の一つを呟くように漏らしただけだった。
 しかし、俺に言い負かされただけだってのに、変態扱いか。何なんだろうね。

「保科さんの件については、今のところ何とも言えない。もしかしたら、俺たちはお呼びじゃないのかもな。保科さんが
親御さんか何かに、俺たちを招待したいって言ってはみたものの、反対されたってのも考えられるし……」

『……じゃあ、保科さんの件は、ひとまずいいです……。でも……』

 おっと、これからが本題だな。気を引き締めていかねぇと、文字通り命取りになる。

『五更先輩の件はどういうことですか? 今日、一時間ほど前に、五更先輩から、“今、私は、京介さんと一緒よ。京介
さんをあなたが独占できるなんてのは大間違い。それを心しておくことね”なんてメールが届いたんですよ! どういう
ことですか?!』

「何だとぉ!!」

 うわぁ、黒猫の奴、なんてメールを送ってやがるんだ。こりゃ、あやせがブチ切れるのも道理じゃねぇか。

『五更先輩、いえ、あの泥棒猫と今はデートなんですか? どうなんです? 事実をちゃんと答えてください!』

 思い込みが激しいからな、こいつは。黒猫のメールに俺が黒猫と一緒に居るって書かれていただけで、俺と黒猫が
デートしているって勘違いしてやがる。いや、あの文面じゃ、あやせでなくてもそう思うか。

「い、いや、誤解があるようなんで、それを解きたいんだ。たしかに黒猫とは一緒で、さっきは一緒に買い物をしたところ
だ。だが、これはデートじゃねぇよ」

『はぁ?! 一緒に買い物したっていうのに、デートじゃないんですか? どこまで嘘吐きなんですか、お兄さんは!!』

 あやせがすさまじい剣幕で怒鳴りまくっている。こりゃ、黒猫と一緒であることを否定した方がよかったかな、とも思っ
たが、嘘ってのは思わぬところでばれるからな。ばれた時のリスクは、あやせの場合、洒落にならないくらい恐ろしい。

「黒猫には俺以外の連れが居るんだよ」

『連れ? まさか、桐乃じゃないですよね!』

「違うって! お前も一昨年の夏に、桐乃を夏コミ会場で呼び止めた時に見ている奴だよ。バンダナを頭に巻いて、牛乳
瓶の底みたいなレンズが付いた眼鏡を掛けて、チェックのシャツにジーンズ姿のデカイ奴が居ただろ? そいつが黒猫
と一緒なのさ」

『でも、あの人って女じゃないですか! ちょっと、お兄さん、女の子二人とデートですか?! 不潔です、ふしだらです、
破廉恥です、もう、死ね!!』

 うわ、ダメだこいつ。デートってのは一対一でないと成立しないって前提を忘れてやがる。

「あのなぁ……。仮にお前が言うように、黒猫と、デカイ奴、こいつは沙織っていうんだが、この二人とダブルでデートし
ているってんじゃ、黒猫と恋愛めいた話なんか出来ねぇよ」

『お兄さんには無理でも、あの泥棒猫は大胆不敵ですから、もう一人、沙織とかいう人が居ても、平気で睦言を口走る
んじゃないですか?!』

「そんなことあるかい!」

 黒猫って、根は繊細だからな。沙織だって誰かが一緒の時は、俺にデレるようなことはない。確証はないけど、そんな
気がするんだ。それに、そういうのが、人間の感情や感覚として普通だよな。


『どうでしょうか? 不本意ながら、わたし、高校ではあの泥棒猫の後輩なんですけど、学校でのあの人の言動は、何か
につけて挑発的で痛々しいんです。そんな人が、そんな控え目な態度でお兄さんに接するとは思えません』

「挑発的って、お前と黒猫との間になんかあったのか?」

『ありましたよ! おおありです!』

「具体的には、どんなことがあったんだよ」

 俺は努めて冷静な口調を心掛けたが、それがかえって、あやせを苛立たせたらしい。

『ええい! 今は、そんなことを悠長に話している場合じゃないんです。何ですか、学校で聞いたんですけど、お兄さん
は、あの泥棒猫と、キ、キスしたことがあるって話じゃないですか?!』

 うへぇ、学校でって、どこの誰から聞いたんだろうか。俺と黒猫が付き合っていると邪推しているのはゲーム研究会の
面々、特に真壁君あたりだからなぁ。もしかしたら、彼から聞いたのかも知れない。オタク嫌いなあやせがゲー研の連中
に接触するはずはないと思っていたんだが、甘かったか。あやせの執念深さは、人並みじゃねぇからな。俺と黒猫の関
係を洗い出すために、必要とあらば、嫌悪感を感じるオタク連中とも接点を持つんだろう。
 しかし、黒猫の奴、そんなことを軽々しくゲー研の面々に吹聴するとも思えないよなぁ。
 おっと、そんなことを考えてる場合じゃねぇだろ。ここは、しらを切り通すか、はたまた正直に言うかだな。どっちの方が
傷が浅いだろう……。

「あ~~~、その話か……。あれはだな、頬に軽くキスされただけであって、この前のお前みたいに舌入れるようなエロ
い奴じゃねぇって」

 ちょっとした逡巡を経て、俺は結局事実を口にした。キスした事実を認めるのはヤバイが、嘘はもっとヤバイ。

『やっぱり泥棒猫とキスしていたんですね。もう、本当に、こういう主体性のないフラフラしたところは危なっかしくて見て
いられません。だいっ嫌いです。こんなだらしないお兄さんは、ブチ殺しますよ、もう!!』

 くそ、地雷だったか……。本当に、こいつキチ▲イの一歩手前だな。扱いにくくってしょうがねぇや。あの淑やかそうな
ルックスからは想像も出来ねぇな。ここは、取り敢えず、あやせに形だけでも詫びておくか。

「ま、まぁ、黒猫とのキスも、お、俺がぼうっとしている時にやられたんだ……。す、すまねぇ、た、たしかに、しゅ、主体性、
な、ないよな……。あは、あはははは……」

『笑ってごまかさないでください! 私も、お兄さんと泥棒猫がキスしたと聞かされた時は、まだ嘘だと思いたかったから、
お兄さんに文句は言わずに我慢していたんです。それが何ですか!! こともあろうに、その泥棒猫と一緒だなんて、
本当にだらしがないじゃありませんか』

「そ、そう、悪し様に言うこたぁねぇだろ……」

『もぅ! 事の重大さを全然分かってないじゃないですかぁ!!』

「うへ!」

 あやせの怒鳴り声で鼓膜が破れるんじゃねぇかと思ったぜ。ほんと、こいつって、ごまかしが効かないんだよな。

『お兄さんがだらしないのは、もとより承知していましたが、ここまでダメだとは思いませんでした。それに、あの泥棒猫、
高校に入学してからあらためて桐乃を通して紹介されましたが、生理的に無理です。あんな人と付き合うのは』

「生理的に無理って……。散々だな……」

 まぁ、黒猫はオタクだし、あやせはオタクが嫌いだし、そりなんかが合うわけがないんだよな、そもそも……。
 それでもメアドの交換はしたってことか……。その交換したメアドのおかげで、黒猫はあやせに挑発的なメールを送り、
そのおかげで俺は今、あやせに吊るし上げられている。何なんだよ、この理不尽極まりない展開は……。

『無理なものは、無理なんです! 気持ち悪いんです、本当にあの泥棒猫は。それに、お兄さんには今まで以上に厳し
い監視が必要なことが分かりました。今回の件は、“デートじゃない”っていうお兄さんの主張をひとまずは受け入れま
すが、今後はこのようなことがないようにしてください』

「………………」

 三歳年下の女子高生に説教されて、言い返せない大学生ってどうよ? 情けなくって涙が出てきそうだ。

『保科さんの野点がどうなったのかが現時点では不明ですが、それには構わず来週末はそちらへ行きます。とにかく、
お兄さんは、わたしが付き添っていなくちゃ、まるでダメなんですから』

「………………」

 なんか、ここまで言われると、幼稚園児か禁治産者、おっと、今は成年被後見人だっけか? とにかく、まっとうな
人間としての扱いじゃねぇよな。死にたくなってくるぜ。

『ちょっと、お兄さん聞いています? そうやって、人の話を、ぼうっと聞き流しているから、あんな泥棒猫とか、保科とか
いう同級生にちょっかい出されるんです。もうちょっと、気を引き締めて毎日を送ってください。いいですか!!』

 その怒鳴るような一言を最後に、通話はあやせの方から一方的に打ち切られた。

「はぁ~~~っ」

 俺は大きなため息を吐くと、携帯電話機を折り畳んでシャツの胸ポケットに突っ込んだ。
 あやせもあやせだが、黒猫も黒猫だ。何で、あんな挑発的なメールを送り付けたんだろう。

「おお、京介氏。ちょうどお茶とケーキが届いたところですぞ」

 喫茶室に戻ると、沙織が、牛乳瓶の底のようなレンズが嵌った眼鏡越しに、害のなさそうな笑顔を俺に向けてきた。
 騎士鉄十字章を巡る商談も万事がうまくいったらしい。

「でも、ずいぶん長かったのね……。たまたまちょうどよかったけど、これ以上、遅くなったら、お茶が冷めてしまうところね」

 何気ない口調だったが、俺を見て、邪険そうに口元を歪めたような気がした。
 こいつ、俺があやせにこっぴどく叱られたことを分かってやがるな。

「二人の商談の邪魔にならないように、これでもタイミングを見計らっていたんだぜ。俺は、けっこう気遣いな人間なんでな」

 黒猫が意地悪そうに双眸を半眼にして、にやついているような気がした。

「まぁ、まぁ、黒猫氏。京介氏にも事情がおありなんでござろう。それに、せっかくお茶が届けられたのですから、まずは
これを嗜みましょうぞ」

 沙織に急き立てられるように、俺は丸テーブルの一角、そこに設けられていた黒い鉄フレームに赤いチェック柄の
クッションが座面に付いている椅子に腰掛けた。
 椅子の鉄フレームとテーブルの脚部にはアラベスク・パターンっていうんだろうか、蔓草が絡まるような模様の意匠
が施され、シックな雰囲気を醸し出している。

「やっぱりポットで出されるんだな」

 俺は、乳白色の磁器、おそらくはボーンチャイナだろうポットの蓋を開けてみた。

 ポットの中では茶葉が開き、ほわーんとした暖かい紅茶の香りが漂ってきた。

「最近は、けしからんことに、結構有名なホテルの喫茶室でも、ポットの中はティーバッグということがありますが、ここ
はちゃんとリーフティーを使っておりますぞ」

 俺の右隣に座っている沙織が、口元をほころばせている。
 リーフティーを飲み慣れているであろう沙織にしてみれば、ティーバッグではなく、ちゃんとリーフティーで淹れてあっ
たことが嬉しいのかも知れない。

「せっかくだから、そろそろいただきましょう……。これ以上、待っていたら、お茶が冷めてしまうし、濃く出すぎてしまい
そうだわ」

 黒猫のもっともな指摘で、俺も沙織も各自にあてがわれたポットからカップに紅茶を注いだ。これもボーンチャイナ製
らしいカップには、淹れたての紅茶が鮮やかだった。
 本来ならここでミルクを入れるところなんだが、紅茶の色があまりにも美しいので、ミルクは入れず、砂糖も入れずに、
そのままで飲んでみた。

「お? かすかに薄荷みたいな風味がする……」

 これならミルクなし、砂糖なしの方が美味しいかも知れない。

「京介氏がお頼みしたウバは、ミントに近い清々しい香りが特徴でござる。この清涼感を好まれる方は、もっぱらウバ
ばかり飲まれるようですな」

「そうなんだ……」

 先日嗜んだ抹茶といい、今飲んでいる紅茶といい、嗜好品ってのは奥が深いな。この街での暮らしに余裕が出て
きたら、好みの茶葉を買ってきて、下宿で楽しんでみたいもんだ。

「こっちのダージリンも、巷で飲むようなものとは香りも味も大違いね……」

「ダージリンには色々とグレードがありますからな。拙者も紅茶のことはそれほど詳しくないのでおじゃるが、おそらくは、
高地で特別に栽培された高品質な茶葉を使っておりますぞ」

 黒猫と沙織の前には、黒に近い暗褐色をしたケーキが、それぞれ置かれていた。
 さっき二人が注文していたザッハトルテとかいうやつなんだろう。その鋭角に尖った部分を、黒猫はフォークで切り分
けるようにして、ブラックなチョコレートで覆われた一片をすくい取った。

「中まで真っ黒なのね……。でも、このケーキは表も黒だから、中が黒でも罪ではないわ……」

「これは、これは、ずいぶんと意味深な一言でおじゃる……」

 何となく剣呑なものを察したんだろう。沙織が混ぜっ返そうとしたが、黒猫は、赤い瞳の双眸を瞬きもさせずに、皿の
上のケーキをじっと見つめている。

「反対に、表が白くて、中も白い……。そういうのは空々しくって、何だか腹が立つわね……」

「お、おい、黒猫、お前は何を言ってるんだよ」

「最悪なのは、表が白で、中が真っ黒っていう場合ね……。無垢を装っていて、本当は腹黒い……。そんな人間が多過
ぎるのよ」

「黒猫氏……」

 黒猫は、俺や沙織の困惑をよそに、すくい上げたケーキの一片を口に運び、じっくりと味わうつもりなのか、何回か

もぐもぐという感じで口を閉じたまま顎を動かした。

「少し苦いわね……。でも、それが現実なんでしょうね」

 黒猫の言わんとするところは、鈍い俺でも察しはつく。何せ、つい先ほど、黒猫から挑発的なメールを送られたと主張
する人物に、電話で散々に詰られたんだからな。

「……お前、あやせのことを言っているのか……」

「あやせ殿とは、たしか、きりりん氏の親友とか申すお方ですかな?」

 黒猫は、俺の顔と沙織の顔に視線をさまよわせ、それから軽く頷いた。

「お、おい、あやせと何があったか知らねぇが、あいつはそんな腹黒い奴じゃねぞ」

 だが、黒猫は、俺の言い分を一蹴するかの如く、小さな鼻孔からフンッ! とばかりに息を噴き出した。

「この前の月曜日に、新垣あやせとかいう、あの女が何をしたのか……、それを知れば、あなただって納得がいくはずよ……」

 それだけを押し殺した声で呟くように言うと、黒猫は、一瞬だけ赤い瞳で俺を睨みつけ、ゆっくりとうつむいて押し黙った。
 和やかであるべきはずの茶話会の雰囲気が、黒猫の呪詛のおかげで、一気に重苦しくなっっちまったじぇねぇか。

「黒猫……。あやせと一体何があったんだ……」

「黒猫氏。せっかく、京介氏に再会できたという折に、そうした物言いは、あんまり宜しくございませんぞ」

 黒猫は、俺や沙織には構わず、自らが放散した重苦しい雰囲気を確かめているかのように、じっと瞑目している。

「黒猫……。おい、何とか言ってくれよ……」

 黒猫は瞑目して沈黙したままだ。俺は、かりかりとこめかみの辺りを掻き、ため息交じりで沙織の顔を窺った。

「……黒猫氏が、頑ななのは今に始まったことではござらんが、この場に居もしない人物のことを、ああまで悪し様に
言われるのは、ちょっと尋常ではござらん」

「そうだよな、こんなのは、普段の黒猫らしくない……」

「黒猫氏にとって、ああまでして言いたいことが、この前の月曜日には、やはりあったんでござろう。そして、それが何で
あるかは、京介氏もある程度はご存知なのではありますまいか?」

「まぁ、何となく察しがつくって程度だけどな……」

 あやせの奴、俺の下宿を訪れて俺と一夜を過ごしたとか、キスをしたとかを、黒猫に洗いざらいぶちまけたんじゃない
だろうか。
 黒猫との口論の挙句、半ばやけくそになって言っちまったんだろう。
 だとしたら、俺と会って、俺と過ごしたってことは、絶対に桐乃や桐乃と関係がある人間には秘密にするという約束は、
早くも反故かよ……。

「あの女が何をしたのか、話してもいいかしら?」

 目をつぶっていたはずの黒猫が、いつの間にか、赤い瞳で俺と沙織を交互に睨め付けていた。

「拙者は、ちと席を外しましょうかな……」


 空気を読んだ沙織が立ち上がろうとした。

「あなたにも聞いて欲しいのよ。この前の月曜に何があったか……」

「そういうことなら、拙者もお伺い致しますぞ。しかしながら……」

「あら……、何か不都合でもあるの? それとも、何か不服があるのかしらね……」

「話の中身によっては、拙者も第三者の立場で冷静に対応することが難しいかも知れぬということでござる。拙者とて、
京介氏に関わることとなれば、多少の利害関係は有しますゆえ……」

 俺は驚いて沙織の真意を確かめるつもりで、彼女の顔をあらためて窺った。
 その沙織は、眉をひそませ、忌々しそうに下唇を引きつらせている。いったい、これはどういうことなんだ。

「……なるほど、そういうことね……」

 そう呟いた黒猫は、うつむいて、「くっ、くっ、くっ……」という嗚咽にも似た含み笑いをしてやがる。

「な、何だよ、何がおかしいんだよ?!」

 事態を把握しかねている俺に、黒猫が侮蔑のこもった冷やかな目を向けていた。

「鈍いわね。あなた、ここまで鈍いのは犯罪的だわ」

「鈍くて悪かったな。俺は、面倒臭いことは苦手なんだよ」

「でも、そんな鈍いあなたでも即座に理解できるほど、これから私が言うことは簡明なのよ」

「勿体つけずにさっさと言ってくれ。鈍い俺でも、お前が言いそうなことは分かってるけどな」

「そうかしら……。あの女が私に何を告げたのかは大体は分かっているつもりでも、それを告げられた私や、それをこれ
から聞かされる沙織の気持ちというものを、どうやらあなたは過小評価しているみたいね……」

 黒猫が、整った面相を一瞬だけだが般若のように歪め、赤い瞳で俺を睨め付けた。黒猫の身体から、憤怒、憎悪、
妬み、嫉みといった負のオーラのようなものが、ぶわっと一気に放射されたような感じがして、その雰囲気に俺は
思わずたじろいだ。

「……黒猫氏。京介氏は、どこまでも鈍い方ゆえ、単刀直入に申された方が宜しかろう……」

「そうね……、前置きが長すぎたかしら。手短に言うわ……。この前の月曜日の放課後、私は、あの女に校舎屋上へ呼
び出された。そのときに、あの一見清楚で実は底なしに腹黒い女は、先週末にこの街のあなたの下宿先を訪れ、あなた
の部屋で寝て、あなたとディープキスを交わしたって……」

 沙織の表情が、むっとばかりに険しくなった。眉をひそめ、口をへの字にして、敢えてだろうか、俺には目もくれず、
喫茶室の壁の一点辺りを凝視しているように見えた。

「……それも、あの女、胸を張って誇らしげな態度で言い放ったのよ。ねぇ、元先輩、これは事実なのかしら……。
それとも、あの女の狂言めいた与太話なのかしら……。それを、はっきりさせて欲しいわね」

 黒猫の畳み掛けるような問い掛けで、俺はある覚悟を決めた。

「……下宿先にあやせが来たのは事実だ……。それ以外のことは事実に反する……」

 あやせとの電話で、馬鹿正直に振る舞うことの愚かしさを痛感したからな。
 黒猫と沙織には悪いが、ちょっとばかり嘘を吐かせてもらうことにした。

 もう、一方的に不手際を詰られ、腐されるのはうんざりなんだよ。

「あら、へたれなあなたらしくない……。てっきり、あの女の押しの一手で、ずるずると関係を結んだかと思ったのに、違う
のかしら」

「俺にだって節操てぇもんがあるからな。あやせが俺の下宿に来たことは確かだが、ここでの俺の暮らしを、ほんの二、
三時間ほど見届けて、そのまま帰ったよ。だから、俺の部屋で寝たとか、キスをしたとか、そんなのはない」

「……変に自信たっぷりなのが怪しいけど……」

 あやせが俺の部屋で寝たのは事実だが、俺は居たたまれなくなって、別の部屋で雑魚寝したからな。まるっきり嘘
じゃないさ。
 それを拠り所にして、嘘を吐き通してやるぜ。
 だが、それでも突っ込まれる部分は色々とあるけどな。

「……京介氏……。これはどういうことでおじゃるかな? 京介氏の居場所は、誰に対しても秘密であったはず。それが
なにゆえ、あやせ殿が京介氏の下宿を知り得たのでありますかな?」

 さっそく来たか……。
 ぐるぐる眼鏡越しなので、はっきりとは分からないが、沙織が非難がましい目で俺を見ているのは明らかだ。
 俺が自分の居場所を、あやせにだけ教えたと思っているんだろう。

「あやせは、父親の顧問弁護士に頼んで、俺の居場所を探り当てたんだよ。何でも、俺は、性犯罪者予備軍だから、
野放しには出来ないんだとさ。どうだ? こんな扱いを受けているのに、寝泊まりとかキスとかあり得ねぇだろうが」

「なるほど……。弁護士を通じて、京介氏の戸籍を調べることは確かに可能でおじゃるな……」

 どんな方法を使ったのか知らないが、沙織も俺の居場所を突き止めているからな。
 そのことは、黒猫にも内緒なんだろう。
 だから、あやせが俺の下宿先を突き止めたってことは、これ以上追及出来まい。

「……ふぅむ……」

 沙織が、口をへの字に曲げたまま、考え込むように、下顎に人差し指を添えている。
 何か腑に落ちないものを感じながらも、黒猫が居る手前、思い切ったことが言えない苛立ちのようなものが俺にも
感じ取れた。
 沙織には悪いが、取り敢えずはごまかせたらしい。

 俺は、冷静さを装うつもりで、カップのお茶をゆっくりと飲み干し、お代わりをポットから注いだ。
 冷たく白々しい空気の中に、生温かい湯気がほんのりと漂っている。

「でも、何かおかしいわ。あの女が、あなたのことを性犯罪者予備軍と認識しているのなら、何でわざわざ、あなたに会
いに来たのかしらね」

「知らん。あやせって女は、ちょっとおかしなところがあるようだからな。そんな奴の考えることは分からねぇよ。知りたきゃ
本人から聞け。お前は、あやせと同じ高校に通っているんじゃねぇのか?」

「それはそうだけど……」

 黒猫とあやせは互いに嫌悪しているんだな。本当は小心な黒猫にしてみれば、この件で、あらためてあやせを直接
問い詰めるようなことはしたくないはずだ。

「とにかく、俺の部屋であやせが寝たとか、俺があやせとキスしたとかは、事実無根なんだよ」

「……………………」


 黒猫は、半眼で俺を睨め付けている。『お前は嘘を言っている』とでも思っているんだろう。
 その通り、俺って、もう嘘まみれだな。何でもそうだが、一線を越えると歯止めってもんが効かなくなるらしい。
 それに嘘を吐くとき、後ろめたさから動揺するってのも正しくないようだ。嘘を吐き通す覚悟みたいなもんがあれば、
どうってことはないんだな。

「お前とあやせの間にどんな諍いがあったのか知らないが、お前とあやせは、屋上で口論になったんだろ?」

「……そうね……、どこで耳にしたのか知らないけど、私があなたに……」

 そこまで言いかけて、沙織が居合わせていることに、はっとしたんだろう。
 俺とキスしたことは沙織にも内緒のはずだ。言える訳がない。

「どうされましたかな? 黒猫氏……」

 今度は沙織が黒猫に疑惑の眼差しを送っている。本当のところは、沙織も気付いてはいるんだろう。後はそれを黒猫
が認めるかどうかだ。
 だが、その沙織だって俺の居場所を桐乃や黒猫に黙って勝手に調べ上げていた。
 それが黒猫に対する一種の負い目になっているはずなんだ。

 俺も含めて、この場に居合わせている全員が嘘吐きなんだ。こうなりゃ、毒を喰らわば皿までもじゃないか。

「それはそうと、黒猫……。お前、先ほど、あやせに挑発的なメールを送ったらしいな」

「いきなり何を言い出すのよ……」

「お前だって、俺とあやせがキスをしたとか、いきなり言い出したじゃねぇか。人のことはとやかく言えねぇだろうが」

 黒猫が、むっと、顔を歪めて、俺を睨んでいた。

「京介氏、そのぐらいにしてくださらぬか。この場は、本来、和やかにお茶を楽しむべきでありましょうぞ。京介氏らしから
ぬ傲岸な振る舞いで、黒猫氏が可哀想でござるし、場の雰囲気が台無しでござる」

 沙織は、腕を組み、眉を吊り上げた険しい表情をしていた。
 何だよ、何もかも俺が悪いと言いたげじゃねぇか。
 そもそも、場の雰囲気を悪くするような話題を持ち出したのは、誰なんだよ。

「それは黒猫にまずは言うべきだろ? それだけじゃねぇ。俺は、黒猫があやせに挑発的なメール、あやせの話だと、今、
俺と一緒で、俺をあやせが独占できるなんてのは大間違いだ、とかいうのを送りつけられたっていうんだ。
それが事実なのかどうなのかを知りてぇな」

「……そんなことを知ってどうするの?」

 黒猫め、しれっと抜かしやがった。むかつくぜ……。

「お前も気付いているんだろうが、お前のはた迷惑なメールのおかげで、俺はお前らが騎士鉄十字章とかの譲渡交渉
をしている間、そのメールを送られた人物から電話で散々に文句を言われたんだぜ。こんな理不尽な話があるかよ」

「あら、その人物に、今ここで私と一緒だってことがばれた程度のことで、なんで文句を言われるのかしらね……。そっち
の方が余程おかしいでしょ?」

 この野郎……。可愛くねぇ。本当に可愛くねぇよ。黒猫って、これほどまでに嫌な奴だったのか……。

「お前とあやせは口論になって、あやせはお前のことを心底嫌悪しているようじゃねぇか。そのお前と俺とが会っている
んじゃ、そりゃ面白くねぇだろう」

「論点をぼかそうと必死ね……。哀れだわ」

「お前に哀れんでもらう筋合いはねぇよ!」

「京介氏! そろそろ控えられよ。それに、黒猫氏もでござる。険悪な雰囲気は、落ち着いたこの喫茶室にはふさわしく
ありませんぞ」

 諫めようとしている沙織の声の方が場違いに大きかったけどな。
 黒猫の不遜な態度にはむかつくが、そろそろ潮時か。
 これ以上、こいつを追及したら、本当に喧嘩別れになっちまう。そうなったら、二度と和解なんてできないだろうからな。

「そうだな……。沙織の言うように、俺も少々大人げなかったようだ。お前は、あやせに挑発的なメールは送っていない。
これでいいんだな?」

「……そうね……」

 多分、嘘なんだろうが、俺だって嘘吐きだからな。

「で、おれとあやせの間には、キスとか何とかの、いかがわしい行為はなかった。そういうことでいいな?」

「…………………」

 黒猫は、うつむき加減で俺を恨めしげに睨み、沙織は、先ほどのように腕を組んで、虚空だか喫茶室の壁だかを
無意味に凝視している。
 二人とも、明らかに納得していない。
 特に、こんなにも不機嫌丸出しの沙織を見るのは、これが初めてかも知れない。

 その沙織は、急に黒猫に何事かを耳打ちし、俺に向き直った。

「京介氏……」

「いきなりあらたまって、何だよ」

「誠に申し訳ないのでござるが、再び、席を暫し外していただきとうござる……」

 いつになく真剣そうな沙織の顔と、恨めしげに半眼の黒猫の顔を交互に見やった。
 是非もない。俺が居ない間に、俺の扱いをどうするか決めるんだろう。いわゆる欠席裁判ってやつか。

「いいよ、俺も、ちょっと外の空気を吸いたいと思っていたんだ」

 俺は、ゆっくりと立ち上がり、先ほど俺たちを席に案内してくれたフロアマネージャー然とした初老のウェイターに、
「ちょっと、洗面所へ……」とだけ告げて喫茶室を出た。
 ロビーを横切って、フロントで洗面所のありかを尋ね、ロビーから奥まったところにある洗面所へ入り込んだ。

「畜生……」

 呪いの言葉を呟きながら、蛇口からほとばしる冷水を両掌で受けて、それで顔をザバザバと洗った。
 白々しい嘘を吐いて自己保身を図ったこと、その上、黒猫の態度を責め立てたこと、バカ正直が取り柄であるはずの
俺が薄汚れてしまったような気分だった。

 特に、黒猫に対する振る舞いは、そのちょっと前に電話であやせにこっぴどく詰られたことに対する、鬱憤晴らしの
ようなもんだったのかも知れない。

「俺って、ダメな人間だな……」


 今頃、沙織と黒猫は、俺を沙織のサークルから追放するか否かということまで話し合っているに違いない。
 俺としては、喧嘩別れをしたくなかったから、黒猫への追及を途中で打ち切ったつもりだったが、当の黒猫やそれを
見ていた沙織には、俺の言動とか態度が相当にひどいものと映ったようだ。

「サークルを追い出されたとしても、しょうがないよな」

 もとより、首都圏から遠く離れたこの街に追いやられ、黒猫や沙織への連絡も禁じられていたんじゃ、実質的には、
もう脱会しているようなもんだ。

「しかし、あやせが『性犯罪者予備軍』って罵ったが、本当にそんな感じだな……」

 黒猫と口論したばかりというのもあるんだろうが、自分でもぞっとするぐらい人相、特に目つきが高校時代に比べて
悪くなっていた。
 故郷を追い出され、頼れる者が皆無の状態で、もがき苦しんできた結果がこれだ。
 『苦難が人を育てる』とか、もっともらしいことをいう奴が評論家とか、政治家とか、財界人とかに居るが、糧になる苦
難と、そうでない苦難とがあるはずだ。そして、俺が今直面している苦難は、俺自身を劣化させる類のものでしかない。

 俺は、我ながら人相が宜しくないその面をハンカチで拭った。
 嘘を吐く覚悟があれば気持ちは動揺しないとか強がったが、嘘を吐くというのは、やはりいつもと違う緊張感を強い
られるのか、額や鼻筋や頬が、普段とは違う臭いの汗だか脂だかでギトギトしている。

「嘘吐き野郎の罪の汚れというか、穢れだな……」

 だが、今さら、『嘘でした』なんてのは絶対になしだ。一度嘘を吐いたら、その嘘をとことん吐き通すしかない。
 洗顔しても心は晴れなかったが、俺はそろそろ頃合とみて、喫茶室に戻ることにした。

 席では、沙織と黒猫が眉間に皺を寄せた険しい表情のままで座っていた。
 二人とも、俺が元居た席に座っても、眉一つ動かさない。

「で、二人きりでの話し合いとやらは、まとまったのか?」

 険悪な雰囲気ではあったが、黙っていては埒が明かないからな。
 その一言で、険しい表情のままではあったが、ようやく沙織が俺の方を向いた。

「京介氏……。黒猫氏とも意見が一致したのでござるが、本日、拙者たちは、ひとまず帰ることに致しますぞ」

「そうなんだ……」

 俺は、しくじった、やりすぎたんだ、と後悔したが、出来るだけ平静さを装った。一応は、体面があるからな。
 沙織とも黒猫とも、このまま喧嘩別れのような状態で、永遠にさようならなのかも知れない。

「しかしながら……、京介氏も、新しい生活に馴染むか馴染まないかの時に、拙者たちが押し掛けたというので、
少々お気持ちが昂ぶられていたのではないかと推察致しまする」

「いや、そういうわけでもないんだけどよ……」

「とにかく、本日は、少々不本意な形でのオフ会となりましたが、これだけをもって、万事を決め付けることは出来ませぬ
ゆえ……」

 沙織の含みのある言い方は、どう解釈すべきなんだろう。
 こうした持って回った言い方……、今までは気にならなかったが、今日は、先ほどの諍いの余韻のせいか、妙にイラッ
とさせられる。

「『これだけをもって』ということは、別途、何かがあるってことなのか?」


「鈍いわね……。もう一度、仕切り直しのつもりで会いましょう、ってことよ」

「黒猫氏、その言い方は感心しませんぞ」

 相変わらずだ。
 黒猫って、こうやって無駄に敵を作るんだよな。あやせとだって、結局はこんなやりとりで、関係がこじれたんだろう。
 今日は、俺も危うく黒猫を敵にするところだったからな。

「言い方はどうあれ、もう一度、お前らが来ることは分かったよ」

「しからば、まぁ、そういうことで……。来週の日曜日に、再び、この街にお邪魔致しますぞ。宜しいですかな?」

「ちょ、ちょっと、待て! それじゃいくら何でも早すぎる」

 まずいぜ。来週末の土曜日は、あやせがやって来る。保科さんの家で催される野点に俺共々行くためにだ。
 野点の招待状は未だに保科さんから受け取っていないが、あやせは、野点があろうがなかろうが、そんなものにはお
構いなしに、この街にやって来て、俺の下宿に上がり込むだろう。そうなったら、日帰りということはまずあり得ない。
 この前みたいに、下宿に泊まり込み、翌日の日曜日も俺を監視するという名目で、俺につきまとうに違いない。
 この街で、黒猫と鉢合わせでもしようものなら、マジで流血の惨事だな。

「都合でも悪いの?」

 こいつは、腹が立つほど人の痛いところを遠慮なく突いてくるな。悪意があってやってるわけじゃなくて、これが黒猫
の地なんだろう。
 こいつに友達が少ないのは、こんな風に思ったことを率直に口にしてしまうこと、それが原因の一つのような気がする。

「いや……。別に、一瞬、何か予定が入っているかと思ったが、勘違いだったようだ」

 意味もなく率直なのもどうかと思うが、嘘はもっとまずいよな。
 これで、今度の週末にやって来るあやせをどうするか、という難問を抱えることになっちまった。

「京介氏のご都合が宜しいようですので、それでは、来週末の日曜日に再びお会いするということに致しましょうぞ。
なお、当日の詳細なスケジュールにつきましては、黒猫氏とも協議の上、追って、京介氏にご連絡申し上げるでござる」

 なんだい、時間に関して俺の都合はお構いなしかよ。これには少々むかついたが、我慢した。
 下手に不満を口にして、今週末にあやせもやって来ることを気取られるようなことがあってはならないからだ。

「ああ、そうしてくれ。スケジュールは空けておくよ」

 ことさら鷹揚に頷いてみせた。不自然な演技だったかも知れないが、何とかごまかせたと信じたい。
 俺は、自身を落ち着かせるつもりで、ポットの中に未だ少しは残っているはずの紅茶をカップに注いだ。
 だが、それは、すっかり冷め切っていて、茶葉が長時間お湯に浸っていたために色が異常に濃い。
 俺はカップの中身を一口すすって、思わず顔をしかめた。

「そんなもの、よく飲めるわね……」

 不愉快な指摘だが、全くその通りだな。
 冷たい上に、渋くって、苦くって、とてもじゃないが飲めたもんじゃない。

「紅茶は、飲み頃がありますれば、それを逸すると、かようなことになり申す」

 時機を逸する羽目になったのは、沙織が俺に席を外すように命じたからじゃないか。
 そう思うと理不尽極まりないが、この場で、諍いを蒸し返すのも面倒くさい。


「民事訴訟法っていう裁判に関する法律でも、『適時提出主義』ってのがあるんだ。何にでも頃合ってのはあるんだろうな」

「ほう、裁判で証拠の提出が遅れると、裁判所はそれを証拠として扱ってくれないとか、そんなものなのですかな?」

 さすがは沙織だな。
 え~と、根拠条文は民事訴訟法百五十六条だったよな。それはともかく……、

「ああ、概ねそんなところだ。世の中ってのは、万事がそんなもんなんじゃねぇの?」

「そうかも知れませぬな……」

 俺の紅茶がすっかり冷めてしまったことを察したフロアマネージャーと思しき初老のウェイターが俺の傍らに来て、
紅茶のお代わりはどうかと訊ねてきた。
 しかし、もう、この喫茶室を出る頃合だろう。
 大声で怒鳴り合ったりはしなかったが、落ち着いた雰囲気のこの喫茶室に、ぎすぎすした敵意と悪意を撒き散らした
のはたしかなんだ。

 各々が紅茶や菓子の代金を支払い、あの初老のウェイターに「ご馳走様でした」と告げ、俺たちはロビーを横切って、
ホテルの外に出た。

「駅まで送ろうか?」

 しかし、相手方は頑なだった。

「せっかくでおじゃるが、ここはこの場でお別れした方が宜しいでござろう。それに、拙者たちは、ちょっと、この街の観光
名所を見て回りますゆえ」

 もう夕方になるし、コートやら、マントやらのかさばる冬物アウターを入れた、でかい紙袋を抱えてか? 嘘くせぇ。
 だが、そっちがそうなら、それでいいや。

「ああ、それなら、このホテルの前で解散しよう……」

 俺は、沙織と黒猫に二度、三度、軽く右手を振ると、くるりと背を向けて歩き始めた。
 ひとまず関係の破綻は免れたが、きわどい状況だっただけに、心は晴れなかった。
 
「沙織や黒猫の言動が、今日に限って、妙にイライラさせられたぜ」

 黒猫は、以前は俺に恋愛感情みたいなものを抱いていたようだが、あやせのこともあってか、今や俺を恨み、呪って
いるんじゃないかと思う。
 沙織も、黒猫との諍いがあったことを割り引いても、どことなくよそよそしかった。

 俺が実家を追い出されて一箇月ちょっとの間に状況は変わった。
 沙織や黒猫の心境にも、相応の変化があったのかも知れない。

「何より、俺が、高校時代とは変わっちまったんだろうな……」

 さっき、ホテルの洗面所で見た顔は、おそろしく人相が悪かった。
 この一箇月、頼れる者が皆無の慣れない環境で頑張ってはみたものの、手に入れたのが、あの悪人面じゃ救いが
なさ過ぎる。
 もう沙織とも黒猫とも、以前のような親しい間柄ではないという寂しさ、先行きへの不安、さらには、やり場のない怒り
が、気持ちをいっそう萎えさせる。

 俺は、街をあてどもなくさまよい、ほっつき歩き始めて一時間以上過ぎてから、ようやく地下鉄の駅に行き着いた。
 だが、俺は乗る気にはなれず、そのまま下宿があるはずの西の方へと歩み、夕日が街を囲む山々に沈みかかる頃に
なっても当てどもなく歩き続けた。

 あたりが薄暗くなりかけた頃、路面電車の線路が敷設された見覚えのある道路に出た。そのままその道路に沿って
進み、午後八時近くになって、どうにか下宿に帰ることができた。

「遅くなって済みません……」

 下宿の女主人に、夕飯に遅れたことを詫び、洗面所で手を洗ってから、八畳間で独りっきりで飯を食う。
 食欲はなかったが、出されたおかずと、味噌汁一杯と、ご飯一膳だけは、無理をしてでも腹に収め、その夕餉をこしら
えてくれた女主人にいつものように「ご馳走様でした。美味しかったです」と告げて、自室に引きこもった。

 心も身体もひどく疲れていた俺は、何もする気になれず、布団を敷いて、早々に横になった。
 瞑目すると、後味の悪い別れ方をした沙織や黒猫の姿が浮かび、次いでキスをねだるあやせの顔が浮かび、
さらには和服姿の保科さんの姿が脳裏に浮かんできた。

「どうなっちまうんだろうな……」

 そんなことを愚痴るように呟きながら、俺はいつしか深い眠りに落ちていった。

(『風』後編に続く)
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最終更新:2011年07月26日 22:58
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