風(後編) 01



*  *

 日曜日に勃発した黒猫や沙織との諍いで心身共に疲れ切っていた俺は、結局、何の備えもなしに、月曜日
の講義に出席した。月曜日の午前中には、予習が必須のドイツ語の講義があるにもかかわらずだ。

 運が良ければ当てられずに済むと高を括っていたが、それが命取りとなった。
 もう少しで講義が終わるという刹那、俺は教科書の一節を読んで訳すように指名され、見苦しく言い淀ん
で大恥をかいた。
 陰険そうな講師には、「昨日は日曜日で十分に時間があったはずなのに、予習はしてこなかったのか
ね?」と嫌みったらしく詰られた。
 悔しかったが、昨晩、予習もせずに早々に寝入ってしまった自分が悪い。俺は、

「も、申し訳ありませんでした……」

 と、消え入るような声で講師に詫び、ようやく着席を許された。
 背後の方からは、くすくすという無遠慮な笑い声が聞こえてきた。女の声だ。保科さんは、教壇の間近に
座っているから彼女ではない。
 畜生、劣等生であることは否定しねぇが、予習を怠ったのは明らかに失態だ。笑われてもしょうがない。

 そんなことを忌々しく思い返しながら、学食でいつものようにコロッケ入りのラーメンをすすっていると、
つい先日に知り合ったばかりの陶山と川原さんが、各々弁当を携えてやって来た。

「高坂。ここ、いいか?」



 俺は、無言で頷いた。法学部で気軽に話せる相手がいない今の俺にとって、二人は貴重な話し相手だ。
 しかし、

「うわぁ〜、高坂くん。先週もそうだけど、なんてもん食べてるのよぉ……」

 川原さんが、ふやけたコロッケが浮いているラーメン丼を見て、顔をしかめている。
 たしかに、開業医の娘でもある医学部生から見たら、ジャンクフード以外の何ものでもないわな。
 でもよ……、

「昨日、ちょっと服買っちまったし、外食もしたから金欠なんだよ。その点、こいつは、栄養学的には褒め
られたもんじゃないが、安くて腹だけは膨れる……」

「にしたって、毎日それじゃぁ……」

「いやぁ、世話になっている下宿屋じゃ、けっこうまともなものを朝晩食わせてもらっているから、
一食くらい、こんなジャンクなもんでも大丈夫だろ、多分……」



「だったら、昼飯くらい、ラーメンでも大丈夫だろうさ……。それに、余計なお世話かも知れんが、おかず
が余ったんで、持ってきたんだ」

 川原さんの同級生で、伊達眼鏡の陶山が、俺に小さめのタッパーを差し出した。『食っていいぞ』という
ことらしい。

「も、もらってもいいのかな?」

「そのつもりで持ってきたんだ。遠慮すんな」

「済まねぇな……」

 思わず卑屈な感じになっちまったが、それでも作り手である陶山への感謝のつもりで、俺は軽く頭を垂れ
てから、タッパーの中の芋の煮っころがしを箸でつまみ、口に放り込んだ。
 う〜ん、旨いな。下宿の女主人の煮物も旨いが、陶山のも甲乙つけがたい。



「こっちの煮物は、関東と違って、醤油の色とかが薄いくせに、ちゃんと味付けがされているんだな……」

「まぁ、こっちは薄口醤油を使うからな……」

「亮一の煮物は、お婆ちゃん直伝なんだよ」

 川原さんのなにげない一言で、俺ははっとした。

「お袋さんじゃないのか?」

「……うん、まあな……」

 そう言って、陶山は、一瞬だが、川原さんと何やら目配せみたいなものをしていたようだった。

「ふ〜ん……」

 色々と事情はあるんだろうな。俺にもあるようにさ。
 とにかく、こうして話し相手になってくれる陶山という奴は、俺が初めて目にする“厨房男子”という奴だ。
 何らかの事情がなければ、野郎が自ら進んで台所に立つということはないよな。

「まぁ、それはともかく、高坂、なんかげっそりしてないか?」

「やっぱそう見えるか? ちょっと午前中、ドイツ語の講義で当てられて答えられなくて、恥かいたんだよ」



「それで、生気がないつ〜か、なんつ〜か……。ゾンビみたいなんだぁ〜。あ、ごめん、言い過ぎ」

 川原さんは、自虐のつもりなのか、自分の額をゲンコツで軽く叩き、ぺろっと舌を出した。
 人の彼女をこう言うのも何だが、美人は何やっても格好がつくからいいよな。
 しかし、ついにゾンビか。ゾンビと性犯罪者予備軍とじゃ、後者の方がマシだよな。

 ゾンビ呼ばわりした代償ってつもりじゃないが、ついでに川原さんに訊いとくか。

「ゾンビでも何でもいいけどさ……。ちょっと教えて欲しいんだけど、ブレザーのボタン付けをやってくれ
そうな、洋服の簡単な修繕をしてくれるような店に心当たりはないかな?」

 昨日買ったブレザーは、ちょっとボタンのつけ方が緩かった。新品だが、作られてからだいぶ経っている
ようなので、一度クリーニングしておきたかったのだが、このままでは、クリーニングの際に錨のマークが
あしらわれた金ボタンが何個かなくなってしまうかも知れない。


「う〜ん、ないことはないけど、あたしら、そういうお店は利用したことがないから……」

 川原さんは、傍らの陶山をちょっと見た。陶山は陶山で、「う〜〜ん」とか言いながら、困惑したような
表情で、鼻の頭を掻いている。
 何なんだろうね、この反応は。

「ていうと、全部、川原さんが陶山の分まで直しているとか?」

「そ、そうだったら、格好いいんだけどさぁ、あ、あははは……」

 川原さんが、苦し紛れっぽく笑っていて、陶山は居心地が悪そうに、ちょっと肩をすくめていた。

「まさか……」


「そ、そのまさか……。こいつは、料理だけじゃなくて、裁縫とか、掃除とかの家事全般がプロ並みなんだ
よね……」

 傍らの陶山は、川原さんの脇腹を肘で小突き、小声で「余計なことを言いやがって……」と詰っている。

「まぁ、つい口が滑っちゃったけど、いずれはばれるでしょう? それに、男で裁縫やるってのは、別に恥
じゃないわよ。あんただって、内心は誇らしいんでしょ?」

「んなことあるかい……」

「まぁ、いいわ…。でね、これが高二の時の亮一の作品。文化祭でメイド喫茶やることになって、
そのメイドさんの衣装を作ったの」

 そう言いながら川原さんは、自身の携帯電話を差し出した。もう、秘密も何もないということか。
 その液晶画面には、紺を基調としたメイド服姿の川原さんと、同じくメイド服を着た女子二人が写ってい
た。写真の彼女らが着ていたメイド服は、ぴったり各人に合っていて、まさにジャストフィットという感じ
だった。

「すげぇ似合ってるよ。本物のメイドさん以上のメイドさんって感じだな」

「そりゃ、着てるのが、あたしとか、そこに写っている二人だからね。モデルがいいのよ」



 たしかに、川原さんや、川原さんと一緒に写っている二人もものすごく可愛らしいからな。
 だが、メイド服の出来が半端じゃない。何ていうか、アキバとかで見るような、露出度が高い萌的なもん
じゃなくて、実際にメイドさんが着ていそうな服を、レースとかフリルとか、細かな装飾を凝らした上で、
各人の体型に合わせて徹底的にリファインしたという感じだ。
 レースとかで装飾過剰になると往々にして下品になるもんだが、全体のイメージがシックだからか、見苦
しさは全くない。むしろ、

「ノーブルっていうか、垢抜けた雰囲気がいいな……。これ、デザインも陶山なのか?」

「ま、まあな……」

「すげぇなぁ……」

 俺と同い年で、こんなにも万能ってどうよ……。
 そういや、一人だけ、陶山みたいに万能な奴が居たな。昨年夏に桐乃の彼氏として実家に現れた御鏡だ。
 あいつの気障ったらしい癇に障る部分をきれいさっぱり取り去って、価値観その他を骨太で質実剛健な感
じにすると、陶山みたいになるんだろうか。



「しかし、あんときゃ、死ぬかと思ったぞ……。縫製はほとんど俺一人だったからなぁ。最後の三日間は半
徹夜続きだったぜ……」

「え〜? あたしも、あんたの家にミシン持ち込んで手伝ったじゃん!」

「まぁ、ミシン持参で来てはくれたけどよ……。結局、うまく縫えなかったし、そのうちに、縫いかけの服
の上に突っ伏して、ぐ〜すか寝ちまったんじゃないか。おかげで、女子十人分のメイド服を、俺は必死に
なって縫ったんだぞ」

「そ、そうだったかしらね……。全然、記憶にないけど……」

 すっとぼけているような感じの川原さんを、陶山は、半眼で見詰め、ため息を吐いている。
 多分、陶山の言っていることが事実なんだろう。

「で、でも、メイドになる女子の採寸は、全部やったじゃん」


「あれは、俺がお前以外の女の子の採寸しようとしたら、『バカ、変態!』とか言って、いきなりひっぱた
いたんじゃないか!」

「あったり前でしょ! あんた、他の子の身体を触ろうというとき、ものすごくいやらしい感じだったから、
放置してたら絶対に何かやらかしていたに違いないのよ」

「そんな命を粗末にするようなことはしないって……。もしやってたら、クラスの全員から袋叩きにされち
まう」

 これって、痴話喧嘩ってやつなのか? 聞いちゃいけないとは思うものの、嫌でも耳に入ってくるから
困ったもんだ。
 しかし、これで陶山と川原さんの大よそのパーソナリティーが把握できたな。
 明るくて感じよさそうな川原さんは、意外にもずぼらであるようだし、陶山は、ちょっと強面でありなが
ら家事全般が得意という変な奴だ。その陶山は、相方の川原さんに振り回されているらしい。
 いや、男と女ってのは、大概がこんなものなのかな。実家では親父が権力を振るっているようでいて、
結局はお袋の言いなりだってのが、俺を実家から追い出すか否かを決める家族会議ではっきりした。
 親父は、基本的に俺を追い出すのは反対で、矯正すべきは桐乃の方だと主張したが、この件ではお袋が
異常なほど強硬で、結局は今の有様だ。

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最終更新:2011年07月26日 22:17
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