風(後編) 02




 おっと、昨日と今日の午前中に滅入ることがあったから、また嫌なことを思い出しちまったぜ。
 そんなことよりも、陶山と川原さんは?

「あんたは、鈍いから多少は痛い目に遭った方がよかったのかもね。本当に今でも気が利かないったら
ありゃしない!」

「そりゃ、あんまりな言い草だな。俺は“気遣いの陶山”って、高校じゃみんながそう認識していたんだぜ」

「“気遣い”の意味を辞書で引いてから言いなさいよ。“気遣いの陶山”? ば〜か、冗談じゃねぇって」

 未だに言い争いを続けていやがる。こうなると、夫婦漫才だな。
 見ている分には面白いと思う奴も居るんだろうが、俺は他人の口論を聞きながら飯ウマな気分には到底
なれない。

「な、なぁ、陶山が裁縫も得意だってのは分かったから、本題に戻ろうぜ。ブレザーのボタン付けをどうす
るかって話にさ……」



 その一言で、川原さんは、はっとしたように凝固し、頬をうっすらと朱に染めた。
 相方の陶山は、『バカ騒ぎしやがって』と言わんばかりに、川原さんをじろりと一瞥して俺の方に向き
直った。

「お、おぅ……。ブレザーのボタン付けなら俺が速攻でやってやるよ」

「いいのか? 済まねぇな……」

「俺にとっちゃ、お易い御用だ。で、急ぎか?」

「いや、しっかりした生地の冬物だから、秋にならないと着ないと思う……。いつでもいいや」

「そうか。でも、善は急げとも言うからな。早めに何とかしようぜ」

 男同士が洋服の繕いについて、あ〜だ、こ〜だと言い合っているのは、傍目には結構シュールだったらし
く、今度は川原さんが、半眼で心持ち顔をしかめていた。
 川原さんは、『その辺にしておけ』というつもりなのか、軽く咳払いをしてから、陶山の顔をじっと見た。

「でも、肝心なことを忘れてるよ。受け渡しはどうするのさ?」



 川原さんのツッコミはごもっともだ。たしかに、それが問題だよな。

「ふむ……」

 陶山が顎の先に右手をやって、軽くなぜている。どっかで見たようなポーズだなと思ったら、ロダンの
『考える人』に似ている。
 ちょっと考え事をする時の陶山の癖なのかも知れない。

「大学に持ってきて、ここで受け渡しをしてもいいかな?」

「それも悪くはないが……。何かうざったいな……。よかったら、俺んちに持って来いよ。その場で繕って
やるぜ」

「いいのか?」

 俺は関東から流れてきたよそ者なんだぞ。
 だが、陶山は鷹揚に頷いている。

「高坂の下宿はどこなんだ?」


 俺が下宿の住所を告げると、陶山は、「何だ、俺んちの近所か……」と呟いた。

「その住所だったら、あたしんちも近いよ。川原クリニックってのがあたしの家。外科と産婦人科やってる
から、何かの時は宜しくね」

 外科はともかく、産婦人科は男の俺には関係ないわな。
 しかし、未だにこの街の地理には疎いから、近所とか言われてもピンとこない。昨日だって、闇雲に歩い
てどうにか下宿にたどり着いた。
 この街を、部分的に点と線でしか把握していないんだ。
 ガイドブック片手とはいえ、昨日の沙織の方が余程この街を知っていた。
 それはさておき、

「悪いな……」

 陶山には、借りを作るばかりだな。鈍い俺でも、心苦しいぜ。



「気にすんなって。高校の同級生は、この大学に進学した奴もいるけど、気心の知れた奴らの多くは東京の
大学に行っちまってな……。こっちも知り合いが増えるのは嬉しいのさ」

 川原さんもにこやかに微笑んでいる。しかし、陶山が『気心の知れた奴らの多くは東京の大学に……』の
一言を発した瞬間だけは表情が硬くなったような気がした。
 俺もそうだが、色々事情があるんだな。
 東京の大学に行ったのは、陶山の男友達や、川原さんの女友達だけじゃないんだろう。

 おっと。一瞬、そんなことを邪推しちまったが、川原さんは、元通りの笑顔を取り戻しているじゃないか。

「だったら、今度の土曜日の午後、亮一の家に行って、お茶会でもしましょうよ。こっちに残っている子を
呼んで、もちろん高坂くんもね。で、合間を見て、高坂くんのブレザーを繕ってあげるってのはどう?」

「悪くはないが……。なんだかんだで、俺の負担が大きいんだが?」

「お茶の仕度くらいは、あたしがやるから、あんたは繕いもの優先ってことでOK?」

「なら、お茶の支度は俺は関与しないからな。しかし、肝心なことを忘れているぞ。高坂自身の都合はどう
なんだよ」



「あ、そっか……」

 川原さんは、ぽかんと口を半開きにして、上目遣いで天井の方を見ている。
 天然っぽい反応だが、何故か、演技のようなわざとらしさが、ちょっとだけ感じられた。

「という訳なんだが、高坂、今度の土曜日の都合はどうだ? 俺と瑛美と、それに俺たちの高校の同級生で、
こっちの方に残っている奴らが二、三人来ると思う」

「そうそう、さっき携帯に写っていたメイドさんの片割れも、呼べばきっと来るよ。ほら、ロングヘアの
グラマーな子」

 川原さんが悪戯っぽく笑っていた。黒髪ロングで巨乳は、俺にとってストライクゾーンのド真ん中だが、
なぜそれを知っている?

「いや、たしかに携帯には可愛い子が写っていたけど、別にみんな可愛いなと思っただけで……」

「ふ〜〜ん、それにしちゃ、その子の方ばっか見ているような気がしたんだけど、違う?」

 鋭いな……。無駄に勘がいいってのは、あやせに限らず、婦女子なら誰でも持ってる資質なのかもな。



「おい、おい、つまんね〜ことで、高坂をいじめるな。写真なんかに見とれたって別にいいだろうが。それ
よか、高坂、土曜日の午後はどうなんだ?」

 陶山が助け船を出してくれた。男子の苦境を理解できるのは、やはり男子なんだな。当たり前だが……。
 それにしても土曜日か……。保科さん宅での野点があったはずだが、あと五日だってのに何の音沙汰も
ない。こりゃ、ハブられたかな?

「予定があったみたいなんだけど……」

「何だ、その微妙な言い回しは?」

「いやぁ、今度の土曜日に、ちょっとあらたまった席に妹共々招待されたみたいなんだが、今になっても
招待状が来ないんだよな……」

「はぁ? 何それ……」

「いや、口頭でさ、野点に招待するって言われたんだけど、それっきりで何の知らせもねぇんだよ」

「そんなの無視しちゃいなさいよ。で、あたしらとお茶でも飲んでた方が絶対に面白いって」

「そうだな……」

 川原さんの言う通りだな。保科さんは、やっぱり俺なんかとは違う世界の人なんだ。
 そんな人の家にお邪魔できるなんてのが、そもそも非現実的なんだろう。
 ただ、あやせのことをどうするか……。保科さんの野点がなくても、あいつはこの街に来るって息巻いて
やがったからな。

「うん……。じゃあ、陶山や川原さんのお茶会に出させていただくよ。ただし……」

「何か問題でもあるの?」

「いや、ちょっと、余計な付属品があるかも知れねぇんだ。妹がさ、今度の土曜日にこの街にやって来るん
だよ。そいつのことだから、俺がお茶会に行くって行ったら、絶対にくっついてくるな」

「ふ〜〜ん……」



 とハミングのような呟きを漏らした川原さんは、相方の陶山と向き合って互いに頷いた。

「いいんじゃないかしら……。どんな子なのか興味があるしね。で、その子は何年生?」

「生意気盛りの高校一年生だよ」

「高坂とは三つ違いなんだな」

「うん、この春、俺と入れ替わりに俺の出身校に入学したよ」

 三つ違いで、俺の出身校にこの春入学。ここだけ切り取れば嘘じゃない。桐乃もそうだからな。
 それだけに、あやせが俺の妹だっていう嘘に多少はリアリティが出てくるってもんだ。
 昨日もそうだが、嘘って、いっぺん吐くと、歯止めが利かなくなるのかもな。

「俺も瑛美も一人っ子だからさ、弟や妹が居るってのは想像もできないな……」

「え〜? あたしは、妹とかなら欲しいけどなぁ〜」

 まさか、川原さんまで、桐乃みたいに妹萌じゃないよな? あんなおかしいのは、桐乃くらいでたくさんだ。
 その川原さんは、俺の顔をじっと見て、


「で、さぁ、高坂くんの妹さんって、どんな感じ? やっぱ可愛いの?」

 うわぁ、目尻が下がった変なニヤケ面してるぞ。こりゃ、桐乃同様に真性かもな。
 でも、ここは正直に答えておくか。

「まぁ、そこそこ可愛いと思うよ。兄貴の欲目抜きでもさ」

「ほっ、ほぉ〜、そりゃ会うのが楽しみだ」

 俺たちは、それから、互いにとりとめもないことを話し合いながら、陶山が作った弁当を堪能した。
 弁当を食べ終わるという頃になっても、学食はザワついていて、食事を終えた学生と入れ替わりに、他の
学生や院生がやって来る。

「さて……、俺たちも、そろそろ出るか……」

 陶山がそう言ったのを合図に、俺と川原さんも席を立とうとした。だが、



「高坂さん? 高坂京介さんじゃありませんか?」

 不意に背後から呼び止められて、俺は背筋を強張らせて身構えた。どこかで聞き覚えのある声だった。
 まさかとは思った。八日前の日曜日に、禅寺で耳にした優しげな声を聞くとは思いもよらなかったんだ。
 振り返ると、ゆったりとした白いセーターにグレンチェックのスカートを穿いた、その禅寺の君が笑みを
浮かべて俺のすぐ後ろに立っていた。

「保科さん!」

「あらためまして、こんにちは。高坂さん」

 法学部のマドンナにして、おそらくは本学随一の超絶美人であろう保科隆子さんその人だ。

「ほ、保科さん。どうしてここに?」

「どうしても、こうしてもございませんのよ。高坂さんにこれをお渡ししたかったのですが、なかなか機会
がなくて……。それで、こうして参った次第です」



 そう言って、保科さんは俺に一通の封筒を差し出した。
 俺は、思わず固唾を飲み込んでいた。
 差し出された封筒の中身が何であるか、鈍い俺でも察しがついたからな。

「開けて、読んでみてもいいですか?」

 保科さんが笑顔で頷いた。
 和紙の一種らしい目の詰んだ厚手の紙でできた白い封筒は、俺が今まで目にしたことがない形式のもので、
封はされずに、中の書状が自在に取り出せるようになっていた。
 封筒の中の書状も目の詰んだ和紙でできていて、今週末の土曜日午後三時から保科さんの邸宅で野点が
行われる旨と、保科さん宅の住所が、墨痕鮮やかな毛筆書きで記されていた。

「て、手書きの招待状……」

 それも毛筆書きなんて、時代劇とかのドラマの中だけのものだと思っていた。



「そんなに驚かれなくても……。とにかく、午後三時に野点が始まりますが、その前に、高坂さんと妹さん
に、簡単な作法の手ほどきをできればと考えております」

「は、はぁ……」

 そういえば、禅寺で保科さんに会ったとき、そんなことを言われたな。

「ただ、土曜日は午前中もみっちり講義がありますし、妹さんがこちらに新幹線でいらっしゃることを鑑み
ますと、あまり早い時間に拙宅へお出でいただくことも難しいでしょう。ですので、当日の午後二時半前ぐ
らいに、拙宅へお出でいただき、都合三十分弱ほど基本的な作法や所作をお教えするということでいかがで
しょうか」

「え、ええ……。そうですね……」

 それ以前に、この日は、陶山と川原さんが開くお茶会に出ることになったばかりなんだが……。

「どうかなさいましたか?」

 言い淀んでいる俺を、保科さんは微笑しながらも怪訝そうに小首をかしげている。

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最終更新:2011年07月26日 22:18
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