風(後編) 03




「あ、い、いえ、そうでした。今度の土曜日には、野点に招待されていたこと……、ちゃ、ちゃんと覚えて
いましたよ……」

 そう言いながら、俺は傍らの陶山と川原さんをチラ見した。
 案の定、二人とも、口をぽかんと開けたまま、絶句している。無理もねぇや。ついさっき、この日はお茶
会をしようって決めたばっかなのに、いきなりの横槍だからな。それも何の脈絡もなく、超絶美人が毛筆書
きの書状を持ってだぜ。
 二人の頭の中は、『この美人は誰?』、『高坂との関係は?』、『野点って、何?』といった様々な要素
が錯綜していて、どう反応していいか分からないってとこだろう。何せ、俺だって、保科さんの急な登場で、
頭の中が混乱しているんだからな。

「では、大丈夫ですね?」

 畳み掛けるような保科さんの問いに、俺は思わず軽く頷いてしまった。
 いけねぇ! ついさっき、陶山や川原さんとお茶会の約束をしたばっかだってのに。
 本当に二人とも済まねぇ。でも。保科さんの野点の件が先約なんだよ。
 何よりも、保科さんの笑顔は穏やかなのに有無をも言わせぬ強制力みたいなもんがあるんだよな。

 それでも俺は、ささやかなるレジスタンスを試みた。

「でも、三時ですか……」

「高坂さんもわたくしも、午前中は外せない講義がありますから、ちょっと大変でしょうね。その点は申し
訳なく思います」

 畜生、憂いを帯びた眼差しでそんなことを言われるなんて、反則だ。
 俺は、時間を逆算してみた。午後二時半までに保科さん宅へ到着するとして、午後二時には身支度して
下宿を出なければならない。あやせの身支度にどれだけ掛かるか知れないが、一時間は見ておかないときつ
いだろう。そして、新幹線の中央駅から下宿までが四十分、大学から中央駅までが二十分。
 講義が終わったら、速攻で中央駅に向かい、あやせをピックアップして下宿に行き、あやせは和服の着付
け、俺はスーツに着替える。それだけで、十分ほどのビハインドだ。だが、下宿からタクシーを使えば、間
に合うだろう。

「分かりました。それで宜しくお願いいたします」

 タイトなスケジュールだが、電車が遅れるとかの突発的なトラブルがなければ、まず大丈夫だろう。



「何なら、高坂さんのご自宅へお迎えの車を手配致しますが……」

「あ、い、いえっ! それには及びません。妹と二人でタクシーにでも乗って、お伺い致します」

 そこまでしてもらえるなんて心苦しいし、万が一だが、あやせが着付けに手間取って、それが終わらない
うちに迎えの車が来たりしたら赤っ恥だからな。ここは、時間に遅れないようにしながらも、マイペースを
キープしたい。

「分かりました。では、当日は宜しくお願い致します」

 そう言い残して、保科さんは、すぅ〜と、舞うような優雅な足取りできびすを返し、俺たちの前から立ち
去った。
 彼女の残り香なんだろうか。花の香りとも果実の香りとも違う、独特の匂いが辺りに漂っていた。
 その匂いが俺の鼻腔をくすぐり、俺をしばし陶然とさせた。



「お、おいっ! 高坂! い、今の人は何者なんだ?! その招待状は何なんだよ?!」

 陶山の素っ頓狂な声で現実に引き戻された。
 多分、普段は沈着冷静な陶山が、目を剥いて俺に詰め寄ろうとしている。
 一方で、陶山の相方である川原さんは、目が点で、口をぽかんと開けたまま呆然としている。突然現れた
保科さんに毒気を抜かれたのか、それとも俺の変わり身の早さに呆れているのかも知れない。

「あ、ああ……、さっきの人は、保科隆子さんっていって、法学部の同級生だ。と言っても、先日妹と一緒
に大学の近くの禅寺で出くわした程度の仲でしかないんだがな……」

「ほ、保科さんって……。まさか……」

 陶山と川原さんが目を丸くして、互いに顔を見合わせている。どうやら、ジモティにとって、“保科“の
家は相当な意味を持つようだ。

「まさかって言われても、俺は、保科さんが、この地方屈指の名家のお嬢さんらしいってことしか知らねぇ
んだ。実際のところはどうなんだよ?」

「いや……、概ねその通りなんだが、もう一千年以上、いや、もっと以前からか……。とにかく、この街が
栄える前から、この地方に君臨にしてきた一族の末裔って話だ」


「由緒正しき家柄ってわけか……」

「でもね、この辺のお寺や神社に顔が利くらしいことは有名なんだけど、正直、何が生業なのか、あたし
たち地元の人間もよくは知らないのよ」

「何だか、ミステリアスなんだな」

「うん……。伝説の域を出ないんだけど、そんな話もなくはないんだよね……」

 川原さんは、ちょっと目をつぶって、頭を左右に軽く振った。それは、あたかも貧血か何かでふらふら
しているような感じだ。

「おい、大丈夫か?」

 陶山が川原さんの背中をさすってやっている。

「……何なんだろうね、さっきの人と目が合った時に、ちょっとびっくりしちゃって……。それで、何だか
気分が優れなくってさ……」


「何だよ、さっきの人は、にこやかに笑っていただけだってのに……」

「でも、なんつぅか……。高坂くんの前で申し訳ないんだけどさ、目に見えない圧迫感みたいなもんを感じ
たんだよね。何でだろう……。でも、彼女って、すごくいい笑顔なんだよ。あたしが変なのかな……」

「疲れているのさ。昨日、また夜更かしでもしたんだろ。きっとそのせいだ」

「う……ん」

 さっきまで元気いっぱいの川原さんが、塩をまぶされた青菜のように生気を失っている。
 どういうことなんだろうね。
 そういや、あやせの奴も笑顔の保科さんのことを、『嫌な感じ』とか言っていたな。あの時は、あやせの
嫉妬なんだろうが、川原さんの場合はそれじゃ説明がつかない。

「水でも飲ませた方がいいんじゃないか?」

「あ、ああ、そうだな……」



 陶山が頷いたのを認めて、俺は料理を受け取る配膳口のすぐ脇にある給水器に急ぎ、そこで冷たい水を
コップに注いで取って返すと、コップを川原さんに手渡した。

「あ、ありがとう、高坂くん……」

 川原さんは、俺が差し出したコップを受け取ると、一口か二口、口に水を含んだ。

「ふぅ……。少し落ち着いたみたい……」

 川原さんが、ようやく微笑した。川原さんもなかなかの美人だから、笑顔になると一段と魅力的だ。
 しかし、彼女は気になることを言いかけていたよな。

「そういや、さっき川原さんは、保科さんの家のことで何か言いかけていたよな。伝説がどうしたとか……」

「ああ、あれね……。保科家の出自にまつわる伝説っていうか、噂話っていうか……。全然根拠のない話
なんだけどね」

「あの鬼女伝説のことを言ってるのか?」



 陶山が川原さんをたしなめるように言っているところを見ると、あまりよい話じゃなさそうだ。なにせ、
鬼女がらみだからな。

「う……ん、はっきり言って荒唐無稽なおとぎ話だよね……」

 そこまで言いかけて、川原さんは、許可を求めるかのように、陶山と俺の顔を交互に窺った。
 陶山は、口をへの字に曲げている。だが、俺は、

「どんな話なのか、俺は聞きたい。川原さんさえよかったら、ちょっと聞かせてくれ」

「いいけど……。真に受けないで欲しいわね」

「ああ、それは約束する。いい年こいて、ファンタジーなんか信じねぇよ」

「じゃあ、要点をかいつまんで言うけど、何でも、昔々、この地方の北にそびえる山岳地帯に鬼女が住み着
いていて、里の赤子をさらっては、喰らうということを繰り返していたのね……」

 しかし、ついに霊力ある修験者によって調伏されたという。まぁ、ありがちな話だった。



「でね、調伏された鬼女は一族共々改心して、この地方を守護する存在になり、いつしか里の者からも崇め
られるようになった。さらには鬼女の一族の一人は妖力で人化、つまりは人になって、里の者と融合したっ
て話……」

「オチが俺にも読めてきたんだが、その人化した鬼女一族の末裔が、保科家とかってんだろ?」

「そういうこと……。でも、根拠のない与太話でしょうね。保科さんの家はこの地方の主な寺社に顔が利く
ようだけど、遠い祖先が今は祭神となった鬼女の一族だってことにして、自ら神格化を図ったような感じが
するのよ」

「一種の箔付けみたいなもんか?」

 だとしたら、安っぽい話だな。実際、鬼とか鬼女とかが実在するわけがねぇもの。

「そんなものかも知れないな……。このおとぎ話は、この地方の連中だったら大概は知っている。それを
利用して、神社仏閣の管理を一手に引き受けるっていう特権を享受していたのかもな」



 なるほどね……。傍系とはいえ祭神とつながりがあることにすれば、寺や神社から税金みたいなもんを
徴収する際のステータスにはなるだろうな。
 そして、保科家と寺社との関係は今も続いているんだろう。俺は、禅寺で出会った保科さんが、『和尚様
にお届け物』と言っていたことを思い出した。

「でもさぁ、亮一も知らないかも知れない、もっと変な話があるんだけどぉ……。あ、二人とも頭をもう
ちょっとこっちに……」

 川原さんの声をひそめた前置きで、俺と陶山は、心持ち川原さんに顔を近づけた。

「何だよ、勿体つけやがって……」

「いや、あんまりおおっぴらに話せる内容じゃないのよ。で、本題だけど……」

 川原さんは、落ち着くつもりなのか、一旦、ごくりと固唾を飲み込んだ。

「保科さんの家なんだけど、当主って代々女の人なんだよね。もう完全な女系家族。何でも婿養子を迎える
んだけど、その婿養子は跡継ぎの娘が生まれると、ほどなく早世するっていう噂……」

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最終更新:2011年07月26日 22:18
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