あやせと京介の夏祭り 02


はぐれちまった――その事実を噛み締めた次の瞬間には、
俺は携帯のメモリからあやせの連絡先を呼び出し、通話ボタンを押していた。
無機質な電子音が反復し、

「もしもし、あやせか?」
「お兄さん?今どこにいるんですか?」
「俺はあやせとはぐれた場所から動いてない。
 あやせの方こそどこにいるんだ?」
「分かりません。周りに見えるものも、似たような露店ばかりで、特徴がなくて……」

か細い声を聞きながらも、俺は安堵していた。
携帯で情報を共有しながら探せばすぐに発見できると、高をくくっていたのだ。

「とりあえず、何でもいいから目に着いたものを、」
「お兄さん?何を言ってるんですか?」

脈絡の無い遮り方から、最悪の事態を予想するのに、そう時間はかからなかった。
まさか――。

「俺の声が聞こえてないのか?」
「お兄さん、わたし、携帯の充電が……」
「あやせ、とりあえずそこから動くな。
 両方が好き勝手動いたら、入れ違いになることがあるかもしれない」
ふつりと通話の線が途切れる。
俺の言葉が届いたかどうかは分からず終いで、
どちらかと言えば聞こえていなかった公算が大きい。
ああ、クソ。
俺を置いて勝手に歩調を早めたあやせに、
折悪しく二人の間に割って入った御神輿に、
そしてあやせとはぐれる可能性に思い至らず、暢気に携帯を弄っていた自分に腹が立つ。
俺は地理に暗い頭をフル回転させて、
おそらくはあやせが『俺とはぐれたことに気づいた場所』に赴き、

「朝顔模様の黒い浴衣を見た、俺と同い歳くらいの女の子を見ませんでしたか」

と聞き込み作業を開始した。
が、色好い反応は梨の礫、誰もが迷惑そうな顔をして、首を振るか、無視するか。
人波は休みなく流れ、時々刻々とあやせの目撃情報は失われていく。
巡回中の警官にあやせの人相と俺の電話番号を伝え、
見つけたら連絡してもらうようにお願いしたが、
往来にあふれかえる浴衣姿の女の数を考えると、とても期待できそうにない。

どうして、はぐれた時のために待ち合わせ場所を設定しておかなかった。
どうして、無理矢理にでも手を繋いでおかなかった。

後悔の濁流が逆を巻く。
俺の主観を抜きにしてもあやせは美人だ。
そんなあやせが一人、不安げな顔をして彷徨っていたら、悪漢の良い標的である。
「絶対見つけてやるからな」

独りごち、駆けだした。
焦燥と熱気で既に全身は汗みずく、顎先から汗が滴り落ちたが、今は拭っている時間も惜しい。
唯一の救いは進路を邪魔するヤツが誰もいないことだった。
ハッ、女児向けアニメのヒロインを脇に抱えた汗まみれの男が全力疾走してきたら、そりゃあ誰でも道を譲るわな。
涼やかな眉宇。玉石のように濡れ光る両の瞳。
高い鼻梁。薄紅色の唇。処女雪の如き白い肌。
あやせの顔を脳裏に描きながら、大通りを何度も往復する。
……いない。
御輿の通り道になっている、脇道も探してみた。
喧噪を嫌う家族連れや老人と、寂れた屋台しか目に着かなかった。
どこか、見落としている場所でもあるのか。
まさか、あやせはもう……。
最悪の可能性が脳裏を過ぎり、背筋を冷たいものが滑り落ちた。
その時だった。

「イヤですっ!」
「そうは言ってもよぉ、嬢ちゃん。
 いい加減に折れてくれねえと、俺たちも困るんだわ」
「な、ちいっとばかし、車に乗るだけだからよ」

高く澄んだ拒絶の声と、低く野太い猫なで声。
視線を向ければ、路傍に小さな人集りが出来ていた。
屈強な男たちが人壁を造り、その近くには黒塗りのライトバンがアイドリング状態で停止している。
思考が働くよりも先に、足が動いていた。
顔を見るよりも前に、名前を呼んでいた。

「あやせっ!」

ラッセルの要領で人壁をかき分け、輪の中心に躍り出る。
いた。やっと見つけた。

「お兄さんっ!」

憂いを帯びていた表情に、ぱっと大輪の花が咲く。
矩形の御影石に腰掛けていたあやせが、立ち上がりかけ、姿勢を崩す。
俺は駆け寄り、体を支えてやりながら、

「大丈夫か?何もされてないか?」

あやせはふるふると首を横に動かし、

「でも、転んで、足を挫いてしまったんです。
 お兄さんを探して走っているときに、下駄の鼻緒が切れてしまって……」

浴衣の裾から覗いた右足首は、確かに、少し腫れているように見えた。
怪我を庇いながら歩くことはできても、走って逃げることは難しそうだ。
しゃーねえ、ここは一丁腹を括るか。
俺はあやせを一人で立たせ、居並ぶ悪漢どもをギロリと見据えた。
どいつもこいつも鋳型で作ったみたいに、豪腕、巨体、極道面の三拍子揃ってやがる。
土下座して見逃してくださいと懇願しても、たぶん、一顧だにしてくれないだろう。
無論、そんな情けねえマネをする気は端からないがな。
だって、あやせが見てるんだぜ?
それにさ、マンガの主人公みてえなセリフ、一度言ってみたかったんだよな。
『逃げろあやせ、こいつらの相手は俺がする!』ってな感じのセリフをよ。
俺は見よう見まねのファイティングポーズを取り、

「逃げろあやせ、こいつらの相手は――」
「遅かったじゃねえか兄ちゃん、こっちはアンタのことずっと待ってたんだぜ」
「へ?」

朗らかな笑みを浮かべた男どもに、べしべしと肩を叩かれる。
痛い、あの、マジ痛いっす、いやホントマジ痛いんで勘弁してください。
クスクス笑いに気づいて振り返れば、
おいおい、俺の決死の呼びかけが聞こえなかったのか?
あやせはその場から微動だにしちゃいなかった。

「ふふっ、おかしい」

おかしいって何が?

「お兄さんは勘違いをしています。
 その人たちは、お祭りの運営をしている方々ですよ?」

……マジで?
「襲われてたんじゃなかったのか?」
「まさか。逆です。
 わたしが足を挫いて動けなくなっているところを、助けて頂いたんです」

愕然としたね。
人聞きの悪いこと言うでねえ、と呵々大笑する男たち。
年配の方が言った。

「足は見た感じ大事なさそうだが、こんなところでジッとしてるよりは、
 応急医のいる休憩所で、看てもらったほうがいいと思ってなあ。
 歩かせるのも酷だと思うて、車を手配したんじゃが、
 嬢ちゃん、絶対あんたが迎えに来てくれる言うて、テコでも動かなかったんじゃ」

手配した車とは、あのライトバンのことだろう。
冷静になって見返せば、男たちは全員、同じ町章入りのシャツを着ていた。
拉致寸前の状況は、完全な俺の脳内妄想だったらしい。
安堵と同時に、顔から火が出そうなほどの羞恥に見舞われた。
身を隠せる穴はどこにもなく、掘ろうにも悲しいかな、アスファルトの固さは如何ともし難い。

「さて嬢ちゃん、いい加減、休憩所に行かねえか。
 望みどおり兄ちゃんと合流できたんだ、一緒に乗りゃあいい」
「いえ、本当にお気遣いなく。
 ゆっくり歩く分には問題ありませんし、
 何より、休憩所で時間を潰していたら、
 せっかくお祭りに来た意味がなくなっちゃいますから」
「……そうか。
 それじゃあ俺たちは見回りに戻るからの、後は任せたぞ、兄ちゃん」
「う、ういっす……痛てて」

最後に馬鹿力で俺の肩を叩き、男衆は散っていった。
はぁ、と深い溜息を吐いて、御影石に座り込む。
傍らにはブルーハワイのかき氷があった。
誰のだ、と尋ねると、

「さっきの方たちが、わざわざ買ってきてくれたんです」

至れり尽くせりだなオイ。

「これ、ちょっと食べてもいいか」
「か、構いませんけど……」

返事を訊くや、俺は一気にかき氷をかきこんだ。
うめー。冷てー。喉の裏側の痛みがたまんねー。
走り通しで疲弊しきった体に、水気と甘味の染みること染みること。
あやせは唖然たる面持ちで俺の食べっぷりを眺めていたが、やがて切なげに目を細めると、

「……すみませんでした」
「なんでお前が謝る?」
「あのとき、わたしがお兄さんから離れなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう?」
「そもそも俺が余計なことを言ってなけりゃ、お前が俺から離れようともしてなかったはずだぜ」
「それを言うなら、お兄さんのセクハラ発言を軽く聞き流せなかったわたしに原因があります」
「いいや、調子に乗りすぎた俺が悪かった」
「いいえ、悪いのはお兄さんを調子づかせたわたしです」
「あやせに責任はねえよ。聞いて驚け。
 俺はお前が近くにいるだけで自然にテンションが上がってくる、特異体質の持ち主なんだ」
議論は果てなく平行線を描くかに思えた。
が、あやせの一言が終止符を打った。

「じゃあ、言い方を変えます。
 迎えに来てくれて……ありがとうございました」
「お、おう」

謝罪の言葉は受け取れなくても、感謝の言葉なら受け取れる。
あやせはそっぽを向きつつ、

「一人になってからも、鼻緒が切れて身動きが取れなくなってからも、わたしは心細くありませんでした。
 お兄さんなら絶対にわたしを見つけてくれるって、信じてましたから」
「あやせ……」
「だって、前に言ってたじゃないですか?
 わたしの匂いなら1キロ先からでも分かる、とか。
 神経を研ぎ澄ませればわたしの心が読める、とか……」

わ、我ながらキモイな。
けど、そこまで言ったことあったっけ?
セクハラの限度は弁えてるつもりだが、ハッキリと否定できないのが俺が俺たる由縁である。

「まぁ、真面目な話……お前が危ない目に遭ってなくてよかったよ」
「お兄さんは、わたしがあの人たちに連れ去られかけていると思っていたんですよね?」
「恥ずかしながらな」
「もし本当にお兄さんの想像どおりだったら、どうしていたんですか?」
「どうしていたも何も、そりゃあ、お前を助けようと頑張ってたんじゃねえの。
 つーか、あの輪の中に飛び込んだ時点で、逃げ場はどこにも無かったんだ。
 最初から覚悟は出来てたさ」
「お兄さんには勝てる自信が?」
「いいや、からっきし。
 俺の親父は警官で、しかも柔道の有段者でさ。
 ガキの頃に基礎だけしっかり叩き込まれたんだが、今じゃ全然思い出せねえ。
 喧嘩に関しちゃ、俺は素人だよ」
「じゃあ覚悟というのは、ぼこぼこにされる覚悟……?」
「多勢に無勢でも、時間稼ぎくらいできるだろ。
 その間にお前が逃げられたらいいな……って、そんなのは今だから言えることだよな。
 あの時は何も考えちゃいなかった。無心の行動ってヤツだ」
「はぁ。お兄さんって、本当に馬鹿ですね」

お前な、ここは普通「お兄さんカッコイイ!素敵!」って言う場面じゃねえの?

「いいえ、馬鹿です。
 相手が相手なら、大怪我を負わされていたかもしれないんですよ?
 周りの誰かに応援を求めないで、一人で突っ込んでくるなんて……。
 ふふっ、大馬鹿以外の何者でもありません」

バカバカうるせぇな。
しかし辛辣な言葉とは裏腹に、あやせは妙にご機嫌である。
俺を罵倒できるのがそんなに嬉しいのかね。
お兄さんちょっと複雑な気分だわ。
というわけで(?)、俺はついさっき気づいた衝撃の事実に、
いささかセンセーショナルな脚色を加えて披露することにした
「ところでこのかき氷、あやせの食べ残しだよな?」
「急に何を言い出すんですか?」
「食べ残しだよな?」
「そうですけど、それが何か?」

それが何か?それが何か、だと?
俺があやせの食べ残しを食べている。
それが意味するところは一つ。

「……間接キスだ」

ふははは。今まで失念していたのだろう。
ついうっかり、俺にかき氷を食べる権利を与えてしまったのだろう。
が、後悔しても時既に遅し!

「そうですね。お兄さんの言うとおりです」
「え?」
「それで、間接キスだから、どうかしたんですか?」

オー、ジーザス。俺は夢を見ているのか?
でなければ現代に起こった奇跡を目の当たりにしているか、だ。
あやせが俺との間接キスを認めている?
まさか。いやいや、有り得ない。
怒りで顔を真っ赤にしたあやせに、「変態!」「死ね!」とエッジの効いた暴言と暴力で虐げられるのが、
俺の描いていた未来予想図(的中率97%)だったというのに……いったい何がどうなってやがる?
「少しは、多めに見ることにしたんです」

あやせは顔を怒りで真っ赤にする代わりに、ほんのりと頬を桃色に染めて、

「金魚すくいのコツを教わったり、お化け屋敷に付き合ってもらったり、
 はぐれて身動きの取れないわたしを探しにきてもらったり……。
 今日一日で、お兄さんにはたくさん借りが出来てしまいました。
 ですから、少々の変態的行為には目を瞑ろうかと。
 あくまで今日一日だけ、ですけど」

あーハイハイ、そういうことね。
つーか、何でもないことのように言っておきながら、
やっぱりあやせの中では、間接キスは変態的行為に属してるのな。
俺はかき氷の空容器を近場のゴミ箱に放りつつ立ち上がり、

「どこまでセーフで、どこからアウトなんだ?」
「そうですね……」

あやせは人差し指を唇に添えて思案のポーズになり、

「お兄さんからわたしに触れるのはNGで、わたしからお兄さんに触れるのはOKです」

なんだそりゃ。
意味を理解できないでいると、早速あやせは宣言を実行に移してきた。
右腕が手繰り寄せられる。
お化け屋敷の終盤、暗闇の中でしていたように、
しかしあの時よりも締める力は優しく、あやせは俺と腕を組んだ。
「か、勘違いしないで下さいね」
「挫いた足首に負担をかけないようにするため、だろ?」
「……物わかりが良くて助かります」

正鵠を得ていたにも関わらず、あやせの唇はツンと尖っている。
やはり詮無い理由があるとはいえ、俺の腕を借りることには、忸怩たる思いがあるんだろう。
柔らかな感触に諸手を挙げて大喜びしたいところだが、
今は余計な刺激を控え、寡黙な杖役に徹するのが得策か。
可惜身命、触らぬ神に祟りなし。

「……ところで、足首はどのくらい痛むんだ?」
「ほんの少しです。お兄さんを支えにしていれば、ほとんど痛みは感じません」
「それでも、痛みは歴とした体の危険サインだぜ。
 当て所なく練り歩くのは、やめといた方がよさげだな」

ぬいぐるみの位置を整え、腕時計を見る。
九時三十分前、か。
ちょいと気が早いかもしれないが、

「花火が見える場所に移動しないか?」

早く行けば見晴らしの良い場所が取れるかもしれないし、
あやせが座って休めるようなベンチが見つかるかもしれないぜ。

「……実は、さっきの方々が教えてくれたんですけど……」

とあやせは耳許に囁いてきた。
「な、なんだ?」

耳たぶに触れる吐息がこそばゆい。

「地元の方も知らない、秘密の見晴台があるそうです。
 お兄さんを待っている間に、地図を書いて頂きました」

あやせはハンドバッグから半紙を取り出し、見せてくれた。
限りなく抽象化された街の縮図を読み解く。

「ここから、そう遠くないみたいだな」

街路の混雑、あやせに配慮した徒歩を加味しても、20分ぐらいで着けそうだ。
しっかし……本当にそんな場所があるのかね。

「あの人たちは、嘘を吐くような人たちじゃありません」
「嘘だとは思っちゃいねえが、ただ、なんとなくイメージが出来なくてな」
「何でも、一見すると入るのを遠慮したくなるような建物らしいですよ」

どんな建物だよ。魔窟か?
あやせはクスリと笑んで言った。

「とりあえず行ってみませんか。一件は百聞に如かずとも言いますし」

さて、そんなこんなで歩くことしばらく、
人気のすっかり希薄な脇道をさらに逸れ、
街灯の明かりさえ乏しい小径を突き進み、
野良猫の寝床と化した隘路をそろりそろりと通り抜けた俺たちの目前に現れたのは、
想像していた魔窟よりもずっと現実的かつ退廃的な建物であった。
「廃ビル、ですね」
「廃ビル、だな」

かれこれ十数年は放置されている感じだな、この廃れ具合は。
入り口は当然のことながら閉鎖されていて、
駄目元で裏手に回ると、搬入口の扉の鍵が開いていた。
中は暗く、埃っぽかった。
採光窓から差し込む月明かりが、唯一の光源だった。

「どうする?」
「どうするって、ここまで来たのに引き返すんですか?」
「や、お前が心配で聞いてんだよ。あやせは怖くねえのか?
 雰囲気的に、マジモンのお化けが出てもおかしくないような場所だぜ、ここ」
「ふふっ、わたし、気づいちゃったんです。
 どんなに怖いお化けでも、触れられるなら、暴力でなんとかなるってことに」
「お前はもう二度とお化け屋敷に入るな」

調度の類が何もない一階を見回る。
当然のことながらエレベータの電源は落ちていてた。

「屋上に出るには、階段を使うしかなさそうですね」
「でも、それじゃあお前の足がもたないだろ」

平素の徒歩と階段の上り下りじゃ、かかる負担も段違いだ。
「どうしましょうか」

俺の腕を掴むあやせの手に、力が籠もる。

「方法はふたつある」
「ふ、ふたつもあるんですか?」
「まあな。知りたいか?」
「知りたいです。それで本当に、屋上に上がれるなら」

俺はもったい付けて言ってやった。

「あやせ、俺にお姫様だっこされるのと、おんぶされるのと、どっちが良い?」

「どっちもイヤ」――予想していた返事はいつまでも聞こえずに、

「……おんぶの方が、まだマシです」

声の震えから、相当、苦渋の決断であったことが伺える。
俺は組んだ腕を解き、あやせの前に進み出て、身を屈めた。

「言っとくけど、下心はねえからな」
「嘘つき」

見破られるの早ッ!
見破られるの早ッ!
取り繕っても仕方ないと判断し、開き直ることにする。

「……ああ、嘘だ。
 けどな、女の子を心の底から荷物扱いできる野郎なんていねえっての」

相手がお前なら、なおさらな。

「ほら、さっさと乗れ。花火が始まっちまうぞ」

刻限を知らせたことが上手く作用したのだろうか、
あやせは怖々といった様子で俺の肩に触れ、徐々に体を預けてきた。
後ろに手を回し、薄い浴衣の生地に包まれた太股を支える。
豊満な果実が二つ、背中で潰れるような感覚があった。
あやせは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
実際に階段を昇り始めると、あやせの感触を味わう余裕が無きに等しかった、というのもある。
とにかく一歩一歩が辛い。苦しい。
おっと、別にあやせの体重にケチを付けているわけじゃねえぞ。
俺は自分の体力不足を嘆いているだけだ。

「……大きいですね、お兄さんの背中」

と不意にあやせが言った。

「そりゃあ、女のお前と比べると大きいだろうよ」
「そういう意味で言ったんじゃありません」

じゃあどういう意味で言ったんだ、と尋ねようとしたとき、強烈な既視感が脳裏を掠めた。
この状況、この会話。
全てに共通する出来事があったはずだ……。
「ああ」

思い出した。

「桐乃だ」
「桐乃がどうかしたんですか?」
「昔々に、家族で祭りに出かけたことがあったんだ。
 どこの祭りかは忘れちまったが……とにかくすごい混雑で、
 気づけば、隣にいるはずの親父とお袋がいなくなってた。
 手を繋いでたおかげで、俺と桐乃ははぐれずにすんだ」
「それから、お兄さんと桐乃は?」
「必死に親父たちを探したよ。
 けど、あの頃の俺はガキで、桐乃はまだ小学生にもなってなくてな、
 死ぬほど心細くて、俺が泣きそうになったとき……桐乃に先を越された。
 道ばたに座り込んで、わんわん泣いてたっけ、あいつ。
 それを見てたら、『俺がなんとかしねえと』って気持ちが沸いてきてさ、
 俺は桐乃をおぶって、迷子センターを目指したんだ」

道中、桐乃は言った。

『お兄ちゃんのせなか、おおきいねぇ』

俺はこう答えた。

『桐乃の背中にくらべたら、大きいに決まってるだろ』

すると桐乃は、俺の背中をぽかぽかと叩いてこう言った。

『そういうイミで言ったんじゃないもん。
 お兄ちゃんにおんぶしてもらったら、あんしんするってイミだもんっ』
言葉の意図が同じだとすると、もしかしてあやせも、
あの時の桐乃と同じ感想を懐いてくれているのだろうか。
はは、まさかな。
そいつは希望的観測が過ぎるぜ、京介。

「……羨ましい」
「何か言ったか?」
「じ、時間が惜しい、と言ったんですっ。
 お兄さんは階段を昇ることに専念してください」

ほらな。
やっぱりあやせは、一刻も早いおんぶからの解放を望んでいるんだよ。
俺は気合いを入れ直すべく、あやせを抱え直した。

「きゃっ……」

艶やかな声が漏れた。
俺の手は計らずとも、あやせの水蜜桃の如きお尻をわしづかみにしていた。
いや、マジでわざとじゃないって。
揉みしだきたい欲求と格闘すること数秒、

「お兄さん?」

冷えた声が耳朶を刺す。
ああ、分かってる。聞き苦しい言い訳をする気はねえよ。
疑わしきは被告の"不利"なり。
情状酌量の余地はなし。
新垣大法廷の判決は、今日も今日とて事もなし。
「……本当に展望台みたい」
「……最高の見晴らしだな」

屋上に通ずる扉を開くと、二人して思わず息が漏れた。
痛む後頭部を撫でさすりつつ(原因が何かは言わずもがな)錆びた鉄柵に歩み寄れば、
眼下には祭りの賑わいが、彼方には夜空を写し取ったかのような、河川の暗い輝きが見えた。
高さ、距離ともに、望楼としては申し分ない。
それから、夜風を浴びて待つこと数分、

「あっ」

と傍らのあやせが喉を鳴らした。
黒洞々とした満天に、色鮮やかな花が咲く。
遠雷のように低い音が、わずかに遅れて鳴り響く。
綺麗だな、と感心する一方で、桐乃も見たかっただろうな、と家で寝込んでいる妹のことを思った。
眺めている間は腕組みをする必要がないと思ったのか、あやせの腕から力が抜ける。
一抹の寂しさが去来し、次の瞬間には、戸惑いが胸中を占拠していた。
手の甲に触れるあやせの手。
反射的に握ると、ややあって、あやせも握りかえしてくる。

「わたしは――ときどき分からなくなるんです。
 お兄さんが、悪いお兄さんなのか、良いお兄さんなのか」
「今のところ、俺はあやせにどう思われてるんだ?」
「教えません。教えたら、お兄さん、きっと調子に乗っちゃいますから」

その言い方だと、答えを言ってるも同じだぜ。
まあ、ちっとは見直してくれたってことか。
あやせは言った。

「お兄さんはどうして……最初に会った頃のお兄さんを演じ続けなかったんですか?」
「最初に会った頃のお兄さん?」
「ですから、その……常識的な妹想いで、気持ち悪いことを言わない……普通のお兄さんです」

裏を返せば、今の俺は倒錯的なシスコンで、
口を開けばセクハラ発現をする変態兄貴だと思われている、ということだ。
所詮は自分で蒔いた種、望み通りの結果だがな。
俺は言った。

「良い部分と悪い部分、全部ひっくるめて俺なんだよ」
「悪い部分を、わたしの前で隠すことはできるじゃないですか。
 そうすればわたしも……わたしだって……」
「あやせは誰かに嘘を吐かれるのが、何よりもイヤなんじゃなかったのかよ」
「それは、そうですけど」
「俺が常に良いお兄さんでありつづけるのは、俺がお前に嘘を吐き続けるのと同じだぜ」
「…………」

黙りこくるあやせ。
俺はこれからも、妹と愛の証を収集する変態として、臆面もなくセクハラ発言する畜生として生きていく。
桐乃とあやせの関係を繋ぐための、必要不可欠な人柱として。
数秒の沈黙をおいて、あやせは花火の音圧に潰されそうなほど、小さな声で呟いた。

「……ひとつ、お兄さんにお願いがあります」
「なんだ?」
「今から花火が終わるまでの記憶を……後で必ず忘れると、約束してもらえますか」

そいつは無理な相談だな、と思いつつも、
切実な眼差しを向けられて、俺は首を縦に振ってしまう。
双眸に目もあやな夜空の光を浮かべながら、あやせは言った。

「……わたしは、お兄さんみたいなお兄さんが欲しかった。
 困っているときに、いつも助けてくれる……そんなお兄さんがいる桐乃が、羨ましかった」

冗談はよせよ、俺なんかを兄に持てば、度の過ぎた愛情を注がれた挙げ句、
近親相姦モノの薄い本を一緒に集めるハメになるんだぜ――そう言いかけて、改める。

「お前が桐乃の親友でいてくれる限りは、お前も俺の妹みたいなモンだ」
「それだけ、ですか?」
「どういう意味だ?」
「お兄さんにとってわたしは、それだけの存在でしかないんですか?」

おかしいな。
俺の自惚れじゃなけりゃ、あやせがそれ以上の関係を望んでいるように聞こえるんだが。

「わたしのことを愛してる、とか……わたしと結婚したい、とか……全て、冗談だったんですか?」
「そ、それはだな……」
「桐乃を性的な目で見ているお兄さんが本当のお兄さんなら、
 その言葉も本心から出たもの、ということになりますよね」
「う……」

痛いところを突いてきやがる。
一方の命題を真と言えば、他方の命題もまた同様に真と認めることになる。
自分が言った嘘に、自分自身が縛られる……まるっきり狼少年の末路じゃねえか。
答えに窮する俺に、あやせは静かに言葉を重ねた。
「わたしは嘘が嫌いです。大嫌いです。
 でも、自分のために吐く嘘じゃなくて、誰かのために吐く優しい嘘になら……騙されても構いません」

あやせは暗にこう言っていた。
二つの命題のうち、一つは確実な偽であることを知っています、と。
何の因果か俺は今、妹を性的な目で見ているという体面を保ったまま、
あやせに告白してオーケーをもらえるかもしれない状況に立っていた。
なのに。

「…………」

好きだ、の一言が出てこない。
馬鹿野郎、さっさと言え。
愛している、結婚しよう、と軽々しく求愛していたのはどこのどいつだ。
不意に空気の震えが止まり、痛いほどの静寂が辺りを満たす。
時間切れ、か?

「……お兄さんの意気地なし」

落ち着いた非難の声が、胸に深く突き刺さる。
俺は恐る恐る隣を見て……次の瞬間に、かつん、と前歯に何かがぶつかる音を聞いていた。
ふっくらとした感触と、湿った体温を俺の唇に残して、あやせはそっと体を離す。
俺が嘘つきなら、お前は天の邪鬼だ。
華やぐ笑みで「死ね」と言い、蔑みながらキスをする。
「……っ……はぁ……」
「おま……花火はとっくに終わって……」
「いいえ……まだ、終わってません……」

ひゅるるるる、と甲高い音が空を裂き、あやせの言葉を証明する。
無数の火花が描いたのは、祭りの終わりを締めくくる『Fin』の文字。
あやせは半ば惚けた表情で言った。

「……約束、守ってくださいね」

記憶を任意に消去できるほど、人間の脳味噌は便利に出来ちゃいない。

「もし桐乃に話したりしたら……」

きらり、とあやせの目が光る。
俺は慌てて言った。

「言わねえっての。
 言ったらお前よりも先に、桐乃本人から殺されそうだ」

全ては、真夏の夜の白昼夢。
それを否定する材料は、今や唇に残った感触のみで、それさえも時間が経てば消えてしまう。
その前に、と俺は言った。

「好きだぞ、あやせ」

今更ですか、とあやせは答えた。

「知ってますよ、お兄さん」

機を逸した愛の言葉は、至極あっさりと聞き流された。
それでも、その時あやせが浮かべた笑顔を――俺は一生、忘れないだろう。
さて、この話にはオチがある。

それから俺たちは睦言を語り合い、
口づけを交わす間に生まれたままの姿になり、屋上の一角で情事に耽る……こともなく、
風上から運ばれてきた、火薬の臭いに追われるようにして、屋上を離れた。
あやせに腕を貸しつつ駅に辿り着き、
家からの最寄り駅で、迎えの車にあやせを預け、
自転車を漕ぎ漕ぎ自宅に到着、シャワーで汗を流して今に至る。
コンコン。

「……誰?」
「俺だ。さっき帰ってきた」
「いいよ、入って」

許可を得て部屋に入ると、
桐乃は俺が出かけた時と同じように、ベッドで横になっていた。

「お祭り、楽しかった?……てか、後ろに持ってるの、何?」

俺は最初の質問には答えず、桐乃へのお土産を披露する。

「ウソ……メルルの縫いぐるみじゃん……しかも超おっきいし……どこで手に入れたのっ!?」
「体に障るから興奮すんな。
 あやせがクジ屋で当てたんだ。お前へのプレゼントに、だってよ。
 今度会ったらお礼言っとけ」
「うん、分かった。分かったから、早く貸して!」
病人とは思えねえ喜びぶりだな、オイ。
病は気から、って言葉もあるし、メルルが特効薬になれば言うことはないんだが……。

「…………」

どうした、いきなり黙り込んで。
桐乃は何を思ったか、メルルの股間に顔を押しつけると、俺とメルルを交互に見比べ、

「なんで兄貴の……」

と言いかけ、慌てて

「この子、超臭いんですケド」

と言い直した。
ああ、それにはちゃんとした訳がある。

「歩いてる間はずっとそいつを肩車してたからな」
「じゃあこの子に染みついてるのは、兄貴の汗ってコト?」

肯くと、桐乃は思い切り顔をしかめて、

「しっ、信じらんない!
 なんで袋に入れるとか、どこかに預けとくとか考えなかったワケ!?」
「うるせーな、洗えば済む話だろうが。
 こっちに寄越せ、潔癖症。
 明日、お袋が出かけてる間にでも洗っておいてやるからよ」
「いい」

はぁ?
「洗ったりしたら、この子の形が崩れちゃうかもしれないじゃん」
「じゃあ、クリーニング屋に持って行ってやる。
 洗濯のプロなら上手く洗ってくれるだろ」
「じ、自分で持ってく」
「外出できないくらい熱があるくせに、何言ってんだ。
 俺が持って行ってやる。
 お前が寝てる間に、メルルは綺麗になって戻ってくる、それでいいだろ」
「うっ、うるさい!もうあんたは出てって!」

八重歯を剥いて威嚇する桐乃。
さっきまで臭いと言っていたぬいぐるみを、今は俺から守るようにして抱いている。
やはり高熱で譫妄状態にあるのかもしれん。
ここは大人しく退散したほうが良さそうだ。

「じゃあな。ゆっくり休めよ」
「うん……」

俺は最後に額を合わせて熱を測り、以前よりも温度が上がっていることを確認して、部屋を出た。
このまま熱が引かなければ、朝一で病院に連れて行くことも考えないとな。
自室に戻り、ベッドに横になったところで、電話がかかってくる。
発信者の名前を見てから、通話ボタンを押した。

「赤城か?どうした?」
「おう高坂、今お化け屋敷のバイトが終わったところだ」
「そっか、そいつはご苦労さん」

で?

「で、じゃねえだろ。
 お前俺のメール読んでなかったのか?」
ああ、そういや俺とあやせの関係を問い質すメールが届いていたっけな。

「あんな可愛い子と、どこで知り合ったんだ?」
「妹の友達だ。初めて会ったのは、一年くらい前だな」
「お前の妹って、確か瀬菜ちゃんの一つ下だろ?
 あの顔と体で中三って……お前の妹といい、その子といい、後輩の子といい、
 どうしてお前の周りにだけ反則級の美人が集まってくるんだ?
 あ、いや、もちろん田村さんも含めてな」

知るか。あと麻奈実をとってつけたように扱うんじゃねえ。
赤城は急に真面目な声になって訊いてきた。

「お前とその子は、いつから付き合ってるんだ?結構長いのか?」
「なあ、赤城」
「なんだよ。もったい付けるなって」
「俺はあやせ――その子の名前な――とは付き合ってない。
 今日は妹とあやせと俺の三人で祭りに行くつもりだったんだけどな、
 妹が熱出して行けなくなったから、二人で行くことになった、それだけだ」

「なんだよ、高坂に先越されたかとビビっちまったじゃねえか」と赤城は安堵の笑いを響かせることもなく、

「おい水臭ぇぞ、高坂。
 俺とお前は、秋葉のエロショップを一緒に巡った仲なんじゃなかったのかよ?」
「は?何言ってんだお前」
「しらばっくれても無駄だぜ。いいから本当のことを言えよ」
「いや、付き合ってねえものは付き合ってねえし」
「残念だ、高坂。
 お前のことは、何でも話せる、気のおけねえ親友だと思ってたんだがな……」

ふつりと通話が途絶える。
最後の方が涙声になっていたのは気のせいか?
ふつりと通話が途絶える。
最後の方が涙声になっていたのは気のせいか?
腑に落ちない点はあるものの、考えても仕方ないと思い、ベッドに横になる。
目を瞑ると、廃ビルの屋上での記憶が再生された。
あやせとキスをした今となっても、あやせと付き合うことは、上手く想像できない。
あやせは俺に好意を懐いてくれていて、一方で桐乃を脅かす存在として敵意を懐いている。
しかし俺が桐乃を性的な目で見ているというのは、
あやせと桐乃の仲を取り持つための、いわば自分を犠牲にする嘘であり、
あやせはその嘘を看破していることを、言外に臭わせていた。

つまり、何が言いたいかと言うとだな。

桐乃がオタク趣味から足を洗うか、
あやせが桐乃のオタク趣味を完全に認めるまで、
俺が嫌われ役、あやせが桐乃の守護者役のスタンスは崩れない、ということである。
あやせの俺への好意が、桐乃との友情より優先されるほど、強いものかどうかも分からないしな。
例外があるとすれば――屋上であやせが設けたような、『記憶に残さない秘密の時間』くらいだろうよ。

次の再会を夢見ながら、いつしか俺は、本当の眠りに落ちていた。

あやせに腕を貸しながら駅に戻る道中を、
お化け屋敷を片付け中の赤城に、イベント帰りに花火だけ見に来た加奈子とブリジット、
普通に祭りを楽しみに来たゲー研一同および黒猫三姉妹および田村一家に、仕事の息抜きに来た御鏡と藤真社長、
果ては出会いを求めて彷徨っていたフェイトさんに目撃されていたことを、当然、知る由もなく……。


おしまい!





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最終更新:2011年07月02日 22:25
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