風(後編) 07



「急ぎましょう」

 既に俺たちを除く他の招待客は席に着いていて、炉から離れた末席とでも言うべき場所に、都合三人が座
れそうな場所が空いていた。

「お嬢様。お待ちしておりましたぞ」

 保科さんが緋毛氈に座っている来客たちに近づいていくと、そのような声がそこかしこから聞こえてきた。

「いえ、お嬢様だなんて……。それに本日は未熟者のわたくしではなく、先生にお茶を点てていただきます
ので、わたくしはこちらの方で目立たぬように控えさせていただきます」

 いなし方も堂に入ったもんだ。一歩間違えれば嫌味になっちまうのに、保科さんが言うと、全然そうじゃ
ないからな。

「しかし、本日は、おのこを連れてですかな。嬢様もすみには置けませぬなぁ」

 招待客のうち、禿頭で暗褐色の地味な着物を着た、おそらくは喜寿ぐらいになりそうな老人が笑いながら、
そう言ってきた。

「和尚様、そのようなことを仰られると、檀家の皆様から、生臭ナントカと言われてしまいますよ」

「はははは……、これは参った。嬢様には敵いませぬなぁ」

 和尚様と呼ばれた老人は、年に似つかわしくなさそうな張りのある声で、からからと笑っている。

 この爺さん、俺と保科さんが出会った禅寺の住職か何かだろうか。
 それにしても小柄で細身のくせに、よく通る声だな。少なくとも、ただ者じゃなさそうだ。
 その爺さんと俺の視線が交錯した。彫りの深い面立ちに柔和そうな目だった。だが、その目が一瞬だけ、
かっと、見開かれ、俺をたじろがせた。俺が何者であるのか、その眼光をもって吟味したのだろうか。
 だが、それだけだった。爺さんは、もう俺には目もくれず、俺の後ろに控えているあやせの方を向いている。

「おのこだけでなく、嬢様に勝るとも劣らない別嬪さんもお越しとは、愚僧、長生きはするもんですな」

「和尚様、それぐらいにしてください。いくら野点は格式張らないとは申しましても、和尚様の悪ふざけは
度を越しております」

「おお、嬢様の突っ込みはいつもこうじゃ。こわいこわい……」

 保科さんと比較されるという微妙な褒め方だったからか、あやせが『何なのこの爺さん』と言いたげに、
「こわいこわい」と呟きながらも笑っている和尚を、半眼で睨んでいる。
 実際、変なジジイだよな。さっき一瞬だけ、眼光が鋭いように感じたのも錯覚だったのもかも知れねぇ。
 しかも、

「そこな青年、嬢様のような美しいめのこは、こんな風に怖いものじゃ。十分に気をつけられよ、嫁にする
と、後々、尻に敷かれるでな」

 うわぁ、保科さんに釘を刺されても全然堪えてねぇや、このジジイ。しかも、よりにもよって、保科さん
みたいな人を俺の嫁にってのは何だよ。そんなことを考えただけで、我が身がどうなるか分かったもんじゃ
ねぇ。

「……お兄さん……」

 その最大の危険要素が、今、俺の傍らにいやがる。万が一にもあり得ないが、俺が保科さんと付き合いだ
したら、俺はこいつに速攻でブチ殺されちまう。

「和尚様、これ以上、わたくしのお客様を困らせないでください。こちらの殿方は、わたくしの同級生であ
る高坂京介さん、そしてそのお隣の可愛らしいお嬢さんは、高坂さんの妹さんの高坂あやせさんです」

「お嬢様のご学友でしたか……。そうすると、優秀な方なんですね」

 和服姿の品のよさそうな老婦人がにこやかに頷きながら、そう言ってくれた。
 優秀ね……。今の大学に合格できたのは、ほとんどまぐれと言ってよい。大学受験だけに限れば、運がよ
かったというだけのことだ。それでも、

「ありがとうございます。今の大学に合格できて、この街で暮らせるのは、本当にありがたいことだと思い
ます」

 無難な言い回しでその老婦人には応えておいた。もうガキじゃねぇんだ。場をわきまえないといけない。
 それに、俺とあやせ以外の招待客は、みんな目上の人ばかりだ。さっきのジジイみたいな変なのもいるが、
一応は長幼の序ってもんがあるからな。

「それでは、高坂さん、あやせさん。こうして立っていたのでは、野点を始められませんから、わたくし
たちも座りましょう」

 保科さんに促されて、俺とあやせは、先ほど茶室で保科さんに教えてもらった通りの席順で、緋毛氈の上
に正座した。つまり、茶釜のある方、上手とでも言うのだろうか、そちら側から保科さん、俺、あやせの順だ。

『意外にクッションはあるんだな』

 座布団なしってのを覚悟していたが、それほどひどいものではなかった。どうやら、緋毛氈の下に砂か何
かが敷いてあるらしい。

 保科さんや俺たちが正座すると、それが野点開始の合図であったかのように、一番上手の釜の前に座って
いた、おそらくは保科さんが言うお茶の先生らしき初老の男性が深々と一礼した。
 それに応えて、保科さんも招待客たちもお辞儀をしている。俺もあやせも、ワンテンポずれたような感じ
は否めなかったが、どうにか礼をした。

「始まりました。もし、足が痺れたようなら、遠慮なさらずに、わたくしにお知らせください」

 保科さんが、あやせにも聞こえないように、そっと耳打ちした。
 本当に気配りの人だなぁ。保科さんの温情はありがたいが、そうした特別扱いは俺にとっては恥だ。
 保科さんには悪いが、保科さんの善意をあてにせず、何とかこの野点を最後まで乗り切ってやる。
 覚悟とか決意とかがあれば、どうにかなるもんだ。

「お菓子が配られますから、懐紙を出して、それでお菓子を受け取ってください」

 和服を着た二十代後半くらいの年頃の女性が、野点の客の各々に角ばった白い菓子を配っていた。女性は、
保科家のメイドさんというか、お手伝いさんのようだ。菓子は、おそらく落雁だろう。

 菓子を配る女性が俺とあやせの前にも来た。保科さんに言われ、ついさっき彼女がやったように、懐紙を
掌の上で広げて持ち、そこに菓子を置いてもらった。

「……お兄さん。何ですか、このお菓子は……」

 あやせが出された菓子を怪訝そうに見詰めている。

「落雁だよ。蒸して乾燥させた米を粉にして、それに水飴や砂糖を加えて固めたもんだ」

「高坂さん、よくご存知ですね」

「いえ、たまたま知っていただけですよ」

 あやせが「へぇ〜」と応答する前に、間髪いれず保科さんが突っ込んできた。麻奈実の実家でも作って
いたから知っていただけなんだよな。これで、保科さんの俺への心証はア〜ップ! 保科さんは俺とは住む
世界が全く違う人だが、それでも心証は悪くなるよりよくなった方がいいからな。

 しかし、出鼻をくじかれたあやせは、これで保科さんへの敵意を一段と増したに違いない。恐る恐る横目
で伺うと、眉をひそめて俺を睨んでいやがった!
 どうやら、保科さんとは正面切って戦うことはできそうもないから、腹いせも兼ねて、まずは俺を叩こう
ということか。

「先生のお点前を見てください」

 あやせの怒気にビビリ気味だった俺は、保科さんに言われて、視線を上席の方に向けた。
 野点とはいえ、茶事に出られるのは、俺の人生でこれが最初で最後かも知れねぇからな。所作とか作法
とかは皆目分からないが、どういうものだったかを後々まで思い出にできるようにしておきたい。

 釜の前では、茶の湯の先生が、茶碗の中で茶筅を振るっていた。
 上体がぶれず、あたかも茶筅だけが動いているような安定感が、無知な俺にも分かった。
 シンプルな動作だが、こうした域に達するのは、相当な修練を積まねばならないのだろう。

 茶事の客は、俺とあやせと保科さんを含めて八人だったから、茶碗もかなり大ぶりな感じだ。その茶碗が
一番目の客、つまりは一番の上席に座っている客に手渡された。
 その客は、彫りの深い品格ある面立ちの初老の男性だが、どっかで見たような感じがした。

『大学の学長じゃねぇし……、教授でもねぇし……。誰だったかな?』

 俺がこの街で見かけた品格がありそうな初老の男性っていうと、大学の先生ぐらいしかねぇからなぁ。
 しかし、そうじゃないとなると、誰なんだ。

「今、茶碗を受け取られたのは、この街の市長さんですよ」

 俺の気持ちを見透かしたかのように、保科さんがそっと教えてくれた。
 そうだよな、保科家が、この地方屈指の名家であることを忘れてたぜ。
 それに、当意即妙な保科さんにも驚きだ。ド天然かと思っていたが、あやせ同様に無駄に勘が鋭いみたい
だな。
 そう思った瞬間、あやせが、じろりと睨んできた。

「……お兄さん。なにげに失礼なことを考えていませんでしたか?」

「気のせいだ……。それよりも、この茶事の進行をしっかり見ておいた方がよくないか?」

 これだからな。勘の鋭い奴ってのは油断できねぇ。
 時折、あやせの奴は、テレパシーか何かで俺の心を読んでいるんじゃねぇかって思いたくなる。
 こいつの前での下手な企みごとは、墓穴を掘るだけだな。

「お二人とも、お客様からお客様への茶碗の受け渡しをよく見ておいてください」

 茶道の心得が皆無の俺とあやせは、他の招待客の所作を真似るのが手っ取り早い。
 俺は、この街の市長であるという初老の男性の振る舞いに注目した。
 その初老の男性は既に茶を飲んだ後で、茶碗に口をつけた部分を懐紙で拭い、茶碗を掌の上でちょっと
だけ回した。次の客に自分の口が触れた場所をあてがわないためのものらしい。
 その茶碗は、市長の夫人らしい初老の女性に手渡された。二人は一言も言葉を交わさずに、茶碗を受け渡
し、初老の男性と女性は、軽く頷き合うかのように礼をした。

 控え目な動作の中に、空気そのものを重く高密度にするような緊張があり、何も分かってない若造の俺も
背筋を伸ばし、居住まいを改めた。

 茶の湯って、やっぱすげぇな。
 怠惰な俺の日常とは正反対の世界だぜ。

 その女性は、ゆったりとした自然な動作で茶碗を傾けて濃い目に点てられているであろう茶を一服すると、
先ほどの男性と同じように、懐紙で茶碗を拭い、その茶碗を掌の上で少しだけ回していた。

 後は、その繰り返しだった。どうすればいいのか、俺にも分かった。多分、あやせも分かっているだろう。
 要は、相手に敬意を抱いて茶碗を受け取り、又は受け渡す。受け取った茶碗の茶は、後の人のことを慮っ
て、一口だけ味わう。飲み終えたら、自分の唇が触れた箇所は懐紙で綺麗にして、その部分が相手の手元に
来ないように、茶碗を心持ち回すということだ。

『何てことはないはずなんだが……』

 この重い緊張に包まれた中、自然な振る舞いができるだろうか。俺は少々心許ない。
 ふと見れば、あやせの奴も表情を強張らせている。モデルの仕事で、ステージとかに上がるのは場慣れし
ているんじゃないかと思うが、茶事はそれ以上に緊張するものらしい。

 茶碗はその女性から、先ほど俺と保科さんを揶揄したどっかの寺の住職に手渡された。その住職も、先ほ
どの剽軽な振る舞いなどは微塵も感じられない引き締まった表情で茶碗を受け取り、その茶碗から一口、茶
を味わっている。

「大丈夫ですよ……。雰囲気は厳かですけど、いつもの高坂さんらしく、自然体で振る舞ってくださいな」

 俺の緊張感が最大値に達しそうなのが分かるらしい。もう、座布団なしで緋毛氈の上に座っていることも
気にならなかった。
 ただただ、ぴーんと張り詰めた空気の中に俺が居て、その空気の中でつつがなく所作を行う、それだけで
頭が一杯だ。

 どれくらいの時間が経ったのか、茶碗が保科さんのところまで回ってきた。
 保科さんは優雅な振る舞いで茶碗のお茶を一服すると、招待客と同様の手順を踏んで、俺に茶碗を渡して
くれた。

「リラックスしていいんですよ……」

 か細い、囁くような声で、保科さんが俺を励ました。その励ましがあったからってわけじゃねぇが、俺も
どうにか無難に所作をこなせたらしい。
 俺は、最後に控えているあやせのために、ほんの一口だけ茶を残し、これも保科さんがそうやったように
茶碗を拭ってあやせに手渡した。

「……お兄さん……」

 あやせは何かを言いかけたが、それだけだった。場の雰囲気からして私語は慎むべきと思ったのかも知れ
ない。
 そのあやせも、俺同様ガチガチに緊張しているようだったが、無難に所作をこなし、茶を飲み終えた。

「結構なお手前で」

 そんな声が、どこからか聞こえてきた。
 その声で、俺は、緊張感に満ちた茶事の核心部が滞りなく進行したらしいことを感じ取った。
 だが……、緊張が解けたら、足の痺れが一気にきやがった。

「高坂さん、大丈夫ですか?」

 傍目にもヤバイ状況なんだろうな。
 さっきまでは全然気にならなかったのに、今は膝から下が石みたいにコチコチで、全然感覚がねぇ。

 砂の上に緋毛氈が敷いてあったから意外にクッションがある感じだったが、その砂に膝頭が妙にめり込ん
で、かえって脚の血行を損ねたらしい。
 何よりも、保科さんに指摘された細身のズボンが仇になった。

「もう少しの辛抱ですから……」

 茶事はもう終わり、招待客たちは保科邸の中庭をめでながら四方山話をしている。
 その話題も、市の行政のこととか、寺での行事のこととか、聖俗ごちゃまぜでとりとめがない。
 取り敢えずは、俺にもあやせにも関係のない話題だから、もっぱら聞き役に徹することにした。というか、
全然話題についていけないし、何よりも足の具合が相当にヤバくて、じっと黙っているしかなかった。

「お兄さん……、お菓子でも食べれば、少しは気が紛れるんじゃ……」

「……そうだな、未だ落雁を食べていない」

 俺の状態が洒落にならないくらい宜しくないことが、あやせにも分かったようだ。
 そういや、こいつがこんな気遣いを見せるのは、これが初めてかも知れねぇな。

 そんなことを思いつつ、俺は懐紙で包んでおいた落雁を一口かじった。嫌味のないまったりとした甘さが
あって、今まで食べたどの落雁よりも、つまりは麻奈実の実家である田村屋のものよりも旨い。
 どうやら、普通の白砂糖ではなく、和三盆あたりの超高級なものを使っているようだ。

「この落雁、結構美味しいものなんですね」

 普段のあやせだったら、もはや宿敵の一人であろう保科さんを前にして、こんなことは言わなかっただろ
う。一応は、俺の気を紛らわせようということか。

「甘さが上品なのに加えて、粉っぽい感じがしない。相当な高級品だな」

 俺もあやせに相槌を打った。
 実際、あやせと何かしらの会話があると、束の間だが、石の様になっちまった自分の足のことを忘れられる。 
 そのあやせは、ちょっと保科さんの方を窺っていた。
 そして、今は彼女が招待客たちとの談笑に気を取られていることを確認すると、俺の耳元で囁いた。

「来てよかったですか……」

「……今はピンチだが、こうした茶事に出られるのは、一生のうちでそうそうないだろう。だから、来てよ
かった……」

「そうですね……。わたしも、ちょっとだけそんな風に思いました」

「……そうか、それなら救いがある……」

 空はうす曇で、暑くなく寒くなく、絶好の野点日和だった。
 気をしっかり保つために、俺は中庭の枯山水をじっと見た。実のところは、高さが子供の背丈にも満たな
い庭石がいくつかと、その庭石の間に白砂が敷かれているだけなのだが、箒目で水の流れを表現した白砂を
凝視していると、本当にそこに水流があるような気がしてきた。

「でも、お兄さん。顔色が……」

「何、大丈夫だ」

 あやせにそう言われるとは、本当に状態が悪いんだな。
 枯山水を本物の水流と感じたのも、苦痛で錯乱しかけているためなのかも知れない。
 そろそろ、この野点が終わってくれないと、足どころか、頭もどうにかなってしまいそうだ。

「では、名残惜しいですけど、そろそろお開きに致しましょうか」

 唐突に響いた保科さんのその声で、俺は心底助かったと思った。
 時計を見ると、午後四時きっかりだ。招待状に書いてあった通りの時間で野点を終えたらしい。
 保科さんも俺の具合がかなり悪いことは知っているが、接待する側の手前、他の招待客を無視して野点を
早めに切り上げるなんてのはできないからな。

「母屋の一室にお酒と簡単なお料理を用意しております。宜しければ、そちらで暫しおくつろぎください」

 先ほど落雁を配ってくれた女性がそう言って招待客たちを母屋へと案内している。
 まず、お茶の先生が先に立ち、続いて市長、市長の夫人、坊さんといった具合に、各々が席を立って母屋
の一室とやらへ向かっていった。

 後に残るは、保科さんと俺とあやせだけだ。

「高坂さん、もう脚を伸ばしても大丈夫ですよ」

 そう言われても、感覚が失せた俺の下肢は、膝から下が石みたいだ。俺は、いざるように身じろぎして、
足の痺れをごまかそうとした。

「お兄さん、何を貧乏ゆすりしているんですか!」

 我ながら相当にみっともないことは自覚しているが、こんな風にしか動けないんだからどうしようもない。
 それでも俺は、どうにかして立ち上がろうと、恐る恐る腰を浮かせた。
 その瞬間、痺れを通り越した激痛が膝下からつま先まで襲ってきて、俺は堪えるために目をつぶった。

「もう〜、じれったい!」

 そんな状況で、あやせが俺の背中を両掌でどやしつけたからたまらない。

「バカ! いきなり何しやがる」

 俺はバランスを崩し、つんのめった。

「!!!!!」

 いきなり、ぐにょんとした弾力を顔面に感じ、ほんのりとした香りが俺の鼻腔をくすぐった。
 驚いて目を開けると、鴇色の着物と白い襦袢の重なりがあって、その隙間からは白い柔肌が……。

「あぅ! こ、高坂さん、い、いけませんわ、こんなことなんて……」

 ちょっと上ずった感じの保科さんの声が、すぐ上から聞こえてきた。
 あろうことか、あやせに背中を突き飛ばされた俺は、保科さんの胸元に顔面をダイブさせていたのだ。

「う、うわぁ! す、すいません」

 慌てて俺は保科さんの身体から離れようとした。だが、悲しいかな、膝から下の感覚が定かでない状態で
は、立つことすらおぼつかず、俺の頭は、そのままずるずると保科さんの胸元から腹部をなぞるように落ち
ていき、ついには彼女の太腿の上へと滑り落ちてしまった。

「な、な、な、何をやってるんですかぁ〜〜〜〜〜〜〜!!」

 背中越しにあやせの罵声が聞こえる。
 俺はというと、顔面を保科さんの股間の辺りにめり込ませるようにして、もがいていた。
 もがきながらも、『この鴇色の振袖と襦袢の下には、お嬢様の秘密の花園がある。お、思わず匂いを
……』とか一瞬思ってしまうのだから、我ながら浅ましい。だが、そんな場合じゃねぇよな。

「あ、あやせぇ、な、何とかしてくれぇ!」

 自分の脚が言うことを聞いてくれない俺は、恥も外聞もなく、自称俺の妹様に助けを求めた。

「もぅ、ふざけないでください。お兄さんは変態だから、わざとそんなことをしてるんでしょ?!」

「バカ、こうなったのは、お前が突き飛ばしたからだろうが! それに本当に脚が動かないんだよ! 
だから、早く何とかしてくれぇ!!」

 保科さんに対して、故意にこんな狼藉を働けるわけがない。
 彼女は、俺たちとは住む世界が違う、アンタッチャブルな存在なんだからな。

「本当に、もう、バカで変態で、世話が焼けるんだから……」

 襟首がぐいとばかりに引っ掴まれた。
 いてぇ! あやせの奴、どさくさ紛れに俺のうなじに爪を立てやがった。腹は立つけど、この状況から
脱するのが先決だからしょうがない。
 だが、あやせの奴は、俺の襟首を引っ掴んではいるものの、いっこうに持ち上げようとしないじゃないか。
 何事かと思い、横目でそっと窺うと、俺の襟首を掴んでいるあやせの手には、保科さんの手が添えられて
いた。

「あやせさん、そのように乱暴なのはいけません」

「で、でも、これは兄がわたしにそうしろと命じたから、その通りにしているだけです。何よりも、
このまま兄の失礼な振る舞いをほっとくわけにもいきませんから」

「そうかも知れませんが、高坂さんは足にかなりのダメージを負っています。無理に動かすのは宜しくあり
ません。ですから、このまま、わたくしの膝枕でゆっくり休んでいただくことに致しましょう」

「で、でも、それじゃ、保科さんにご迷惑がかかります。それに、これ以上、兄を甘やかすのは問題です。
兄は変態ですから、保科さんに膝枕をしてもらっている間に、エ、エッチなことを考えるし、も、もしかし
たら、保科さんによからぬことをするかも知れません」

 毎度のことだけど、ひでぇ言われようだな。少しでも俺に対する保科さんの印象を悪くしようって魂胆か。
今となっては、これ以下ってのはないぐらい、落ちるところまで落ちた感じだけどな。
 だが、さすがはド天然恐るべし。

「ほほほほ……、よいではありませんか。それでこそ殿方でしょう? それにわたくし自身が、高坂さんに
膝枕をしてあげたいのです。それなら何も問題はありません」

「そ、そのようなことをしていただく謂れはありません!」

「あやせさんにはなくても、わたくしにはあります。何よりも、高坂さんは足の痺れがひどくて、動けない
のですから、今しばらく、楽な姿勢で休ませてあげなくてはいけません」

「で、でも……」

 やんわりとした口調だったが、あの強情なあやせが押し黙った。
 俺にも分かるが、保科さんの笑顔には、抗いがたい何かがあるんだよな。

「高坂さん……。宜しければわたくしの膝枕で暫しお休みください。でも、まずは、そのままお顔をちょっ
と、右に向けていただきますか? そのままだと、わたくしもちょっと恥ずかしいです」

 そういえば、俺って、保科さんの股間の辺りに顔面を埋めたままだったんだよな。なんてぇ醜態だろうね。
 俺は腕立て伏せをするようにして上体を持ち上げ、寝返りを打つようにして、うつ伏せから仰向けになった。

「取り敢えず、仰向けになりました。でも、これ以上、足が思うようには動いてくれません……」

 仰向けになった俺の後頭部は、保科さんの股間辺りにめり込んでいる。顔面がめり込んでいるよりもマシ
だが、依然として芳しい状況ではない。
 だから、保科さんが横にずれて、俺の頭を大腿部に乗せるようにして欲しかった。だが、保科さんは艶然
として、俺を見詰めていた。

「このままで宜しいではありませんか。こうした方が、高坂さんのお顔がよく見えます。それに、
わたくしも……」

 そう言いかけて、保科さんは、白魚のような指を俺の額に伸ばし、浮き出ていた脂汗を拭うように撫で回
した。

「あ、あの……」

「こうして、高坂さんのお世話をさせていただけるのは、正直うれしゅうございます」

 憂いを帯びた瞳が、俺をじっと見守っていた。その眼差しは、あくまでも優しく、柔和だった。

「保科さん……」

「高坂さんは、このまま楽にしていてください。何も考えず、何も思い悩まず、ただただ、緊張を解いて、
わたくしに御身を委ねてくださればよいのです」

「は、はい……?」

 そう言われても、襦袢と振袖の着物越しに、保科さんの温もりが伝わってくるじゃねぇか。しかも、その
温もりって、保科さんのオマタと太腿からのものなんだぜ。こ、これはヤバイ……。

「……お兄さん……」

 自称俺の妹様が、保科さんに身を任せている俺を、恐ろしい形相で睨んでいた。そんな剣呑な状況だって
のに、俺の股間のハイパー兵器は、保科さんからの温もりを受けて、ムクムクと怒張していく。
 その様は、あやせは勿論、保科さんからも丸見えだった。

「ま、まぁ!」

 保科さんが、頬を朱に染めて、驚いている。
 済みませんねぇ。おいらのハイパー兵器は、往々にして制御不能なんすよ。

「それ見たことですか! あ、兄はこのように変態なんです。その兄に膝枕だなんて、じょ、常軌を逸して
います」

 しかし、保科さんは、頬をうっすらと朱に染めていたものの、泰然としたものだ。

「よいではありませんか。殿方とは、このようであると、わたくしも伺っております。それに、高坂さんが、
わたくしを女として意識されて、かようなことになったとすれば、女冥利に尽きると申しますか、むしろ
光栄です……」

「ほ、保科さん……」

 仰天発言だった。てっきり俺を変態扱いするのかと思ったが、『女冥利に尽きる』とか、『光栄』とか、
エロ過ぎて、ヤバ過ぎる。
 そして、別の意味でヤバイのが俺の傍らに居た。

「う、ううううっ〜〜〜〜〜〜〜」

 自称俺の妹様が、目を吊り上げて、猛獣のように唸っている。もう、完全に怒り心頭。
 あやせからは、俺や保科さんへの怒りや敵意が、致死線量のガンマ線の如く放射されていた。

「あら、あやせさん……。どうかなさいましたか?」

 ド天然の保科さんは、磊落というか呑気なものだ。
 怒りで歪んだ面相を、ゆでだこのように真っ赤にさせているあやせにも、艶然とした笑みを向けている。

「あら、じゃありません! あ、兄が、こ、このような醜態を晒し続けるのは、妹として、が、我慢できま
せん。も、もう、膝枕はやめてください!!」

 そう言い放ったあやせの目が潤んでいた。こいつ、涙目で怒ってやがる。

「困りましたねぇ……。高坂さんは未だ動けるような状態ではなさそうですし……」

「あ、兄は、保科さんに甘えているだけです。これ以上、兄を甘やかされては、妹として保科さんに申し訳
ありませんし、あ、兄のためにもなりません」

「では、あやせさんは、高坂さんをどのようにすれば宜しいのですか?」

「そ、それは……。わ、わたしが……」

 あやせは、何かを言いかけたが、それを打ち消すように、瞑目して首を左右にブンブンと振った。

「……?」

 保科さんが、そんなあやせの反応を、笑顔ながら、小首を微かに傾げて怪訝そうに窺っている。

「と、とにかく、変態な兄に、保科さんの膝枕なんてのは、過分です。横になるのであれば、緋毛氈の上に
でも転がしておけばいいでしょう。がさつな兄は、そんな扱いで十分です」

 ひでぇ……。何なんだよ、この粗大ゴミ一歩手前の扱われ方は……。

「あやせさん……。足を痛めている高坂さんを、そのように扱ってはいけません。今の高坂さんに必要なの
は、いたわりと癒しです。あやせさんが高坂さんを緋毛氈の上に転がしておけばいいなんて思っているので
あれば、なおのこと、わたくしは高坂さんに膝枕をさせていただきます」

「うっ……」

 気丈なあやせが、餅を喉に詰まらせた時のように、苦しげに言葉を詰まらせた。
 言葉遣いこそ丁寧だったが、保科さんには有無をも言わせぬような威圧感がみなぎっていたからな。

「もっと素直になられたらいかがです? 高坂さんに対するあやせさんの刺々しい振る舞いは、あやせさん
が何か意固地になっているせいだと思われます」

「そ、そんなことは、ありません!!」

「そうですか。そう仰せであれば、わたくしも、このまま暫し、高坂さんに膝枕をさせていただきます。
自分の気持ちに正直ではない人に、高坂さんを委ねるわけには参りません」

 恐る恐る、上目遣いで窺うと、保科さんは、相変わらず笑顔ではあったが、大きな瞳であやせの白い面相
を凝視している。
 あやせも、その保科さんからの視線を真正面から受け止めるかのように、鬼女顔負けの物凄い形相で睨み
返していた。

「あ、あの……」

 息苦しさに耐えかねて、俺は言葉を紡ぎかけたが、保科さんは俺の口元に白魚のような指をあてがい、
そっと撫で回した。
 『高坂さんは、口出し無用です』ということなんだろう。
 だが、保科さんの一連の行為は、対峙しているあやせにも丸見えだった。

「な、何をしているんですかぁ!! ほ、保科さんが、これ以上、兄をいいように扱うのを黙って見ている
ことはできません」

 いきり立ったあやせの絶叫が、中庭に響き渡った。その声で、何事か? とばかりに、様子を窺う人影が
母屋に認められた。
 それも、さっきの生臭坊主じゃねぇか!

「お、おい、みっともないから、そんな大きな声で喚くんじゃない」

「お兄さんは、黙っていてください!」

 うわ、だめだ。こうなると、あやせの暴走は止まらない。
 保科さんも保科さんだ。何でこんなにも意地を張るんだろう。
 二人の諍いが丸く治まるのなら、俺は緋毛氈どころか、地べたに転がされてもいい。
 だが、そんな風に自虐的なことを思っていたのがいけなかったのだろうか。
 あやせは、なおも保科さんと睨み合っていたが、やにわに俺の右足首を掴んできた。

「うわっ! い、痛いじゃないか」

 血の巡りが戻りつつある箇所を思い切り握られたんだから、たまったもんじゃない。電撃にも似た激痛に、
俺は身を捩じらせた。

「あやせさん! ダメージを受けている高坂さんの足を掴むなんて、非常識過ぎます」

 淑やかな保科さんも、堪りかねたのか、声を荒げた。
 その声で、あやせは、はっとしたように驚いて、そろそろと、俺の足から手を離した。

「い、今のは、兄に対して、申し訳ありませんでした。つい、感情的になって、考えなしに……」

「そうですか……。気持ちが昂ぶって見境がなくなるのは宜しくありませんが、それは誰にでもあり得る
ことでしょう。もしかしたら、わたくしにだってあるかも知れません……」

 これが大人の余裕ってやつなのか。ガキ丸出しのあやせとは大違いだ。
 だが、ガキ丸出しになったことで、あやせは開き直っちまったらしい。
 鼻息荒く保科さんを睨みつけ、あろうことか、保科さんの顔に人差し指を突きつけた。

「見境がなくなったという御指摘は、正直不愉快です。でも、これでわたしも吹っ切れました。兄を返して
ください。兄はわたしのものです! あなたになんか絶対に渡しません!!」

 うひゃあ! 俺って、あやせの所有物なのか?
 もう、下宿近くの神社で強引にキスされたのが、年貢の納め時だったらしい。
 しかし、妹であるはずのあやせが、『兄はわたしのもの』なんて言うのを保科さんが聞いたらどう思うだ
ろうか。
 あやせのことを度し難いブラザーコンプレックスの持ち主と思うか、それとも……。

「………………」

 その保科さんは、能面のような硬い表情で、あやせと向き合っていた。こんな表情の保科さんは、初めて
だな。
 今まで以上に気詰まりな雰囲気が、保科邸の中庭に充満していた。
 もう、だめだ……。俺はいざってでも、この場を逃れたくなった。しかし、痺れが失せず、満足に動き
そうもない自分の両足がうらめしい。

「…………そうですか……」

 気詰まりな沈黙は、ため息交じりの保科さんの一言で打ち破られた。

「何が、そうですか、なんですか?!」

 相変わらず般若のように面相を歪めているあやせと違って、保科さんは、いつもの落ち着いた表情を取り
戻していた。

「高坂さんの肉親であるあやせさんが、高坂さんをいとおしく想っておられるのであれば、今は他人である
わたくしの出る幕ではありません。高坂さんはお返し致します」

「だったら、早く兄を返してください!」

 あやせは、保科さんに一歩近づき、彼女の前に立った。握り締めた両の拳が、ぶるぶると震えている。
 これじゃ、仁王立ちして武者震いをしている巴御前か何かだぜ。

「まずは、落ち着いてください。高坂さんはあやせさんに委ねますが、緋毛氈に転がすような粗略な扱いは
絶対にやめていただきたいと思います。その点は、宜しいですね?」

「も、もちろん、そ、そんなことはしません!!」

「では、まずは、わたくしのすぐ隣にお座りください。そうして、わたくしの膝の上から、あやせさんの膝
の上に、高坂さんを移します」

 あやせは、渋々といった感じで、保科さんの右隣に座った。

「こ、これでいいでしょうか?」

 苦手な保科さんに必要以上に接近したくないのか、保科さんとの間には握り拳分だけの隙間があり、なお
かつ、あやせは上体を右に反らせて硬直している。

「もっと、わたくしにぴったりとくっつくようにしてください。そうでないと、高坂さんをあやせさんの膝の上に移せません」

「い、いや、お、俺が動きますよ……」

 足は未だに不自由だったが、上体を起こすことはできる。それに、保科さんに近づきたくないあやせの
ことを、多少は慮ってやらないとな。あやせがヒスを起こすのを、もう見たくねぇ。

「無理はなさらないでくださいね……」

 起き上がった俺の上体を、保科さんは両手で支え、右脇に控えているあやせの膝上に誘導した。

「あ、そ、そこは……」

 保科さんの股間の上に代わって、あやせの股間の上へ、俺の後頭部は納まった。

「わたくしと同じように、高坂さんを膝枕で休ませてあげてください」

「で、でも、膝枕って、こんなんじゃなくて、お兄さんの頭が、わ、わたしの膝に対して、よ、横向きに
なるんじゃないんですか?!」

 頬を染めているあやせに、保科さんは艶然と微笑んでいる。

「この方が、高坂さんの頭が安定します。それに、先ほどまで、わたくしもこの体勢で高坂さんを支えて
いたのです。わたくしにできたことは、あやせさんもおできになるはずですよね?」

「……は、はい……」

 声を震わせながら微かに頷いたあやせを認めてから、保科さんは、やおら立ち上がった。

「ほ、保科さん。どちらに?」

 俺の問い掛けに、保科さんは、一瞬だが、笑みが失せた憂いに満ちた表情を覗かせたような気がした。 

「ちょっと、母屋の方へ参ります。他のお客様のお世話をしなければなりませんから。今回は、和尚様の
ような、個性のある方がお出でなので、それなりの注意が必要です」

 母屋から、例の生臭坊主がこっちの様子を窺っていたことを、やはり御存知だったらしい。
 ド天然でも、女ってのは本当に勘が鋭いよな。
 それに、『それなりの注意が必要』ってことは、あの坊主に釘でも刺しておくのかも知れねぇ。

「では、わたくしは、暫しここを離れます。では、あやせさん、高坂さんのことを宜しくお願い致します」

 それだけ言い添えると、保科さんは、舞うような足取りで、母屋へと向かって行った。 
 これで中庭には、俺とあやせの二人きりだ。
 俺は、頭の座りを正すつもりで、首をちょっとだけ左右に振ってみた。

「あ、あうっ……。う、動かないでください……。そ、そこは……、だ、だめですぅ」

「あ、あやせっ!?」

 俺の頭は、あやせの股座をぴったりと塞ぐように置かれていることを思い出した。

「お、お兄さんの、あ、頭が、……に当たっているんです……」

 切なそうな声を上げて、あやせが身悶えていた。
 いつもなら、『ブチ殺します』とか何とか言っている口が、妙に艶っぽいことを吐き出していやがる。

 でも、俺も興奮ものだよな。布地越しとは言え、俺の脳天はあやせの恥骨のちょっと上辺りを押さえてい
て、後頭部は、あやせの秘密の花園に、ずっぽし埋まっているんだぜ。
 そんなことを考えていると、股間のハイパー兵器にエネルギーがチャージされ続けちまうんだがな。
 俺とは別の生き物のように、むくむくと持ち上がるそれをごまかそうと、俺は未だに痺れが失せない足を
だましだまし動かして両膝を持ち上げ、できるだけ内股になった。だが、

「……お兄さん。また、おっきくなってるじゃないですか。この、変態……」

 自称俺の妹様の目は欺けなかった。

「し、しかたないだろ。こんな体勢で……」

 そう言うあやせだって、目を潤ませて、自分の胸元を揉むように押さえているじゃねぇか。
 布地越しには秘密の花園、そして、妙にエロいあやせの表情やしぐさを見せつけられたんじゃ、ペニスを
大きくするなってのが酷な話だ。
 それに、俺にも言い分はある。

「変態とか何とか、俺を罵っていながら、お前だって、いやらしいことを考えているんだろ? 態度で丸分
かりだぞ」

 途端に、俺を見下ろしているあやせの表情が、『心外です!』と言わんばかりに険しくなった。

「お兄さんがそうだから、わたしも同様だと思うのは、それこそ失礼じゃありませんか!」

「でもよ、お前って、さっきから、俺のズボンの膨らみをガン見して……、うぉ! 
い、いてぇじゃねぇか!」

 言い終わらないうちに、俺は脇腹を思いっきりつねられた。

「ガン見なんかしてません! いやでも目に入っちゃうから、困るんです」

「じゃぁ、目をつぶってろよ」

「いやです。私が目をつぶっている隙に、変態なお兄さんは、わ、わたしに、よ、よからぬことをするに
違いありません。ええ、きっとそうです」

 俺は、呆れて思わずため息を吐いた。

「じゃ、どうしようもないじゃねぇか……」

「そうですね……。でも……」

 ふと、あやせは、俺から視線を外し、顎を上げた。あやせの喉元が、初夏の淡い光を受けて白く輝いている。

「何やってんだ? お前……」

「空とお屋敷の後ろにある森を見ているんです。雲の切れ間から射し込む光が、森の緑を際立たせていますね」

 そう言われて、俺も目線を空に向けてみた。

「ほんとだ。薄雲の一部が切れて、そこから日の光が射し込んでやがる」

 夕方近くになって、いくぶん赤みを帯びた日の光が、灰色の雲の隙間から光の筋となって降り注いでいた。
 どっかで見たような構図だな、と思ったら、先週、黒猫や沙織と一緒にお茶を飲んだホテルの天井にあっ
たフレスコ画に似ている。

「あらためて見ると、お屋敷の背後にある森も結構な規模ですね」

「そうだな。保科さんの屋敷以外に人工的なものは全然ない」

 こんな光景、千葉市内には絶対にないだろう。
 この森も保科家の私有地で、そのために乱開発を免れてきたに違いない。

「……綺麗ですね。なんてことはない雑木林なのに」

「新緑っていう時期はちょっと過ぎちまったみたいだが、それでも十分に美しいな。きっと、秋になったら、
紅葉が見事だろう」

 こんな自然に囲まれて、保科さんは生まれ育ってきたんだな。
 せせこましい街中で暮らしてきた俺やあやせとは、価値観やものの捉え方が違うのは当然のことなんだ。

「でも、もう、ここを訪れることはないでしょう……。少なくともわたしは……」

「そりゃそうだ。今回、俺たちがここに呼ばれたのは、何かの間違いなんだよ」

「そうでしょうか? 保科さんは、お兄さんに興味があるから、わたしたちを招待したんです。あの人は、
本当に油断がならない女です」

 保科さんを、俺にちょっかいを出す“悪い虫”と決めつけてやがる。
 常識的には、保科さんのようなお嬢様が、俺のようなどこの馬の骨とも知れない野郎を相手にするとは思
えないんだがな。それに……、

「さっき俺は保科さんの胸に顔面ダイブして、あまっさえ、彼女の股間に顔を突っ込んだんだぜ。こんな
無礼なことをやっちまったんじゃ、もうお仕舞いだろうさ……」

「……本当にお兄さんって、真性のバカですか?」

「また、バカ扱いか……」

「わたしは、その時の彼女の様子を一部始終見てましたけど、お兄さんがやったことは、彼女にとって
“ご褒美”って感じでした」

「嘘だろ……。あり得ねぇ」

「保科さんの胸元と股座に顔を突っ込んでいたお兄さんには、その時の様子は全然見えていなかったじゃ
ないですか」

「だが、彼女にとって“ご褒美”ってのは嘘くさい。お前が見た保科さんの様子はどうだったんだよ」

 空を見上げていたあやせが、膨れっ面で、俺の顔を睨みつけてきた。

「……それをわたしに言えと?」

 虹彩が失せた冷たい瞳が、俺を見下ろしていた。

「あ、ああ、いや、話したくないなら、別段無理に話さなくてもいいからさ、と、とにかく、落ち着こうぜ」

 あやせたん、マジこぇ〜。

「……そうですね。わたしは、あの女のことを考えただけでムカムカするんです。その辺は、お兄さんも察
してください」

「……そ、そうだな……」

 こりゃ、あやせと保科さんが和解するってことは絶対になさそうだな。保科さんにあやせに対する敵意は
窺えないが、あやせときたら、保科さんを親の仇ばりに嫌悪してやがる。

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最終更新:2011年07月26日 22:19
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