風(後編) 08



 黒猫との関係もそうだが、こいつは本当に業が深いなぁ……。

「……うふふ……」

 そのあやせが、唐突に含み笑いをしてやがる。

「何だよ、変に笑いやがって、気持ち悪いな」

「だって、お兄さんの怯えた表情が可愛らしくって……」

「お、おい……」

 あやせは、細い指先を俺の額に当て、そのまま鼻筋をなぞり、俺の口元にその指を添えた。

「そのお兄さんは、わたしの膝の上で、わたしのなすがまま……。膝枕って、ちょっと恥ずかしいけど、
こうしてお兄さんと一緒に居られるのは、悪くないですね……」

「そ、そうなのか?」

 ビビリ気味な俺がおかしかったのか、あやせは一瞬、くすりと笑い。目をつぶった。

「目はつぶらないんじゃなかったのか?」

「……気が変わりました。それに、目をつぶっていると、風の音が聞こえるんですよ」

「風の音? 風なんか大して吹いてないぜ」

「お兄さんも目をつぶってみれば分かります……」

 暗に促されて、俺も瞑目してみた。
 目をつぶり、耳を澄ませていると、たしかに、風に揺れる木々のざわめきが感じられた。

「まるで、潮騒のようだな……」

「ええ……、不思議と落ち着きますね、この音は」

「こういうのも悪くないな」

「そうですね……。でも、お兄さん、足の具合はどうですか?」

 そうだった。保科さんとあやせの膝の上で、だいぶ長いこと寝っ転がっていたからな。
 俺は、両足の足首と膝を交互に動かしてみて、不快な痺れが残っていないことを確認した。

「おかげさまで、よくなったよ。もう、膝枕は要らないな」

 俺は、目を開けて、ゆっくりと起き上がろうとしたが、俺の両肩にはあやせの手がそっと添えられた。

「ど、どうしたんだ?」

「せっかくですから、もうしばらく、お兄さんに膝枕をさせてください」

 瞑目したままのあやせは、先刻のような膨れっ面ではなく、菩薩のような穏やかな表情を浮かべていた。

「い、いいのか? お前だって重いし、そろそろしんどくないか?」

「こんな機会は滅多にないでしょうから、わたしはもうちょっとこのままで居たいんです。だから、
お兄さんも目をつぶって、楽にしていてくださいね」

「そういうことなら……」

 俺は再び瞑目した。木々の微かなざわめきが、潮騒のように聞こえてくる。


*  *

「お二方、そろそろ目を覚ましていただけないでしょうか?」

 鈴を転がすような優美な声で、俺とあやせは目を開けて、はっとした。

「あ、あれ?!」

 いつの間にか、俺もあやせも寝入ってしまったらしい。
 しかも、寝入ったあやせは、俺の身体に覆い被さるようになっていて、俺の鼻先にはあやせの下腹部が
あった。
 そして、あやせも俺と似たような有様だ。

「きゃっ! な、何で、お兄さんのお腹が、わたしの目の前にあるんですかぁ?!」

「知るか! そんなこと」

 “シックス・ナイン”ってこんな体勢なんだろうな。
 そんな有様を保科さんに見られちまったなんて、恥の上塗りもいいところだ。だが、

「今日は陽気が宜しいので、お二方とも、本当に気持ちよさそうにお休みでした。無理に起こすのも無粋と
思いましたが、もう、夕暮れ間近ですので……」

 ヤバイ状態で寝っ転がっていたことは突っ込まない。これも育ちのよさの賜物だろうか。

「うわ、もう、こんな時間?!」

 腕時計を見たあやせが、素っ頓狂な声を上げた。時刻は午後六時を過ぎていたのだ。

「そうですね、かれこれ、一時間半はお休みになっていたでしょうか」

「そ、そんなに長く……」

 あやせが絶句するのも無理はねぇな。俺もぐっすり眠っちまっていたのか、少なくとも一時間ほどの記憶
がまるでない。
 俺は、上体を起こして、辺りを窺った。
 薄暗くなった中庭に居るのは、俺とあやせと保科さんだけだ。
 母屋の方も静まり返っている。

『何だか、静か過ぎて、気味が悪いです……』

 あやせが、保科さんに聞こえないよう、俺にそっと耳打ちした。
 たしかにな。失礼ながら、その点に関しては、俺も同感だ。人の気配が全くないわけじゃないが、妙に静
か過ぎる。

「他の招待客の皆様は、どうされたんですか?」

「先ほど、皆様お帰りになられました」

「そ、そうですか……」

 そうだとしても、どうも納得がいかない。
 宴が終わったとしても、あれだけの人数分のもてなしをしたのであれば、その後片付けで多少はドタバタ
するはずだ。なのに、その気配がない。

『狐につままれたような気分だぜ』

 俺の囁きに、あやせは微かに頷いた。
 時刻は、ちょうど“誰そ彼時”。高校の時、古文の教師が、『妖怪変化が蠢き出す』と言っていた頃合いだ。

 不意に、保科家の祖先が鬼女の一族であることと、保科家の婿が早逝するという噂を思い出し、
俺は思わず身震いした。

「宜しければ、母屋に上がられて、あらためてお茶でもいかがですか?」

 俺とあやせは互いに顔を見合わせ、意見の一致をみた。

「せっかくだけど、そろそろおいとま致します。ちょっと長居し過ぎましたから……」

「そうですか。それでしたら、お車を用意致しますので、それに乗ってお帰りください」

「そこまでしていただかなくても、結構です」

「いいえ、お二方は、この街に不案内でしょうし、拙宅の周辺に人家はほとんどありません。最寄りのバス
停まで距離がありますし、バスの本数も限られております。もし、帰路、道に迷われたりしたら申し訳あり
ませんから、なにとぞ、拙宅の車でお帰りくださいませ」

 う〜ん、保科さんの言うことはごもっともだ。
 明るいうちなら、俺たち二人だけで何とかなったが、暗くなってくると、だいぶ勝手が違う。

「では、お言葉に甘えて、宜しくお願い致します」

 保科さんに借りを作りたくないであろうあやせも、これには何も言わなかった。
 何せ、保科邸が、この街のどこいら辺にあるのかすら分からないんだから、正直、どうやって帰っていい
のか見当もつかなかったからな。

「では、履物を履いて、わたくしについて来てください」

 保科さんに促されるまま、俺たちは歩いて行った。
 既に辺りは薄暗く、さらには保科邸の様子に疎いということともあって、俺もあやせもどこをどう通った
のかよく分からないまま、保科邸の駐車場らしい広場に着いた。

「あの車にお乗りください」

 広場には、既にエンジンがかかっている国産の中型セダンが停まっていた。
 ベンツとかBMWとかじゃないのが、かえってセンスがいい。やたら高級外車にこだわる成金とは違うの
だろう。だが、それにしても……、

『妙に手際がよすぎませんか? やっぱり変です……』

 あやせが眉をひそめて、俺に囁いた。
 全くだ。こうまで手際がよすぎると、たしかに気味が少々悪い。それに、俺は川原さんから、保科家の噂
を聞いていたから、なおさらだ。

 保科さんは、俺たちがそんなことを囁いていることを知らずに、すたすたと件の車に歩み寄っていった。

「お嬢様。すぐにでも出発できます」

 運転席からスーツ姿の初老の運転手が現れ、保科さんにお辞儀をした。

「ご苦労様です。では、あちらにいらっしゃる二名のお客様を、ご自宅まで宜しくお願い致します」

「かしこまりました」

 運転手は保科さんにもう一度お辞儀をすると、後部座席のドアに廻り、そのドアを開けた。

「どうぞ、お乗りください」

 まずは俺が、次いであやせが、保科家の自家用車に乗り込んだ。

「これ……、特別仕様車でしょうか?」

「たぶん、そうなんだろうな」

 シートはベージュの総革張りで、ピラーやダッシュボードは、高級バイオリンを思わせるような、ニス塗
りの木でできていた。
 ベース車両は国産の中型車だが、すさまじく金をかけているようだ。
 そんなことに気を取られていた俺は、窓ガラスを軽くノックする音で、はっとした。
 俺が座っている側のすぐ傍に保科さんが立っていたのだ。
 運転手が気を利かせて、保科さんが立っている側の窓ガラスを開けてくれた。

「では、運転席の者に、行き先を伝えてください。そちらまでお送り致しますので……」

「分かりました」

 俺は、運転手に下宿の住所を告げた。
 運転手は、「かしこまりました」と頷きながら、何かを帳面に書き付けている。
 業務日報のようなものだろうか。それはともかく、

「何から何まで済みません。色々とありがとうございました」

 運転手に行き先を告げた俺は、笑顔で佇んでいる保科さんに軽く会釈した。隣のあやせも、申し訳程度と
いう感じではあったが、お辞儀をしている。

「いえいえ、わたくしもお二方とご一緒できて、楽しゅうございました。では、高坂さんにあやせさん、お気を付けてお帰りください」

 保科さんが見守る中、車は動き出し、ここへ来たときにタクシーの車中から見たものらしいゲートに差し
掛かった。
 そのゲートは完全に自動制御なのか、俺たちを乗せた車が近づくと、ゆっくりと扉が跳ね上がるようにし
て開いていった。

「何もかもが、あらかじめお膳立てされていたんでしょうか? 変な気分です……」

「段取りがものすごくいいんだろう……」

 保科家の関係者である運転手が居る手前、滅多なことは言うもんじゃないから、俺は、当たり障りのない
コメントで、お茶を濁した。
 だが、保科家の運転手は、後部座席の俺たちには委細構わず、夕闇が迫る中、車を走らせていた。

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最終更新:2011年07月26日 22:19
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