リビングに誰か居たら、断る。
少しでも誰かが起きているような気配がしたら断る。
そういう、断る理由を幾つも考えながら、階段を降りていく。
静かだった。誰もいないぐらいに静かだった。
もう皆、寝静まったのか?
確かに夜は遅い。だが、まだ寝静まるには早い様な気もする時間帯。
しかし、人の起きているような気配は感じられず、まるでこの家に自分しかいないような錯覚に陥る。
結果として、俺は断る理由も特に思いつかない儘、玄関まで辿り着いてしまった。
……今からやろうとしている行動は、余りに危険だ。
あやせが、まだ家にいて、それで来ていいですかといっているのなら、確実に断っただろう。
しかし、現実、彼女はもう家の側まで来ていて。
(こんな夜中に、中学生の女の子を一人外に放置する訳にはいかないだろう……)
なら中学生を夜、家に連れ込む事はどうなんだ。
いや、連れ込まなければいい。彼女の家まで送ろう。
それが一番、最も無難で、安全な提案だ。
玄関のドアを静かに開ける。
ひんやりとした外気が、家に入り込んでくる。
そして、少し開けたドアを覗きこむ様に、
「こんばんは、お兄さん」
あやせの顔が見えた。
やはり寒いのか、少し肌が白い。だが、頬は心なしか赤く。
眼は潤んでるかのようにさえ、思えた。
「……あやせ」
俺はそう呼びかける。
「何ですか、お兄さん」
あやせはそう答える。
どちらの声も、囁くような音量。
しかし、しっかりと耳に入り込んでくる。
俺は小さく息を吐いて、あやせに告げる。
「俺が送っていくから、あやせは帰るんだ」
息は白く、幻のように消えていく。
俺のその言葉に、あやせを息を飲んだ。
そして直ぐに表情を崩すと、こう言った。
「その格好でですか?」
……?
その格好、って。あ、そうか。先程まで寝てたんだから、俺はパジャマじゃないか。
更に言えば、ジャケットとか上着とかを忘れている。
「……今すぐ着替えてくるから、待ってるんだ」
「それなら寒いから玄関で待ってていいですか」
彼女の言い分も一理ある。玄関の扉を大きく開き、あやせを迎え入れる。
「お邪魔します」
小さな声で、そう呟き、そしてガチャリ、と閉まる扉に鍵を掛けた。
「……? あやせ?」
「お兄さんは、中学生を夜中の家に連れ込みましたね?」
「お、おい、何を言ってるんだ?」
あやせは背を向けて、ご丁寧にチェーンまで掛けていた。
「戸締りはしっかりとしないと駄目ですよ」
背筋が凍る様な、そんな感覚がした。
あやせは、帰る気がない。それは明確な意思表示。
「あ、あやせ。駄目だ。帰るんだ」
だが俺もここで引くわけにはいかなかった。
大体、桐乃に見つかったら、一瞬で色々な関係が瓦解する。
俺がただ変態と言われるだけならそれでいい。だが、あやせまで罵倒されてしまうのは論外だ。
彼女は親友を続けていくとまで言っていたのだからそれは決して望む展開ではない筈だ。
「お兄さんの部屋、2階でしたよね」
俺の言うことに耳を貸さず、靴を脱いで上がろうとするあやせ。
そのあやせを止めようとして肩に手をかける。
そこでタイミングを測ったかの様に、何かがコロンと地面に落ちた。
「あ。いけない」
あやせが、それを拾う。
「間違って鳴ってしまったら、問題ですからね」
抑揚のない口調。こちらを決して見ていない。
そして手に持っているそれは、
「……防犯ブザー」
気のせいでも何でもなく、この時、背筋は凍った。
わたしの言うことを聞かなければ、鳴らしますよという、そういう意味だろうか。
流石のあやせだって、そんな強要はしない筈だ。
分別はある奴なのだ。
「お兄さん。お願いですから、部屋まで入れてください」
そんな分別がある奴が、ここまで必死に頼むのだ。
恐らく俺がここで断っても、防犯ブザーを鳴らさないだろう。
肩に手をかけているから分かる。彼女は細かにだが震えている。
俺が、ここで断ったら彼女はちゃんと家に帰ってくれる。
けど、ここで断る事がどうしても出来なかった。
彼女がここまで来た理由。どうしても果たしたい何か。
そしてここで断る事が、彼女の何かを傷つけてしまうだろうという確信。
「……分かった。階段、暗いから気をつけろよ」
いざ見つかったら、俺の人生を投げ出してでもこの娘を守る。
そう決意を固めて。
//
俺の部屋。
電気をつけようかと悩んだが、月明かりのお陰かカーテンを開けているだけでそれなりに明るい。
見つかるリスクを考えると、とりあえずは電気を付けないでおこう。
「あやせ、この部屋の壁は薄いんだ。だからここでも声のトーンは下げておいてくれ」
「わかってます。桐乃に聞こえちゃいますからね」
お客様用のクッションを、あやせに差し出し、俺は床にそのまま座る。
ベッドに座るという選択肢もあったが、何となく彼女と同じ視線で話した方がいい気がしたからだ。
お互い座りあい、暫しの無言。このまま無言が続いてしまうと、話が続けづらくなってしまう。
だから俺から切り出した。
「こうして夜中に人を連れ込むのは、久しぶりだ」
「……他にも誰かを?」
しまった。話題の選択を間違えた。あやせの声が怖い。
暗くても分かるが、眼の虹彩が欠けている。
「いや、正確には連れ込んだじゃなく、忍びこまれたというか」
「……」
あやせの沈黙が、恐ろしい。
因みに、俺の部屋に忍び込んだのは桐乃の事だ。あの時が、初めての人生相談だったな。
「そして、逆にお兄さんが忍び込んだんですよね」
「ああ、そうだった、ってなんで知っている……!」
そして妹の部屋へ夜中に忍び込んだ兄がこちらとなります。
「桐乃に聞いたんですよ」
「あ……あいつ」
普通隠すだろ。何を話してやがるんだ。そこまで兄の世間体を失墜させたいのか。
「楽しそうでしたよ、桐乃。そして、嬉しそうでした」
へいへい、そうだろうよ。俺の弱みを掴んだんだからな、そりゃ嬉しいだろう。
「ねえ、お兄さん」
なんだよ。
「今日、一日中、桐乃に、看病を、してもらったんですよね?」
「……!」
光を失ったあやせの瞳が、こちらをじっと見ている。
気のせいか、あやせから黒いオーラさえ見えている気がする。
これが闇の力なのか、黒猫! ダークエンジェルの降臨?
「答えてください」
「あ、ああ。まあ、そうだな。ブツクサと言いながら、看病してくれた、のかな?」
文句を言っている時間の方が百倍長かったが、一応、看病はしてくれていた。
ひんやり。空気が冷えていくのが分かる。
え、何、この空気。
逃げ出したい。この部屋から。俺の部屋なのに。逃げ出したい、とても。
「お兄さん」
「な、なんでしょう」
「なんでベッドで寝てないんですか」
おまえを迎えに行ったりしてたからだよ!
「ベッドで寝てください」
「いや、そのお客さんがいるし」
「ベッドで寝なさい」
「は、はい」
あやせ怖ええ!
有無も言わさず命令形かよ。
まあ、考えてみれば俺も病人だしな。心配してくれてるんだろう。
全く眠くないので形だけだが、横になっていれば少しは安心してくれるだろう。
そんな訳で、俺はベッドに横になることにした。
しかし、なんだこの展開。
訳分からねえ。どうなるっていうんだ。そしてあやせは何が目的だ。
てっきり人生相談でも始まるのかと思っていたんだが。
「お兄さん、手を上にあげてください」
ベッドに横になった俺に、あやせはそう声をかける。
「? 上に? こうか?」
言われた通り、上に手をあげる。と同時にあやせの手が俺の手を掴み、
ぐきぃ!
無理やり頭の上の方へと倒される。
「いっ!」
な、何をしやがる、え、何、今からリンチ!?
涙目であやせに文句を言おうとあやせの顔が間近にあった。
もう鼻と鼻がくっつきそうなそんな距離。女性の匂いが鼻腔を撫ぜる。
「あ…やせ?」
ガチャリ。
え?
手を動かしてみる。
ガチャガチャ。
ええ?
ま、まさか。
「逮捕しました」
目の前のあやせがそんな事を言う。
その言葉から、確信を得る。俺は今、手錠を掛けられた。
懐かしいひんやりとした金属の感覚。これは手錠だ。
「な、なんで?」
当然の疑問を、あやせに投げかける。
「お兄さんがしっかりと安静してないからです」
いや、だからそれはあやせを迎えにいったからで。
それまではちゃんと寝てましたよ、ええ、ほんとに。
「それと、もうひとつ」
「も、もうひとつ?」
「お、お兄さんが逃げないように」
いや、ここは俺の部屋だし。確かにさっき逃げたくなったが、手錠を掛けられるレベルじゃあ無かったんだが。
「きっとお兄さんは、止めるでしょうから」
止める?
「な、なにを?」
あやせは答えない。虹彩が欠けていた瞳が、今は潤んでいる。
頬もこの暗さでも分かるぐらいに赤く、染まっている。
風邪でも引いたのか、なんて言える訳も無かった。
部屋を徐々に支配していくこの空気は。
「お、お兄さん」
「あ、あやせ?」
手を動かそうなんて思えなかった。徐々に近づいていくる端正な顔。
何が起きようとしているか分かっているのに判ってない感覚。
脳みその奥が、痺れたように働かない。
「おにぃ、、さん」
そして。
そしてそして。
自分の唇が塞がれる感覚。あやせは、眼を閉じていた。俺は眼を閉じることが出来なかった。
脳が働かない。分かるのは、この艶めかしい感覚。
唇に唇が触れているというその感覚。しっとりとした、柔らかいそれが、俺の口を塞いでいる。
「……ん、ぅ」
何が、起きている? 疑問が何度も何度も沸く。その度、唇の感覚がそれを打ち消していく。
鼻にかかったようなあやせの声。そう、あやせだ。俺は今、あやせと、あやせと?
――京介の邪魔をすんなぁっ!
「……!」
ガチャ、ガチャ!
手が、動かない。
ガチャガチャ!
手が、動かない!
「……」
あやせの眼が、開く。唇を離さない儘。
俺はその眼をしっかりと見つめ、いや睨み返す。
あやせ。俺はお前を桐乃のようだと思った。
しかし、決定的にお前と桐乃は違う。
桐乃は、こうやって相手を動けなくして唇を奪うような真似はしない。
俺の妹は、そんなやつじゃない。
「んんんんっ!」
あやせっ!
あやせの瞳は、静かに光を失っていく。
失意? いや、そこに宿るのは決意。
更に覆いかぶさるように、あやせは態勢を変える。
唇を塞いだまま。
瞳は俺の瞳を覗きこんだ儘。
「――っ!!」
ぬるっ、とした感触。俺の唇を、何かが割って入ろうとする。
舌だ。俺の理性は叫ぶ。舌が入ってこようとしている。
しかし、俺の身体を支配している感覚は、まるでそれを理解しようとしていない。
口を開けては駄目だ。開けたらきっと、駄目だ。
俺の唇をなぞるように、あやせの舌が動く。
くちゅ、ちゅ。
淫猥な音が、部屋に響く。元々熱で浮かされていた身体が、別の何かにより更に浮かされていく。
気持ち悪いようで、気持ち良い。
脳の理性が、徐々に剥がれ落ちていく。
あやせは上半身を俺に覆いかぶさるように、口付けを重ねていく。
あやせの身体の感覚が、伝わってくる。
しっとりとした、重み。柔らかい、暖かさ。
この手錠がなければ、思わず抱きしめてしまうようなその感覚。
兄貴が剥がされ、男で上書きをされていく。
俺は、泣いていた。
男の癖に、馬鹿みたいに泣いていた。
なんで泣いているのか分からなかったが、しかし涙が止まらなかった。
「……お兄さん」
唇を離す。一本の線が、俺とあやせの唇を繋ぎ、そして切れた。
「ごめんなさい」
あやせはそう言う。
でも俺は何も返せない。
「わたしは……嫉妬しました」
あやせの、告白が、始まった。
「桐乃、凄く楽しそうにわたしに報告をしてきました」
あやせが身体を起こし、俺の上から離れる。
「京介を、看病してあげたんだって。おかゆ、食べさせてあげたんだって。熱で浮かされながら」
言葉を、ゆっくりと紡いでいく。
「あたしの名前を呼ぶんだって」
ぞくん。あやせの眼が壁へと向けられる。その瞳は、とても穏やかとは言えなかった。
この壁の向こうには、桐乃が眠っている。
「俺が…桐乃の?」
そんな記憶は無かった。だが、言ってないとも言えなかった。
「はい。おかしいですよね。そういう時に言うのは、愛しい人の名でしょう?」
あやせは、俺へと視線を戻す。
「別にわたしの名前じゃなくてもいいです。でも、なんで桐乃なんですか」
それは……。
「こんな薄い壁一つ隣で寝ている妹の名を、何故、あなたは言うんですかっ!」
俺は、何も返せない。
「それを聞いた時、わたしは許せなかった。桐乃も、あなたも」
「熱に浮かされた時に妹の名を言うあなたを、そして、それを嬉しそうに語る桐乃を!」
彼女の、独白は終わらない。
「なんで、ですか?」
あやせは、俺の唇に指を添えて。
「なんで、わたしが、キスをしてる時でさえ」
唇の形になぞって。
「桐乃を思い出すんです?」
俺は、、何も、返せない。
「知ってますか?」
……。
「今日、この家に桐乃とお兄さんしかいないんですよ?」
……え?
「桐乃が言ってました。詳しくは聞いていませんが、お父さんの同僚が何か大変な事になってしまって。それで両親二人で行ったらしい
です」
……それは、
「……知らなかった」
道理で。
まるで一階に人の気配を感じられなかった訳だ。
「今日、桐乃とお兄さんは二人きりだったんです」
だから、だからか。
頑なに、この部屋に来ようとしたのか。
「そうです。邪魔をしにきてやりました」
こんな夜中に。
桐乃から話を聞いて、我慢出来なくなって。耐えられなくて。
家が厳しいだろうに、それを抜けだして。
寒さの中、こんな夜中を独りで。
ただただ、俺と桐乃を二人きりにさせない為に。
「……そうだったのか」
「……はい」
あやせの告白が終わったようだ。
なら、ここからは、
「桐乃。起きてるんでしょ?」
俺が……ってあれ?
「あ、あやせ?」
桐乃が起きてる、ってどういう事?
「お兄さんと二人きりの今日を、桐乃が見逃す筈がないじゃないですか。
例え、なんの行動が出来なかったとしても、おとなしく眠りにつけているとは思えません」
いや、つ、ついてるんじゃないかな。
「あやせ、何か思い違いをしてないか。確かに俺は、そのこんな時に桐乃を思い出してしまうような、シスコン野郎だが、桐乃は、別に
兄と二人きりだからといって」
それで眠れなくなるような……。
ガチャ。
扉が開く音。
――ああ、なんで俺の部屋に鍵は付かないんだろうな。
「……桐乃」
「死ね。キモい」
パジャマ姿。確か桐乃が気に入っていた柄のものだ。
夜だというのに、心なしか化粧がされているような顔で。
少し沈痛そうな表情を浮かべて。
俺の妹が、そこに立っていた。
最終更新:2012年05月14日 09:43