恋をするなら、特別な相手と。
ずっと、そう思っていた。
例えば、真の姿を隠して人間界に生きる魔族の青年だとか、特殊な能力を発現させてしまい自分の力を怖れている同級生だとか。
そんな特別な相手こそ、宵闇の眷属たるこの私に相応しい、そんな他愛もない空想をずっと続けていた。
……理性では、現実にそんなものが居るはずないと理解していたのに。
でも、友人の一人の居ない私にとっては、想像上の恋人なんてクラスメイトだろうと魔界の使徒だろうと、そう大差は無かったのだ。
そう、あのお節介焼きの女と、どうしようもなく癪に障るあの兄妹と出会うまでは。
「――――――」
ベッドにうつ伏せに寝転がり、両足をぱたぱたと揺らしながら彼の後ろ頭を眺める。
平凡な男。
平凡で普通で目立たない、本当にどこにでもいるような男なのに。
寝転がっている毛布に、そっと頬を寄せる。
柔らかい。そして、自分とは微かに違う男性の―――彼の匂いがした。
この私が、他人の、それも男の部屋でこんなにリラックスしているだなんで、今でも信じられない。
きっと、心の底から信じられるからだ―――彼が、私を傷つけるようなことは決してしないことを。
私をちくちく傷つける外の人間達とはまるで違う、無条件の、安心。
それについ、縋ってしまう。甘えてしまう。
このベッドは、彼の作ってくれた繭のようだと思った。
彼は、私を脅かすような事は何もしない。
それが嬉しい。―――でも、それが少し悔しい。
「――――――」
ぱたぱたと、少し大きめに足を動かす。スカートが翻って太腿にかかる。
普段は慌てて直すところだけど、今日はそのままに。
彼は頭を掻きながら、一心不乱にデバッグの作業に取り組んでいる。
本当はデバッグなんて出来ないはずの彼が、本当はデバッグなんてする時間無いはずの受験生の彼が、本当はデバッグなんてする縁すらない筈の彼が。
ただ、私を手伝いたいという理由で、何の見返りもなく不慣れなデバッグの作業に取り組んでいる。
言葉を交わして、わかることがある。
彼は、私のことを女性として見ていない。
自分の妹と同じように―――ううん、そこまで言うのは自惚れが過ぎるか。
女性ではなく、単なる友達として、後輩として私を見ているのだ。
冗談交じりにセクシャルな会話もすることもあるが、彼の私を見つめる視線は揺るがない。
勿論、彼が私に深い親愛の情を抱いて、お節介を焼いてくれているのは分る。
嬉しい。それはとても嬉しい。
でも、この彼の気持ちが、ほんの少しだけでも恋の方向にベクトルをずらしてくれないか、と願うのは流石に高望みだろうか。
未だに素直にお礼の一つも言えないけど、彼には何もかも与えてもらってばかり。
なのに、もっと彼を欲しがろうとする自分の強欲さが嫌になる。
―――それでも、やっぱり私は彼に振り向いて欲しいのだ。
「ねえ、少し暑苦しいわよ、この部屋」
「……あん?」
振り向いた彼は、顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、な、な、何て格好をしてんだよお前は!」
当然だろう。そこには、制服を脱ぎ捨てブラとショーツだけになった私の姿があるのだから。
ブラとショーツは黒のレースのお気に入り。
勝負下着―――なんて良くわからないけど、彼の部屋に行く日はいつもより入念に下着を選らんでしまう。
部屋が少し暑かったのは本当だ。
それにしても、私は何をしているんだろう。普段なら恥ずかしくて絶対に、絶対にできないようなこんなこと―――。
「ふふ、私は宵闇の眷属よ。男の精と魔力を奪い、魅惑の魔術で下僕に仕立て上げるなんて日常茶飯事だわ」
彼の次の行動は、簡単に予想できた。
『おまえなあ、悪質な冗談も程々にしろよ。ほら、服着ろ服、さっさと続きやって終わらせるぞ』
こんな感じで、私の決心も、胸に秘めた気持ちも、全てうやむやにされてしまう。
男女の関係から離れてしまう。
どうせ―――。
「いいぜ」
乱暴に、肩を掴まれてベッドに押し倒された。
右手首をがっちり掴まれて、押し上げられる。
「エロゲーなんかでよくある展開だよな、これが最初のイベントシーンか」
声が、出ない。彼の大きな体が覆いかぶさってきて、怒ったような瞳がぎらぎら輝き間近で私を覗き込んできた。
怖い。
宵闇の眷属を気取って、何か、調子の良い返しを……返しを……何も、出てこない。
ただ萎縮してしまって、唇を震わせることしかできない。
「ほら、脱げよ、あと二枚でCGにモザイクがかかるとこだぜ」
彼の手が、ブラの肩紐に触れた。
嫌。私も彼とのことを想像したことはあるけど、こんなのは嫌。
瞳に涙が浮かぶ。
まだ何も伝えて無いのに、エロゲーの真似事で私のは初めてが終わるなんて絶対に嫌―――。
「……ぃゃ、……やめて、……ぅぇ、ぅぇえええええ……」
彼は、電気に触れたかのように、私から飛び退き、後ずさった。
「あれ、おい、ああ、違、これは違うんだ、てっきりまたお前が―――」
半泣きの私からみても滑稽なほど狼狽した彼は、大げさな身振り手振りを混ぜて釈明を始めた。
―――つまり、これは私の悪質なドッキリに対する、彼のドッキリ返しだったのだ。
「まさか、こんなに怖がらせるなんて、マジで済まな………………、
……いや、今回は俺は謝らないからな」
動揺の解けた彼は、大きく一回深呼吸をして、真摯な瞳で私に告げた。
「今回のこれは、俺は謝らない。俺だから冗談で済んだんだからな。他の男だったら、普通は―――冗談じゃすまない。
おまえは俺の事を男として見てないかも知れないが、他の男はどうか分らないからな。
だから……こんな悪質な冗談は、もう二度とするな」
それを伝えるために、彼は、似合わない芝居をしてまで、私を叱ってくれた。
でも、彼が私を叱る口調は、まるで兄が妹を窘めるようで。
不意に、自分の行動に対する羞恥心が、フラッシュバックのように私を襲った。
―――なんて恥ずかしいことをしたんだろう、私は。
彼の目の前に居るのが耐えられなくて、制服を掴んで部屋から駆け出した。
謝らなきゃ。
「ふん。残念だったわ。あなたが下種な本能を剥きだして、ホイホイ引っかかってくれるのを楽しみにしてたのに」
でも、口を突いてでたのは真逆の悪口。本当に、私は―――。
「―――っ、えっ、うぇぇ」
彼の家のトイレに駆け込んで、声を押し殺して少しだけ泣いた。
最悪だ。
ごしごしと、トイレットペーパーで下着ごしに股間を擦る。
ほんの少しだけ、おしっこ漏らしちゃったし。
彼のベッドに染みをつけてないか、怖くて部屋に戻れない。
どんな顔をして、彼に会えばいいのか分らない。
『おまえは俺の事を男として見てないかも知れないが』
そう思われるのも当然だ。こんな、馬鹿みたいなことばかりしているのだから。
平凡で、どこにでもいる普通の人。
でも、世界中でただ一人、私に親身になって接してくれる掛け替えのない男性。
アニメや漫画のような、格好のいい美麗美句じゃなくていい。
平凡で、どこにでもあるような言葉でいいから伝えたい。
私にとっての大切な一言。
『あなたのこと、だいすきです』
最終更新:2010年01月13日 22:21