于禁(字:文則) うきん
- 生没:?~221年 本貫:兗州泰山郡鉅平県 官:左将軍
- 曹操麾下を代表する五人の将軍のひとり。為人は重厚沈着で、軍の重鎮として圧倒的な威厳を持っていたらしい。
- もと東郡太守鮑信の部下。青州黄巾党の蜂起のおり、兗州刺史に推戴された曹操と出逢い、鮑信の死後曹操に仕えた。
- 潔癖な性分のようで、宛城での壊乱の際、浮き足だって市街へ略奪行為に走った青州兵たちを容赦なく取り締まっている。また、この事で逆ギレした青州兵に讒訴されているのを知りながら、本営のそばに平然と築陣(←これは危険!)する神経の太さを持つ。その臨戦態勢のまま、内は青州兵、外は張繍軍に備え、見事曹操軍の壊乱を防いでから、ようやく単身、釈明に及んだ。
- 他にも旧友を法に照らして処刑する際、曹操へ助命の嘆願もせず、独断で刑を執行するなど冷厳というより機械的なエピソードが多い。
- しかしながら、軍の指揮官としては当時屈指の手腕を持っていた。絶対に負けられないという場面で、曹操は好んで彼を用いた。
- 中でも官渡決戦のときは、曹操の代理として本営の留守を任され、見事にそれを果たしている。例によって冷然と指揮を執り、わずか二千の残留兵力で袁紹軍数万の猛攻を幾度も撃退しているのだ。曹操がああも身軽にヒョイヒョイ戦線を動き回れたのも、于禁という不敗の鉄壁が在ったからでしょう。
- しかしながら、建安24年。関羽軍の北上、樊城包囲という未曾有の危機に際し、曹操に七軍(約8万人)という大戦力を託されて出陣した荊州戦線において、不幸にも野戦陣ごと洪水に巻き込まれてしまう。
- 軍団は壊滅し、彼自身、やむなく関羽に降ったことから、これまでの曹操軍大将としての名声や実績のことごとくをブチ壊される羽目になる。
- 曹操も、まさか于禁クラスの重鎮が、生き恥をさらすとは思わなかったに違いない。「忠義において、新参の龐徳にすら及ばない」という酷評は、当時の大勢の見るところであったろう。
- 于禁は荊州の獄に繋がれたが、ほどなく関羽の敗死と荊州失陥に伴って、身柄を呉に移すこととなる。
- さて、于禁は呉で釈放されて孫権に仕えることになったが、なんせ事情が事情なだけに白眼に曝され、まさに針のムシロ。さすがに孫権だけは敬意を以て于禁を遇しましたが、呉の大官たち、特に「御意見番」で有名な虞翻などは事あるごとに于禁をイビリ倒し、孫権を蒼白にさせている。可哀想……。
- 関羽に投降してから二年後、于禁は魏呉同盟の成立によってようやく帰還を赦される。
- 彼が呉に仕えている間に、曹操は薨じ、後漢王朝は滅亡し、新たに曹丕が皇帝となっているのだから、宮廷ではちょっとした浦島太郎だったに違いない。
- 若き皇帝曹丕は、帰還した老将軍を優しく労り、復位させると、呉との修交大使に任ずる。そのうえで「父上の墓に詣で、帰還の挨拶でもしてきなさい」と命じた。于禁は当然、泉下の主君へ謝罪するために曹操の墓陵へ赴く。
- 今日いまだ曹操の墓地の所在は不明だが、なにせ始祖帝の廟だから、その壁面には創業の功臣たちの絵がズラリと描かれていたに違いない。そして于禁は愕然としただろう。関羽に激しく抵抗する龐徳と、惨めに投降する自分の絵が、そこにマザマザと描かれているのを見てしまっては。
- かつて無敵の曹操軍団の中核として、名将の名をほしいままにした于禁は、それから程なく病に没した。
- 諡して厲侯。「逸周書・謚法解」の記述が正しければ、「無辜を殺戮する者」という最悪の悪謚である。于圭が封爵を継いでいる。
蒼天于禁
- …以上のいきさつから、ずいぶんと悲惨な扱いを受けてきた彼だが、「蒼天航路」ではいぶし銀の渋い活躍が光る。
- 鮑信の良き副将として登場し、彼の遺志を継ぐ形で曹操に仕え、目立ったセリフはないものの、トランプのKingのような偉容をしばしば見せてくれる。
- 諸将の集合絵では、概して後列でズッシリと構えている(徐晃と並んでポージングしている時も)。そういえば劉備を味方に迎えての群議の際、紛糾している諸将とは離れた位置で立っている将軍は、于禁に見える。
- 見せ場でもある宛城夜戦のときはサラリと無視され、悪役であるはずの青州兵のカッコイイところだけが目立っていたが、第二次張繍戦では、「古参の将」として張繍直属軍五千をわずか二千で迎撃、これを押し返すというシーンが。「于禁于禁といかほどのものか!」と張繍が部下を鼓舞しているところを見ると、この時点で相当に武名を馳せていたらしい。
- 殺到する敵騎兵集団を目の前にして、「黙祷ッ!」そして「刮目!」。このシーンで于禁ファンになった人も多いのでは。地下の于禁も、霊在れば哭いていること間違いなし。なおこのときのスローガンは「報仇雪恨!」
- その後、長坂の追撃戦では趙雲と激しく打ち合う姿があるが、赤壁後、樊城攻防戦まで登場無し。実際、左将軍に任じられているため、中央での軍務が多かったのかもしれない。
- そして樊城攻防戦。「関羽撃砕!」と例によって四字のスローガンを掲げ、関羽と真っ正面から打ち合うが、二撃目を交えるより早く洪水に飲み込まれてしまう(洪水が無ければ、次の一撃で両断されていた可能性もあるが)。洪水に気付き、逃げるよう敵将へ呼びかける余裕のある関羽と比べると、残念ながら格が違うようだ。
- 濁流から高所に打ち上げられ、四方を敵艦隊に取り囲まれながらも、毅然とした軍列を崩さなかった。このまま抗戦していれば、一人残らずハリネズミのような死骸になっていたであろうが、関羽自らの説得に応じ、残軍を率い「毒」として投降する。
- 関羽へ降る決意をしたのも、「侠」への共感があったようだ。初登場時から謹直一遍の人物だが、若い頃は案外名の通った侠客だったかもしれない。
- 部下達に「食えい!食えい!」「まずいが決して不服を言うでないぞ!」と連呼しながら豪快に飯を掻ッ込む姿は、存外サバサバと磊落。涙を呑む悲壮感というより、なにやら試合後の朗らかさがあった。
- 于禁自身が言うように、万余の捕虜をいちどきに収容した関羽軍にとって、補給は頭の痛い問題だったに違いない。この「毒」のせいだけではないが、兵站を巡って関羽と後方との軋轢はますます大きくなり、ついには東呉への総崩れを起こしてしまうのである。
- そして、「蒼天航路」での于禁の登場は、これが最後であった。
- 于禁の投降と龐徳の憤死について、曹操は「こんな平穏の宮城におるから、ふたりの結末を通り一遍に並べてしまうのだ!」「いかに降った于禁!いかに死んだ龐徳!」と、両者の優越など論じることなく、あくまで現場のナマの情景を欲していた。
王忠 おうちゅう
生没:不明 本貫:雍州扶風郡 官:中郎将
- 曹操の部将。徐州刺史車胄を殺害して叛旗を翻した劉備を征伐するため、司空長史の劉岱(こいつは名前も出てこない)とともに派遣された武将。劉備に散々に撃ち破られた上に「貴様らが百人来ようと俺の敵ではないね」と嘲弄された。
- 亭長をしていた頃、ひどい飢饉に見舞われ、やむなく人肉を喰った事がある。そのため、愛馬の鞍に髑髏をくくり付けられるという陰湿なイジメに遭っている。犯人はむろん曹丕。
- 当時のカンニバリズムについて貴重な資料を提供した為か、「蒼天航路」では名前のみ登場。「ちょろちょろ出てきたかと思やぁ、あっという間に逃げちまう王忠とかなんとかってえ曹操の下ツ端だ!」
- しかし直後、まさかの曹操来襲。
- 「反乱鎮圧には最強の軍を派遣する」という曹操のポリシーを考えると、単なるザコを派遣するとは思えない。曹操到着まで劉備一党を油断させ、城外へ誘き出すための陽動任務であったかもしれない。そうであれば雑魚どころか、なかなかの戦巧者であったはずだ。
- 「蒼天航路」では曹操の後任として洛陽北部尉になった人物も王忠という名だが、両者に関係があるかどうかは不明。温厚で有能な人物らしい。