袁家

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袁術(字:公路) えんじゅつ

  • 生没:?~199年 本貫:豫州汝南郡汝陽 官:左将軍 仲王朝皇帝
  • 「三国志」の序盤をドラマチックに彩ってくれる中ボスの一人。名門の出自を鼻に掛けて傲岸不遜に振る舞い、何を血迷ったか兵力を恃みに皇帝を自称し、諸侯から袋叩きにあって早々に退場する…といった風に、たいていの作品で、救いようのないバカとして描かれている。
  • 実際に、当時の軍閥君主の中ではかなりバカな部類だったと思われるが、それでも風雲を叱咤し天下を二分した英雄には違いなく、彼が歴史に果たした役割は決して小さくはない。
  • どうも袁兄弟は生まれつき強大な勢力を持つ大豪族…というイメージで括られがちだが、実際のところコネのネットワーク(門生故吏)が豊富な学者貴族の家系であり、せいぜいが一郡の太守程度に過ぎない。その点では曹操や劉備と較べ、スタート地点での物理的な地盤に大きな差はない。ただ決定的に違う点としては、「放っていても人や土地が自動的に集まってくる」というチートに等しいステータスが与えられていた事だろう。
  • それはさておき、袁術も袁紹も、名門のボンボンとして若い頃は男伊達を気取って方々で悪戯をやらかしていたらしい。
  • 勿論、当時のお坊ちゃんの「悪戯」というのは、学生運動じみた政治活動も含む。彼らが青春を過ごした時代は、時まさに清流派人士と濁流たる宦官の政治闘争の真っ最中で、袁兄弟も貴族の子弟らしく若党を集め、声高に天下国家を論じていただろう。
  • ちなみに袁紹と袁術の関係だが、一般に「従兄弟」であると言われている。従兄の袁紹が、袁術の実家に引き取られて養育された、とする説がひとつ。もう一説は、袁術の諸兄である袁紹が、叔父の家に養子に出された、とする。後説の方だとすると、二人は異母兄弟ということになる。
  • 学園三国志で言うと、袁紹は父が「メイドに手を付けて産ませた姉」ということになる。その後姉は本家筋へ養女へ出されてしまうものの、そのまま本家頭首になってしまったため、嫡流の妹様は面白くない。袁紹はすくすくと「正当派お嬢様」として成長し、本人同士の資質の差も、取り巻き連中の質の差も歴然となり、高慢系お嬢様の袁術は、いつもハンカチを噛みしめて「メイドの産んだ子のくせに!」とキーキー悔しがる…というパターンなのである。
  • …こうしてみると学園三国志、意外に面白いな(; ・`д・´)
  • それもさておいて、袁術も名門袁氏の若君として、放埒を極める傍らで学を修め、コネとはいえ一応郡の孝廉(年間最優秀人材みたいなもん)に挙げられ、以後、兄と同じく武官寄りのコースを歩み始める。
  • やがて大将軍何進の側近として、多くの幕僚を従え、袁紹とともに左右に侍る。清流派の士人や当代の豪傑達は、何進というよりは、この袁兄弟の名望を慕って、何進の幕府へ馳せ参じている。この期間でもさぞや兄弟同士で暗闘してそうだが、特に記録はない。
  • やがて宦官による何進暗殺劇があり、袁兄弟は激発した。特に袁術と何進の側近・呉匡の働きはめざましく、絶対不入の宮門へ火を放ち、完全武装の兵士を突入させた。宦官の皆殺しは、実質彼らの手によって行われた。(袁紹はむしろ宦官派の官僚誅殺を担当したようだ)
  • だが、間もなく宮廷は董卓の牛耳るところとなる。董卓は、虎賁(近衛兵)のトップである袁術を懐柔しようと、彼を後将軍という元帥格に任命するが、袁術はビビって南へ遁走。南へ南へ走り続けて荊州の南陽郡に至ったところ、たまたまその郡の太守が死んでいたため(というか孫堅が私怨で殺害していた)、済し崩し的に南陽郡の統治者に収まった。
  • そのまま猛将・孫堅を配下に納めた袁術は、董卓軍との会戦を決断。東方諸侯の動きに呼応して孫堅を北上させ、見事洛陽を攻略させた。
  • その後も南陽に本拠地を構え、北方で着実に勢力を拡大する兄・袁紹と対峙。北方の公孫瓚と同盟して圧力を加えさせれば、負けじと袁紹は荊州の劉表を動かして南方を攪乱する。袁術の手駒に孫堅あれば、袁紹の手駒に曹操あり。
  • 要するに北と南に分かれ、天下は壮大な兄弟喧嘩の様相を呈していたのである。
  • 「三国演義」等で見ると、唐突に皇帝を名乗ったりしてるので、「コイツ何言ってんの?」と見られがちだが、まあ当時の袁術は天下に覇を唱えるに不足の無い勢力の領袖ではあった。
  • だが兄袁紹と異なり、統治能力は皆無に等しく、ムチャクチャな政治で人民を苦しめた。また、爪牙と頼む孫堅が劉表軍との戦で戦死したため、旗色はよくなかった。
  • おまけに袁紹のシンパ・曹操に対しては連戦連敗で、とうとう本拠地から逃げ出すほどのダメージを被る。それでも、しぶとく南方のフロンティアに触手を伸ばし、孫堅の遺児・孫策をこき使って勢力をどんどん拡大。中原の異物・呂布とも同盟し、北方の政情を攪乱した。
  • この「南方王国」の成立で有頂天になったのだろう。西暦197年、仲王朝の建国を宣言。自ら初代皇帝を称する。彼なりに色々と計算を立てての行動だったのだろうが、しかし諸侯からは見事にスルーされ、部下の孫策まで独立する始末。
  • 再度曹操軍に撃ち破られて主力を失い、宮殿を維持する財政基盤もなくなり、とうとう袁術は「流浪宮廷」を引きずって諸国をさまようハメに。雷薄や陳蘭ら、かつて袁術軍の大将として名を馳せた軍閥に身を寄せようとするも追い返され、わずかな扈従ともども、ボロボロになるまで彷徨し、最後はとうとう血を吐いて死んでしまった。
  • 皇帝を自称してから、わずか2年足らずの事である。ちなみに袁術の娘は後に孫権に嫁ぎ、息子の袁燿も孫策・孫権に仕え、東呉で一応の祭祀を保っている。
  • 暴政を敷いたという記録しか残されていないが、不思議と水運関係の遺跡に、袁術の名を冠したものがチラホラ発掘されている。治水くらいはまともにやっていたのかもしれない。

蒼天袁術

  • サルとして登場。
  • 最初の頃は人間だったのに…。宦官討滅を命じた袁紹に「お見事なるご判断!司隷校尉殿!」と拝拱しているあたりが、唯一格好いい姿だった。
  • その後、史伝どおり袁紹と対立。孫堅をたきつけて劉表征伐に向かわせるあたりから、えも言われぬ小物臭と佞知のオーラを発するようになり、孫策から玉璽を受け取る頃には、ほぼサルの姿に落ち着いていた。
  • 袁術は自分が外交巧者であると思っていたようだ。実際、公孫瓚に袁紹の後背を衝かせしめ、呂布と盟して曹操を足止めしていたから、けっして外交音痴ではない。「ケチだというが、気前のいい時もあるぞ」と評されるとおり、気分屋の独裁者だったのだろう。また、なんだかんだ言って、彼の元に集う人士は増える一方だともいい、袁術自身の才知はともかく、南方最大勢力としての求心力は保っていたようだ。
  • が、帝位を僭してからは、高転びに転がり落ちる。奢侈いよいよ甚だしく、四囲を敵に回してなお荒淫の限りを尽くしているようだ。…とはいえ、後宮の人数もたったの数百名。玉璽を妓女の尻に捺して「儀式ごっこ」に興じるなど、例えば董卓がやらかした暴虐に較べれば、子供の遊びである。
  • 「聖戦じゃ」と意気込み、自ら大軍団を率いて曹操領へ親征するも、許の目前で迎撃軍と対峙。荀彧の口舌と青州兵による威圧行動で、軍団は動揺、あっけなく瓦解をはじめる。
  • おまけに柱石と恃む四将軍が、許褚によってたった2コマで全員斬り捨てられると、袁術は「こんなもの聖戦ではない」と、将兵を棄てて現実から遁走。わずか4名の戦死により、勝敗は決した。
  • 荀彧は、南方の政局を不安定に保つため、袁術を敢えて逐わなかった。遁走のさなか、俄におそった雷雨に怯える袁術の姿は、もはや本当の意味でも一匹の猿でしかなかった。

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