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238年

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soutoku

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238年

景初二年 (魏)


皇帝

曹叡(魏)

皇后

(空位)


三公

燕王:公孫淵(自称:自立す。紹漢二年)→(死亡)

太傅:(空位)

太尉:司馬懿(前大将軍)
司徒:(空位)→韓暨(前大中大夫)→(死亡)→衛臻(前司空)
司空:衛臻(前尚書僕射)→崔林(前司隸校尉)



九卿

衛尉:


その他の要職

大司馬:公孫淵(樂浪公・前車騎將軍)→(死亡)
大将軍:→曹宇(燕王)→曹爽(前武衛將軍)
驃騎大將軍:→
車騎將軍:→

地方官

荊州刺史:胡質
幽州刺史:母*丘儉
雍州刺史:郭淮


主な事件

  • 景初二年春正月、太尉の司馬懿に詔して軍を出して遼東を討つ《三国志魏書明帝紀》
  • 二月癸卯、大中大夫の韓暨を司徒と為す《三国志魏書明帝紀》
  • 二月癸丑、月が心距星を犯す。又心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 夏四月庚子、司徒の韓暨が薨ず《三国志魏書明帝紀》
  • 四月壬寅、沛國の蕭、相、竹邑、符離、蘄、銍、龍亢、山桑、洨、虹を分けて.十縣をもって汝陰郡を置く。宋縣、陳郡の苦縣を譙郡に属させる。沛、杼秋、公丘、彭城の豐國、廣戚を合わせて五縣をもって沛王國を作る《三国志魏書明帝紀》
  • 四月庚戌、大赦《三国志魏書明帝紀》
  • 五月乙亥、月が心距星を犯す。又中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 六月、漁陽郡の狐奴縣を省き、また安樂縣を復活させる《三国志魏書明帝紀》
  • 六月戊子、詔に曰く「昔漢の高祖は創業し光武が中興した。しかし墳陵は崩頹している。大魏が承代之意を尊崇するのに反する。高祖・光武の陵の四方百步は民が耕作牧樵採をしてはならないようにする《三国志魏書明帝紀に引く魏書》
  • 秋八月、燒當羌の王芒中、注詣等が叛く。涼州刺史が諸郡を率いて攻め之を討つ。注詣の首を斬る《三国志魏書明帝紀》
  • 八月癸丑、彗星が張宿に見られた《三国志魏書明帝紀》史官が帝に言上するに、「これは周の分野にあたり、洛邑は凶兆です」これによって大いに禳禱之術を修めきり抜ける《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》
  • 九月、蜀の陰平太守廖惇が叛く。善羌侯宕の蕈營を攻め守る。雍州刺史郭淮は廣魏太守の王贇、南安太守の游奕に兵を率いさせて惇を討つ。郭淮は上書して贇﹑奕等は夾山の東西に兵を分けて挟み圍んでいます。まもなく落ちるでしょうと。帝は、兵勢が離れるのは悪いからと詔をもって郭淮を諌めたが、詔が至る前に奕の軍は惇に破られ、贇は流矢に当たって死んだ《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》
  • 九月丙寅、司馬懿は公孫淵を襄平に囲み、大いに破る。淵の首は京都に送られる。海東の諸郡は平定される《三国志魏書明帝紀》
  • 冬十一月、公孫淵を討伐した功績を記録する。太尉の司馬懿以下増邑封爵は各々格差があった。初め帝は司馬懿と議論し兵卒四萬人を発す。朝臣は四萬の兵が多く役費が提供し難たいのではないかと議す。帝は「四千里の彼方に征伐に赴き、奇策を用いるとはいえ兵力も必要であろう。役費から計るのは相応しくない」と言い、遂に四萬人を行かす。司馬懿が遼東に至り、霖雨が続き攻めることができなかった。朝臣らは淵を破ることができないのではないかと話し、司馬懿を詔で還すべきと議した。帝は「司馬懿は臨機応変のものだ。淵を虜にするのも時間の問題だ」と言う。まもなく皆策のようになった《三国志魏書明帝紀》
  • 十一月壬午、司空の衛臻を司徒と為す。司隸校尉の崔林を司空とな為す《三国志魏書明帝紀》
  • 閏月、月が心中央大星を犯す《三国志魏書明帝紀》
  • 十二月乙丑、帝は病に臥す《三国志魏書明帝紀》
  • 十二月辛巳、皇后を立てる。天下の男子に爵人二級を賜い、独り者に穀を賜う。燕王の曹宇を大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》
  • 十二月甲申、大將軍の曹宇を免じる。武衛將軍の曹爽を代わって大將軍と為す《三国志魏書明帝紀》帝は燕王の曹宇を大將軍と為し、使與領軍將軍の夏侯献、武衛將軍の曹爽、屯騎校尉の曹肇、驍騎將軍の秦朗等とともに輔政させようと思っていた。中書監の劉放、中書令の孫資は長く寵愛を受け権力を専らにしていたが、秦朗等ともとから仲がよくなかった。後に害があることを恐れていた。曹宇が常に帝の側にあって言を得られずにいた。甲申の日、帝は氣が微かになり、曹宇は曹肇を呼び議すところがあって殿をさがった。未まだ還る前、その少しの間にはただ曹爽が一人いるだけだった。劉放は之を知り、孫資を呼んで謀った。孫資は「動くべからず」と言うも、放は「俱入鼎鑊,何不可之有?」乃突前見帝,垂泣曰:「陛下氣微,若有不諱,將以天下付誰?」帝曰:「卿不聞用燕王耶?」放曰:「陛下忘先帝詔敕,藩王不得輔政.且陛下方病,而曹肇﹑秦朗等便與才人侍疾者言戲.燕王擁兵南面,不聽臣等入,此即豎刁﹑趙高也.今皇太子幼弱,未能統政,外有彊暴之寇,內有勞怨之民,陛下不遠慮存亡,而近係恩舊.委祖宗之業,付二三凡士,寢疾數日,外內壅隔,社稷危殆,而己不知,此臣等所以痛心也.」帝得放言,大怒曰:「誰可任者?」放﹑資乃舉爽代宇,又白「宜詔司馬宣王使相參」,帝從之.放﹑資出,曹肇入,泣涕固諫,帝使肇敕停.肇出戶,放﹑資趨而往,復說止帝,帝又從其言.放曰:「宜為手詔.」帝曰:「我困篤,不能.」放即上,執帝手強作之,遂齎出,大言曰:「有詔免燕王宇等官,不得停省中.」於是宇﹑肇﹑獻﹑朗相與泣而歸第《三国志魏書明帝紀に引く漢晉春秋》



誕生者



死没者

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