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254年

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soutoku

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254年

嘉平六年→正元元年(魏)


皇帝

曹芳(魏斉王)→曹髦(魏高貴鄉公)

皇后

張氏→(廃位)→王氏→(廃位)

皇太子



三公

太傅:(空位)

太尉:司馬孚(前司空)
司徒:高柔(前司空)
司空:鄭沖(前光祿勳)

九卿

録尚書事:司馬師(大将軍)
光祿勳:

その他の要職

大将軍:司馬師(前撫軍大將軍)
車騎將軍:郭淮(前征西將軍)
驃騎將軍:?
衛将軍:


地方官

雍州刺史:陳泰



主な事件

  • 六年春二月己丑、鎮東將軍の母*丘儉は、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中の士の劉整、鄭像に功があったと上言した。詔して追って劉整、鄭像に關中侯の爵を賜い、各士の名を刻み、子に爵を継がせよ。《三国志魏書三少帝紀》
  • 二月庚戌、中書令の李豐は皇后の父で光祿大夫の張緝等と謀り、大臣を廢易して、太常の夏侯玄を大將軍と為さんとする。事は発覚し、諸所で関連したもの皆誅に伏す《三国志魏書三少帝紀》
  • 二月辛亥、大赦《三国志魏書三少帝紀》
  • 三月、皇后の張氏を廃す《三国志魏書三少帝紀》
  • 夏四月、皇后に王氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀》
  • 五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を廣明鄉侯に封じ、光祿大夫、特進の位を授ける。妻の田氏は宣陽鄉君と為す《三国志魏書三少帝紀》
  • 秋九月、大將軍の司馬師は廢帝を謀り、皇太后に相談する《三国志魏書三少帝紀》
  • 九月甲戌、太后は令に曰わく、「皇帝の芳は年が長じても萬機に親しまず、耽淫內寵・沈漫女德・日延倡優・縱其醜謔である。天意に適わない。宗廟に奉って、太尉の高柔に兼ねさせて策を奉じ、宗廟に告げ、芳を齊国に歸藩させ、皇位を譲らせる」即日別宮に移る。年は二十三。使者は節を持って送る。齊王宮を河內の重門に営み、制度は皆藩國の禮に準じた。《三国志魏書三少帝紀》
  • 九月丁丑、令して曰わく「東海王曹霖は、高祖文皇帝の子である。高貴鄉公の曹髦は大成之量あり、明皇帝の跡継ぎと為す《三国志魏書三少帝紀》司馬師はまた永寧宮に、「大宗は跡継ぎが無く、分家の中から賢者を選ぶべきです。東海定王の子である高貴鄉公は文皇帝の孫で正統なる血統であり、烈祖明皇帝の後を継ぐに問題ありません。臣は公を洛陽宮に徵することを望みます」と奏上し、可とされた。中護軍の司馬望、兼太常で河南尹の肅は節を持ち、少府の褒、尚書の亮、侍中の表等と法駕を奉じて、公を元城に迎えに行った。《三国志魏書三少帝紀に引く魏書》晉の受禪後、齊王を封じて邵陵縣公と為し、年四十三、泰始十年に薨ず。厲公と諡する《三国志魏書三少帝紀に引く魏世譜》
  • 十月己丑、曹髦は玄武館に至り、臣下は舍前殿にお出ましになるのを請うた。曹髦は先帝がいた所として避けて西廂に止まる。臣下は又法駕をもって迎えることを請うたが聽かず。《三国志魏書三少帝紀》
  • 庚寅、曹髦は洛陽に入る。臣下は西掖門の南で拝し迎える。曹髦は輿を降りて答拜した。儐者が「儀礼によれば拝礼しないものです」と言った所、公は「私は人臣です」と答え、拝礼した。止車門で輿を降りると左右の者が「輿に乗ったままお入りください」というと、公は「私は皇太后様に徵されただけでまだどうなるか分からないのだ」と答えた。步いて太極東堂に至り、太后に会った。即日皇帝に即位し太極前殿に現れた。百僚陪位者が迎えた。詔して曰わく「昔、三祖は神のような武と聖德によって天命に応じて禅譲を受け、齊王が皇位を嗣いだ。だが行いを律することができず、皇太后は社稷の重責を憚り、宰輔の謀を受け入れ、皇位を替えるに至った。私は大命を一身に受け、身も細る思いだ。祖宗の大訓を守り継ぐことができるか畏れる。今公卿士は股肱として輔佐し、四方征鎮はその力を発揮し、皆德を積み功を挙げよ。帝室に忠勤たれ。先祖先父以来の有德之臣よ、左右にある者よ、皇家を守れよ」大赦。改元する。乘る輿、服御、後宮の用度を減じる。また尚方御府百工を罷めさせ、技巧靡麗や無益の物は無くした。《三国志魏書三少帝紀》
  • 正元元年冬十月壬辰、侍中に節を持たせて四方に分けて遣わし、風俗を観、士民を労り、職の無い者を調べさせた《三国志魏書三少帝紀》
  • 癸巳、大將軍の司馬師に黃鉞を与え、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿の権限を与えた。《三国志魏書三少帝紀》
  • 戊戌、黃龍が鄴の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀》
  • 甲辰、有司に命じて今回の廢立において定策之功を論じさせ、封爵、增邑、進位を行った。各々格差があった《三国志魏書三少帝紀》



誕生者


死没者

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