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g233年

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soutoku

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233年

嘉禾二年(呉)


皇帝

孫権(呉大帝)

皇后

(空位)

皇太子

孫登

三公(呉)

丞相:顧雍(前太常)


その他の要職(呉)

太常:張彌
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:?
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:?
少府:?
執金吾:許晏

大司馬:?
大将軍:?
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
衛将軍:?
上大將軍:陸遜?


主な事件

  • 二年春正月、使持節督幽州領青州牧遼東太守燕王の公孫淵に詔する。《三国志呉書呉主権伝》
  • 三月、舒、綜を還えらせ、太常の張彌、執金吾の許晏、將軍の賀達等に兵萬人を率いさせて、金寶珍貨、九錫の備物を携えさせ、海を渡って淵に授けさす。その時の詔が江表傳に記載がある。朝大臣、丞相の顧雍以下挙げて諫める。淵はいまだ信じることはできない上、ただ吏兵數百の護衛をつけて舒、綜を送り届ければよいとしたが、孫權は聽かず。《三国志呉書呉主権伝》果たして淵は彌等を斬って魏に其首を送る。其兵や物資を没収する。孫權は大いに怒り、自ら淵を征伐せんと欲す《三国志呉書呉主権伝》初め、張彌、許晏等は俱に襄平に到着する。官屬從者四百余人。公孫淵は彌、晏を捕らえんと欲すが、先に其人衆を遼東諸縣に分ける。そのうち秦旦、張衛、杜德、黃疆等と吏兵六十人は玄菟郡に置く。玄菟郡は遼東の北にあって、二百里離れている。太守の王贊が戶二百をまとめていた。兼重可三四百人。旦等は皆民家に寝泊まりし飲食を提供された。四十許日がたち、旦は疆等と議す「吾らは遠くまで来て國命を辱め、ここに棄てられている。もはや死んだと同じではないか?今この郡を見るに、形勢は甚だ弱く、もし一旦同心すれば城郭を焚燒し長吏を殺し、國のために恥に報いられるだろう。そうして死んでも恨むところは無い。どうして囚虜として長く生きていられようか?」疆等も賛同した。こうして密かに約を結ぶ。八月十九日の夜に事を起こそうと決め、まさにその日、部の張松が密告したため城門は閉じられた。旦、衛、德、疆等は皆城を抜け出し脱走できた。時に衛は膝に疽創を病んでおり一緒に旅をすることができなくなった。德常扶接與俱,崎嶇山谷.行六七百里,創益困,不復能前,臥草中,相守悲泣.曰:「吾不幸創甚,死亡無日,卿諸人宜速進道,冀有所達.空相守,俱死於窮谷之中,何益也?」德曰:「萬里流離,死生共之,不忍相委.」於是推旦﹑疆使前,德獨留守,捕菜果食之.旦﹑疆別數日,得達句驪(王宮),因宣詔於句驪王宮及其主簿,詔言有賜為遼東所攻奪.宮等大喜,即受詔,命使人隨旦還迎﹑德.其年,宮遣皂衣二十五人送旦等還,奉表稱臣,貢貂皮千枚,鶡雞皮十具.旦等見權,悲喜不能自勝.權義之,皆拜校尉.閒一年,遣使者謝宏﹑中書陳恂拜宮為單于,加賜衣物珍寶.恂等到安平口,先遣校尉陳奉前見宮,而宮受魏幽州刺史諷旨,令以吳使自效.奉聞之,倒還.宮遣主簿笮咨﹑帶固等出安平,與宏相見.宏即縛得三十餘人質之,宮於是謝罪,上馬數百匹.宏乃遣咨﹑固奉詔書賜物與宮.是時宏船小,載馬八十匹而還《三国志呉書呉主権伝に引く吳書》




誕生者




死没者





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