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g239年

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soutoku

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239年

赤烏二年(呉)


皇帝

孫権(呉大帝)

皇后

(空位)

皇太子

孫登

三公(呉)

丞相:顧雍(前太常)


その他の要職(呉)

太常:潘濬?
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:?
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:?
少府:?

大司馬:?
大将軍:?
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
衛将軍:全琮
上大將軍:陸遜?


主な事件

  • 二年春正月、詔して「郎吏者,宿之臣,古之命士也.閒者所用頗非其人.自今選三署皆依四科,不得以虛辭相飾《三国志呉書呉主権伝に引く江表傳》
  • 三月、使者の羊ドウ、鄭冑、將軍の孫怡を遼東に遣わして魏の守將の張持、高慮等を撃ち、男女を捕虜と為す。注1《三国志呉書呉主権伝》
  • 三月、零陵で甘露が降ったと伝えて来た。《三国志呉書呉主権伝》
  • 夏五月、城沙羡。《三国志呉書呉主権伝》
  • 冬十月、將軍の蔣秘が南に夷賊を討つ。秘かに所領都督の廖式は臨賀太守の嚴綱等を殺し、平南將軍を自称する。弟の潛とともに零陵、桂陽を攻めた。交州、蒼梧、鬱林の諸郡は動揺し、衆は數萬人に及んだ。將軍の呂岱、唐咨を遣わして之を討ち一年余で皆破った。《三国志呉書呉主権伝》



誕生者




死没者



*注1鄭冑字敬先。沛國人。父の鄭札は才學博達にして孫權が驃騎將軍になると札を從事中郎と為し、張昭、孫邵とともに朝儀を定める。冑はその少子。文武に優れ若いときから名を知られていた。賢良に挙げられ建安太守となる。呂壹の賓客が郡で法を犯したとき冑は捕らえて獄に繋いだ。壹は恨みを抱き後に密かに冑を誹る。權は大いに怒り冑を召還する。潘濬、陳表は許しを請うた。後に宣信校尉となる。公孫淵を救いに行く先で魏に破られ、還えって執金吾となる。子の鄭豐字曼季は文學操行で陸雲とともに善しとされた。雲と詩をやり取りし、司空の張華が辟招するも就任前に卒す。裴松之が聞いたところでは、孫怡は東州人で孫權の宗族ではない《三国志呉書呉主権伝に引く文士傳》

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