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249年

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soutoku

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249年

正始十年→嘉平元年(魏)


皇帝

曹芳(魏)

皇后

甄氏(文帝皇后の甄氏の兄甄儼の孫娘)

皇太子



三公

太傅:司馬懿(前太尉)

太尉:蒋済(前領軍將軍)→王淩 (前司空)
司徒:高柔(前司空)
司空:王淩(前車騎將軍)→孫禮(前司隸校尉)

九卿

大司農:桓範


地方官

荊州刺史:李勝
司隸校尉:畢軌→孫禮→


主な事件

  • 嘉平元年春正月甲午、車駕は高平陵(洛水の南の大石山にあり、洛城から九十里)へ詣でた。太傅の司馬懿は奏上して大將軍曹爽・爽の弟の中領軍曹羲・武衛將軍の曹訓、散騎常侍の彥官を免じる。以侯就第《三国志魏書三少帝紀》正月、魏の皇帝曹芳は曹爽兄弟を伴って高平陵へ参った。これを機会に司馬懿は兵を挙げ、武器庫を占拠し、ついで城外に出て洛水の浮き橋付近に駐屯して永寧宮(皇太后)に上奏した。皇太后は上奏を受け入れた。曹爽らは桓範の諌めを入れられず、司馬懿の使わした侍中の許允・尚書の陳泰らの進言を聞き入れ兵を解き、使者を返して自らの死罪を請わせた。かくて司馬懿は曹爽・曹羲・曹訓の下役と兵士を剥奪し、自邸に帰させた。その後張当が逮捕された時、曹爽・何晏らが実は三月にクーデターを起こす計画だったと陳述した。これによって曹爽・曹羲・曹訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らを逮捕し、三族を処刑した。《三国志曹真伝》
  • 正月戊戌、有司は奏上して黃門の張當を逮捕して廷尉に渡した。その言を考課するに、曹爽と不軌を謀ろうとしていたことが判明した。また尚書の丁謐・鄧颺・何晏・司隸校尉の畢軌・荊州刺史の李勝・大司農の桓範が皆曹爽と通謀していたとして三族皆殺しとなった。《三国志魏書三少帝紀》
  • 正月丙午、大赦《三国志魏書三少帝紀》
  • 正月丁未、太傅の司馬懿を丞相と為すも固辞して受けず《三国志魏書三少帝紀》詔して太常の王肅に冊命を持たせ太傅を丞相と為し、一萬戶を増し、臣奏事不得稱名の権を与え、漢の霍光の故事になぞらえた。太傅は上書して辞す。書は十餘以上もあり、詔して之を許す。また九錫之禮を加えようとするも太傅は又答えて固辞して受けず《三国志魏書三少帝紀に引く孔衍の漢魏春秋》
  • 夏四月乙丑、改年。《三国志魏書三少帝紀》
  • 四月丙子、太尉の蔣濟が薨ず。《三国志魏書三少帝紀》
  • 九月、令孤愚は将軍の張式を白馬に派遣し、曹彪に挨拶させた。《三国志王淩伝》
  • 十一月、令孤愚は再び将軍の張式を曹彪に派遣したが、張式が戻る前に病死した。《三国志王淩伝》
  • 冬十二月辛卯、司空の王淩を太尉と為す。《三国志魏書三少帝紀》曹爽処刑後、王凌*を太尉に昇進させ節鉞を与えた。《三国志王淩伝》
  • 十二月庚子、司隸校尉の孫禮を司空と為す《三国志魏書三少帝紀》



誕生者


死没者

令孤愚(王凌*の甥・病死)
曹爽(曹真の子)
曹羲(曹爽の弟)
曹訓(曹爽の弟)
何晏(何進の孫・曹操の側妾尹氏の子・公主を娶った)
鄧颺(後漢の功臣鄧禹の子孫)
丁謐(丁斐の子)
畢軌(息子が公主を娶った)
李勝(李休の子)
桓範(王象らと皇覧の編集をした)
張当
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