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189年

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soutoku

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189年

中平六年→ 光熹元年→昭寧元年→永漢元年→中平六年(漢)

皇帝

劉宏(漢霊帝)→劉辨(漢少帝)→劉協(漢献帝)

皇后

何氏(諱某・南陽宛県)→劉宏崩御に伴い皇太后に。臨朝。→死亡→(空位)

皇太子

(空位)


三公

相国:(新設)→董卓(前太尉・189~191)
太傅:袁隗(前後将軍・189~190)

太尉:馬日磾(前射声校尉・188~189)→劉虞(幽州牧・189)→董卓(前司空・189)→黃琬(前司徒・189~190)
司徒:丁宮(前司空・188~189)→黃琬(前豫州牧・189)→楊彪(前司空・189~190)
司空:劉弘(前光禄勳)→董卓(并州牧・189)→楊彪(前太中大夫・189)→荀爽(前光禄勳・189~190)


その他の要職

録尚書事:
■何進(大将軍・189)→(死亡)

太僕:?
大司農:?
光禄勳:→荀爽→?
執禁吾:丁原→?


大司馬:劉虞(前太尉・189~)
大将軍:何進(前河南尹)→(死亡)→(空位)
車騎将軍:何苗#1(前河南尹)→(死亡)→(空位)
驃騎将軍:董重→(死亡)→(空位)
衛将軍


地方官

司隷校尉:袁紹/樊陵→(死亡)
冀州:?
幽州牧:劉虞
并州牧:→董卓→
青州:?
豫州牧:黃琬(188~189)→
兗州:?
徐州:?
河南尹:/許相→(死亡)
荊州:?
涼州:?
揚州:?
益州:?
交州:?



主な事件

  • 春二月、左将軍皇甫嵩が陳倉において王國を大いに破る《後漢書孝霊帝紀》
  • 三月、幽州牧の劉虞は漁陽の賊張純を説き伏せ斬った《後漢書孝霊帝紀》
  • 下軍校尉の鮑鴻が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》
  • 夏四月丙午朔、日食有り《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、太尉の馬日磾が免じられ、幽州牧の劉虞を太尉と為す《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月丙辰(4月11日)、皇帝劉宏が南宮の嘉徳殿で崩御する。年34歳《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月戊午(4月13日)、皇子辨が即位。年17歳。皇后何氏を尊んで皇太后とし、臨朝する《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、光熹と改元する《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、皇弟劉協を渤海王と為す《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、後将軍袁隗を太傅、大将軍何進を参録尚書事と為す《後漢書孝霊帝紀》
  • 四月、上軍校尉の憲*磧は獄に下され死ぬ。憲*磧が渤海王協を立てようとして発覚した為である《後漢書孝霊帝紀》
  • 五月辛巳(5月6日)、驃騎将軍の董重(孝仁皇后の兄の子)が獄に下され死ぬ《後漢書孝霊帝紀》
  • 六月辛亥(6月7日)、孝仁皇后董氏が崩御《後漢書孝霊帝紀》
  • 六月辛酉、孝霊皇帝劉宏は文陵(洛陽の西北20里。陵墓の高さ12丈、周囲300歩)に葬られた《後漢書孝霊帝紀》
  • 雨水《後漢書孝霊帝紀》
  • 秋七月、甘陵王の劉忠が亡くなる《後漢書孝霊帝紀》
  • 七月庚寅(7月16日)、孝仁皇后を河間慎陵に帰葬する《後漢書孝霊帝紀》
  • 七月、渤海王劉協を陳留王と為す《後漢書孝霊帝紀》
  • 七月、司徒の丁宮が罷める《後漢書孝霊帝紀》
  • 八月戊辰(8月25日)、中常侍の張譲・段珪等は大将軍の何進を殺害。このため中郎将の袁術は東と西の宮を焼き、宦官を攻めた。《後漢書孝霊帝紀》董卓が到着する前に何進は敗れ、虎賁中郎將の袁術は南宮を焼く《後漢書董卓列傳》
  • 八月庚午(8月27日)、張譲・段珪等は少帝と陳留王を連れて北宮の徳陽殿に御幸した。何進の部曲の将である呉匡は車騎将軍何苗を擁して朱雀門の下で戦い、何苗は敗れ斬られた。《後漢書孝霊帝紀》何進の部曲の將である吳匡は、もと何苗が何進と同心しないことを怨み、又宦官と通謀していたのではないかと疑って、軍中に「大將軍を殺したのは車騎将軍だ」と命じた。遂に董卓の弟の董旻と兵を率いて何苗を朱爵闕下で攻め殺す。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》
  • 八月辛未(8月28日)、司隷校尉の袁紹は、偽の司隷校尉である樊陵、河南尹の許相及び諸宦官を捕らえるよう兵を御し、しばらくして之を斬った。張譲・段珪等はまた少帝と陳留王を連れて小平津に走った。尚書令の盧植が張譲等を追って数人を斬り、其の他は皆黄河に身を投げ死んだ。少帝は陳留王とともに夜数里行き、民家で蓋も無い車を得て共に乗った。《後漢書孝霊帝紀》この時京師では「侯であって侯でない、王であって王でない、千乗萬騎北芒」という童謡が謳われていた。《後漢書孝霊帝紀に引く続漢志》河南の中郎将閔貢は天子を見つけ、騎馬を率いて之を追った。黄河で追い付き、閔貢は大声で張譲等を責め、張譲等は再拜叩頭して天子に辞し河に身を投げて死んだ《後漢書孝霊帝紀に引く献帝春秋》皇帝は八月庚午に諸黃門のために連れ出され步いて穀門を出た。走って河上に至り、諸黃門は黄河に投身自殺した。時に帝は年十四#3。陳留王は年九歲。兄弟は孤独に夜步行し還宮したいと願った。闇暝、螢火を頼りに行く。數里して民家があり露車に乗っていく。辛未、公卿以下と董卓は共に帝を北芒阪下に迎える。《三国志魏書董卓伝に引く張璠の漢紀》董卓は時適至るまで顯陽苑に駐屯し、帝が還えったのを聞くと兵を率いて帝を迎えた。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝春秋》帝は董卓の兵を見て泣き叫び公卿たちは董卓に兵を退けるよう命じた。董卓は「公諸人は國の大臣でありながら王室を匡正することができず、國家を彷徨わせた。どうして兵を下げられようか!」として俱に入城した。《三国志魏書董卓伝に引く典略》董卓は帝と語ったがよくわからず、さらに陳留王とも語った。この騒乱の訳を問うと王は初めから終わりまで遺失なく答えた。董卓は大いに喜び、廢立の意を持った。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》河南中部掾の閔貢は皇帝と陳留王を助けて雒舍に至る。帝は一人騎乗し、陳留王は閔貢と一緒に騎乗していた。雒舍から南行し、公卿百官は北芒阪下において奉迎する。昔の太尉である崔烈が前導した。董卓は步騎數千を率いて來迎し,崔烈は退かせるよう叱責したが、董卓は崔烈を罵って「昼夜三百里を来てどうして退かねばならないのだ。私が卿の頭を断ち切れないとでも思っているのか?」言った。前に帝を見て「陛下が常侍小黃門に亂を作らせたようなもの。この責任は小さくありませんぞ?」又陳留王に歩み寄り「私が董卓です。私が抱き上げて行きましょう」と言った。閔貢から王を奪い取り抱き上げた。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》陳留王は董卓に抱えられるのを良しとせず、馬に騎乗し併走して行く。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》
  • 八月辛未(8月28日)、還宮《後漢書孝霊帝紀》
  • 何進、何苗が死んだことでその部曲は所屬が無く、皆董卓が収めた。《三国志魏書董卓伝》
  • 天下に大赦する《後漢書孝霊帝紀》
  • 昭寧に元号を改元する《後漢書孝霊帝紀》
  • 并州牧の董卓は執禁吾の丁原(字建陽)を殺す《後漢書孝霊帝紀》董卓は又呂布に執金吾の丁原を殺させ、その部曲も併呑する。《三国志魏書董卓伝・後漢書董卓列傳》
  • 司空の劉弘(字子高)が免じられ、董卓は自ら司空となる《後漢書孝霊帝紀》久しく雨が降らなかったので司空の劉弘を策免して董卓を之に代える。《三国志魏書董卓伝》
  • 九月甲戊、董卓は皇帝の廃位を行ない、弘農王と為し《後漢書孝霊帝紀》、劉協が皇帝に即位した。年九才。母は王美人。《後漢書孝献帝紀》これより先、董卓は廢帝を謀り、朝堂に臣を集めて廃位を議したところ、尚書の盧植が反対した。董卓は怒り、罷免して誅さんとするが侍中の蔡邕に諫止されて免じた。九月甲戌、董卓はまた大いに會を開き、廃位を謀る。《三国志魏書董卓伝に引く獻帝紀》
  • 董卓によって何皇太后は永安宮(周廻698丈、洛陽故城の中に在る)に還る《後漢書孝献帝紀》
  • 天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》
  • 元号を昭寧から永漢に改める《後漢書孝献帝紀》
  • 九月丙子、董卓は皇太后の何氏を殺す《後漢書孝献帝紀》
  • 六月から九月まで雨が降る《後漢書孝霊帝紀》
  • 是まで無員であった侍中、給事黄門侍郎員を各六人とする。公卿以下黄門侍郎に至るまで家人一人を郎と為し、諸署の宦官の欠員を補わせた《後漢書孝献帝紀》
  • 九月乙酉、太尉の劉虞を大司馬と為し、董卓は自ら太尉と為し、鉄鉞(斧。生殺与奪権の付与)と虎賁(近衛兵)を加える《後漢書孝献帝紀》#2
  • 九月丙戌、太中大夫の楊彪を司空と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 九月甲午、豫州牧の黃琬を司徒と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 使者を遣わして故太傅の陳蕃、大将軍の竇武等を弔う《後漢書孝献帝紀》董卓は司徒黃琬、司空楊彪らとともに上書して、陳蕃、竇武及諸黨人のことに関して追理し、人望に従った。そして陳蕃等の爵位を悉く復し、子孫を適用する。《後漢書董卓伝》
  • 冬十月乙巳、霊思皇后を葬る《後漢書孝献帝紀》
  • 白波賊(黄巾の郭泰等が西河郡の白波谷で起こしたのが始まり)が河東を冦略する。董卓は配下の将牛輔を遣わして之を撃つ《後漢書孝献帝紀》
  • 十一月癸酉、董卓は自ら相国と為す《後漢書孝献帝紀》董卓は相國に移り、郿侯に封じられ、贊拜不名、劍履上殿の特権を得る。又董卓の母を池陽君と為し、家令、丞を置く。《三国志魏書董卓伝》
  • 十二月戊戌、司徒の黃琬を太尉、司空の楊彪を司徒に、光禄勳の荀爽を司空と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 扶風都尉を廃し、漢安都護を置く。扶風都尉は比二千石の官で、武帝が元鼎四年に設置し後漢になっても続いた。しかし羌族が三輔を擾乱するに至り、之を省き、都護を置いて西方を総統させた《後漢書孝献帝紀》
  • 十二月、詔して、光熹、昭寧、永漢の三号を除き、中平六年に復する《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十二月、曹操は己吾に於いて兵を起こす。時に中平六年。《三国志魏書武帝紀操》陳留の孝廉である衛茲は家財を投じて曹操に出資して兵を起こさせる。五千人。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》

  • この歳、孝廉に挙げられたのは荀彧(後に梁国の亢父令)《後漢書鄭孔荀列伝》。
  • 中平六年、董卓を并州牧と為す。又その吏兵は皇甫嵩に属させることになった。しかし董卓は再び上言して拒絶。再び勅命を違えた。その後、何進が召すところとなる。《三国志魏書董卓伝に引く靈帝紀》

誕生者


死没者

劉宏(諡孝霊皇帝)
鮑鴻(下軍校尉・下獄死)
憲*磧(上軍校尉・下獄死)
何進(大将軍・暗殺)
何苗(車騎将軍・戦死)
丁原(執禁吾)
董氏:孝仁皇后。


*#1何苗は何太后の同母兄。先嫁の朱氏の子である。《三国志魏書董卓伝に引く英雄記》大将軍何進は異母兄。
*#2後漢書とは異なり、三国志魏書董卓伝では司空から太尉となり、假節鉞虎賁の後、廢帝、王と何太后の殺人、陳留王擁立の順に書かれるが、ここでは後漢書にならった。後漢書董卓伝では、太尉に移ったとき前將軍事を領し、加節傳斧鉞虎賁、さらに郿侯に封じられたとなっている。
*#3少帝は、後漢書皇后紀靈思何皇后では翌年の初平元年、享年18歳で亡くなったとしており、後漢書孝霊帝紀でも即位の中平6年に17歳だったとしている。14歳は誤りであろう。






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