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190年

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soutoku

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190年

初平元年(漢)

皇帝

劉協(漢献帝)

皇后

(空位)

皇太子

(空位)

三公

相国:董卓(前司空・189~191)
太傅:袁隗(前後将軍・189~190)→(死亡)→劉虞(道が途絶え王命届かず)

太尉:黃琬(前司徒・189~190)→趙謙(前光禄勳・190~191)
司徒:楊彪(前司空・189~190)→王允(前太僕・190~192)
司空:荀爽(前光禄勳・189~190)→(死亡)→仲*拂(前光禄大夫・190~191)


その他の要職

太僕:→王允(~190)→袁基(190)→(死亡)→?
大司農:?
光禄勳:?→趙謙→?
執金吾:胡母班(~190)→(死亡)→?
大鴻臚:韓融
将作大匠:呉脩(~190)→(死亡)→?
少府:陰脩(~190)→(死亡)→?

地方官

冀州牧:韓馥
豫州刺史:孔伷
兗州刺史:劉岱
揚州刺史:陳温(190?~193)《三国志魏書武帝紀》
荊州刺史:王叡(~190)→(死亡)→劉表(190~192)


主な事件

  • 初平元年春正月、山東の州郡に董卓討伐をもって兵が起こる《後漢書孝献帝紀》<山東諸侯による董卓政権への反攻
  • 正月辛亥(1月10日)、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》
  • 癸酉、董卓は弘農王を殺す《後漢書孝献帝紀》弘農王を閣上に置き、郎中令の李儒は薬と詐って酖毒を進める。王は唐姬及宮人と別れを惜しみ悲歌す。唐姬に起って舞わさせた。座にあるものは泣き嗚咽す。享年18歳。《後漢書皇后紀靈思何皇后》
  • 白波賊が東郡を冦略する《後漢書孝献帝紀》
  • 初平元年二月、弘農王を故中常侍の趙忠の成壙中に葬る。謚は懷王。《後漢書皇后紀靈思何皇后》
  • 二月乙亥(2月5日)、太尉の黃琬と司徒の楊彪が免ぜられる《後漢書孝献帝紀》#2
  • 二月庚辰(2月10日)、董卓は城門校尉の伍瓊、督軍校尉の周毖#1(豫州刺史周慎の子)を殺す《後漢書孝献帝紀》
  • 二月庚辰(2月10日)、光禄勳の趙謙(太尉趙戒の孫)を太尉に、太僕の王允を司徒と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 二月丁亥(2月17日)、長安に遷都す。董卓は京師の百姓悉くを駆り立て西へ入関させた。自らは畢圭苑に駐留する《後漢書孝献帝紀》二月、董卓は兵が起こったと聞き、天子を都長安に移し、洛陽に屯す。宮室を焼く。是時袁紹は河內、張邈﹑劉岱﹑橋瑁は酸棗に、袁術は南陽に、孔伷は潁川にそれぞれ屯していた。韓馥は鄴にあった。董卓の兵は強く袁紹等は敢えて先進すること無し《三国志魏書武帝紀》
  • 二月壬辰(2月22日)、白虹が太陽を貫く《後漢書孝献帝紀》
  • 三月乙巳(3月5日)、車駕が長安に入り、未央宮に御幸する《後漢書孝献帝紀》
  • 三月己酉(3月9日)、董卓は洛陽の宮廟および人家を焼く《後漢書孝献帝紀》
  • 三月戊午(3月18日)、董卓は太傅の袁隗(袁紹の叔父)、太僕の袁基(袁術の母の兄)を殺し、其の族を殺す。《後漢書孝献帝紀》尺口以上の男女五十余人、皆獄に下され死んだと言う《後漢書孝献帝紀に引く献帝春秋》太傅の袁隗に代わって大司馬襄賁侯の劉虞を太傅にせんと徴すが、道が途絶え王命届かず《後漢書劉虞伝》
  • 夏五月、司空の荀爽が亡くなる《後漢書孝献帝紀》
  • 六月辛丑、光禄大夫の仲*拂を司空と為す《後漢書孝献帝紀》
  • 大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡母班、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王壞は関東に赴いた。後将軍の袁術、河内太守の王匡は各々捕えて之を殺す。ただ韓融のみ逃れた《後漢書孝献帝紀》
  • 董卓は五銖銭を壊して、小銭を鋳る《後漢書孝献帝紀》
  • 冬十一月庚戊、鎭星、螢*惑、太白が尾に於いて合わさる《後漢書孝献帝紀》

  • 是年、有司が、和、安、順、桓の四帝は功徳が無く、称宗は宜しくないと奏した。また恭懐、敬隠、恭愍の三皇后は正嫡非ず、称后は適当でないとし、尊号を除くよう請い、可とされた。注に引く、和帝は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗を号していた。また和帝の母梁貴人は恭懐皇后、安帝の祖母宋貴人は敬隠皇后、順帝の母李氏は恭愍皇后と尊んで言っていた。《後漢書孝献帝紀》
  • 孫堅は荊州刺史の王叡を殺す。また南陽太守の張咨を殺す《後漢書孝献帝紀》初平元年、長沙太守の孫堅は荊州刺史の王叡を殺す。詔書をもって劉表を荊州刺史と為す《後漢書袁紹劉表列傳》王叡は見て驚き私に何の罪があるのかと問うた。孫堅は「座して知るところ無いことだ」と言って迫った。王叡は金を飲んで自殺した《後漢書袁紹劉表列傳に引く吳錄》
  • 是年、伏氏は長安遷都に従い、掖庭に入って貴人となった。《後漢書皇后紀獻帝伏皇后》

初平年間

  • 献帝の初めとして、陳国王劉寵は義兵が起こると、兵を率いて陽夏に屯す。自ら輔漢大將軍を称した。国相で会稽郡の駱俊は威恩があり、時に天下は飢荒し、鄰郡の人は多いに之に帰した。後に袁術が陣に兵糧を求め、駱俊が拒絶すると、袁術は憤り、刺客を遣わして俊及寵を殺した。陳はこれによって敗れた。夫人姫妾の多くは丹陽兵や烏桓兵の略すところとなったという。《後漢書孝明八王列伝陳敬王羨》

誕生者



死没者

王叡(荊州刺史)
張咨(南陽太守)



*#1三国志魏書董卓伝では周毖は尚書である
*#2後漢書董卓伝では、長安遷都を議した時、伍瓊、周珌が固く諌めたが、山東で蜂起した人士を推挙したのはまさにこの二人で、二人に裏切られたと考えた董卓は遂に伍瓊、周珌を斬る。同じく遷都を諌めた彪と琬は恐懼し、董卓のもとを訪れ謝罪した。董卓は既に伍瓊、周珌を殺して後悔しており、彪、琬を上表して光祿大夫にするに留めた。



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