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注釈

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soutoku

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九錫:「後漢書孝献帝紀」に引く案礼含文嘉に曰く、九錫は一に曰く車馬、二に曰く衣服、三に曰く楽器、四に曰く朱戸、五に曰く納陛、六に曰く虎賁士百人、七に曰く斧鉞、八に曰く弓矢、九に曰く秬鬯


唐姫:潁川の人。弘農王が殺されると、郷里に帰る。父の会稽太守唐瑁は嫁がせんと欲するが、姫は誓って肯んぜず。李確*が長安を破ると、関東に兵を遣り、姫を略取する。妻にせんと欲するが聴かず。尚書の賈[言羽]は之を知り、献帝に白し、献帝は哀れに思って姫を迎え、園中に置く。侍中に節を持たせ弘農王妃と為す《後漢書皇后紀靈思何皇后》


楊彪:楊彪は代々漢の三公を輩出した家柄であった。三国志文帝紀に引く魏書に曰く、漢に代わって魏が興ると、魏文帝は彼を太尉にしようとしたが楊彪は辞退した。文帝はその意を汲んで、黃初四年に詔勅を下し光禄大夫を拝した。中二千石の禄を与え、朝見の際には三公に次ぐ位とし、孔光の故事にならった。楊彪は上書して固く譲ったが帝は聴かず、また門に行馬を施して吏卒を置き、優遇尊崇した。黄初六年、年八十四で亡くなった。子は脩。


劉寵:劉寵は弩射が巧みで、十発十当てることができ、皆同じところを射た。中平年間、黃巾賊が起こり、郡県のものは皆、城に走る。寵は強弩数千張を有し、都亭に軍を出す。国の人は王が弩射が巧みなのを聞いていたので、あえて叛かず、故に陳を保つことができた。百姓に帰すもの十餘萬人に上った。《後漢書孝明八王列伝陳敬王羨》


鄭玄:字を康成といい、北海高密の人である。八世の祖である鄭崇は哀帝の時尚書僕射。鄭玄は若いとき鄉の嗇夫となる。太學で学業を受けて京兆の第五元先に師事し、京氏易、公羊春秋、三統歷、九章筭術に通ずる。また東郡の張恭祖について周官、禮記、左氏春秋、韓詩、古文尚書を受け、山東では適う者がなかった。靈帝末年黨禁が解けると大將軍の何進は辟招くするが行かず、時に年六十。弟子で河內の趙商等は遠方から至りその数は數千であった。後將軍の袁隗が上表して侍中と為すも父の喪で行かず。國相の孔融は深く敬愛し高密縣に告げて玄のために特に一鄉を建てた。董卓が長安に遷都尾すると公卿は玄を推挙して趙相と為すが道が斷たれて届かなかった。黃巾が青部を攻伐すると徐州に避難し徐州牧の陶謙は師友之禮をもって接した。。《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》


董卓:字仲穎。隴西臨洮人。卓の父は微されて潁川綸氏の尉であった。三人の子があり、長子は擢字孟高。早卒した。次が卓。卓の弟が旻字叔穎。《三国志魏書董二袁劉傳董卓に引く英雄記》漢の桓帝の末、六郡の良家の子を持って羽林郎と為す。卓は武の才があり、両腿に矢つぼを帯び左右に騎射できた。そのため軍司馬に任命される。中郎將の張奐に従って并州征討に功があり、郎中を拝す。《三国志魏書董二袁劉傳董卓》永康元年(延熹10年(167年)は6月に改元されて永康元年)春に東羌と先零の五六千騎が關中を犯し、祋祤を囲み雲陽を略奪する。夏、また兩營を攻めてきて千餘人を殺す。冬、羌岸尾、摩蟞等は同種を脅し三輔を犯す。張奐は司馬の尹端、董卓を並擊させ大いに破る。酋豪を斬り、首虜萬餘人。《後漢書皇甫張段列傳張奐》その後、廣武令、蜀郡北部都尉、西域戊己校尉となり、免じられて後、徵されて并州刺史を拝す。河東太守、中央に戻り中郎將として黃巾を討つ(このとき184年)。軍は敗れ罪に服す。韓遂等が涼州で蜂起すると再び中郎將となる。西拒遂.于望垣硤北,為羌﹑胡數萬人所圍,糧食乏絕.卓偽欲捕魚,堰其還道當所渡水為池,使水渟滿數十里,默從堰下過其軍而決堰.比羌﹑胡聞知追逐,水已深,不得渡.時六軍上隴西,五軍敗績,卓獨全而還,屯住扶風.拜前將軍,封鄉侯,徵為并州牧《三国志魏書董二袁劉傳董卓》中平五年,徵卓為少府,敕以營吏士屬左將軍皇甫嵩,詣行在所.卓上言:「涼州擾亂,鯨鯢未滅,此臣奮發命之秋.吏士踴躍,戀恩念報,各遮臣車,辭聲懇惻,未得即路也.輒且行前將軍事,盡心慰卹,力行陳.」六年,以卓為并州牧,又敕以吏兵屬皇甫嵩.卓復上言:「臣掌戎十年,士卒大小,相狎彌久,戀臣畜養之恩,樂為國家奮一旦之命,乞將之州,效力邊陲.」卓再違詔敕,會為何進所召《三国志魏書董二袁劉傳董卓に引く靈帝紀》






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