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196年

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soutoku

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196年

建安元年(漢)

皇帝

劉協(漢献帝)

皇后

伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)

皇太子

(空位)


三公

太傅:空席

太尉:楊彪(前太常・194~196)→(空位)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:張喜(前衛尉・193~196)→曹操(196~209)

その他の要職

録尚書事:
■楊彪(太尉・194~196) →(空位)
■曹操(司隸校尉・196~)

太常:?
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:?
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:?
少府:?


大司馬:張楊(前安国将軍・196~198)
大将軍:?→韓暹(196~)/曹操(196)→袁紹(196~197)
驃騎将軍:張済(195~196)→(死亡)→(空位)
車騎将軍:郭汜(自称・195~197)→楊奉(196~)
行車騎将軍:曹操(196~)
衛将軍:董承


地方官

司隸校尉:?→曹操(鎮東将軍・196~)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備(196) 《三国志蜀書先主伝》
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?(前東郡太守)
荊州牧:劉表(192~208)


主な事件

  • 建安元年春正月癸酉、安邑に於いて上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。建安と改元。《後漢書孝献帝紀》
  • 建安元年春正月、曹操の軍は武平に臨み、袁術が置いた陳相の袁嗣は降伏する。《三国志魏書武帝紀操》
  • 曹操は天子を迎えようと考えたが諸將のある者は疑いを持った。荀彧、程昱は之を勧めた。曹洪を遣わして西迎させたが、將軍の董承と袁術の將である萇奴が強く拒み、曹洪は進むことができなかった。《三国志魏書武帝紀操》
  • 二月、韓暹が衛将軍(?)の董承を攻める。《後漢書孝献帝紀》
  • 二月、曹操は進軍して汝南﹑潁川黃巾の何儀、劉辟、黃邵、何曼等を討ち破る。彼等は各々数万の軍を為し、初めは袁術に呼応し、また後に孫堅に付く。辟、邵等を斬り、儀及其衆は皆降伏した。天子は曹操を建德將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》
  • 夏六月乙未、聞喜に御幸する。《後漢書孝献帝紀》
  • 夏六月、曹操は鎮東將軍となり、費亭侯に封じられ、祖父の爵位を継ぐ。《三国志魏書武帝紀操》
  • 秋七月甲子、車駕は洛陽に至る。故中常侍趙忠の邸に入る。《後漢書孝献帝紀》天子は初め洛陽に至ると、城の西の故中常侍の趙忠宅に御幸する。張楊に宮室を繕治させ、名づけて揚安殿という。八月、帝は遷居する。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝春秋》
  • 秋七月、楊奉、韓暹は天子を守って洛陽に還る。楊奉は別れて梁に駐屯する。曹操は遂に洛陽に至り、韓暹は遁走した。《三国志魏書武帝紀操》
  • 七月丁丑、上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。《後漢書孝献帝紀》
  • 七月己卯、太廟に謁した。《後漢書孝献帝紀》
  • 八月辛丑、南宮の楊安殿に入った。《後漢書孝献帝紀》
  • 八月癸卯,安国将軍張楊を大司馬,韓暹を大将軍,楊奉を車騎将軍と為した。《後漢書孝献帝紀》
    このとき、宮室は焼けたままで、百官は荊棘を開き、垣根や壁の間に依りかかった。州郡は各々強兵を擁して輸送を委ねても至らず、群僚は飢え乏しく、尚書郎以下は自ら出て野の作物を採取した。ある物は垣根や壁の間に飢え死にし、あるいは兵士の殺す所となる。《後漢書孝献帝紀》
  • 八月辛亥,鎮東将軍の曹操が司隸校尉・録尚書事を自ら領した。曹操は侍中の臺崇、尚書の馮碩を殺した。董承を衛将軍に封じ、輔国将軍の伏完ら十三人を列侯と為した,沮儁に弘農太守を追贈した。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操に節鉞を仮し与え、錄尚書事と為す。《三国志魏書武帝紀操》曹操は又司隸校尉を領す。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝紀》
  • 八月庚申、都を許に遷した。《後漢書孝献帝紀》洛陽は無残に破れて見る影もなく、董昭等は曹操に許に遷都するよう勧めた。《三国志魏書武帝紀操》
  • 八月己巳、曹操の営に御幸した。《後漢書孝献帝紀》
  • 九月、太尉楊彪、司空張喜が罷めた。《後漢書孝献帝紀》
  • 九月、車駕は轘轅を出て東進した。曹操は大將軍となり、武平侯に封じられる。天子が西遷してより朝廷は日々乱れ、このとき宗廟社稷の制度が初めて立てられた。《三国志魏書武帝紀操》天子が東遷するにあたり、楊奉は途中遮断しようと欲したが及ばず。《三国志魏書武帝紀操》
  • 冬十月、曹操は楊奉を征伐する。楊奉は南奔し袁術を頼る。遂にその梁の屯営を攻め破る。これにおいて袁紹をもって太尉と為し、袁紹は曹操の下風に立つを恥として受けず。曹操も固辭し、大將軍を袁紹に譲る。《三国志魏書武帝紀操》
  • 冬十一月丙戌、曹操は自ら司空・行車騎将軍と為し、百官を総覧して聴政する。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操を司空と為し、行車騎將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》

  • 是歲、棗祗、韓浩等の議を用い、始ねて屯田を興す。《三国志魏書武帝紀操》是歲、民を募って屯田を許下に興す。穀百萬斛を得る。この後州郡に田官を置くようになる。穀は積まれ、四方に征伐し運糧之勞を厭わずともよくなった。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》
  • 是年、鄭玄は徐州から高密に還った。道すがら黃巾賊數萬人と遭遇したが玄を見て皆拝礼した。相約して賊はあえて縣境に入らなかった。《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》
  • 建安元年、驃騎將軍の張濟は關中から南陽に逃げ込み、穰城を攻めるが飛矢に当たって死んだ。荊州の官吏は皆祝賀を述べに劉表を訪れたが劉表は賀を辞退し人を遣わしてその衆を受け入れるよう知らせた。之を聞いて衆は皆服従した。《後漢書袁紹劉表列傳》張濟は關中から南陽に逃げた。濟は死んだ。從子の張繡が其部曲を領した。《三国志魏書武帝紀操》
  • この年、呂布が劉備を襲い、下邳を奪う。劉備は逃げて曹操の庇護を求め来る。程昱は曹操に說いて「劉備を見るに雄才有り、人心を得ています。終には人の下にいないでしょう。早く圖えておくべきです」曹操は曰わく「今は英雄を求める時だ。一人を殺して天下之心を失うべきではない」。《三国志魏書武帝紀操》



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