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s222年

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soutoku

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222年

章武二年(蜀漢)


皇帝

劉備(漢昭烈帝)

皇后

吳氏

皇太子

劉禅


三公(蜀漢)

丞相:諸葛亮(前軍師将軍)
司徒:許靖(前太傅)→(死去)


その他の要職(蜀漢)

錄尚書事:諸葛亮
太傅:許靖(漢中王時)→
太常:賴恭(漢中王時)
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:王謀(漢中王時)

大将軍:
驃騎将軍:?
車騎将軍:
衛将軍:?


主な事件

  • 章武二年春正月、劉備の軍は秭帰に還る。将軍の呉班、陳式の水軍は夷陵に屯す。《三国志蜀書先主伝》
  • 二月、劉備は秭帰から諸将軍を率いて進軍し、山に沿い嶺を戴いて夷道猇亭に駐屯する。佷山から武陵に通ず。侍中の馬良を遣わして五谿蠻夷を慰撫し、盟を結ぶ。鎮北将軍の黃権は江北諸軍を督し、呉軍と夷陵道に於いて拒みあう。《三国志蜀書先主伝》
  • 夏六月、黃気が秭帰から十余里中に見える。広さ数十丈。十余日の後、陸議は劉備の軍を於猇亭に於いて大いに破る。将軍の馮習﹑張南等は皆沒す。劉備は猇亭から秭帰に還る。離散した兵を収容する。遂に船舶を棄て、よって步いて魚復に還る。魚復県を改めて永安という。呉は将軍の李異﹑劉阿等を遣わして劉備の軍を蹂躙し、南山に駐屯する。《三国志蜀書先主伝》
  • 秋八月、兵を収めて巫に還る。《三国志蜀書先主伝》
  • 八月、司徒の許靖が亡くなる。《三国志蜀書先主伝》
  • 冬十月、詔して丞相の諸葛亮に成都の南北郊を営むよう命じた。孫権は劉備が白帝城にいるのを恐れ、使者を遣わして和を請うた。劉備は之を許す。太中大夫の宗イを遣わして命を報じた。《三国志蜀書先主伝》
  • 冬十二月、漢嘉太守の黃元が劉備の病がよくないと知って、兵を挙げる。《三国志蜀書先主伝》


  • この年、甘夫人を追諡して皇思夫人と為す。甘夫人は当陽長阪の敗戦の際、趙雲の保護を頼り難を免れえたが亡くなり、南郡に葬られた。蜀に改葬されることになり、特別に使者が派遣されたが、劉備が亡くなり、その棺は途上であった。太常の賴恭等が礼記に照らして議し、諡法を勘案して昭烈皇后と宣言した。劉備と恵陵に合葬される。太尉に請うて宗廟に告げる。天下に布告した。《三国志蜀書先主甘后伝》



誕生者




死没者

  • 馮習
  • 張南
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