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223年

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soutoku

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223年

黄初四年(魏)


皇帝

曹丕(魏文帝)

皇后

郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人)

三公(魏)

呉王:孫権

太尉:賈詡→鍾繇
司徒:華歆(前御史大夫)  
司空:王朗(前大理)


その他の要職(魏)

太常:邢貞
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:鍾繇→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大司馬:曹仁(前大將軍)→(死亡)
大将軍:孫権
驃騎将軍:?
車騎将軍:公孫恭(遼東太守)
衛将軍:?


主な事件

  • 四年春正月、詔して曰く「争乱以来、戦争は止まず、相殺し合っている。今海內初めて定まり、復讐するものは皆族殺する。《三国志魏書文帝紀》
  • 宛に南巡台を築く。《三国志魏書文帝紀》
  • 三月丙申、宛から洛陽宮に還る。《三国志魏書文帝紀》
  • 癸卯、月が心の中央の大星を犯す《三国志魏書文帝紀》
  • 丙午の詔勅に曰く「孫権が民と物を害したので、猛将に命じて三道より並征する。征東諸軍(曹休)は孫権の呂範等と水戦を交え、斬首四萬、,捕獲した船一万艘。大司馬(曹仁)は濡須に守り、その捕らえた所は一万を数え、中軍(曹真)、征南(夏侯尚)、は江陵を攻め囲む。左将軍張郃等は船の舳先を真っ直ぐにして渡り、その南渚を撃つ。賊で水溺死者は数千人。地を掘って城を攻め、城の中外は雀鼠も出入出来ない。しかし賊の中に疾病が蔓延し、長江の一帯は汚染された。今江陵の囲むを解く。かつ力役を休め、士民を養い蓄え、安息させる。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 丁未、大司馬の曹仁が薨ず《三国志魏書文帝紀》
  • 三月中、大疫《三国志魏書文帝紀》
  • 夏五月、鵜鶘鳥が靈芝池に集った。詔して曰く「この鳥は君臣が遠く小人が近いと曹詩に謳われている。今賢智之士が下位にいるというのか。広く天下の德茂才を挙げよ」《三国志魏書文帝紀》
  • 五月辛酉、有司は二廟を造るよう奏上した。太皇帝廟を立て、大長秋特進侯と高祖を合祭し、疎遠になれば順次棄却する。特に武皇帝廟を立て、四時に祭祀を行い、魏太祖は永久に毀さず。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 六月甲戌、任城王の曹彰が都に於いて薨ず《三国志魏書文帝紀》
  • 六月甲申、太尉の賈詡が薨ず。太白が昼に見える《三国志魏書文帝紀》
  • 六月中、大雨。伊水、洛水が溢れる。人民を殺し、廬宅を壊す《三国志魏書文帝紀》
  • 七月乙未、大軍が出撃する。太常に特に牛一をもって郊に告祀させる。
    裴松之が言うには、魏では出師の前後に犧牲祭器を具えて告郊之礼を行っていた。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 秋八月丁卯、廷尉の鍾繇を太尉と為す《三国志魏書文帝紀》有司が奏上した。漢氏の宗廟を改めて、安世樂は正世樂に、嘉至樂は曰迎靈樂に、武德樂は武頌樂に、昭容樂は昭業樂に、雲(翻)[翹]舞は鳳翔舞に、育命舞は靈應舞に、武德舞は武頌舞に、文(昭)[始]舞は大(昭)舞に、五行舞は大武舞に《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 八月辛未、滎陽で狩猟を行う。遂東巡し、孫權を征討した際の論功行賞をした。諸將に進爵增戶あり格差があった《三国志魏書文帝紀》
  • 九月甲辰、許昌宮に行幸する《三国志魏書文帝紀》
  • 十二月丙寅、山陽公夫人に湯沐邑を賜う。公女曼を長樂郡公主と為す。食邑各五百戶《三国志魏書文帝紀に引く魏書》

  • 是冬、甘露が芳林園に降る。後に齊王芳が即位した時、華林と改められた《三国志魏書文帝紀に引く魏書》



誕生者




死没者

曹彰:任城王
賈詡
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