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260年

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soutoku

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260年

甘露五年→景元元年(魏)


皇帝

曹髦(魏高貴郷公)→曹奐(字景明・魏常道鄉公)

皇后

卞氏(父は卞隆)→(空位)

皇太子



三公(魏)

太傅:司馬孚(前太尉)

太尉:高柔(前司徒)
司徒:鄭沖(前司空)
司空:(空位)→王觀(前尚書右僕射)→(死亡)→王祥(前司隸校尉)


その他の要職(魏)

錄尚書事:司馬昭(大将軍)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大将軍:司馬昭(大都督を加号)
驃騎将軍:王昶
車騎将軍:孫壹
衛将軍:?


地方官

司隸校尉:王祥→
冀州牧:
幽州牧:
并州牧:
青州牧:
徐州牧:
兌*州牧:
揚州刺史:?
雍州刺史:王経
交州牧:孫壹



主な事件

  • 五年春正月朔,日有蝕之《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 夏四月、詔して、有司が先に命を受けて、また大將軍の司馬昭を相國の位に進める。晉公に封じ、九錫を加える《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 五月己丑、高貴鄉公が卒す,年二十。《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 皇太后が令して曰く、「私の不徳によって、嫡子を作らず、昔東海王の子の曹髦を擁立し明帝の跡を嗣がせた。書疏文章を好むように見えたが成長するに従って情性暴戾が現れ、私は幾度も呵責した。造作は醜逆で、道ならぬ言で私を誣謗した。兩宮は隔絶し聴くに耐えられなかった。私は密かに令して大將軍に語り、宗廟を奉るに相応しくなく社稷を覆すのを畏れる。死んで先帝に見える顔が無い。大將軍はまだ若く善に改心するだろうというのだが、その所行はますます甚しく、弩で私の宮を遥かに射て、矢が私の前に落ちることがあった。私は大將軍に之を廢せずにはいられないと前後數十に渡り語った。しかし、賂遺私の左右の人間を買収し、私が藥を服するのを利用して密かに毒をもらんと周到に計画を立てていた。事が覺露すると、兵を挙げて西宮に入り私を殺さんとした。大將軍が退出すると、侍中の王沈、散騎常侍の王業、尚書の王經を呼び、懷ろより黃素の詔を出して示し、今日まさに実行しようというのだと言った。私は危殆の中にあり累卵の危うさであった。私は老い独り身で、どうして余命を惜しむことがあろうか? ただ先帝の遺意を遂げることが出来ないのを傷む。沈、業はすぐさま大將軍に馳せていって相談し、まず先に警護を厳しくした。帝は左右のものを率いて雲龍門より出て刃を交え、自らも剣を抜いて左右の雑兵と入って来た。前鋒において害され自ら大いなる過ちに落ちる。昔、漢の昌邑王は罪をもって廃され庶人に落ちた。よって民禮をもって葬送するように。內外に令してこの子の所行を知らしめるように。又尚書の王經は凶逆無狀にして逮捕し、家屬は皆廷尉に引き渡せ」《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》帝は権威が去って行く日を思い患っていた。侍中の王沈、尚書の王經、散騎常侍の王業を召して曰わく「司馬昭の心は路人でも知っている。どうして廃位の恥辱を受けられようか。今日、卿等とともに自ら討って出る」王經曰わく「昔魯昭公は季氏に我慢できず結果敗れて國を失い天下の笑い草となりました。今権勢は司馬氏にあり久しくなっています。兵甲は弱く少なく陛下はどうやって用意なさるのですか。一旦事を起こし、病根を除けなければ更に深まることになるでしょう!」帝は懷から版令を地に投げ捨てて「事は決した。まさに死ぬだけだ。何を懼れるか?」 これにおいて太后に知報告し、王沈、王業は奔しって文王に告げる。文王はために備えられた。帝は僮僕數百を率いて軍鼓を鳴らして出で、文王の弟の屯騎校尉は帝と東の止車門で遭遇し左右を叱責した。奔走した。中護軍の賈充は帝と南闕下で戦い、帝は自ら抜劍する。退ぞかんとする。太子舍人の成濟は充に問うて曰わく「事は急です。いかがいたしますか?」充は曰う「汝等を養ってきたのはまさに今日のためだ。今日の事は問わない」濟は即わち帝を刺す。刃は背まで出た。文王は聞いて大いに驚ろき、自ら地に投げ捨て曰った「天下は我を何というだろうか!」太傅の司馬孚は奔ってきて帝を抱き寄せて哭す。「陛下を殺したのは臣の罪です」《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く漢晉春秋》王沈、王業は文王に告げ、尚書の王經は出でず。王沈、王業はその意を理解した《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く世語》王沈、王業は將に出でて王經を呼ぶ。王經は從わず「あなたがたは行きなさい!」《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く晉諸公贊》成濟は賈充に問うて曰わく「事は急です。いかがか?」充は曰う「公が汝等を養ってきたのは今日の事のためだ。何を疑うか!」濟は曰う「畏まりました」そうして刃を犯す《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く干寶晉紀》戊子の夜、帝は自將從僕射李昭、黃門從官焦伯等下陵雲臺,鎧仗授兵,欲因際會,自出討文王.會雨,有司奏卻日,遂見王經等出黃素詔於懷曰:「是可忍也,孰不可忍也!今日便當決行此事.」入白太后,遂拔劍升輦,帥殿中宿蒼頭官僮擊戰鼓,出雲龍門.賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手劍奮擊,莫敢逼.充帥厲將士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩于師.時暴雨雷霆,晦冥.《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く魏氏春秋》賈充は帳下督の成濟を呼んで言う「司馬家が敗れたならば、汝等はどうなるかわかっているのか?どうして出擊しない!」成倅兄弟二人は帳下の人を率いて出で顧みて曰わく「殺しますか?捕らえますか?」と聞いた。充は「殺せ」と言った。交戦すると帝は「武器を棄てろ!」というと、大將軍の兵士は皆武器を棄てた。が成濟兄弟は帝を刺す。帝は車の下に転げ落ちた《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く魏末傳》
  • 庚寅、太傅の司馬孚、大將軍の司馬昭、太尉の高柔、司徒の鄭沖は稽首して言った。「故高貴鄉公は道に逆らって自ら大禍に落ちました。漢の昌邑王が罪を得て廢された故事にならい民禮をもって葬送します。臣等もまた禍亂を救い匡正できませんでした。臣等は伏して申しますに殿下の仁慈を慮って,大義はあると申しましてもなお哀れにして臣等も忍びず、恩を加えて王禮をもって葬送します」太后は之に從った《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 丁卯、高貴鄉公を洛陽の西北三十里瀍澗之濱に葬る。車は數乘以下で旌旐を設けず。百姓は相集まって之を観る。「是は前に殺された天子様だ」或ものは面を覆って泣いた。《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く漢晉春秋》
  • 使持節行中護軍で中壘將軍の司馬炎を遣わして常道鄉公璜を迎えさせ明帝の後を継がせる。《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 癸卯、大將車は相國、晉公、九錫之寵を固く辞退する。太后は詔してその功を明らかにする。《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》
  • 戊申、大將軍の司馬昭は上言し「高貴鄉公は從駕人兵を率いて拔刃し金鼓を鳴らして臣に向かってきました。懼れおおくも兵刃は相接し、將士が傷害するところとなりました。令に違えたものを軍法に照らし、騎督の成倅の弟で太子舍人の濟は公を傷つけ落命させました。濟を捕らえ軍法を行い、臣聞人臣之節,有死無二,事上之義,不敢逃難.前者變故卒至,禍同發機,誠欲委身守死,唯命所裁.然惟本謀乃欲上危皇太后,傾覆宗廟.臣忝當大任,義在安國,懼雖身死,罪責彌重.欲遵伊、周之權,以安社稷之難,即駱驛申,不得迫近輦輿,而濟遽入陳間,以致大變.哀怛痛恨,五內摧裂,不知何地可以隕墜?科律大逆無道,父母妻子同產皆斬.濟凶戾悖逆,干國亂紀,罪不容誅.輒侍御史收濟家屬,付廷尉,結正其罪.」[一]太后詔曰:「夫五刑之罪,莫大於不孝.夫人有子不孝,尚告治之,此兒豈復成人主邪?吾婦人不達大義,以謂濟不得便為大逆也.然大將軍志意懇切,發言惻愴,故聽如所奏.當班下遠近,使知本末也《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》成濟兄弟は不即伏罪,袒而升屋,醜言悖慢;自下射之,乃殪《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦に引く魏氏春秋》
  • 六月癸丑、詔して曰わく「古の人君の名は字を為すに、犯し難い諱に変えたものだ。今、常道鄉公の諱字は甚だ避けにくい。朝臣は博く議論し奏上せよ」《三国志魏書三少帝紀高貴鄉公髦》


  • 六月甲寅、洛陽に入り皇太后に会う。即日太極前殿において皇帝位を継ぐ。大赦。年を改める。民に爵位と穀帛を賜い格差があった。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 景元元年夏六月丙辰、大将軍の司馬師の位を進めて相国と為す。晋公に封ず。二郡を加封し前のと合せて十に満つ。九錫之礼を加える。詔に曰く諸族從子弟で未だ侯に無いものを皆亭侯に封じ、錢千萬、帛萬匹を賜う。司馬師は固く讓り沙汰止みとなる《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 己未,故漢献帝夫人節が薨ず。帝は華林園に臨み、使者に節を持たせ夫人を献穆皇后と追諡する。葬礼車服の制度は皆漢氏の故事に則った。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 癸亥、尚書右僕射の王觀を司空と為す。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 冬十月、王觀が薨ず《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十一月、燕王(曹奐の父)が冬至の賀を上表し、臣と称す。詔曰:「古之王者,或有所不臣,王將宜依此義.表不稱臣乎!又當為報.夫後大宗者,降其私親,況所繼者重邪!若便同之臣妾,亦情所未安.其皆依禮典處,當務盡其宜.」有司奏,以為「禮莫崇于尊祖,制莫大于正典.陛下稽德期運,撫臨萬國,紹大宗之重,隆三祖之基.伏惟燕王體尊戚屬,正位藩服,躬秉虔肅,率蹈恭德以先萬國;其于正典,闡濟大順,所不得制.聖朝誠宜崇以非常之制,奉以不臣之禮.臣等平議以為燕王章表,可聽如舊式.中詔所施,或存好問,準之義類,則『(宴)[燕]覿之(族)[敬]』也,可少順聖敬,加崇儀稱,示不敢斥,宜曰『皇帝敬問大王侍御』.至于制書,國之正典,朝廷所以辨章公制,宣昭軌儀于天下者也,宜循法,故曰『制詔燕王』.凡詔命、制書、奏事、上書諸稱燕王者,可皆上平.其非宗廟助祭之事,皆不得稱王名,奏事、上書、文書及吏民皆不得觸王諱,以彰殊禮,加于后.上遵王典尊祖之制,俯順聖敬烝烝之心,二者不愆,禮實宜之,可普告施行《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 十二月甲申、黃龍が華陰縣の井戸の中に観られた。《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》
  • 甲午、司隸校尉の王祥を司空と為す《三国志魏書三少帝紀陳留王奐》



誕生者




死没者

曹節:献穆皇后。曹操の娘。献帝の皇后。
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