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256年

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soutoku

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256年

正元三年→甘露元年(魏)


皇帝

曹髦(魏高貴郷公)

皇后

卞氏(父は卞隆)

皇太子



三公(魏)

太傅:→司馬孚(前太尉)

太尉:司馬孚→高柔(前司徒)
司徒:高柔→鄭沖(前司空)
司空:鄭沖→盧毓(前尚書左僕射)


その他の要職(魏)

錄尚書事:司馬昭(大将軍)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→


大将軍:司馬昭(大都督を加号)
驃騎将軍:王昶
車騎将軍:?
衛将軍:胡遵→(死去)



地方官

雍州刺史:王経


主な事件

  • 甘露元年春正月辛丑、青龍が軹縣の井戸の中に見られた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 正月乙巳、沛王の曹林が薨ず。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 二月丙辰、帝は太極東堂で宴を開き、侍中荀顗、尚書の崔贊、袁亮、鍾毓、給事中中書令の虞松等と禮典を講述し、帝王の優劣之差について問うた。帝は夏の少康を慕っていた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く魏氏春秋》
  • 二月丁巳、曹髦は講義が終わってから侍中荀顗、尚書の袁亮等と議した。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く魏氏春秋》
  • 夏四月庚戌、大將軍の司馬昭は兗冕の服、赤舄の副を賜う。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 四月丙辰、帝は太學に詣で、諸儒に問うた。易博士の淳于俊が対して答えた。問答をし淳于俊が答えられないものもあった。易についての講義が終わって、また尚書に講義するよう命じて帝は問うた。博士の庾峻が答え、問答となった。また礼記についても質問がされ、博士の馬照が答えた。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》。帝は常に中護軍の司馬望、侍中の王沈、散騎常侍の裴秀、黃門侍郎の鍾會等と東堂で講宴し文論を戦わせた。裴秀を儒林丈人、王沈を文籍先生と呼び、司馬望、鍾會もまた各々名號があった。帝はせっかちで、お召しの際は速くと急かした。裴秀等は內職で問題なかったが、時に司馬望は外にあり、特別に追鋒車を与えた。虎賁卒五人が集會のたびに走り回った。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦に引く傅暢の晉諸公贊》
  • 正元三年五月、鄴及び上谷、上洛で並んで甘露が降ったと上表があった。《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 夏六月丙午、甘露と改元する《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 六月乙丑、青龍が元城県の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 秋七月己卯、衛将軍の胡遵が薨ず《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 七月癸未,安西将軍の鄧艾が蜀の姜維を上邽に大いに破る。詔を出して大いに祝す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 八月庚午、大将軍の司馬昭に大都督の号を加え、奏事不名を許し、假黃鉞を与えた《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 八月癸酉、太尉の司馬孚を太傅と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 九月、司徒の高柔を太尉と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》
  • 冬十月、司空の鄭沖を司徒、尚書左僕射の盧毓を司空と為す《三国志魏書三少帝紀高貴郷公髦》




誕生者




死没者

  • 胡遵(衛将軍)
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