「三国志」 @Wiki
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ja
2010-05-20T00:54:20+09:00
1274284460
-
209年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/61.html
*209年
**建安十四年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**三公(漢)
太傅:空席
丞相:曹操(前司空・209~220)
御史大夫:郗慮(前光禄勳)
太尉:空席→廃止
司徒:趙温(前衛尉・~209)→空席→廃止
司空:曹操(~209)→廃止
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大将軍:?
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
衛将軍:?
**地方官
冀州牧:曹操
----
*主な事件
-建安十四年冬十月、荊州で地震。《後漢書孝献帝紀》
----
*誕生者
*死没者
-伏完:伏皇后の父。建安元年輔國將軍・儀比三司。自ら外戚の権力を嫌い印綬を返上中散大夫を拝す。屯騎校尉。十四年卒。子の伏典が嗣ぐ。《後漢書皇后紀獻帝伏皇后》
2010-05-20T00:54:20+09:00
1274284460
-
220年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/72.html
*220年
**建安二十五年→延康元年(漢)/黄初元年(魏)
**皇帝
劉協(漢献帝)→廃位(山陽公)
曹丕(魏文帝)
**皇后
曹節(曹操の娘)→廃位
**三公(漢)
魏王:曹操→曹丕→(空位)
|漢|魏|
|丞相:曹操→曹丕→(空位)| |
|相國:華歆(前御史大夫)| |
|御史大夫:華歆→王朗(前大理)/張音| |
|太尉:賈[言羽](前大中大夫)| |
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大将軍:夏侯惇(前前将軍・220)→(死去)
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
衛将軍:?
**地方官
荊州牧:孫権
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*主な事件
-建安二十五年春正月庚子(1月23日),魏王の曹操が薨去した。曹操の子の曹丕が御位を継いだ。《後漢書孝献帝紀》使持節御史大夫の華歆は丞相の印綬、魏王の璽紱を奉って曹丕に授けた。卞王后を尊んで王太后とした。《三国志魏書文帝紀》&br()魏志に曰く曹操は享年66歳。
-二月丁未朔(2月1日)、日食があった。《後漢書孝献帝紀》
-二月已卯,前将軍の夏侯惇を大将軍と為す。濊貊、扶餘の単于、焉耆、于闐の王が皆奉獻の使者が来る《三国志魏書文帝紀》
-二月丙戌、史官は重、黎、羲、和の職務を修め、欽若昊天、歷象日月星辰をもって天を奉る時、奏上するよう命じた。《三国志魏書文帝紀》
-二月丁亥、故尚書僕射の毛玠、奉常の王脩、涼茂、郎中令の袁渙、少府の謝奐、万潜、中尉の徐奕、国淵等は、皆朝廷に忠直で仁義を踏履したが、早くに世を去った。子孫を愍み、その男子を皆郎中と為す《三国志魏書文帝紀》
-二月壬戌(2月16日)、大中大夫の賈[言羽]を太尉に、御史大夫の華歆を相國に、大理の王朗を御史大夫とする。散騎常侍、侍郎を各四人置く。宦人は諸署令を過ぎる官を得られないとし、金策に著すよう令し、石室に蔵した《三国志魏書文帝紀》
-三月、改元し、延康と為す。《後漢書孝献帝紀》
-三月庚戌、魏書の庚戌の令に言う、関所、津は通商の為にあり、池苑は災荒から守るためにある。重税を設けるのを禁ずる。民の便にならないためである。また池に網を張るのを禁じるのを除く。関所、津の税を軽くし、皆10分の一に戻せ。《三国志魏書文帝紀》
-三月辛亥、諸侯王、將相に粟萬斛、帛千匹を下賜する。金銀には各々格差があった。使者郡國に使者を循行させ、道理に反して暴虐を働く者のその罪を挙げよ《三国志魏書文帝紀》
-夏四月丁巳、饒安県で白い雉を見たと言い伝わった。&br()注に引く魏書に曰く饒安県は田租を、勃海郡の百戶に牛酒を賜り、大いに三日の間宴を催した。太常は宗廟に太牢を祀った《三国志魏書文帝紀》
-四月庚午(4月25日)、大将軍夏侯惇が薨ず《三国志魏書文帝紀》王は素服を着て[業β]の東城門に御幸し、發哀した《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
-五月戊寅(5月3日)、献帝は王に皇祖の太尉(曹嵩)を太王とし、夫人の丁氏を太王后と追尊するよう命じた。王子の曹叡を武德侯に封じた。《三国志魏書文帝紀》侍中の鄭称を武德侯の傅と為す《三国志魏書文帝紀に引く魏略》曹叡はこのとき年十五《三国志魏書明帝紀》
-五月、馮翊の山賊鄭甘と王照が降伏し、皆列侯に封じられた。《三国志魏書文帝紀》
-酒泉の黃華、張掖の張進等が各々太守を殺し叛く。金城太守の蘇則が討伐し、張進を斬り、黃華(後に兌*州刺史となる)を降す。《三国志魏書文帝紀》
-六月辛亥(6月7日)、東郊に兵を集合させる。《三国志魏書文帝紀》
-六月庚午(6月26日)、遂に南征に動く。《三国志魏書文帝紀》王が出征の際、度支中郎將で新平の霍性が上疏して諫めた。上疏を見た曹丕は怒って之を殺す。しかし後で悔やんで追わせたが及ばなかった。《三国志魏書文帝紀に引く魏略》
-秋七月庚辰(7月6日)、令して「百官有司はその職務に務め規範に則って諫め、将軍は陳軍法を詳らかにし、朝廷の士は制度を明らかにし、牧太守は政事について申し述べ、学者は六藝を考察せよ。私は兼覽するだろう」。《三国志魏書文帝紀》
-孫権が奉獻の使者を遣わし、蜀の将軍の孟達は兵を率いて降伏してきたので新城太守を領させた。武都の氐の王の楊僕が人民を率いて内属し漢陽郡に居した。《三国志魏書文帝紀》
-七月甲午(7月20日)、軍は[言焦]に宿営し、六軍及[言焦]の父老・百姓は邑の東で大いに饗宴する。令して[言焦]は霸王の邦にして真人を出だした。[言焦]の租稅を二年免じる。三老吏民は寿ぎ、日が暮れて止んだ。《三国志魏書文帝紀》
-七月丙申(7月22日)、魏王は親しく[言焦]陵を祀った。《三国志魏書文帝紀》
-八月、石邑県で鳳皇が集ったと報告があった。《三国志魏書文帝紀》
-冬十月癸卯、令して曰く「諸將の征伐に従軍し士卒の死亡者でいまだ収容されていないのを甚だ哀しむ。よってその郡国に告げ、小棺を支給し収め弔い、家に送って官は祀りを設けるように。」《三国志魏書文帝紀》
-丙午、行軍は曲リに至った。《三国志魏書文帝紀》
-冬十月乙卯、皇帝の劉協は遜位し、魏王の曹丕が天子となった。劉協を奉って山陽公と為し、邑一万戸、位は諸侯王の上にあり、奏上の際には臣と称さずともよく、受詔の際の拝せずともよい、また天子の車服、天地を祀ることを許され,宗廟、祖、臘はすべて漢制の如くであった。都は山陽の濁鹿城である。王に封じられていた四皇子は、皆降って列侯と為す。《後漢書孝献帝紀》公卿士人を召して、高廟を祀って告げ、兼御史大夫張音に璽綬を奉らせ冊をもって禅位を告げさせた。繁陽に壇を築き、庚午、曹丕は壇に登って帝位を受けた。百官は陪席した。延康を黃初と改元した。大赦を下した。《三国志魏書文帝紀》[[特集:禅譲>漢魏革命]]
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*誕生者
*死没者
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[[219年<<>219年]] [[>>221年>221年]]
2010-05-20T00:47:46+09:00
1274284066
-
196年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/47.html
*196年
**建安元年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公
太傅:空席
太尉:楊彪(前太常・194~196)→(空位)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:張喜(前衛尉・193~196)→曹操(196~209)
**その他の要職
録尚書事:
■楊彪(太尉・194~196) →(空位)
■曹操(司隸校尉・196~)
太常:?
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:?
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:?
少府:?
大司馬:張楊(前安国将軍・196~198)
大将軍:?→韓暹(196~)/曹操(196)→袁紹(196~197)
驃騎将軍:張済(195~196)→(死亡)→(空位)
車騎将軍:郭汜(自称・195~197)→楊奉(196~)
行車騎将軍:曹操(196~)
衛将軍:董承
**地方官
司隸校尉:?→曹操(鎮東将軍・196~)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備(196) 《三国志蜀書先主伝》
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?(前東郡太守)
荊州牧:劉表(192~208)
----
*主な事件
-建安元年春正月癸酉、安邑に於いて上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。建安と改元。《後漢書孝献帝紀》
-建安元年春正月、曹操の軍は武平に臨み、袁術が置いた陳相の袁嗣は降伏する。《三国志魏書武帝紀操》
-曹操は天子を迎えようと考えたが諸將のある者は疑いを持った。荀彧、程昱は之を勧めた。曹洪を遣わして西迎させたが、將軍の董承と袁術の將である萇奴が強く拒み、曹洪は進むことができなかった。《三国志魏書武帝紀操》
-二月、韓暹が衛将軍(?)の董承を攻める。《後漢書孝献帝紀》
-二月、曹操は進軍して汝南﹑潁川黃巾の何儀、劉辟、黃邵、何曼等を討ち破る。彼等は各々数万の軍を為し、初めは袁術に呼応し、また後に孫堅に付く。辟、邵等を斬り、儀及其衆は皆降伏した。天子は曹操を建德將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》
-夏六月乙未、聞喜に御幸する。《後漢書孝献帝紀》
-夏六月、曹操は鎮東將軍となり、費亭侯に封じられ、祖父の爵位を継ぐ。《三国志魏書武帝紀操》
-秋七月甲子、車駕は洛陽に至る。故中常侍趙忠の邸に入る。《後漢書孝献帝紀》天子は初め洛陽に至ると、城の西の故中常侍の趙忠宅に御幸する。張楊に宮室を繕治させ、名づけて揚安殿という。八月、帝は遷居する。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝春秋》
-秋七月、楊奉、韓暹は天子を守って洛陽に還る。楊奉は別れて梁に駐屯する。曹操は遂に洛陽に至り、韓暹は遁走した。《三国志魏書武帝紀操》
-七月丁丑、上帝に郊祀を祭り、天下に大赦する。《後漢書孝献帝紀》
-七月己卯、太廟に謁した。《後漢書孝献帝紀》
-八月辛丑、南宮の楊安殿に入った。《後漢書孝献帝紀》
-八月癸卯,安国将軍張楊を大司馬,韓暹を大将軍,楊奉を車騎将軍と為した。《後漢書孝献帝紀》&br()このとき、宮室は焼けたままで、百官は荊棘を開き、垣根や壁の間に依りかかった。州郡は各々強兵を擁して輸送を委ねても至らず、群僚は飢え乏しく、尚書郎以下は自ら出て野の作物を採取した。ある物は垣根や壁の間に飢え死にし、あるいは兵士の殺す所となる。《後漢書孝献帝紀》
-八月辛亥,鎮東将軍の曹操が司隸校尉・録尚書事を自ら領した。曹操は侍中の臺崇、尚書の馮碩を殺した。董承を衛将軍に封じ、輔国将軍の伏完ら十三人を列侯と為した,沮儁に弘農太守を追贈した。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操に節鉞を仮し与え、錄尚書事と為す。《三国志魏書武帝紀操》曹操は又司隸校尉を領す。《三国志魏書武帝紀操に引く獻帝紀》
-八月庚申、都を許に遷した。《後漢書孝献帝紀》洛陽は無残に破れて見る影もなく、董昭等は曹操に許に遷都するよう勧めた。《三国志魏書武帝紀操》
-八月己巳、曹操の営に御幸した。《後漢書孝献帝紀》
-九月、太尉楊彪、司空張喜が罷めた。《後漢書孝献帝紀》
-九月、車駕は轘轅を出て東進した。曹操は大將軍となり、武平侯に封じられる。天子が西遷してより朝廷は日々乱れ、このとき宗廟社稷の制度が初めて立てられた。《三国志魏書武帝紀操》天子が東遷するにあたり、楊奉は途中遮断しようと欲したが及ばず。《三国志魏書武帝紀操》
-冬十月、曹操は楊奉を征伐する。楊奉は南奔し袁術を頼る。遂にその梁の屯営を攻め破る。これにおいて袁紹をもって太尉と為し、袁紹は曹操の下風に立つを恥として受けず。曹操も固辭し、大將軍を袁紹に譲る。《三国志魏書武帝紀操》
-冬十一月丙戌、曹操は自ら司空・行車騎将軍と為し、百官を総覧して聴政する。《後漢書孝献帝紀》天子は曹操を司空と為し、行車騎將軍と為す《三国志魏書武帝紀操》
-是歲、棗祗、韓浩等の議を用い、始ねて屯田を興す。《三国志魏書武帝紀操》是歲、民を募って屯田を許下に興す。穀百萬斛を得る。この後州郡に田官を置くようになる。穀は積まれ、四方に征伐し運糧之勞を厭わずともよくなった。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》
-是年、[[鄭玄>注釈#5]]は徐州から高密に還った。道すがら黃巾賊數萬人と遭遇したが玄を見て皆拝礼した。相約して賊はあえて縣境に入らなかった。《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》
-建安元年、驃騎將軍の張濟は關中から南陽に逃げ込み、穰城を攻めるが飛矢に当たって死んだ。荊州の官吏は皆祝賀を述べに劉表を訪れたが劉表は賀を辞退し人を遣わしてその衆を受け入れるよう知らせた。之を聞いて衆は皆服従した。《後漢書袁紹劉表列傳》張濟は關中から南陽に逃げた。濟は死んだ。從子の張繡が其部曲を領した。《三国志魏書武帝紀操》
-この年、呂布が劉備を襲い、下邳を奪う。劉備は逃げて曹操の庇護を求め来る。程昱は曹操に說いて「劉備を見るに雄才有り、人心を得ています。終には人の下にいないでしょう。早く圖えておくべきです」曹操は曰わく「今は英雄を求める時だ。一人を殺して天下之心を失うべきではない」。《三国志魏書武帝紀操》
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*誕生者
*死没者
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[[195年<<>195年]] [[>>197年>197年]]
2010-05-19T12:51:17+09:00
1274241077
-
197年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/48.html
*197年
**建安二年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
袁術(仲皇帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操(196~209)
**その他の要職(漢)
録尚書事:
■曹操(司隸校尉・196~?)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:張楊(前安国将軍・196~198)
大将軍:韓暹?/袁紹(自称・197~202)
驃騎将軍:?
車騎将軍:楊奉(196~)
行車騎将軍:曹操?
衛将軍:董承
**地方官
司隸校尉:曹操(司空・行車騎将軍・196~)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:?
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?(前東郡太守)
荊州牧:劉表(192~208)
----
*主な事件
-二年春正月、曹操は宛に至り、張繡は降伏するが後悔し、復反く。曹操は戰って敗れ流矢にあたる。長子曹昂、弟の子である曹安民は害に遭う。曹操は兵を引き舞陰に還る。張繡は騎兵を率いて来攻するが擊破される。張繡は穰に走り劉表と合流した。曹操は諸將に私は張繡等が降伏したとき人質を取らなかったばかりに失敗した。私は敗因を知った。諸卿見ていてくれ。今後また敗れることはないだろう」遂に許へ還る。《三国志魏書武帝紀操》 曹操の乘馬は絕影という。流矢にあたって頰及足に傷を負う。また曹操も右臂を傷つく。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》曹昂は騎馬に乗れなくなり馬を曹操に進呈する。曹操は故に免れた。曹昂は害される。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》舊制では三公が兵を領し謁見する際は、皆首の前で戟を交えた。曹操が張繡を討つため天子に謁見した時復古された。曹操は以後朝見することはなかった。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》
-曹操が舞陰から還えると、南陽、章陵の諸縣はまた張繡について離反した。曹操は曹洪を遣わして擊つも利あらず、葉に還り駐屯する。張繡と劉表は数度侵略してきた。《三国志魏書武帝紀操》
-建安二年春、袁術が自ら天子を称する。《後漢書孝献帝紀》袁術は淮南で稱帝する。人を遣わして呂布に告げたが呂布は使者を捕らえて其書を上奏した。術は怒り布を攻める。布は破れる。《三国志魏書武帝紀操》
-三月、袁紹は自ら大将軍と為す。[[#2]]《後漢書孝献帝紀》
-夏五月、蝗。《後漢書孝献帝紀》
-秋九月、漢水が溢れる《後漢書孝献帝紀》
-秋九月、袁術は陳に侵入し、曹操は東征する。袁術は曹操自らが来たと聞いて軍を棄てて逃走する。其將である橋蕤、李豊、梁綱、樂就を留める。曹操は蕤等を撃破し皆斬る。袁術は淮河を渡って逃げ、曹操は許に帰還する。《三国志魏書武帝紀操》袁術は陳王劉寵を殺す。[[#1]]《後漢書孝献帝紀》
-冬十一月、曹操は自ら南征し宛に至る。劉表の將である鄧濟は湖陽に拠っていたが之を攻め破る。鄧濟を生け捕る。湖陽は降伏した。舞陰を攻め、之を下す。《三国志魏書武帝紀操》淯水に臨み、亡き將士を祭る。流涕し、皆感慟。《三国志魏書武帝紀操に引く魏書》
-この歳、飢饉。江淮の間に民相食う惨状。孫策が使いを遣わし奉献する《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
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**注
******&aname(1)袁術は陳に侵入した際、陳王劉寵を殺したものと思われる。
******&aname(2)この前年、三国志魏書武帝紀には十月頃曹操が大將軍を袁紹に譲った記述がある。詳細は不明。
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[[196年<<>196年]] [[>>198年>198年]]
2010-05-19T12:46:30+09:00
1274240790
-
201年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/53.html
*201年
**建安六年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:空席
大将軍:韓暹/袁紹(自称・197~202)
驃騎将軍:?
車騎将軍:楊奉
行車騎将軍:曹操
衛将軍:
**地方官
司隸校尉:曹操?(行車騎将軍)
守司隸校尉:鍾繇(侍中)《三国志魏書鍾繇伝》
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~201)
----
*主な事件
-建安六年春二月、丁卯朔、日食。《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
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[[200年<<>200年]] [[>>202年>202年]]
2010-05-19T12:40:20+09:00
1274240420
-
199年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/51.html
*199年
**建安四年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
袁術(仲皇帝)→滅亡
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操(196~209)
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:空席
大将軍:袁紹(自称・197~202)
驃騎将軍:?
車騎将軍:楊奉/→董承
行車騎将軍:曹操
衛将軍:董承→
**地方官
司隸校尉:曹操(行車騎将軍)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~208)
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*主な事件
-建安四年春三月、袁紹は公孫讃*を易京に於いて攻め之を捕らえる。《後漢書孝献帝紀》
-衛将軍の董承を車騎将軍と為す。《後漢書孝献帝紀》
-夏六月、袁術が死ぬ。《後漢書孝献帝紀》
-是歳、初めて尚書に左右僕射を置く。《後漢書孝献帝紀》
-是歳、武陵の女子が死んで14日後に復活した。《後漢書孝献帝紀》続漢書によればこの女子は李蛾という六十余歳で死んで城外に葬られた。通行人が塚中から声がすうのを聞いて家人に告げてわかった。
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*誕生者
*死没者
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[[198年<<>198年]] [[>>200年>200年]]
2010-05-18T12:49:10+09:00
1274154550
-
200年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/52.html
*200年
**建安五年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操(196~209)
**その他の要職(漢)
太常:?
光禄勳:?
衛尉:?
太僕:?
廷尉:?
大鴻臚:?
宗正:?
大司農:?
少府:?
大司馬:空席
大将軍:韓暹/袁紹(自称・197~202)
驃騎将軍:張済
車騎将軍:楊奉/董承→死亡
行車騎将軍:曹操
衛将軍:
**地方官
司隸校尉:曹操(行車騎将軍)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:袁紹(191~202)
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~208)
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*主な事件
-建安五年春正月、車騎将軍の董承、偏将軍の王服、越騎校尉の[禾中]輯は曹操を誅す密詔を受けるも事漏れ、壬午、曹操は董承らを殺す。三族皆殺す。《後漢書孝献帝紀》
-六月、鄭玄は元城縣に至って危篤となり進めず卒す。年七十四。遺令に従って薄葬する《後漢書張曹鄭列傳鄭玄》
-秋七月、皇子劉馮を立てて、南陽王と為す。《後漢書孝献帝紀》
-七月壬午、南陽王劉馮薨じる。《後漢書孝献帝紀》
-九月庚午朔、日食有り。詔して三公は至孝のもの二人を挙げ、九卿・校尉・郡国守相は各一人挙げさせた。皆封書して上表した。《後漢書孝献帝紀》
-曹操は袁紹と官渡に於いて戦い、袁紹敗走する。《後漢書孝献帝紀》
-冬十月辛亥、大梁に流れ星が有った。《後漢書孝献帝紀》
-東海王劉祗が薨する。《後漢書孝献帝紀》
-是歳、孫策死ぬ。《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
董承(車騎将軍・誅殺・建安五年1月9日)
王服(偏将軍・誅殺・建安五年1月9日)
[禾中]輯(越騎校尉・誅殺・建安五年1月9日)
劉馮(南陽王・建安五年7月12日)
鄭玄:
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**注
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[[199年<<>199年]] [[>>201年>201年]]
2010-05-18T12:48:48+09:00
1274154528
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202年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/54.html
*202年
**建安七年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:空席
大将軍:韓暹/袁紹(自称・197~202)→(死亡)
驃騎将軍:?
車騎将軍:楊奉
行車騎将軍:曹操
衛将軍:
**地方官
司隸校尉:曹操(行車騎将軍)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:袁紹(191~202)→(死亡)
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~208)
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*主な事件
-建安七年夏五月庚戌(21日)、袁紹薨じる。《後漢書孝献帝紀》
-于窴国([[ホータン王国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD]])から人に随う馴れた象が貢献される。《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
袁紹(大将軍・建安7年5月21日)
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[[201年<<>201年]] [[>>203年>203年]]
2010-05-18T12:48:02+09:00
1274154482
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203年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/55.html
*203年
**建安八年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:(空位)
大将軍:
驃騎将軍:
車騎将軍:楊奉
行車騎将軍:曹操?
衛将軍:
**地方官
司隸校尉:曹操(行車騎将軍)
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:?
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~208)
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*主な事件
-建安八年冬十月己巳、公卿は初めて北郊に冬を迎え、総章(楽官名)が始められ八列舞を備える。《後漢書孝献帝紀》
-初めて司直官、督中都官を置く。《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
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[[202年<<>202年]] [[>>204年>204年]]
2010-05-18T12:47:30+09:00
1274154450
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204年
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/56.html
*204年
**建安九年(漢)
**皇帝
劉協(漢献帝)
**皇后
伏寿(琅邪郡東武県・父の伏完は不其侯、桓帝の娘陽安公主を娶る)
**皇太子
(空位)
**三公(漢)
太傅:(空席)
太尉:(空席)
司徒:趙温(前衛尉・194~208)
司空:曹操
**その他の要職(漢)
太常:
光禄勳:→
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→
大司馬:(空位)
大将軍:?
驃騎将軍:?
車騎将軍:?
行車騎将軍:曹操?
衛将軍:
**地方官
司隸校尉:?
豫州刺史:郭貢?
河南尹:駱業?
徐州牧:劉備?
冀州牧:? →曹操
兗州牧:曹操?
荊州牧:劉表(192~208)
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*主な事件
-建安九年秋八月戊寅、曹操は袁尚を大いに破り、冀州を平定した。自ら冀州牧を領した。《後漢書孝献帝紀》
-冬十月、東井に流れ星が有った。《後漢書孝献帝紀》
-十二月、三公より以下金帛の下賜があり、それぞれ格差があった。これより三年に一度下賜があるのが常制になった。《後漢書孝献帝紀》
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*誕生者
*死没者
2010-05-18T12:46:56+09:00
1274154416