或る非日常2

 あれから、各々で背中合わせで自分の身体を洗った。
 その間、どちらも無言で、ただただ作業をお互いにこなすという形だった。
 
 ひと通り、お互いが洗い終えたらどちらかが言うでもなく共に湯船に浸かった。
 背中合わせでの形でだ。
 
「……もう少し、足を曲げられねえか?」
「無理。我慢して」

 流石に背中合わせで一緒に入るのは狭い。何とか浸かれたが体育座りの形で小さくなる必要がある。
 なら一緒に入らなければいい訳だが、何故か一緒に入っている。
 
 正直俺は入る気がなくて、さっさとあがろうと思っていたんだけどな。
 
 俺が身体を洗ってる間に、先に身体を洗い終えた桐乃が湯船につかり。
 そして身体を洗い終わり、立ち上がったところで、桐乃が俺に湯船に入ると思ったのだろう。
 身体を前にずらし、一人分が入れそうなスペースを空けた。
 
 特に出る訳でもなく、ただ無言でスペースを空ける桐乃の行動に、一緒に入るという選択肢を突きつけられて、こうして一緒に入る事にした。
 背中合わせなのは……何となく最後の抵抗だった。
 
 何に対しての抵抗だったのかは分からない。ただ、殆ど全裸で、桐乃の方を向いて入る気にはなれなかった。
 俺の海綿体はこれでもかってぐらい膨張をした侭、収まらないというのもある。

 ……いいや、何に対して抵抗なのかは分かってるな。
 桐乃の方を向いて入ったら、とても我慢が出来る気がしなかったからだ。
 しかし、俺は決して襲いたい訳じゃない。
 兄妹の関係を大事にしたかった。ここで襲ってしまっては、大事に育ててきた兄妹の関係をまた壊してしまう事が分かっていた。
 
 だから、兄として男の俺に対する抵抗。
 それがこの背中合わせだった。
 
 …………。
 こうやって桐乃と風呂に入るのは最後だろうな。
 そう思うと、こんな形でお互い無言に過ごしてしまう事が、とても勿体無く思えてしまう。
 しかしこの結果にしてしまったのは自分だ。
 桐乃を異性として見てしまっているこの駄目な兄貴が悪かったのだ。
 
 いつから、異性として桐乃を見るようになったのだろう。
 ラブホに一緒に行った時だろうか。
 それとも海外に行ってしまった時からだろうか。
 お互いが無視しあってたあの頃からだろうか。
 ……それとも初めからか。
 
「……ねえ?」
「……なんだ?」

 そんな思考に没頭している俺に、桐乃が話しかけてくる。
 
「……ごめん」

 そう、桐乃が謝罪をした。
 何に対しての謝罪なのか、まるで分からなかった。

「謝るのは俺の方だ。……悪かった」

 だからそうやって返す。すると桐乃は静かにうん、と答えた。
 
 そうして、幾らかの会話をこなし、最後の兄妹風呂は終わりを迎えた。
 
 
 それから、風呂を出て、桐乃に服を着せる段階になって、ある事に気付いた。

 ……桐乃がパンツ履いたままだと、新しいパンツ履かせられなくね?

 流石に濡れたパンツの上から新しいパンツを履かせるのは苦行過ぎるだろう。
 桐乃もその事に気付いたのか、無言で替えのパンツを見ている。
 
「……ねえ、悪いけど脱がせて貰えない?」

 桐乃がそう言ってきたのを断れる筈も無かった。
 
 しかし、正直にいってこれはヤバい葛藤を心の中に生んでいた。
 桐乃に背中を向いて貰って、俺は桐乃のパンツに手を掛ける。
 水で濡れていて、桐乃のおしりがくっきりと見える形になっている。
 
 更に、少しだけ大事な部分にも張り付いていて、輪郭が見える状態になっていた。
 
 ……これを意識するなって方が無理だろ。
 
 出来る限り目を逸らしながらも、しかしパンツを脱がす力を込めていく。
 肌に張り付いた下着というのは中々どうして、簡単には脱がせなかった。
 大体なんで女のパンツってのはこんなに小さいのかと。

 それでも何とかしてピンクの下着を脱がしていく。
 そうすると生のおしりが目の前に見えてくる訳で。
 目を逸らしたり、目を瞑ったりと、色々と抵抗をしながらも脱がしていく。

 見ないようにするのが大変だった。
 物理的じゃなく、精神的に。
 見たくない筈がなかったからだ。
 正直、この葛藤で死ねると思いながら、俺は驚異的な精神力で見る事なく、パンツを脱がした。
 
 やりきった達成感があった。
 男として後悔する部分も多々あったが、しかし兄としては満足だった。

「……脱がしたぞ」

 背中を向けてそう言ってやる。

「……うん」

 桐乃がそう応えて、タオルで身体を拭く。
 これでようやく一息入れられると思いながら、自分の身体を拭き、さっき脱いだ下着を履いていく。

 一度脱いだ下着をもう一度履くって、なんだかすげえ抵抗があるよな。
 正直、近くにコンビニがあったら下着を買いに走りたいぐらいだ。
 だが生憎として近くにコンビニがありそうな場所ではなかった。
 
 あれ? 履く?
 
 俺がそれに気づいたのと同時に、桐乃から声を掛けられた。
 
「……あの、履かせて」

 …………。
 今まで妹から出された要望の中で、これは最大級の難易度じゃないだろうか。
 さっきのおっぱいを洗うのも中々の難易度だったが、なんだろう。
 おっぱいを触る、というのと、こうしてパンツを履かせるというのは質が違う。
 
 何故なら、パンツを履かせるというのは脱がせる以上に、見なくちゃいけないからだ。
 手を引っ掛けて引き下ろすのとは違う。

「……分かった」

 それでも断る訳にはいかない。今は俺しかここに居ないのだ。
 改めて桐乃へと向き直る。
 
 湯上りで、全身を本来の色合いより赤く染めている桐乃の裸体。
 全裸だった。
 せめて上半身だけ着させるべきだったが、今更遅い。
 なんせ着せるのは俺だ。下半身裸の桐乃に上を着せるなんて、難易度高いってもんじゃない。
 
 そういう意味では、難易度的にまずは下から責めるのがいい。
 おっぱいはなんとか今見ても耐えられるレベルだ。
 まだそんなに大きくないしな。
 
 替えの下着は、既に桐乃の足元に落ちていた。
 一応履こうとしたのだろう。
 パンツの穴に、片足は通っている状態だ。
 
 ……ここまで出来れば、自分で履けるんじゃないか?
 
 そもそも片腕を使えなくなった事がないので分からないが、どれも面倒臭いながら、どうにか片手ででも出来る気がしなくもない。
 その面倒くさい、というのが桐乃にとって誰かに手伝ってもらう最たる理由なのだろうが。
 
 まあ、いい。
 それこそいまさらだ。身体を洗うのだって、結局俺にやらせた。
 何か甘えたい時期なのかも知れない。こうやって服を着せるのだって、これが最後だろうし。
 
 感傷的な想いを胸に宿しながら、桐乃にパンツを履かせる為に、桐乃の後ろでしゃがみこんだ。
 
 うわ、やべえ!
 感傷的な想いで精神防御を試みたが、この体勢になって即効で防御は突破された。
 
 だって、生尻ですよ、いや、それはさっきも少しだけ見たけど。
 その下に、若干影で見えなくなっているものの、その、あれがある訳で。

 見ないようにする、とかそんなんじゃなく、自然と目に入っちゃうんですよ?
 アレが。
 ピッタリと閉じてて、今はただ線しか見えないけども。
 つか、線が見えてるってだけで、もうアウト。

 最近はさ、ネットで無修正の画像なんて幾らでも手に入る訳ですよ。
 だから、こういう構造になってんだ、へえ、とかは思うことはない訳だが。
 
 こうして目の前にあるってのは、それだけでどうしようもないものだ。
 
 見たい、そして、触りたい。
 そういう欲求がどこまでも身体の内から湧いてくる訳だよ。
 

 下着がある、という防衛ラインがなくなってしまっている以上、もう直ぐだった。
 これは、さっきの葛藤の比じゃなくて、既にもう見て、しまった訳で。
 
 ――視線がそこに釘付けで、身体は硬直したように動けない。
 明らかに不味い衝動が身体を駆け抜けている。
 
 見たい、触りたい、指を入れたい、中を堪能したい、挿したい、入れたい。
 強烈な衝動。頭がそればかりになって、もうどうしようもなくなってしまいそうで。
 もう変になりそうだった。
 
 そんな俺の様子に気付いたのか、中々行動しない俺の様子を訝しんだのか、桐乃がチラリと俺を見る。
 
 慌てて視線を逸らしたが、桐乃には見られてしまっただろう。
 俺が何処を凝視していたのか。
 
 桐乃も固まった様に、俺を見ている。
 そして、片手でソコを隠すようにして言う。
 
「な、何見てんの、ば、バカ」

 その言葉は怒気を孕んでなかった。
 なんて言うか、照れ隠しのような、甘い感じの罵倒。
 
「わ、悪い、桐乃」

 そして、俺もそれに対する謝罪じゃなく、今から行う行動に対しての謝罪で返す。
 
「俺、もう我慢が出来そうない」
「え? えええ!? そ、それって……」

 桐乃が慌てて俺から一歩離れる。
 
「だから、そ、その……」
「だ、駄目だって、ここ病院だから、その、ね?」

 何を想像しているのか知らないが、断るポイントはそこかよ。
 家だったらいいってのか。
 いや、駄目だろ、兄妹なんだぜ?
 
 あれ、それじゃ今から行う行為は兄妹の関係を守ったままなワケって?
 
 そう、俺が今から行うのは、ヘタレ オブ ヘタレと形容されてもおかしくない内容だ。
 つまり――
 
「が、頑張って自分で履いてくれないか?
 おれ、その、ちょっと……抜いてくる」
 
 そう、全力逃亡だ。
 兄としての決断、だと思うかも知れないが、その実、違った。
 これは男としての俺の要望だった。
 一刻も早く抜きたい、出来るなら目の前の子を襲いたい。
 でもここは病院だ、ヘタレな俺としてはこんな場所でそんな行為を敢行できる勇気は無い。
 だから苦肉の策として今から即効で着替えてトイレに直行し、今の行為を思い浮かべて一発抜く。
 これが俺の考えた最良の策だった。
 
 ……うるせえな、ここが病院だってのに抵抗があんだよ。
 
 どこかの誰かに言い訳をしながらも、俺は桐乃の返事を待った。
 
「……ぬ、抜いてくるって」

 そこに突っ込んでくるのかよ。
 あ、てか考えてみれば抜くことまで説明しなくて良かったんじゃね?
 適当に腹痛とか言ってれば良かったんじゃね?
 
 ……俺って実は馬鹿なのか?
 
「き、きにすんな。と、とりあえず自分で履いてくれって事だ」
「あ、あああ、あたしもなんか手伝う?」

 ぶっ! な、な、なななな何を言い出しやがるんだ、こいつは!
 て、て、手伝うってなんですか、なんですかその魅力的な提案。
 つかこっちを向くな、この全裸女!
 
「だ、だだだ、大丈夫だ、ひとりで出来る、こ、こんなん直ぐだ」
「で、でも、ほら、出したら汚しちゃうし、ほ、ほら、飲んであげるとか出来るし、ちょ、ちょっと興味があるし」

 ――――。
 こ、こいつの手伝うってそういうレベルかよ?!
 俺はちょっとこう、なんだ、見せてもらうとか、せいぜい手こきレベルだったのに!
 
 さ、流石はエロゲマスター、俺の予想を遥かに上回る提案をしやがる。
 
 つか、こいつの脳内ではここで出す気だと思ってんだな。

「え、いや、その……いやいやいやいやいや、いいっす!」

 すっげえええ魅力的な提案でしたよ、はい。
 なんて断ったかのかというと、パニクってたのもあるし、今の言葉だけで逝きそうになってたからだ。
 口に含まれる以前に、目の前で見られるだけで出しちゃうんじゃないだろうか。
 
 そんな訳で、もう出そうになってた俺は、取り敢えずパジャマを手にして、トイレに逃げ込もうとした。
 
「ちょ、待ちなさいって――!」
 
 が、その俺を桐乃が止める。
 ……俺のあそこを掴む形で。
 
「あ」

 よ、よりによってソコを掴むな……ッ!
 
 桐乃の手によって起こされる刺激に、爆発寸前だった俺の海綿体は、一気に臨界を迎えた。

「ちょ、な、なんかビクビクしてんですケド、だ、大丈夫なワケ?」

 ……全然大丈夫じゃないっすね。
 圧倒的な快感と圧倒的な後悔を同時に感じたのなんて始めてだぜ。
 
 圧倒的な快感ってのは、こう、我慢に我慢を重ねた結果、他人の手によって逝かされる快感。
 これは、病みつきになっちゃいそうな快楽だ。
 こうやって半賢者モードの状態になっても、まだドピュドピュと放出を続けている。
 
 で、圧倒的な後悔とは何か。
 妹の手で逝かされた事? いやそれも確かに後悔に値するかもしれない。

 だが、それよりも……。 
 
 改めて状況を説明しよう。
 俺は、下着を持ってきていない。
 近くにコンビニも無い。
 今、俺は下着を履いている。
 
 後は……分かるだろ?

 //
 
「だから、ごめんって。そろそろウザいから凹むなっての」

 あれから、病室に戻り、桐乃はベッドの上。
 そして俺は部屋の隅で体育座りをしていた。
 全力で凹み中。
 
 え、下着はどうしたって?
 はっはっは。
 
 ……今、ノーパンですが何か。
 え、下着はどうしたって?
 
 取り敢えず応急処置として、ビニール袋に突っ込んで固く縛っておいた。
 ただ季節が季節なので、明日にはそのままゴミ箱行きかも知れない。

 いや洗おうとも考えたんだよ。ただ、ここ公共の場じゃん?
 誰もが使う洗面所で、汚しちまった下着を洗いたくないじゃん?
 少なくとも俺は誰かが精液塗れの下着を洗った場所で歯磨きはしたくねえよ?
 
 因みに俺が応急処置をしている間に、桐乃はしっかりと下着を履いて、それどころか、あらかた着替えを済ませていた。
 ボタンは流石に留められなかったようで、俺が留めてやった。
 
 ……やっぱ普通に着れんじゃん。なんで俺が脱がしたりしたんだか、とやはり思ったが、甘えたい年頃だったんだろうと適当に結論付けておいた。
 
 そして今、病室に戻ってきた絶賛賢者モードの俺は、色んな後悔に塗れてこうやって部屋の隅で凹んでいる訳だ。
 
 妹に手コキで逝かされてしまった。
 下着に中出ししてしまった。
 病室なんていう公共の場でノーパンの高校生♂=俺の現状。
 
 凹む要素は幾らでもあった。
 
 桐乃がさっきから謝ってくれているが、正直、桐乃が悪い訳じゃない。
 いや、こうなんていうか、人をボッキさせてくれやがった事は責任があると思うが。
 しかしどれも自制出来なかった自分のせいとも言える。
 
「はぁ……。そういや、飯ってどうなんだ?」

 だがここでいつまでも凹んでいても確かにウザい。
 桐乃が悪い訳でない以上、桐乃に迷惑を掛けるのもなんだ。
 家に帰って自分の部屋で存分に凹む事として、今は一時的に忘れよう。
 
「さあ? 昼間は普通に看護婦さんが持ってきてくれたケド」

 ふーん。じゃあ、時間的にそろそろ夕飯が来るって感じか。
 
「どっかに売店とかねえの? どうせ俺の分の夕飯はねえだろうし、何か買ってこようかと思うんだが」
「受付の所にあるっちゃ、あるケド。もう閉まってると思う」

 なるほど。つまり俺の飯は抜きか。
 まあ、仕方ない。そもそもこうやってパジャマと毛布を貸して貰えただけでも僥倖だ。
 俺の計画性の無さがアダになっただけだしな。
 
「あたしの分、分けたげよっか?」
「いいよ。気持ちは受け取っておく。だが、おまえは怪我人なんだからちゃんと食っとけ」
「でも、あんた、あんなにいっぱい出したんだからお腹空いてんじゃないの?」
「ちょ、おま……!」

 イキナリなんて事を言い出しやがる……!
 誰かに聞かれたらどうすんだ、誤解ですとも言えねえんだぞ、事実ですなんて言うわけにもいかねえだろ……ッ!
 それに人がせっかく忘れようとしている事を……ッ!!
 
 俺の心の叫びが少しは通じたのだろうか。
 桐乃は、あ、という感じに口を閉じると、頬を赤くしながら、俺から目を逸らした。
 
「ご、ごめん」
「い、いや、いい。とりあえず忘れてくれ」
「え、あ、う、うん……」

 なんでそんな歯切れ悪いんだよ。
 眼は泳いでるし、態度だけ見ると寧ろ記憶に焼き付けておきました的な感じなんですけど。
 まさかそこまで非道じゃないよね? 桐乃にも良心ってのはあるよね?
 カリビ○ンコムが可愛く思える程、俺の中の黒歴史なんだぜ?
 
 まあ、流石に桐乃もお袋とかに「京介があたしの手コキで逝ったんだけど」とか言いふらしはしないだろう。
 そうなったら、問題になるのは俺だけじゃなくおまえもだからな。
 
 ……い、言いふらさないよな。
 ね、念の為、あとで釘を差しておくか。
 
 俺が心の中でそんな疑心暗鬼を迎えていると、扉がノックされた。
 桐乃が、他所行きボイスで返事をすると、看護士さんが扉を開けて入ってきた。
 
「はい、夕ごはんですよー」

 そう言ってトレイを運んできた……が、デカい。
 明らかに一人分じゃない。
 
「え、これ、多くないですか?」

 ついそう突っ込んでしまう。
 その突っ込みを待ってたとばかりに看護士さんが答える。
 
「ふふっ、ここって若い入院患者が居なくて、皆、そんな食べないんですよね。
 で、今日は若い患者が居ると料理長に伝えたら張り切っちゃって」
 
 そんなんで張り切ってこんなに大盤振る舞いして良いのか?
 つか、大丈夫かこの病院。
 
「ここ、独自の畑を持ってるんですよ。だから、食材は余っててたまに近所に配ってるぐらいなんですよ。
 そして、ここの料理長は昔、いっぱしのレストレンのシェフだったんです」
「へえ、確かに今日のお昼に食べた料理はとても美味しかったです」

 いや、桐乃、そこは同意するところじゃなくて何このご都合主義と突っ込む所じゃね?!
 しかも割とどうでもいいご都合主義だな……。
 
 何はともあれ、夕飯に困りそうには無さそうだ。
 
「因みにまだまだありますから」
「いやいやもう要らねえからっ!? あんたらにとっての若者はどんだけ食うことを想定してんだよっ!」

 別の意味で、夕食には困りそうだった。
 
 //
 
 すっかり膨れたお腹を擦りながら、椅子に浅く腰を掛ける。
 
「ふふ、すっかり平らげて貰えたようですね」

 食べ終わった食器を片付けながら、看護士さんが笑う。
 
 ……人間、頑張れば出来る事って意外に多いものだ。
 明らかに食い切れそうにないご飯を平らげる事も、出来たりする。
 正直、ちょっと気持ち悪いが。
 
「そういえば、看護士さん」

 さっきから少し気になっていた事を聞いてみる事にする。
 
「なんですか?」
「他に若い入院患者が居ないって言ってましたけど、隣に居ますよね?」

 若い少女。改めて考えてみるが、あれは大体妹と同じ年頃じゃないだろうか。
 まあ、確かに沢山食いそうにはなかったけど、若い患者ではあるだろう。
 
「…………え?」

 しかし俺がそう言った瞬間、看護士さんの顔が引きつった。
 何だか嫌な予感がする。
 
「……そうですか。あなたには、見えるんですね」

 え、え、え、ありがちだけど、まさかこれって。
 
「ゆ、幽霊とかそういう話ですか?」
「ちょ、あんた、何を話し始めてるワケ!?」

 俺が話したくて話してる訳じゃねえよ!
 
「……そうですね。あなたには、見えた」

 俺の質問に対しての回答なのか、或いは確認なのか看護士さんは何度か頷いてみせた。
 
「俺、霊感とか、そういうのないんですが」

 多分。だって今まで見えた事無いし。
 
「あの子は、霊感とかそういうので見えるって訳じゃないんです。
 ……そうですね。あの子が見せたいと思った人にだけ、見えるといいますか。
 条件があるんですよ」
 
 ……条件?
 
 ふと桐乃を見る。……耳を防いで目を閉じてやがる。
 こいつ、こういうホラー、本当嫌いなのな。
「そう、あの子はですね、妹だったんです」
「マジで!?」

 おまえ、耳を塞いでたんじゃねえのかよっ!
 読唇術か!?
 
 妹という単語にイキナリ反応をしてみせた桐乃に、若干看護士さんは引いている様子だったが、それでも話を続けた。
 
「ええ。本当に仲の良いお兄さんが居まして。元々病弱だったその子は、それでもお兄さんが見舞いに来ると目一杯にはしゃいでみせて。
 それはそれは、可愛らしい笑顔で。とても見てて微笑ましい光景でした」

 桐乃は黙って看護士さんの話に耳を傾けている。
 俺は俺で、他所の話をこうして勝手に聞いていいものかなんて考えてたりしたが、話の内容が気にならなくもないので黙って聞くことにする。
 そもそも看護士さんの守秘義務ってのは大丈夫なのだろうか。
 
「そして、ある日。お兄さんが……事故で亡くなってしまいました」
「な、なんで」
「……妹さんを見舞いに来る途中で、妹さんが欲しがっていた本を抱えて、車に轢かれてしまったそうです。
 当時の話で聞く限り、本が坂道を転がってきて、それを追うような形で人が車の前に飛び出したという事でした」
「…………」

 桐乃が、俯く。
 俺は、続きを促した。
 
「それで、妹さんは」
「それから徐々に容態を悪くして……。ある日、病院を抜けだして……」

 当時の事を思い出しているのか、苦渋の表情を浮かべている看護士さん。
 そこにあるのは後悔なのだろう。
 
「……お兄さんが事故にあった現場の直ぐ近くで、力尽きて倒れている妹さんが発見されました」

 …………。
 俺も桐乃も、ただ黙っている。
 
「それから、数日後。病院で幾つかの目撃情報が語られました。黒髪の女の子を見た、と。
 あの妹を見たという申告が出てきたのです。
 そして、それを申告してきたのは、どの人物も……」
 
 何となく、答えが分かった。
 
「兄、だったという事ですね」
「……はい。といっても、全てのお兄さんが見えてた訳じゃなく、なんて言いますか。
 とても仲のいい兄妹の兄だけが、見えてたみたいですね」
 
 仲の良い兄妹。
 果たして、俺達はそんなに仲の良い兄妹だろうか。
 少なくともその女の子には俺たちが仲の良い兄妹に見えたのだろうか。
 
 いや、そもそも初めに見た時、俺はまだ妹に会ってなかった。
 仲が良いかなんて……ああ、そうか。
 妹の為に、こんな荷物を持って必死にやってきたその姿が……被ったのかも知れない。
 
「……黒髪の、女の子」

 桐乃が繰り返す様に呟く。
 何故か少し青ざめているようだ。
 
「どうした、桐乃。……怖いのか?」

 そんな怖い話にも思えなかったが、怖がりな桐乃にとっては怖い話だったのかも知れない。
 
「な、何でもない」

 しかし、桐乃は首を振って、それを否定する。
 まあ、桐乃だからどちらにしろ肯定をする事はないだろうが。
 
 看護士さんはそんな俺達を見て、優しく微笑むと最後にこういった。
 
「決して悪い霊って訳じゃないです。だから安心してください。もし、また見かけたら……頭でも撫でてあげてください」

//

 幽霊、か。
 俺は今回、始めてそれを見た訳だが、高揚感も無ければ恐怖も無い。
 確かにあの女の子にそんな悪意は感じられなかった。
 
 始めてあった時、残念がっていたのは本当の兄じゃなく違う兄だったからだろう。
 あの子は本当の兄が迎えに来てくれる事を未だに待っているのかもしれない。
 
「ねえ、あんた、……何考えてんの?」

 そんな事を考えていると、桐乃からそう質問を投げかけられた。
 
「別に。……ただ、な」
「……さっきの話?」
「……まあな」

 桐乃の方に視線を向けると、桐乃が何だか複雑そうな表情で俺を見ていた。
 
「その子……。お兄さんが本当に好きだったんだろうね」
「かもな」
「だから、……今も待ってるんだ」

 どうやら、桐乃も同じような結論に達したらしい。
 そう、今も待っている。
 お兄さんが、迎えに来てくれる事を。
 
「ねえ、あんた」

 そして、桐乃が言う。
 
「まさかと思うけど……」
「……そのまさかだ」

 呆れたように、言う。
 
「ホント……お人好しの馬鹿よね、あんた」
「ほっとけ」

 そう、俺はお節介を焼こうとしている。
 その幽霊の女の子に。


 だって、悲しいじゃねえか。
 妹が兄を待ち続けてるだけなんて。
 兄だって、そんな事を望んじゃいねえ筈なんだ。
 
 俺は干していた自分の服を掴むと、桐乃へと振り向いてこう言った。
 
「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
「…………」

 対して、桐乃の返事は無かった。呆れてるんだろうか。
 
「あ、あんたは……」
「あん?」
「絶対に戻ってきてよね」

 何を今更。

 軽く笑ってみせて、俺はそのまま病室を後にする。
 隣の病室に目をやってみるが、そこに姿は見えない。
 今は、まだ。
  
 //
 
 夜。
 街灯が幾つかあるとは言え、道は暗かった。

 そう、俺は今、外を歩いている。
 特にこれといってアテがある訳じゃなかった。
 暫く歩いて、何も見つからなかったら帰ろうと思っていた。
 
 ただ、なんというか兄の直感がこの先に何かがあると告げていた。
 
 今日、登ってきた道。
 妹の事で頭が一杯だった上り道。
 
 そこを今下っている。
 
 看護士さんの話じゃあ、兄は妹を見舞いに行く途中に事故ったって話だ。
 住んでた場所によるが、恐らくは街の方から登ってきた筈だ。
 妹が欲しがっていた本を買ってきたのだから。
 
 道は決して複雑じゃない。
 となれば、ここを下っている途中に、その問題の現場は見つかるだろう。
 
 そして、俺は見つけた。

 街灯の下、置かれた花束。
 タイヤのブレーキ痕。
 そして――
 
 //
 
 京介が病室を出ていった。
 全く、本当にお節介なんだから。
 相手が幽霊であっても何とかしてやろうなんて馬鹿じゃんと思う。

 さて。それじゃ、あたしも動かないとね。
 恐らく京介は事故現場を見に行こうとしているんだろう。
 そこに兄が何かを残してないかと考えたりしてるんだろう。
 
 本当……お人好し。
 ただ、その為に妹を一人にしていくってのはどうかと思うけどね。
 
 あたしは、ベッドから足を下ろしてスリッパを履くと、そのまま病室を後にする。
 向かうは隣の部屋だ。
 
 あたしは、確認しなくちゃいけない事がある。
 
 //
 
 一人の男が立っていた。
 自分の事を棚にあげていうが、こんな真っ暗の中、街灯の下にただぽつんと立っていると不審人物もいいところだ。
 
 ただ、顔は非常に穏やかで、優しい表情を浮かべていた。
 好青年という印象だ。
 歳は俺より少し年上という感じか。
 
「……よう」

 俺はそいつに声を掛ける。
 そいつは、黙って俺の方を見た。
 
 人違いだったらどうしようとも思ったが、俺はそのまま、言葉を続ける。
 
「妹の為だってなら、手を貸すぜ」

 だが俺は殆ど確信していた。こいつが、あの黒髪の女の子の兄だって。
 だって、よく顔が似ている。
 若いのに、大人びた雰囲気。
 
『……違うよ』

 その男はそう声を出した。

 つか声、出せるんだ。
 考えてみれば、黒髪の女の子とも俺、話してたもんな。
 
「違う? 何がだ?」
『僕は、忠告に来たんだ。君にね』

 ……忠告?
 
『今の僕には妹を助ける事が出来ない』
「な、なんだよそりゃ」

 妹思いのいいお兄ちゃんだったんじゃないのかよ。
 
『僕はここから動く事が出来ないんだ』
「……どうしてもか?」
『どうしても、さ』

 その声色には苦渋が込められていた。
 
『けどね、まだ諦めてない。だから僕はこれからも足掻き続ける』

 しかし強い決意が感じられた。
 
「……そうか。それで、俺が何か手伝える事は?」
『無いよ』

 ねえのかよ。
 
『少なくとも、僕が妹の事は何とかする。君だってそうだろう?』
「…………」

 まあ、そうだ。妹の事は、兄が何とかする。
 それが俺の信義でもある。
 だから、助けはいらないというのか。
 
『そして今も妹の為に何とかしようとして君と話している』
「……なんだ、結局助けが欲しいんじゃねえのか」
『違う。いいかい、君はもう妹に会うな』

 ……嫉妬?
 
『違う。妹は……君に目をつけている。いいか、妹は長い孤独から錯乱している』
「幽霊でも錯乱すんのか?」
『するんじゃないかな。現にしている訳だし』

 そうだったのか。
 
「それで?」
『……妹は、君を兄として捕えようとしている』

 ……なんだそりゃ。
 何か黒猫と話してるみたいな気分になってきたな。

『君の妹が、今、俺の妹と接触してる』
「……どういう事だ」
『くく。いきなり目の色を変えたね』
「茶化してんじゃねえ、念仏唱えんぞ」
『ははっ。いいかい、君の妹はね――』

 //
 
「……やっぱ、あんただったワケ」

 306号室。
 あたしの部屋の隣。
 あの馬鹿が間違えて入った部屋。
 
 今、そこの部屋の主とあたしは対峙していた。
 
『それについては謝罪するわ。でも大怪我にはならなかったでしょ』

 黒髪の女の子。
 あたしと同じぐらいの歳に見える。
 綺麗な黒髪、色白の肌。まるで何処かの邪気眼女を思い出す。
 顔を見ると、それが違う事が分かるんだケド。
 
 あたしは、この女を見ている。
 そう、それはあたしが合宿中に道を歩いていた時の事。
 あたしの視界の前に突然現れて、そして、そのまま車が走ってきている道に飛び出した。
 咄嗟の事によく分からないながらも、助けなきゃと思って、あたしはその女を突き飛ばそうとして。

 ……今、こうして病院に居るってワケ。
 
「……目的は、あいつなんでしょ」
『見かけによらず、頭は良いようね』

 言っておくけど、あたし県内トップクラスだからね。
 
「なんで、あいつなワケ?」
『だって良いお兄さんじゃない』

 ……どいつもこいつも。あいつの事をいいお兄さんだって言う。
 あいつのどこがそんなにいい兄貴なワケ?
 あんな、死んだ目で冴えない顔したような地味顔の奴なんて、幾らでも居るっしょ。

 ……まあ、確かに?
 たまーにやる気を出した時とか、真剣な表情をしてる時とかはさ、ちょっと、カッコイイかも、とは思うケド。
 それにそういう時に出す声が、とても真剣で優しくて……。
 時々、凄い優しい表情であたしの頭を撫でてくれて……。
 馬鹿で泣き虫で、ヘタレで、変態の癖に兄でいようとして、でもでも、それでも……凄い優しい表情を浮かべてくれる人。
 
 でも、それはあたしだけが知っていればいい事。

「あたしはね、あたし以外の口からあいつの褒め言葉を聞くとムカムカすんだよね」
『……歪んだ愛情ね』

 何処と無く呆れた様な表情を浮かべられた。

「うっさい。大体、あんた、あいつの何を知っているワケ? どう考えても殆ど知らないっしょ」
『……あの人が、優しいことを知っているわ』

 う……。確かにそれは重要な部分だ。
 
「で、でもヘタレだし」
『最終的に貴女を傷つける結果になる事を恐れてるだけでしょ』
「え、そ、そうなの?」
『……貴女の方が、あの人の事、何も分かってないんじゃなくて?』

 むぐぐ。く、悔しい。
 つか口調があの電波女と似てない? 何か凄いムカツクんですけど。
 まさかあの糞猫の生霊じゃないよね? そうだったら殴るんですけど。
 
『私の方が、あの人のことを分かってあげられる。貴女と違って』
「う、うるさい! だ、大体、あんたにはお兄さんが居るんでしょ!?」
『居るわ。けど、それが何?』
「だったら、べ、別にあいつは要らなくない?」

 黒髪の女は、真っ直ぐな笑顔で答えた。
 
『居るわ。だって、兄と違ってずっと一緒に居られるでしょう?』

 …………。
 
「な、なにそれ。兄とだって、ずっと一緒に居られるじゃん」
『居られないわ』
「なんで!?」
『理由が必要?』

 ギリ、歯を噛み締める。
 言われなくても、……分かってる。
 ケド、こうやって指摘されるのは凄いムカツク。
 だって、だって、それはあたしらの問題で、あんたらには関係ない。
 
 いいじゃん、夢を見たって!
 これだけ色んな成果を出したじゃん、だから一つぐらい許してよ。
 想像でも、それが嘘の関係であっても。
 まるで恋人みたくなりたいと願ったって良いじゃん……っ!
 
 恋人になりたいなんて……思わないから、せめて。
 まるで恋人の様な兄妹になりたいと願ったって……良いじゃん。
 
『……私もね、兄と結ばれたいと願ったわ』
「え……」
『けどね、それが双方の関係にとって果たしていいことなのかしら?』
「…………」

 …………っさい。
 
『自分の事だけじゃなく、相手の事も考えた時に』
「うっさい!!!!」

 あたしの怒鳴り声に、黒髪の女の子が怯んだように目を見開く。
 
「そんなん知ってるって言ってんでしょ!
 でも、そんなんで割り切れないから困ってんでしょっ!?
 大体ねえ、そんなの知ったこっちゃないのよ、相手の気持ち、そんなのわかんないっ!
 あいつが何を考えてるかなんて、全く分かんないっての!
 だって、あいつ、シスコンだとか、妹が大好きだとか言ってる癖に、たったの一度も……!
 たったの一度も、あたしを好きだなんて言ってくれてない!
 じゃあ、何、あたしが妹じゃなくなったら、なんなの!?
 あたしは、あいつにとって何になるの!?
 妹だから傍においてくれるワケ!?
 妹だからあんなに優しく髪を撫でてくれるワケ!?」
 
 ここ数日、抱えていたもやもや。
 京介が、あたしを海外まで迎えに来てからずっと続いているもやもや。
 あいつにとって、あたしは何なのか。
 それがずっとずっと分からない。
 
「もしそうなら、そうだっていうなら…………ッ!
 ふざけんなって思うっ!
 嬉しいけど、悲しいのっ!
 だって、だってそれじゃ、それじゃあ、あたしのこの気持ちは……ッ!
 気持ちはッ……!!」
 
 ボロボロと涙が出て止まらない。
 悲しい、凄く悲しい。
 自分で言ってて気付いてる。
 あいつが、なんであたしに優しくしてくれるのか。
 そのわけを。
 
 それを認めたくなくて。
 それが認められなくて。
 
 あたしは今回の入院をチャンスだって思った。
 これが、唯一無二のチャンス。
 
 現状を、あたしが望む方法に変えられる絶好のチャンス。
 
 だから、だから。
 
「……あんたなんかに絶対渡さない」

 ガチャ、扉が開かれる。
 
「桐乃……ッ! 無事か!」
「…………!」

 そこに息を切らした人物が、入ってきた。
 言うまでもない、あたしの兄貴。
 全身を汗だくにして。
 風呂に入ったばかりだというのに……。
 
「馬鹿じゃん、無事だっての」

 //
 
「馬鹿じゃん、無事だっての」

 桐乃は、そういってケラと笑って見せる。
 しかし、その表情に反して、桐乃の頬には幾つもの涙が流れていた。
 
「…………」

 そして、その桐乃と対峙している黒髪の女の子を見やる。
 その女の子は既に桐乃を見ていなかった。俺を真っ直ぐと見ている。
 
『待っていたわ、お兄さん』
「……ああ、俺も会いたかったぜ」

 その視線に対して、真っ直ぐと睨み返してやる。
 こいつの兄貴と話して知った、こいつの目的。

 俺を兄として捕えようとしている……いや、俺を兄の器に仕立てあげようとしている。
 未だにどういう意味なのかは良く分からないが、分かる事は一つ。
 こいつは兄と会いたいのだ。
 そして俺に対してなんちゃらして、あの場所に捉えられている兄を移して?
 なんだっけか、依代? 媒介?
 
 正直、良く分からない。
 黒猫ならあっさりと「ふっ、そういう事ね」とか言いそうな感じだが生憎としてあいつは今ここに居ない。
 
 ただ重要な一点。
 こいつが兄に会いたいという事だけは分かった。
 
 だからよく分からないなりに、協力するって言ったんだが。

 ――君にも妹が居るんだろう。なら、それは出来ない。君の妹が悲しむだろうから。
 
 と彼は言っていた。
 
 ……あいつが悲しむのであれば、残念ながらそれは出来ない。
 俺の人助けは、あくまで妹が悲しまない範囲内で、と制約が決まっているからな。
 
 だから、俺は俺なりに、妹が悲しまない方法で最良を果たすだけだ。
 
『こうやって、私に会いに来てくれたって事は』
「うおおおおおおおおおおおッ!!」
『きゃ、なに!?』 

 相手が幽霊というのは始めてだが、何事もやってみないと分からない。
 人間、意外と出来る事は多いものだ。
 
 俺は、その女の子の身体をがしりと、掴んだ。
 
「え?」

 桐乃がぽかんとした声を上げる。
 
 ……ああ、あとで桐乃に怒られるんだろうな、俺。
 まあ、悲しまれるぐらいなら、怒られる方がいい。
 
『え、え、え?』

 そして、俺はその小さな身体を、強引に抱きしめた。
 
「え、えええええっ!? ちょ、あんた、な、ななな、何してるワケ!?」
『~ッ!? ! ? ??  !!』

 じたばたともがく身体を強引に抑えこみ、そして片腕で女の子の両腕を塞ぐ形を取ると、そのまま、残った手で。
 
『な、なにをするつもり……ぁ』
 
 くしゃ。
 頭を、撫でてやった。
 
「……悪い、俺はおまえの兄貴にはなれねえ」
『………………』

 優しく、兄が妹にするように、髪を撫でてやる。
 
「けどな、兄貴だったら、妹にこうしてやりたい筈なんだ」
『…………ひっく』

 そうだろ、あの兄貴もまた、ずっとこうしてやる為だけに、足掻き続けているんだ。
 その幽霊の制約なんかで、よく分からない地面に縛り付けれれて尚、成仏せずに。
 
「だからな、約束する。あんたの兄貴は、必ずここに辿り着く」
『ぐず……ほ、ホント?』

 先ほどまでの大人びた雰囲気がなくなり、女の子は歳相応の言葉で俺に聞く。
 
「ああ。だからな、待っててやってくれ。あんたの兄貴を、信じてやってくれ」
『…………』
「兄ってのは……泣いている妹の為ならどこからだって駆けつけてみせるんだからよ」

 現に俺だって、海外まで迎えにいったんだぜ?
 もしあれが、魔界だったとしても、きっと俺は迎えにいった筈だ。
 だって、妹が泣いているんだぜ?
 それ以外に理由が居るか?
 
『……わかった』

 こくんと頷く姿。
 途端に、俺の腕が宙を撫でる。
 ふぅ、と目の前の姿が消えていく。
 
「…………あれ?」

 もしかして成仏すんの?
 あれ、いや、成仏した方がいいだろうけど、あれ、迎えにくんの、待たねえの?
 
『待つよ、ずっとずっと』

 声だけが、そう響いて。
 そして、そのまま、完全に気配を消失した。
 
 …………。
 
「……ふぅ、どうにかなったな」
「…………」
「で、なんでおまえは泣いてんだ?」
「…………ッ!!」

 ブォン、という恐ろしい音を放ちながらスリッパが飛んできた。
 
「うおっ!? あ、あぶねえ! な、何しやがんだ!?」
「うっさい! 馬鹿! 大体、何抱きついてるワケ!? 信じらんないっ!」
「いや、俺もまさか幽霊を抱きしめる事が出来るなんて思わなかった」

 一応気合入れてみたんだが、あの気合が大事だったんかな。
 
「そういう問題じゃないっての! この、こんのっ!」

 もう片方のスリッパを武器に、俺に攻撃を開始する桐乃。

 よ、予想以上に切れてやがる。
 何があったって言うんだ。
 
「大体、あの女! 結局兄貴が好きなんじゃん! くそ、何、これ、あたし嵌められたって事!?」
「な、なにされたんだ?」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!! あー、もう、なに、これ、ムカツク、ムカツクムカツクッ!!」
「お、落ち着けって。ほら、ここ病院だから、これ以上騒いだら不味いって!」

 流石にそろそろ苦情の一つでも飛んできそうだ。
 
「うううう、もういいっ! あたしは寝るから、あんたはここで一晩過ごしてッ!」
「げ、マジかよ……!?」
「マジだから。ほら、ついて来ないで。あたしはあたしの部屋に戻るの。あんたはここに居るの。もう決まった事だから」
「いやいや、山の中ってさ、何か予想に反して結構寒いんだよね。ここ、暖房点けていいか分かんないしさ」
「そんなのあたし知んないし。じゃ、そういう事だから。付いてきたらノーパン変態野郎って叫ぶから」

 そう言って肩を怒らせながら、桐乃は病室を出ていく。
 
「…………」

 あれ、俺は一体どこで選択肢を間違えたんだろうな。
 妹と仲良くしようとしてた筈なんだが。
 
 つか、妹の部屋に毛布置いてきちまったし。
 ここのベッド使っていいのかも分かんないし。
 汗で身体冷えてきたし。
 
 ……グズ。あれ、俺もう風邪引いたのかなあ。
 
 
 ――結局。俺はそこで床に体育座りで座り込みながら朝を迎えたのであった。
 
 //
 
 翌朝。
 
 待合室にて、引率の先生に必死に頭を下げられてどうしたものかと思っていると看護士さんたちの話し声が聞こえた。
 昨日の夜、どこかでポルターガイストみたいな現象が発生したらしい。
 誰も居る筈がない病室で男女が騒ぐ様な音が聞こえたんだとか。
 
 …………。
 遠からず間違えてないし、正直に言わなくて大丈夫だよね。


 結局、桐乃の検査入院の結果、脳波などに異常は無いとの事。
 無事で何より。
 
 引率の先生は、朝一で俺に謝りに来た。
 昨日は、既に面会時間が過ぎていた事から会いにこれなかったとか。

 ……全然気付かなかったな。
 何度か電話したらしいが、あいにく電波が無くて掛からなかったし。
 ただ先生はそうは判断しなかったらしくて、怒っていると思ってこうして朝早くから来てくれた訳で。
 やっぱ、人の文句を言うもんじゃねえな。
 悪い先生には思えないし、入院費を全て払うとか言ってたが、俺は断っておいた。
 
 一応、貯金全額下ろしてきたし。入院費はどうにか払いきれそうだったしな。
 冷静じゃなかったとはいえ、先生の事を悪く言っちまった負い目もあったので、これでこっそりチャラにしておく。
 さて。
 今、俺達は病院を後にしている。
 たった一日、時間にして24時間にも満たない時間しか俺は居なかったが、色々あった。
 結局、何かは変わったんだろうか。
 それはまだ分からない。
 桐乃は、根に持つ方なので多分、家に帰ったらもう一騒動が起きそうに思う。
 
 でも、まあ、それでいい。
 死んだ後も、一緒に居たいと願う兄妹を見て、俺は考えたのだ。

 兄妹関係も、親子関係や、そして恋人関係に匹敵する程の重みを持った関係なんだと。
 
 
 俺より先にがんがんと進んでしまう妹。
 身軽なもんだ。
 それに対して俺は、桐乃の為に持ってきた荷物。そして、合宿の時の荷物を纏めて持たされて。
 ひぃひぃ言いながら、妹の後を付いて行く。
 
 でも今は文句を言うまい。
 こうして、足が前に動くだけ、妹の後を追えるだけマシなのだろう。
 だから今は、こうして妹の後を追いかけていく。
 
 こういう関係も、俺は決して嫌いじゃないのだから。
 
 
 つづく。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2012年07月15日 21:36
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。