或る非日常3

 あれから一日が過ぎて、俺の前にはいつもの日常が戻ってきた。

 リビングで雑誌を読んでれば、特に挨拶も無くいつもの自分の席に座る桐乃。
 お互い、特に会話も無く、ただ各々自分の時間を満喫する。

 そう、いつもの日常だ。
 だがそれは本当にそうか。

 こうやって桐乃に視線を向ければ、嫌でも思い出してしまう。
 あの時、病院で見た裸体。

 幽霊の件も相成って、実は幻だったんじゃないかと思える。
 全て真夏の蜃気楼だったんじゃないだろうか。

 しかし、桐乃の片手は未だに包帯が巻かれていて。
 あれは、幻じゃなかったんだとどうにか信じる事が出来る。

 因みに、俺が来るまでの間、あの病室で一体何を話してたのかと聞いたんだが、桐乃は応えてくれなかった。
 あんたには話したくない、と言われてしまえば、それ以上追求することも出来ない。

 俺としては何で桐乃が泣いてたのかが、凄い気になるのだが。
 場合によっては、お経を唱えにあの病室に行くのも吝かではない。
 人の妹を泣かしてくれやがった奴に、兄妹を語る資格などないのだから。

 そんな訳で。
 俺は表面的にはいつもの日常を満喫していたが、内面的にはいつもの日常とは言えなかった。

 それに……こいつは、追求するって言っていた。
 俺が言いかけた台詞を。

 ――仕方ねえだろ、妹は妹でもな……

 俺は一体、何を言いかけたのだろう。
 そして何故、言葉を止めてしまったのだろう。
 俺が俺の事を分かる前に、俺の知らない俺は、それを隠した。

 てっきり帰ってきたら即効で問い詰められるのかとも覚悟していたが、予想に反して桐乃はその話題に触れてこなかった。
 もしかすると、忘れてしまっているのかもしれない。
 あれだけ色々、異常な事が起きてしまえばな……。

 異常の割には、俺も桐乃もそこまで取り乱したりはしなかったが。
 なんて言うか、当たり前のように連中が居て、正直余りに実感が無かった。
 俺の手の中から消えて、始めて実感したというか……。

 沙織を始めて見た時のような衝動や、黒猫に掛けられた呪いよりも動揺を誘うものでもなかったし。
 あやせのハイキックのような恐怖を感じさせる事も無かった。

 生者の方が余程、俺に刺激を与えてくれる。
 今だって、あの騒動よりも……桐乃の方が、俺の中では印象に残ってるぐらいだ。

 なあ、桐乃。
 なんであの時、おまえはあんなに必死だったんだ。

 そう目で語りかけていると、桐乃が振り向いた。
 まさか心の声でも聞かれたのかと思ったが、そうじゃなかった。

「……何、さっきから見てるワケ? ウザいんですけど」

 …………。
 いつもの桐乃だった。
 こうイラっと来る感覚もこうなってしまえば感慨深い。

「うるせえな。別に見てねえよ、おまえの自意識過剰だっての」

 ふん、と鼻を鳴らして、目を逸らしてやる。
 そしてその言い分で納得するような妹では桐乃は無かった。

「嘘。あたしには分かるの。あんたがこう嫌らしい視線をあたしに向けてきてんの」

 …………。
 確かに裸を想像してたんだが……。
 こ、怖え、女って怖ええ!

「な、何いってんだが。妹を嫌らしい視線で見る訳がねえだろ」

 自分で言ってて何だが、自分にダメージが来るな、この台詞。
 妹を嫌らしい視線で見る変態兄貴はこちらです。

「へー、そういう事言うんだ?」

 ……何か凄い嫌な予感がする。

「あたしの手の中で――」
「悪かった、俺が悪かったからそれ以上は言うな! つか、忘れろ!」

 な、なんて底意地の悪い奴だ。
 くそ、俺はこうやってこれから先、ずっと言われ続けるのか。

「大体、少し触っただけで、その、出しちゃうなんて、あんた大丈夫なワケ?」

 …………。
 いや、あれはだな、こう我慢に我慢を重ねていた訳で、つか、童貞なんてそんなもんだって!
 そ、そんなもんだよな……?

「……へっ。いいんだよ、未来の彼女に鍛えて貰うから」

 内心、激しく動揺している俺は、格好良く返そうとして寧ろ格好悪い発言を返してしまった。
 鍛えてもらうってなんだよ。これは闘いなのか?

「…………」

 そんな俺の発言に、何故か俺を睨みつけるようにする桐乃。
 一気に不機嫌になりやがった。
 さっきまで意地悪そうな顔でニヤニヤ笑ってやがった癖に。

 何か不味い事言ったか? 鍛えてもらうって発言がこう男としてアウトだったか?
 ……普通に考えてアウトだな。
 つか、肯定してんじゃん。大丈夫じゃない事、肯定してんじゃん俺。

「…………」
「…………」

 嫌な沈黙。
 なに、俺が早漏かもしれない事で俺、妹に睨まれてんの?
 何そのよく分からんフラグ。

「……早い男に彼女なんて出来るワケないっしょ」

 グサッ!
 い、今の台詞は繊細な俺の心に深く刺さったぞ。
 大体、なんで妹にそんな事を言われなくちゃならねえんだ。
 くそ、ムカツイてきたぞ。これはもうガツンと言ってやるしかねえな。

「や、やっぱ女の子ってそういうの気にすんすかね?」

 …………。
 だってなあ? 気になるじゃん。
 俺の怒りよりも、自分の将来のが重要だっての。

「……気にする子は気にするんじゃん? だってこう、格好悪いし?」

 グサグサッ!
 お、俺の心がもうズタボロなんだが、こう、もう少しオブラートに包んでくんねえかな。
 まあ、妹にそんな配慮が出来る訳ねえんだが。

「お、おまえはどうなんだよ。気にすんのか?」
「は?」

 妹に凄い剣幕で睨まれた。

 妹に対して、早漏な兄がおまえは早漏な男をどう思うと聞く光景。
 はい、キモいですね。

 いや、俺も別にそんなキモい事を本気で聞いてる訳じゃないぜ?
 こうズタボロの精神状態で、少しでも会話を変える為の努力の結果なんだぜ?
 ……いや、格好悪いとか言ってる奴にそんな質問をぶつけるなんて我ながらドMとしか思えん訳だが。

 当然っしょ、とか返ってくるに決まってんじゃねえかよな。
 格好悪いって意見はどう考えても桐乃の意見だしな。

「あたしは……」

 く、来るぞ、最大級の罵倒が。よし、一番言われたくない事を想像しろ。そしてその遥かに上をいくダメージを想定するんだ……!
 いや、死ぬよね、精神崩壊するよね。

「あたしは……そんな気にしないカナ」

 耐えろ、耐えるんだ……!!
 …………え?

「それよりも……、ちゃんと大事にしてくれた方が、嬉しい、かも」

 …………。
 大事に? 早漏と大事がどこに関わってくるんだ?
 早漏を大事にした奴が良いの?

「で、でもこう、大事にしすぎて、頑なに手を出されないのも、い、嫌っていうか」

 …………。
 早漏を大事にしすぎて、早漏である事を守る為に、女に手を出さない、というのも駄目って事か?
 ちゃんと早漏である事を大事しながらも経験値をあげる事は拒むな、みたいな?

 分からねえ。
 女の思考って全然分からねえ。

 なに、早漏を守るって。
 絶滅危惧種か何かなんですか。

「……そ、そうか。分かった」

 しかし答えてくれた訳だし、完全に意味不明だが、納得はしておこう。
 女心は複雑って言うしな。
 そうか、早漏を大事にする男ってのが桐乃の好みなんだな。

「……あんた、なんかとてつもない勘違いしてない?」

 桐乃が訝しげにこちらを見てくる。
 心なしか頬が赤い。

「いや、大丈夫だ。わかってるさ。大事にするのも大切だけど、大事にしすぎて手を出さないのは嫌なんだろ」

 まんま桐乃が言ったことを繰り返してみせる俺。

「そ、そう」

 それに対して納得したように頷いてみせる桐乃。

「……でも、ひとつだけ聞いていいか?」
「な、なに?」
「なんで大事にするんだ?」

 早漏を。まるでメリットが無いと思うんだが。

「そ、それをあたしに聞く、フツー!?」

 何故か慌てたようにする桐乃。
 顔がさっきよりも赤い。
 なんか凄い恥ずかしい事なんだろうか。

 ……そう言えば、余り遅漏過ぎても駄目だってなんかの雑誌に書いてあったな。
 それこそエロゲじゃないが、早くても数をこなせればいいのかも知れない。

 つかもう自身が早漏という事で話が進んでるな、俺の脳内……。

「……す、好きだからじゃん?」

 そ、早漏が……!?
 そ、早漏が好きって言ったのか……!?

 え、何、克服したら駄目なの? 早いままでいろって?!
 おいおい、将来の桐乃の彼氏、おまえの彼女は変だよ!!

 俺が色んな意味で愕然としていると、桐乃が恥ずかしそうにこちらを見据えて。

「……ち、違うの?」

 ……いや、俺に聞かれても。
 違うとか、あってるとか、そういう問題なのか?

 いや待てよ。何か、会話がズレてる気がするな。
 流石に桐乃とはいえ、ここまで変態な訳がないだろう。

 ここらで確認しておくか。
 下手すりゃ殴られるが、仕方ない。
 勘違いは早めに正しておく必要がある。

「……お、おまえはその、早漏な奴でも……い、良いのか?」

 早漏な奴が、とは言えない。

「? ソーローって?」

 純粋に疑問をぶつけられてしまった。
 そうか、こいつ意味を知らないのか。

「さ、さっきおまえが言ってた、早い男、ってことだよ」
「え? あ、ああ、そ、そーいうコト」

 桐乃は意味を察して、視線を少し宙を漂わせ。

「……早くても、それでも……、ううん、それが、良いの」

 真っ直ぐと俺を見つめて、そう言ってくる桐乃。
 顔が真っ赤で、瞳が潤んでいて。
 表情だけを見たら、まるで愛の告白をしているような感じだが。

 そ、そんな性癖をカミングアウトされても……!
 お、俺なんて言えばいいの!?

「……まあ、おまえが、それで良いって言うなら……俺も、それで良いよ」

 出来る限り桐乃を傷つけないように、俺はそう答える。
 分かった、桐乃がそういうのであれば、俺は何も言うまい。

「……ま、マジ?」

 顔を真赤にして、桐乃がそう言う。
 余程恥ずかしいカミングアウトだったんだろう。
 まあ、俺も眼鏡っ娘が好きです、なんて告白する羽目になったら恥ずかしいもん。
 気持ちは分かるぜ。

「ああ、マジだ」

 心の底からそうやって同意してやる。
 そうすると桐乃がふぅ、と息を吐いて。

「そか。良かった……」

 心底安堵したように、桐乃が微笑む。
 それはそれで魅力的な微笑みだった。

「そ、それじゃこれから、その、どうしよっか?」
「……どうするとは?」
「だ、だから、ほら、想いを伝え合ったワケだし? その、あれ、恋人になった、というか」

 …………。
 恋人? 誰が?
 俺と桐乃が?
 あれ、俺が早漏だから?
 早漏が好きな桐乃としては、こう俺と付き合う事になってんの?
 え、早漏が目当て?

「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ったああああ!!」

 慌てて俺は、制止に掛かる。

「え、な、何よ」

 俺の剣幕に、桐乃は少したじろぐ。

「いいか、俺は確かに早漏かも知れない。だがな、俺にだってプライドってのがあんだよ!
 早漏? そんな身体だけを目当てな奴と付き合えるかってんだ!
 ちゃんと俺は俺自身を愛してくれる奴と付き合うに決まってんだろ!」
「…………」
「おまえが、俺の事を好きだってなら分かるよ? でもそうじゃないんだろ?
 幾ら俺を許してくれてもよ、肝心なのは気持ちだろ! 早漏だからとかそんなんじゃなくてよ!
 どうなんだよ、ええ? おまえは俺を好きだって言えんのか!?」

 俺の必死の訴えに、桐乃は衝撃が走ったように言葉を失う。
 まあ、そうだろう。俺は間違えた事は言ってない筈だ。
 一気に捲し立てたせいで少し息が切れたが、俺の想いは通じた筈だ。

「……言える、よ」

 そして、そう桐乃は答えた。

「え?」
「あたしは……、兄貴が好き。嫌いで、ずっと嫌いだったけど、でも好きだから。
 ううん、嫌いってのもきっと、好きの裏返しだった。
 兄貴の事が、……京介の事が、ずっと気になってて。頭から離れなくて。
 でも好きなわけがないからって、嫌いに変換してて……。
 けど、それが矛盾だって、あたしは気づいたの」
「ちょ、ちょっと待て」
「ごめん。もう待たない。というか、待てない。だって、好きなんだもん。
 あんたが、好きだから。好きで好きで、好きだから。
 ごめん、もう待てない。
 あたしは……あんたが好き」

 それは、疑いようのない愛の告白だった。
 しかし、まるで現状が追いつかない。
 なんだ、何を言ってんだ?

 桐乃が、俺を好きだって?

 ……頭の中で何かが切り替わる。
 麻奈実が前に言っていた。桐乃ちゃんは、お兄ちゃんが好きだと思うよーとか。
 ありえない話だと、俺は思っていた。
 桐乃がお兄ちゃんを、俺を、好きな筈がないって。

 しかし、それは本当にそうか?
 今の告白が、それを否定してないか?

 今まではその思い込みが、お互いの意思疎通を阻害してたんじゃないか?
 今回も……意図的に俺はそういう方向性に解釈しなかったと言えないか?

 ……だとしたら、今回の俺は最悪だ。
 決して、こういう心境で、この告白を聞いてしまってはいけなかった。
 やり直せるのであれば、今直ぐやり直したい。
 だが、現実は既に起きてしまった。
 こんなムードもへったくれもない思考の侭、妹の告白を聞いてしまった。

 もう、やり直せない。
 俺の人生、最大の禍根となるだろう。

「俺は……」
「…………」

 考えろ、高坂京介。
 これはピンチなんかじゃない、危機という訳でも無い。
 ただ、ここで選択肢を間違えたら俺は一生、自分を許せない。

 何を言う?
 何を言える?

 俺は、妹を、桐乃をどう思っているんだ?
 今こそ、あの時の心境を思い出せ。

 ――仕方ねえだろ、妹は妹でもな……、……ッ!

 桐乃が言っていた、恐らく大事な会話の分岐点。

 ――それよりも……、ちゃんと大事にしてくれた方が、嬉しい、かな。

 そう、ここが分岐だった。ここで、主題が変わってる。
 早漏という話が終わって、桐乃の彼氏に求める条件に切り替わっている。

 そして、ここだ。

 ――で、でもこう、大事にしすぎて、頑なに手を出されないのも、い、嫌っていうか。

 これは、俺の話だ。
 あの夏の病院で、俺が陥った心の葛藤だ。

 俺は、妹が大事だ。妹を傷つける奴なんて、絶対に許さねえ。
 それが、兄として当たり前で、そして兄としての主張だった。

 だから、兄が、妹に手をだすなんて未来があっちゃいけねえと、俺はそう思っていた。

 そう、それが例え……男としての気持ちを殺す結果になっても。

 でも、それが……妹にとって最良の選択肢じゃなかったら?
 妹が、兄に対して求めている対応でなかったとしたら?

 妹の為に、何が出来る?
 いや、違う。
 桐乃という、一人の女性に対して、俺はどう答えるべきだ?

 俺は、俺は……どうしたい?

「俺は……さ、桐乃」
「……うん」

 ぐっ、拳を握り締める。

「……おまえが……大事なんだよ」
「……うん」

 それが、俺の答えだ。

「おまえが、大事で、大事だから……幸せに、なってほしいんだよ」
「…………うん」

 それが……、俺の答えなんだ。

「だから……、俺は……」
「…………うん」

 例え……、それが妹を悲しませる結果になったとしても。

「俺は……おまえの気持ちに……答えられない」
「………………うん」

 それが、俺の……。

 その手を取れば、きっと、幸せは得られるだろう。
 夢の様な日が始まるかも知れない。
 だけど、それは永久的に続くものではない。

 俺は……、桐乃の結婚式が見たかった。
 幸せな家庭を築くその姿を見届けてやりたかった。

 ずっと、ずっとそう夢見ていた。
 ……そして、今もそう夢見ている。

 兄妹は……結婚が出来ない。
 決して祝福される関係ではない。
 その先にあるのは非難に彩られた道だ。

 そんな先を、俺が望める筈がない。
 愛おしく、心の底から想える人であったとしても。
 俺には、そんな未来は望めない。

「……仕方が、ねえだろ、妹は妹でもな……」
「…………」

 涙が、止まらない。
 生まれ変われればと、思うか?
 死して尚、兄妹を続けたあの二人を見ても?

「……俺にとっては、幸せを願う……とても大切な、女の子なんだからさ」

 男としての想いで見た時。
 何かが変わるのか?
 ……そんな事は無かった。

 だって、好きな人に幸せになって欲しいと願うのは、変わらないことだからだ。
 だから、自分の好きな女の子が、兄を好きだと言い出したら、俺は止めなくてはいけない。
 その先に、幸せな未来はないから。

 ははっ、くそ……。他人だったら、兄を慕うこの女の子を、俺の人生を掛けて、俺が口説き倒すのに。
 兄に靡かないように、必死になって。

 それが現実は……俺が最大の……敵だった。

「…………うん、分かった」

 桐乃は顔を伏せたまま、そう答える。
 少し、声が震えていたが、どうやら泣いてはいないようだ。
 兄はこうやって馬鹿みたいに泣いちまってるってのにな。

 そして、桐乃は立ち上がる。
 俺に背を向けて。

 その姿に、喪失感を感じたのは決して気のせいなんかじゃない。
 手を伸ばしたくなったのも、決して嘘じゃない。
 だが、それでも俺は、ただ見送る。

「ねえ、あんたは……」
「…………?」
「あたしに告白されて……嬉しかった?」

 ……考えるまでもない、質問だった。

「当たり前だろ……。すげえ、……嬉しかったよ」
「……そっか」

 桐乃は、そう答える。とても優しい声色で。
 そして、歩き出す。俺から距離を離す道を。
 その背を見て、俺は目を瞑る。

 これで、良かったんだ。
 俺は、俺自身を褒め称える。
 誰もが褒めてくれる訳じゃないだろうけど。
 けど、俺は、俺の選択肢に後悔は無いと、虚勢であっても言ってやるつもりだ。

「……京介?」

 リビングの扉に手を掛けて、桐乃は俺に声を掛けてきた。

 てっきりそのまま黙って出ていくものだと思ってた俺は、不意を付かれたように顔を上げる。

 桐乃は、こっちを真っ直ぐと見ていた。普段は決して見せない、慈愛に満ちた様な表情。
 女神のようだと思えてしまうぐらいに、大人びた表情。

「あたしはね、あんたが好きだから」

 それは、最後の告白だろうか。
 続く言葉は、さよなら、とかそういう言葉なんだろうか。
 確かにエロゲーとかではそういう展開はよくある事だ。

 俺は、目を閉じる。

「……だから、あんたじゃないと、幸せになれないから」

 俺は、目を開く。

「き、桐乃、おまえ……」
「ごめん、まだあたしは子どもだから。まださ、ちゃんと言えないんだけどさ」

 桐乃は、真剣な表情で俺を射すくめるように言う。

「待ってて、欲しいから」

 …………。

「別に、誰かと付き合ってもいいから。エッチしたりしてもいいから。
 でも、子どもは作らないで。結婚したりしないで。
 待ってて……欲しい」

 こいつは……。
 こいつは……なんなんだろうな。

「……約束は、出来ない」

 俺は、顔を背けてそう返す。
 そうとしか返せない。

「うん。それで、いい」

 けどすっきりした顔で、桐乃はそう言った。
 そして、桐乃はリビングから出ていく。





 あれから。あれから。
 どれだけの月日が流れたというのだろう。

 あの時から、俺と桐乃は再び敬遠となった。
 といっても冷戦状態という訳じゃない。
 なんて言うか、少し冷めた兄妹になったというか。
 一緒にエロゲしたりとか、そういう事がなくなった。

 無論、沙織たちと一緒に遊んだりとかした。
 けど、必要以上には仲良くしなかったし、喧嘩も起きなかった。

 なんだろうな、こういうと今までは違ったのかと言われそうだけど。
 普通の、兄妹だった。

 あれから、麻奈実と付き合ったり、あやせといい感じになったりして。
 そんな俺を桐乃はごく普通に見守って、時にアドバイスさえくれて。

 数年の月日が流れた。


 俺は今、うだつのあがらないサラリーマンをやっている。
 社会の荒波に揉まれながらも、どうにか部下も出来て、何とかやってる感じだ。

 社会人になると同時に、俺は家を出て一人暮らしを始めた。
 そしてそのタイミングで、桐乃もまた、モデルの仕事かで海外へと行った。

 その時から、桐乃とは殆ど連絡が取れてない。
 因みに黒猫とか、沙織とは今でもちょくちょくあって、一緒につるんだりしている。
 他にも大学の友だちとかが出来て、昔よりは遊んでないけど。

 こう真夏の熱い中、外でファーストフードを口に運びながら、考える。
 俺の人生を思い返してみると、色々あった。
 激動のような日々があったり、ぬるま湯のような時間があったり。
 どれも確かに大切で、輝かしい未来だった。
 今にしたって言える。俺は、自分の人生に何の文句もないと。

 はむ、とファーストフードを咥えていると辺りが騒がしくなってる事に気付いた。

「なんだってんだ……、こう暑いのによ」

 こう俺みたいに静かに飯ぐらい食えねえのかと思う。
 ただでさえスーツ姿ってのは暑いのだ。なんで真夏に長ズボンを履かないとならねえのか。

 まあ、野郎とナマ脚なんか晒されてもキモいだけだけどさ。

「……相変わらず、冴えない顔してんのね、あんた」

 どこからかそんな声を掛けられる。

「はん、うっせえよ。冴えねえ顔してても、それなりに満足した人生は送れんだよ」

 もぐもぐとしながら、俺はそう答えてやる。

「そう。それなりに満足してるワケ? あたしが居なかったってのに?」

 それだけで声の主は少し機嫌が悪くなったようだ。
 相変わらず、短気な奴。

「そりゃな、おまえが居なくても俺の人生は幸せになれるルートが残されてんだよ」

 ごくんと飲み込み、コーラで喉を潤わす。

「ふーん、そう」

 そう言いながら、声の主は俺の前の席に座った。
 そして勝手に俺の唐揚げフライを掴んで口に運んだ。

「あ、てめえ! 俺が大事に残していたフライを! おま、月に一度の楽しみなんだぞ!?」
「え? ……マジで? こ、これで?」

 イラッ。この感覚はまだ健在だ。くそ、悪かったな、安月給だとそんな豪勢な暮らしは出来ねえんだよ。

「へん、どこかのモデル様には分かんねえだろうよ」
「確かに分かんないわ。……てか、モデルやめたし」
「……はあっ!?」

 馬鹿な! そんな情報、何処にも書いてなかったぞあの雑誌!?
 なに、なんかやらかした訳?!

「……ていうか。あのさ、なんていうか想定してた展開と違うんですケド」

 ジト目で俺を見やる声の主。そう、言うまでもない。俺の妹、桐乃だった。

「しかも今、あっさりとあたしの正体をばらしたっしょ!」
「人のモノローグに突っ込むんじゃねえ!」

 おまえが海外で学んだのは読心術か何かかよっ!

「むぐぐ……。ここは、こう、ホラ、ヒロインが数年ぶりにあんたの前に現れて、こう、感動的なシーンになるところでしょ?」
「おまえは何年前のセオリーを踏んでんだよ。つかエロゲーやり過ぎて若者の発想じゃねえ事に気付け」

 エロゲー作ってんのおっさんだしな。

「大体、ヒロインってなんだよ。誰がヒロインだって?」
「あたしがあんたのヒロイン」

 …………。
 頭を抱えて、息を吐く。本当に数年ぶりだ、この感覚。
 暫く大人しくしてた桐乃が嘘のようだ。

 そんな俺の行動なんて我関せず、桐乃は何かを思いついた様にテーブルをダンと叩く。

「ちょ、待って。ていうか、セオリー通りじゃないって事は、も、もしかしてあんた、結婚してたり?」
「……いや、してねえけど」
「じゃあ、子どもは!?」
「……いねえよ」

 …………。
 言えねえよな、薄々こういう展開になるんじゃねえかと思ってさ。
 ずっと、その……そういう事すらしてきてねえって。

「因みにあたしは結婚したよ」
「……はぁ!? いや、そりゃねえだろ! おまえがセオリー壊してんじゃねえかよ!」

 思わずテーブルを叩いて、桐乃へと詰め寄ってしまう。
 その様子にぷっ、と笑って、桐乃は意地悪そうな笑みを浮かべて言う。

「あははっ! 嘘に決まってんじゃん。そりゃ二次元では何度も結婚してるけどさ」

 真っ直ぐに俺を見つめて、桐乃は言う。

「あたしは、あんたと結婚するって決めてんだから」

 …………。

「どこの国で、兄妹との結婚を認めてんだよ」
「日本」
「認めてねえよっ!? おまえは六法全書を良く読めっ!」

 あはは、と軽く笑って桐乃は頬を掻いて。

「いやあ……、流石のあたしでも法律を変える事は出来なかったわ」

 ……数年前に、近親婚を許可すべきだとかいう意見が国会で出てきたのはおまえのせいじゃねえよな。
 主にオタク方面からあがってきた意見だったらしいが。

「まあ、それはいいとして」

 桐乃は俺の訝しげな視線に少し冷や汗を垂らしながら話題を変える。

「結婚しよ、京介」
「……全然、話題変わってねえな」
「あたしと同じ名字になってよ」
「もう既になってるわっ!」

 つか初めからそうだっての!

 俺の突っ込みを笑って受け流す桐乃。
 こいつ、こんな笑う奴だったっけ?
 なんか、嬉しくて嬉しくて仕方がないという感じだ。

 コホン、と咳払いをして桐乃は姿勢を正す。

「愛しています。結婚して下さい」

 ……本当に、やれやれだ。
 何も法律は変わってねえ。兄妹での結婚は国は認めてない。
 だってのに、こいつはそれを物ともしねえってんだな。

 幸せな先がねえって分かってんだろうに。
 親にはもう反対されるだろうし、友人らには引かれるだろうよ。

「へへ、実は既に結婚式場に目星をつけてんだ」
「はやっ!? っていや、だから」
「あと黒猫とか沙織も既に知ってるよ。あやせも説得に時間が掛かったけどどうにか納得してくれたし」
「ええええええ!?」

 あのあやせが?! いや、そうじゃない、そうじゃない筈だ、クールになれ高坂京介。

「結婚が出来ないって、法律上の話でしょ?
 別に結婚式を挙げられないワケじゃなくない?」

 いや、そこじゃなくてさ、なんで既に知ってるって……。
 え、何を、何を知ってんの? なんか最近、黒猫たちが俺を見て含み笑いをすんのはそういうオチ?

「あああああもうっ! いちいちうっさいな! いいからあんたはあたしと結婚すんの!
 あたしと幸せになって、あたしと家庭を持つの!
 それがあたしの幸せなの! あんたが勝手にあたしの幸せを決めんなっ!」

 桐乃はだんと立ち上がり、俺を睨みつけながらそう宣言する。

「いい? あんたに拒否権はないからね。だってあんた、この歳になるまで結婚しなかった訳だし?
 既に逃げるの失敗してるワケ。あたしが猶予を与えてあげたってのに、あんたが選ばなかったワケ。
 もう既にあんたは強制ハッピーエンドのルートに入ってるワケ。なんか文句ある?」

 そ、それはおまえが待ってて、と言ったからであって……。
 ああ、でも約束は……してなかったか。
 俺は約束じゃなく……こうして待ってた訳だ。
 他ならぬ俺の意思で。

 ふう、と息を吐く。
 気付けば周囲には観衆ができており、桐乃の宣言に拍手すら起きている。

 やれやれ。既に群衆は既にこいつの味方か。
 どうやら、俺の平穏なそれなりに幸せな日々ってのはここまでのようだ。

 これ以上の悪足掻きはみっともないか。

 まあ、もっとも?
 本当の馬鹿は、俺なんだけどな。

 コホン、と咳払いをして、俺は立ち上がる。
 桐乃は最後に見た時と身長は変わってない。
 だから見下ろすような形となる。

「……その結婚式場、幾らだ? 言っておくが、貯金はそんな残ってねえぞ」

 そりゃ桐乃はいっぱい金持っているだろうよ。だが結婚式代ぐらい俺が出したい。
 だからこうやって食費を切り詰めて暮らしてんだから。

 俺の言葉の意味を把握できてないのか、桐乃が少しぽかんとしている。
 その表情にくくと、笑みが漏れてしまう。

 俺はずっとその表情が見たかったんだよ、桐乃。

 ごそごそとポケットを漁り、取り出したのは一つの指輪。
 誓いを具現化した現代の結晶。

 同時、周囲の観衆が沸き立つ。
 その真中で、まだ現状を上手く把握しきれてない桐乃へと、俺はそれを差し出す。

「愛してるぜ、桐乃。次はもう待たせないからよ」


 くたびれたスーツの男が、女神の様な美女へと愛の告白をするその姿が、その後雑誌で取り上げられ。
 挙句の果てにドラマ化されて、世論を巻き起こし。
 その数年後、日本で初めての近親婚を果たしたりする訳だが。

 まあ、その話は置いておこう。
 そんなのは実際、どうだって良いことだった。

 だってそうだろう?
 俺の、俺の妹が……。

 俺の妹がこんなに可愛いのなら、他は何も要らないのだから。

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最終更新:2012年07月16日 14:45
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