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昨日の予習のおかげで、刑事訴訟法の講義は、まあまあ楽勝だったが、英文読解はちょっと冷や汗ものだった。
語学系の講義は、どれもいつ当てられるかヒヤヒヤしながらの1時間半が常で、これがすこぶる心臓に宜しくない。
一応、予習はしてあったんだが、ちょっとでも言い淀むと、その辺を突っ込まれて、晒し者になるから気が抜けないのだ。
今日も、誰だか知らねぇが、講師の質問に答えられずに、大恥をかかされていた学生が居た。
俺が当てられなくてよかった。その質問には、俺もまともに答えられそうになかったからな。
そんなことを思い返しながら、俺は壁や天井が煤けた学食の片隅で、いつものようにコロッケをトッピングした不味い
ラーメンを食っている。
栄養学的には褒められたもんじゃないんだろうが、安くて腹が膨れるから、昼飯はもっぱらこれだった。
そんないかがわしい代物を学食の隅っこに引っ込んで、もそもそと食う。我ながら、どっから見ても負け犬っぽい。
俺は、ラーメンを食う手を止めて、ちょっとだけ周囲を窺った。大学生活を始めておよそ一箇月。一年生で、よそ者だと
いう遠慮が無意識に働いているせいなのか、俺は、決まって隅っこの方で飯を食う。
そのため、場末とでも言うべきこの場所は、俺の指定席みたいなもんになっちまった。
「しかし、俺の周囲の連中も、いつもながら似たような顔ぶれだよな……」
どいつもこいつも、高校生に毛の生えたようなガキっぽい感じがするから、その多くは新入生なんだろう。料理を受け
取るカウンターに近い便利な場所は上級生に遠慮して、こうして隅っこで大人しくしているのかも知れない。
「でさぁ……、午後の解剖学なんだけどぉ……」
声がした方に目線だけを送ってみると、目がパッチリとして、長い髪を一本のお下げにした、モデルばりに可愛い娘が、
弁当箱の蓋を持ち上げながら、差し向かいで座っている男子学生に話しかけていた。
「解剖学は、筋肉の一筋、末梢神経の一本一本に至るまで細かく分類されてっからなぁ……。たしかに面倒くさいよ
なぁ……」
「これって、全部、前期のテストに出るんだよね?」
「そりゃ、出るだろ。やる気のない奴や、記憶力のない奴をふるい落とすにゃ、こうした細々とした事項を訊くのが一番だ
ろうからさ」
「新入生のうちから、不適格者は排除って、ことぉ? 何げにひどくない?」
「しょうがないさ、いずれは人様の命を預かるんだから、無責任なヤブはまずいってこったろう。お前も、家業を継ぐため
には頑張るしかないだろうが」
「そりゃ、そうなんだけどさぁ……」
『解剖学』というから理学部の生物学科かと最初は思ったが、『人様の命を預かる』という台詞で、医学部生だと分
かった。二人とも、俺と同じ新入生のようだが、法学部と医学部とじゃ、同じ大学でも偏差値が段違いだ。法学部にぎり
ぎり滑り込みセーフだった俺(たぶん、そうだろう)なんかとは、違う次元の連中だぜ。
それもモデルばりに可愛い娘の実家は開業医らしい。
「まぁ、お互い必死こいて、この大学に入ったんだ。その勢いで、医師国家試験の合格まで頑張ろうぜ」
「……うん……」
その女子の相方である男子学生は、度の強そうな黒ブチ眼鏡のせいで、目元はよく分からなかったが、鼻筋が通り、
顎のラインがすっきりとしたカーブを描いていた。どちらかというと、イケメンに属するだろう。
『頭脳明晰でイケメン、おまけに才色兼備の彼女付きとはね……』
「おっ、この高野豆腐、上出来」
そのイケメン男子学生も自分の弁当箱を開けて、おかずに箸をつけていた。
何じゃこりゃ、弁当箱の大きさや形は違っても、その女子学生と男子学生とで、中身は全く同じじゃねぇか。
しかも、美観にまで配慮したセンスのいい盛り付けをしてやがる。
『彼女の手作り弁当かよ……』
無い無い尽くしの俺にとっちゃ、気分のいい光景じゃねぇな。
畜生、羨ましくなんかねぇぞ!!!! ………………………いや、本音は羨ましいよな……。
二人のことを努めて意識しないようにしていたが、それにしても、色とりどりのおかずが盛り付けられた弁当は旨そう
だった。
不覚にも、その弁当をまじまじと凝視していたらしい。それにお下げ髪の女子学生が気付いたのか、俺と彼女の目線
が交錯した。
「あ、あのぉ~~、な、何か?」
不幸にも俺と目線が合ってしまった女子学生が、肩をすくめておののき困惑している。
鏡で自分の顔を確認したわけじゃないが、この時の俺は、一昨日の起きがけに、あやせから「性犯罪者予備軍」と罵
られた時と似たような目つきだったんだろう。
そのお下げの彼女は、差し向かいに居る男子学生に救いを求めるような眼差しを送っている。し、しかし、
「……………」
イケメン眼鏡も、ドン引きして絶句してやがるのか?
俺って、どんだけ人相悪いんだろう。いや、こっちに来てから完全に負け犬モードの連続だったから、急速に悪化した
のかも知れない。
元々がよくはないけどな。
そのイケメン眼鏡は、俺が食いかけているコロッケ乗せラーメンを一瞥し、眉をひそめている。
そりゃそうだ、栄養学的には、お世辞にも褒められたもんじゃねぇからな。
そっちの彼女手作りの、おそらくは栄養のバランスも考えている弁当とは大違いだ。
食い物からして、リア充と負け犬とじゃ、こうも違うんだな。
俺は、今にも二人が席を立って別の場所に移動するか、リア充眼鏡が俺に抗議をしてくるか、そのいずれかを覚悟した。
『俺の女をガン見するんじゃねぇ!』
ぐらいは言われて、下手すれば、一発、二発は殴られてもおかしくはない。
だが、そのリア充眼鏡の行動は、斜め上を行ってやがった。
「よ、よかったら、ど、どうだ? 俺とこいつだけじゃ食べきれないほど作っちまったから、え、遠慮なく、く、食ってくれて、
い、いいぞ……」
「?!」
イケメン眼鏡は、おずおずと自分の弁当箱を俺の方に差し出してくるじゃねぇか。相方の女子学生を見れば、彼女も、
困惑しているような雰囲気は否めないが、それでも微笑していやがる。
これって、リア充の余裕?
乞食じゃあるめぇし、理由なく施しを受けるのは気が進まなかったが、差し出された弁当は、本当に彩りがよく、旨そう
だったんだ。
俺は、ラーメンの汁が染みた割り箸を、イケメン眼鏡が差し出した弁当箱に恐る恐る伸ばし、出汁巻き卵の一片を掴
み取って口に運んだ。
「旨い! すんげぇ旨いよ」
昆布か何かの出汁の味とともに、砂糖とは異なる嫌味のない甘さが印象的だった。
濃口醤油でどす黒く染まり、化学調味料と砂糖の入れ過ぎで後味が悪い、お袋が作る卵焼きとは大違いだ。
「そ、そうか、よかった……」
そう呟いて、イケメン眼鏡は、相方に頷いた。
「やったじゃん。やっぱ、亮一って、医者以外だったら、調理師になっていたかもね」
「え?!」
俺は絶句した。彼女と揃いの弁当は、彼女ではなく、亮一と呼ばれたその彼氏が作っていたのだ。
「俺は、陶山亮一、医学部の一年だ。こっちは、同じ高校の出身で川原瑛美、やはり医学部で俺の同級生だ」
陶山と名乗る男子学生に紹介されたお下げの女子学生は、「川原です」と言って、俺に対して軽く会釈をしてくれた。
「お、俺は、高坂京介、法学部の一年だ」
俺も、彼らに倣って、軽く自己紹介だ。
だが、他人の彼女をガン見した上に、弁当までおすそ分けされたバツの悪さがあって、どうにも緊張しやがる。
そんな俺に対して、陶山も川原さんも鷹揚そのもので、川原さんに至ってはニコニコと害のない笑顔を浮かべている。
うわ、やべぇ、人の彼女だってのに可愛すぎる。
「亮一は、料理が好きなのよ。で、作ったものを食べてもらって、それを褒めてもらえるのが純粋に嬉しいの」
男でも料理が好きな奴が居るらしいってのは聞いたことはあったが、実物を目の当たりにしたのは、これが我が人生
で最初だろう。
にしても、料理を褒めたぐらいで、あやせに『性犯罪者予備軍』と罵られたほど目つきの悪い俺を信用していいもの
か。今いち理解に苦しむよな。
「さ、さっきは、川原さんのことをジロジロ見て……。俺って目つきの悪い不審者だよな。それなのに……」
いじけて愚痴るように言っちまった。だが、陶山は苦笑し、川原さんは、「うふふ……」と笑っている。
「高坂くん、だったっけ? さっきの高坂くん程度の目つきじゃ、あたしは別に驚かないから……」
そうして、川原さんは、相方の陶山に、黒ブチ眼鏡を外すように促した。
「うわ!」
眼鏡を外すと、こうも印象が変わるものなのか。沙織もそうだったが、陶山の場合も驚きだ。
「びっくりしただろ?」
「ああ、格闘ゲームのラスボスみたいな迫力があるな……」
言われた陶山は、俺の一言にピンと来なかったのか、「ラスボス?」と呟きながら小首を傾げている。
どうやら、こいつはゲームなんかとは無縁であって、オタクではないらしい。
「亮一のは伊達眼鏡なのよ。本人は、目つきが悪いってコンプレックスを持っていてね。それで掛けてるの。あたしゃ、
別段、目つきは悪いとは思わないんだけどさ」
三白眼っぽいが、よく見れば柔和な印象もある。迫力はあるが、少なくとも悪党ヅラではない。
「ま、まぁ、事情が特別らしいのは分かったよ……。でもよ……」
その後は、『どこの馬の骨とも知れない俺みたいな……』と続けるつもりだったが、言えなかった。リア充のカップルを
前に、格好が悪すぎるからな。だが、
「何でかしらね……」
「うん、何でだろうな」
陶山も川原さんも、勘が鋭いらしい。こちらが言いかけていたことを見抜いているようだ。
「理屈とか、理由とかなんてのは、多分なくて、高坂は、何となく俺たちと似たような感じがしたから、瑛美の奴が声を
かけたし、俺も弁当を差し出した。そんだけの気がするな」
「うん、そうかも……」
本当に頭のいい奴、嫌味な言い方を許してもらえば、高等な奴ってのは、勘が鋭いだけじゃなくて、偏見や先入観も
変な風には持っていないのかも知れない。
「ところで、俺も瑛美も地元の人間なんだ。高坂、お前は?」
二人ともジモティだってのはイントネーションで何となく分かっていた。
それは俺の場合も同様で、この二人には、俺が関東出身だってのがモロバレだろう。
「千葉出身だ。千葉県の千葉市に実家がある」
「へぇ~~千葉なんだぁ~。あたしも、中学二年から高校二年の五月までは、埼玉の親戚の家に居たんだよね」
川原さんの一言に陶山も頷いている。
地元出身のこの二人に、関東出身者である俺への偏見みたいなものが感じられなかったのは、そのせいだろうか。
それとも、こっちの人間が関東の人間をバカにしているというのは、俺が抱いていた根拠のない思い込みだったのか。
「何だかんだ言っても、首都圏が文化の中心なんだ。こっちの人間に、東京への憧憬がないかっていうと、そりゃ嘘だ。実際、俺だって、瑛美の奴が中学の途中で向こうに行った時は羨ましかったよ」
陶山が呟くように言った。こいつは、表裏のない正直な奴なんだろう。
そうした点は、馬鹿正直な俺と似通っているのかも知れねぇ。
俺は、腕時計で時刻を確認した。あとちょっとで、午後一時十分前になるところだった。
「そろそろ昼休みも終わりだな」
陶山と川原さんは、微笑みながら頷いている。
「高坂は、明日もここで飯を食うんだろ? よかったら、今度は首都圏での話を聞かせてくれよ。それと、法学部での
話とかも頼むぜ」
「そうは言ってもよ、大したことは話せないぜ」
「いや、瑛美はとにかく、俺は関東のことはロクに知らないんだ。何だって構わないさ。それに、医学部の連中だけで話し
ていると、息が詰まってなぁ。なんか純粋培養ってのは、俺の性に合わないんだよ」
そう言うと、陶山は川原さんを伴って、「じゃあな……」という一言を残して、医学部のある学棟の方へと歩み去って行った。
「純粋培養ね……」
医学部生らしい表現なのかどうなのか知らないが、妙なことを言うもんだ。
とにかく、陶山も川原さんも、物好きな変わり者なんだろう。
そうでなければ、俺なんかに声は掛けなかったに違いない。
しかし、それでも、保科さんに次いで、地元出身の学生と知り合うことができたんだ。
「俺にも居場所があるのかな……」
八方塞がり一歩手前だった状況も、少しずつだが、変わりつつあるのかも知れなかった。
最終更新:2011年07月26日 22:57