秘密の関係



 二人入るのがやっとの密室に、粘っこい水音が響いている。
 換気扇のおかげで臭いは篭らないが、このやたらはっきりした音だけは如何ともしがたい。
 外に聞こえなけりゃいいが……と、俺は呆けた頭で場違いなことを考えていた。

「ん……お兄さん」

 触れた外気にひやりとし、ぼやけた意識がはっきりする。
 あやせはこくりと喉を鳴らして口の中を整えると、顔を上げて俺を見据えた。
 見れば、唇の端から溢れたものが、顎を伝い滴っている。

「お、悪い……垂れそうだぞ」

 俺は後ろ手に手錠をはめられているのでトイレットペーパーに手を伸ばしたくとも伸ばせない。
 しかし鎖を鳴らしたのはいらぬ心配だったらしく、
 あやせは滴りを手の平で掬うように拭い取ると、俺自身に塗り付けた。
 そしてそのまま筒型にした片手を、馴染んだ手つきでこねるように上下する。
 再び密室に水音が響く。
 あやせは器用にリズムを保ちながら中腰に立ち上がり、便座に腰掛けた俺にもたれかかって、
 肩に顔をちょこんと乗せた。

「お兄さん……」と、あやせは耳に口元を近寄せて言った。もちろん手の動きは止まらない。
「そういえば――恋人と別れたそうですね、お兄さん」
「こ、こんなときにその話題を出すか……?」

 あの騒動は一応の解決をみたとはいえ、俺は俺で凹んでいるのである。
 自分のダメっぷりを思い知らされたりとかな。

「もぉ……本当にどうしようもないですね、お兄さんは」

 あやせは心なしか声を弾ませて、きゅっと根元に力を込めた。
 俺は文字通りあやせの手中にあるから、即座に機微を悟られてしまう。
 我ながら情けないことこの上ない。

「お姉さんから……それに、桐乃からも、聞きましたよ?
 ――桐乃が嫌がるから、お兄さんは恋人を作らないそうですね?」

 どうして俺の個人情報を吹聴したがるのかね、あいつらは。
 思わず顔を背けた俺を、あやせはくすりと嘲った。

「お兄さんはド変態のシスコン野郎ですね」

 艶然と囁き、唇で耳たぶを軽く挟んでから、ちろりと耳裏を舌先で撫で上げる。
 はぁ、と熱っぽいため息を吐くと、あやせは妙に嬉しげな口調で罵り始めた。

「どうしようもない変態です。いやらしい、あさましい、おぞましい、けがらわしい、気持ち悪い……
 本っ当に――気持ち悪い」
「嫌がる俺を無理やり引っ張り込んだやつの言う台詞かそれ? ど……どっちが変態だっつーの」

 途中で言いよどんだのは、あやせの手つきが指先でなぞる手つきに変じたからだ。
 いよいよ本気で俺をじらしにかかるらしい。

「変態はお兄さんでしょ?
 だってお兄さん、妹に欲情する変態なんだって、ご自分でおっしゃったじゃないですか」
「うぐぅ……」

 そう言われてしまってはぐうの音も出ない。
 いや実際はそれっぽいのが出てるが、慣用句の用法にまで突っ込むのは野暮ってもんだ。
 ――あの公園での自爆から一年以上経った今も、あやせは俺を誤解したままでいる。
 色々と理由があって、俺もあやせを誤解させたままでいる。
 しかしあやせの思い込みはたいへんはげしかった。
 そいつに付き合う人間が、よからぬ影響を蒙りかねないほどに、はげしかったのだ。
 俺自身にもこのごろ、『むしろあやせの妄想の方こそが真実なのではなかろうか?』と、
 危うく思ってしまう瞬間があるくらいだ。
 ……とても危うい気がする。とてもとても、危うい気がする。なぜか不意に桐乃の得意顔が連想された。

「だから、わたしが処理してあげないとですね……じゃないとお兄さん、桐乃を襲ってしまいますから」

 ……突っ込みたい。「それなんてエロゲ?」と突っ込みたい。あやせじゃなけりゃ突っ込んでる。
 あやせが親父の孫を掌握してなけりゃ心置きなく突っ込めたのに……

「もぅ、駄目ですよお兄さん。今日は時間がないんですから」

 的確にも的確な読心術だが、その解釈の仕方が残念な方向へ転がっている。
 俺がいうのもなんだが、ものすごくおっさん臭い。俺がいうのもなんだがな。

「お兄さんが考えるようなことをしていたら、桐乃たち、気付いちゃいますよ?」

 そうなのである。この悪魔(あやせ)はよりにもよって、
 桐乃と一つ屋根の下の高坂家で、こんなはしたない真似をしでかしているのである。
 もし桐乃に見つかったらと思うとぞっとする。冗談ぬきに殺されるだろう。絶対に殺される。
 きっと俺だけ殺される。この女に間接的に殺される。

「では、桐乃が心配する前に済ませてしまいますね」と、あやせは俺の顔色を見るまでもなく察すると、
「あ、そうそう――」
 こほんと咳払いをして、
「――勘違いしないでくださいよ。これは、桐乃を護るためですから……」
 ひと月ぶりの『いつもの台詞』を、ここに来てようやく口にしたのだった。


 俺こと高坂京介と新垣あやせの関係は、一見複雑なようでいて、その実単純極まりない。
 あえて言い表すなら――恋人以上友達未満、そんなひねくれた言葉が相応しいと思う。
 恋人よりも破廉恥で、友達よりもそっけない。
 体は許しても心は許さない、なんて台詞は玄人のお姉さんやイケメンホストの言いそうなものだが、
 あやせにはそんな悩ましい台詞を言う資格はない。
 だって体も心もいいように弄ばれているのは、俺の方だけなのだから。
 男の俺が涙ながらに訴えても説得力はないかもしれない。
 満員電車で捕まるのは男だし、慰謝料を儲けるのは大抵女性だ。
 妹の出来が良くて、割を食うのは兄貴である。
 中高生男子の待望する痴女なんて存在は都市伝説で、きれいな玉職人さんをいざ逮捕してみれば、
 その正体は女装した男だったりする。
(以前に桐乃の奸計で俺に女装趣味の嫌疑がかかったことがあって、
 その取調べ兼説教のときに親父が実例として挙げていた。
 瀬菜あたりの喜びそうなことだ。マジ勘弁して欲しい)
 とまあ、一般論としてこの手のことに関しては、いつだって男が悪者なのである。
 しかしあやせは別である。断言しよう。あやせだけは別である。
 あの女は好いた男の生首を抱えて「これでずっと一緒にいられますね」なんて言いかねない女だ。
 鍋が空でも待ち人来たらずとも、料理が出来る女なのだ。気遣いより気違いをする女の子なのである。
 将来あいつの旦那になる男は、よほどのマゾ野郎に違いない。
 かくいう俺も、あやせには深刻なトラウマを数多く植えつけられている。
 まず例を挙げるとすれば、そうだな――
 俺が、初めてあやせに襲われたときのことだ。
 ……襲われたという時点で充分トラウマに値するが、まあ聞いて欲しい。
 桐乃の愚痴並みに長くなりそうだが、聞いてくれ。
 おそらく時系列でいうと、黒猫に『呪い』をかけられて、桐乃にアメリカから帰って来てもらった後だと思う。
 たしか加奈子がらみの一件であやせの相談に乗った報酬に、あやせに着信拒否を解いてもらって、
 それで俺はずいぶん浮かれてたっけな……そうだ、完全に思い出した。
 あの頃の俺は、たしかに浮かれていた。
 あやせが着拒解除とは別に『サプライズプレゼント』をお礼にしてくれるって言ったから、すげえ楽しみにしてたわけだ。
 その頃の俺のはしゃぎぶりを具体的にいうと、
 必要もないのにアドレス帳を開いてぐふふと青猫(旧)笑いしたり、
 妹にやたらなれなれしくしてうざがられたり、
 しすしす全年齢版(またもや桐乃に「あんたも絶対やったほうがいいよ!」と押し付けられた)の新ヒロインあさひちゃんが、
 なぜかあやせに似ているように思われて悶々としてみたり……と、
 そんなふうに俺はあたかも純朴な非実在青少年のような、
 田村ロックのような気持ちで気持ち悪い振る舞いをしていたのだ。
 そして迎えた運命の休日――雨がしとしと降っていたのを覚えている。
 親父は勤めに、お袋は近所のおばさん連中と日帰り温泉へ、
 そして桐乃は遊びか仕事か知らなかったが、家には朝から俺一人だった。


 桐乃が留守なので壁越しの奇声はないし、外は雨なので近所のガキどもの奇声もない。
 窓越しに雨の音だけが聞こえてくる。
 雨の音ってのは屋内で聞くと妙に心を落ち着かせる効験があるものだ。
 俺はそんな雨音に耳を傾け、受験生として相応しい神妙な心持で机に向かい、エロゲーに励んでいた。
 選択肢でセーブしてひと息つき、「昼飯どうすっかなー」なんて言いながらあくびをする。
 我ながら惚れ惚れする自宅警備員っぷりである。
 とりあえず麦茶でも飲むかと腰を浮かせたところに、ぴんぽーん、とインターホンが鳴った。

「佐川の兄ちゃんか? 桐乃はいねえってのに……あいつまたKONOZAMAしてんの?」

 代引きだったら嫌だなあ、なんて思いつつ、尻をかきかき部屋を出る。
 そこに再びインターホン。
 ぴんぽーぴんぽぴんぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぽぽぽぽーん!
 短兵急である。

「我慢弱すぎんだろ!」
「こんにちは、お兄さん」
「って、あやせじゃないか」

 玄関を開け放った俺の眼前に、光臨したのはラブリーマイエンジェルあやせたん。
 あやせと再び相まみえる時を待ちわびていた俺は、突然の訪問にそれはもうキモいくらいしどろもどろになり、

「い、いらっしゃい。き、桐乃は出かけてるからさ……きょ、今日な、家に俺だけなんだ」
と、初っ端で相手が警戒しかねない台詞を吐いてしまう。

「あ、そうですか……」

 しゅんとなるあやせたん、超かわゆい。
 差した傘も一緒にがっくり俯いて、ぷりちーふぇいすを隠してしまう。
 その勢いで傘の雨滴がしぶいたが、俺は気にしない。むしろちょっと嬉しい。
 あやせ目掛けて降ったというそれだけで、雨露は甘露にグレードアップするのである。

「あいつはいつ戻ってくるかわからんが……リビングで待っててくれるか?」
「はい。それでは……お邪魔します」


 ――狡猾で残忍なあやせに比べるまでもなく、このときの俺は迂闊で残念であったといえる。
 あやせに会えたことが嬉しくて、どうしようもなく浮かれちまって、脳がはちきれそうで、
 これっぽっちも疑念を抱かなかったんだ。
 あのあやせが桐乃のスケジュールを把握・管理していないわけがない。そのことに俺は思い至らなかった。
 セクハラ魔人の俺と二人きりになる危険があるのに、なんの考えもなくホイホイやって来るというのも、
 あやせにしては不気味なほど浅はかといえた。
 それにあやせにしろ俺にしろまずは携帯で桐乃に連絡すればよかったろう。
 思い返せば思い返すほど、この日のあやせの行動は初めから不自然であったように感じられる。
 しかし当時の俺は未来の惨状など露知らず、馬鹿みたいに、
 それこそエロゲープレイ中の誰かさんみたいに幸せな気持ちであった。
 うきうきと飲み物と茶菓子の支度をしていて「お二階の方、お先に上がっていますね」と
 さり気なしに声をかけられたが、そこに違和感を感じなかったのは、
 この前まで黒猫が部屋に入り浸って俺が勝手知られたるなんとやらに慣れていたのと、
 あやせの口調がいやに自然だったのが原因だろう。
 そうしてお盆を手にした俺は階段を上る途中で思うわけだ。「なんかちがくね?」と。

「お兄さん、これ、なんですか」

 パソコンのディスプレイに向いたままあやせが告げた。

「これ、なんですか」

 そうしてその右手には、出しっ放しにしてあったパッケージ、媚びたポーズの妹どもを背景に
 「妹×妹~しすこんラブすとーりぃ~」と直裁的でキ印(じるし)なタイトルの描かれたパッケージがある。
 つまり――一番見られてはいけないやつに、俺の恥部を見られてしまったのである。

「っ……!」

 お盆の上のコップの氷が、慣性にカラリと鳴る。
 あやせがゆっくり振り向いた。一足一刀の刹那の内に、俺は先を取ったことを確信する。
 伸ばされた空の左手と地を蹴る右足とを一直線に、
 図らずも右手にお盆を持ってウエイターのような姿勢でいたことが最小にして最速の動作を可能にした。
 半身で突き出された人差し指、その先にはあやせが立つ。
 しかしこちらに振り向いた拍子で微かに腋が開いている。
 「くんかしたいお」と荒ぶる理性(?)を宥め賺し、腋の向こうに垣間見るはEscキーの眩い煌めき――
 ――という感じに、反射的にEscキー(緊急回避)目掛けて指を突き出した俺を、いったい誰が責められよう。
 桐乃やお袋、ときに親父といった外敵に絶えず脅かされ、身を隠し、
 平穏な日常の陰で、錠なき自室で繰り返される自己鍛錬、
 その生死流転の日々のなかで咄嗟咄嗟の判断を強いられた青少年には、
 この手の無分別が備わってしまうものだ。
 今さら誤魔化したって後の祭りであろうと隠蔽癖の発作せずにはいられない。
 こうした衝動の迂闊さ無策さ愚劣さは、似たような経験のある人なら友愛の精神でもって許してくれると思う。
 もちろんあやせたんさんは許してくれなかった。

「――お兄さん、これは何ですか」

 俺の指先は、キーに触れかけたところで静止していた。直前、あやせが俺の手首をガッチリと掴んだのだ。

「あ、あやせ?」

 去年の夏コミで見せた雷鳴のごとき大声疾呼ではない。抑揚はある。しかし朗読めいた語調である。
 問いという形式は見せかけで、内心は既にこうと決めてかかっているのが察せられた。
 あやせの表情はわからない。つーか直視する勇気がない。
 目は口ほどにものをいうが、そもそも目を見ないことには表情というものは窺い知れない。
 だから俺は、あやせと目を合わすまいとあちらこちらにさまよわせた。だって怖いもん。
 かわいらしい唇がすっごい感じにひきつっているのが、ちらっと見えちゃったもん。
 土下座に定評のある俺であるが、ここではあえてやらなかった。
 この場で大仰に跪くとなれば必然、あやせたんさんの手を振り解かざるを得なくなり、
 その狼藉で彼女の心証を害するおそれがある。……笑えばいいと思うよ。

「…………」

 硬直したまま時が過ぎる。
 あやせに手首を掴まれたままだが、こんな状況での触れあいは嬉しくも何ともない。
 俺はあやせの恥じらう姿に興奮したいのだ。だいいち、姿勢からしてよろしくない。
 俺が俺から見たあやせの右脇へ半身で左手を伸ばし、そこをあやせが真っ向から左手で掴んだので、
 そのときの俺はというとあやせの正面に半ば背を向ける格好であった。
 期せずして、国際展示場での桐乃とほとんど同じ格好であやせに捕らわれていたってわけだ。
 あのときのウソウソ連呼を思い出せば色気もなにも吹き飛んでしまう。

「…………」

 さてこの間、あやせは一言もものを言わなかった。
 おおかた、最も激しい苦痛を与えるにどこを蹴ればいいのか吟味してでもいるのだろう、と、このときの俺は考えた。
 妹に劣情を抱くばかりか全方位セクハラ外交をしかねない高坂京介なるド変態鬼畜野郎が、
 再三再四の決死の抗議活動を顧みず、更正するどころかいっそう変態性を強めている。
 昼間っから、妹にいかがわしいことをするゲームに夢中である。恥知らずである。
 これでは開き直られたようなものである。激怒するには充分すぎる。まことに万死に値する。
 ここで俺が言い訳したって火に油を注ぐようなものだ。いや、これでは同語反復になってしまう。
 あやせが俺の言い訳に怒らなかったためしはない。
 パソコンの画面が暗転し、スクリーンセーバーに切り替わった。
 冷却ファンの音が歎息したように落ち着いた。雨音が激しくなった。雷のないのが僥倖だった。
 鼻腔を蕩かす髪の香に、ようやっと気がついた。
 覚悟が決まった。俺はあやせの能面面を伺いつつ、震える手で恐る恐るお盆を机に乗せた。
 お盆を持ったままでは、あやせが割れ物に気兼ねして俺を蹴れないと踏んだからだ。
 そして俺は言い訳を開始した。

「な、なああやせ。どうしてそんなに……その、なんだ。
 だってさ、おまえも前から知ってたろ? 今さら……」

 あやせは俺の手を掴んだまま俯くと、なにやら自分自身を納得させるように、

「そう……ですね。……わかりました」
 と呟きながらパッケージを置き、不意に仏頂顔を和らげた。俺は些か拍子抜けして、

「へ? なに? 許してくれんの?」といつもの調子になったところ――
「お兄さんは変態です。どうしようもないシスコンの変態です。
 ですから――わたしがどうにかしないといけないということが、よく、わかりました」

 突然――あまりに突然に、あやせは俺を突き飛ばした。
 ぱっと俺から手を離し、すかさず桐乃に匹敵するほどの胆力で、ベッドに向け突き飛ばしたのである。

「これからお兄さんの変態は、わたしが『処理』することにします。
 お兄さんは、わたしだけにセクハラすればいいんです……」

 数分後――
 俺とあやせは、大人になった。


 このときの俺はあやせの乱心を前に茫然自失し、抗おうという気持ちすら持てなかった。

「お兄さんは大嘘吐きでしょう? なのにどうして嘘をつくの? 嘘じゃないのは嘘じゃなかったの?」
 なんてわけのわからないことを口走ったり、
「なら、わたしが…………になるしか、わたしが…………するしかないじゃないですか。
 そうよ。これは桐乃のため。桐乃を……そう、護るためなんだから。桐乃だって、きっと……」
 なんて怪しい独り言を呟いたりしながらあやせは俺をベッドに押し倒すと、
 俺のベルトをかちゃかちゃと鳴らしつつ、のしかかって来たってわけだ。

 俺は手錠をはめられているでもないのに、時折
「やっ、やめろあやせ……俺にはき……く……ま……さ……が、うあぁっ!」と
 あやせの暴虐ぶりを申し訳にたしなめるくらいで、
 男の腕力に訴えようなどとは露ほども思わず、ただただ茫然として年下の少女にいいようにされていた。
 たぶん、あやせの光彩の失せた瞳が純粋に怖かったからだと思う。
 元の顔立ちが整っているので、それだけに凄みがあった。
 だがちょっと待って欲しい。
 高坂京介は男の子である。リビドーとミンネとに溢れた男子高校生(十八歳以上)である。
 いくらあやせが怖かろうと、俺はなんだかんだであいつのことが大好きなのだ。
 ひと息に腰を落としたあやせは大粒の涙を浮かべ、か細い声で切なげに喘いだ。
 俺はそんなあやせを目にして、薄い本におけるヘタレ主人公のごとき変心にみまわれた。
 にわかにあやせがいぢらしくていぢらしくてたまらなくなり、なにを勘違いしたのか
 「ちきしょーめ! あやせはこんなにも俺を想ってくれたのか! なんて幸せなんだ俺ってやつはぁ!」
 と独り決めしたのである。
 「そっかそっかぁ。あやせは俺のこと好きだったのかぁ。
 恋するあやせはせつなくてお兄さんを想うとすぐ逆レイプしちゃうのかぁ。
 フヒヒッ、可愛いなぁもう。あやせは可愛いなあ!」
 声を震わせて馬乗りの腰を微動させるあやせの姿は、痛ましくもあり、艶めかしくもあった。
 身を刺し貫かれる痛みというのは相当なものだろう。
 体の内部に押し入る異物で息が詰まり、眉が苦悶の形にゆがんでいた。
 乱雑にはだけられ、着崩れた上衣の間から、バラ色に汗ばんだ肌が覗いて見えた。
 上体をゆっくりと揺らすごとに下着の肩紐がずり落ちて行った。
 仰け反ると、垂れた黒髪が白い鎖骨に引っかかり、その黒と白の対照が俺の目に焼き付いた。
 またもあやせが悲鳴をあげた。俺の忌々しい欲望が彼女に、さらなる負担を強いたのだ。
 俺は目の前の少女が愛しかった。あやせたんが愛おしかった。
「ヤンデレでもいい。エロ可愛くデレて欲しい……」なんてトチ狂ったモノローグを並べるほどに、ぞっこん参っちまっていた。
「やべぇ……俺、超ブヒるかも……」と鼻息を荒くし、「ぺろぺろしたい! ぺろぺろしたいぞマイエンジェルッ!」と情熱を燃やし、
 あたかもHシーン直前に恥じらうツンデレ妹を感極まって抱きしめる兄のごとく「ああ……俺は、こんなにも――彼女を愛していたのか」と、
 おれのほんとうのきもち(おめーぜってーヤりてーだけだろと毎度突っ込みを欠かさないのは俺だけじゃないはず)を感傷的に捏造した。
それこそ薄い本のヘタレ主人公みたくな。
 そうなれば、せめて彼女を、いとしいしとを苛む甘く切ない痛みを和らげてあげたいと願うのが人情だろう。
 俺は彼女の苦痛を減ずる術を知っていた。ソースはもちろん薄い本だ。
 下着が外れて、青少年が単行本や映像ソフトを買う副次的な目的であるところの突起がこぼれ出た。
 それでとうとう俺は感極まって声を発した。

「……あ、あやせぇ!」

 好きだあやせ愛してると唱えながら双丘に手を伸ばし――
 ぱしっ。

「触らないでください」

 ……はて? 幻聴だらうか? も一度わきわき手を伸ばす。
 ばしっ!

「触らないで。穢らわしい」

 俺の手は払いのけられた。打たれた箇所がしびれるくらい、思いっきり打ち払われた。

「あ、あのぅ……あやせさん?」
「うるさい……。しゃべ……るな変態……」

 激しい動きをした反動か、あやせは痛みに喘ぎ喘ぎ呟いた。
 涙声が超エロいが、俺はというと唖然として、言葉の意味ばかりが気にかかっていた。

「いや、ちょっ、おま……俺のこと好きなんじゃ……」
「はぁ? な、なにを馬鹿なこと……い、いってるんですか……
 わ、わたしがお兄さんのことを……好きになるなんて……、ん……ありえません。
 か、勘違いしないで、ください。
 これは桐乃のため……桐乃を、変態のお兄さんから護るため、なんですから」

 俺はようやく理解した、あやせという人物を。


 この女は目的のためなら手段を選ばない。
 その気になれば、友情を逆手にとった匿名の脅迫メールを桐乃の友人たちに送りつけて
 桐乃を孤立させ桐乃自身にも同種の脅迫メールを送りメルアドが変えられても送り続けて
 桐乃の精神を追い詰めに追い詰め
 それで最後に自分がたった一人の味方であり理解者である最愛の親友
 すなわち救い主として現れて桐乃を自分に依存させ桐乃のすべてを掌握して大団円を迎える、
 なんてことだってやりかねないのだ。
 やけに例えが長ったらしく具体的なのは俺の魂(前世の記憶?)がそう告げているからである。
 そんなやつだからこそ、自分の体を張って、文字通り一肌脱いで桐乃を護るという鬼畜ゲーめいた行為を実行した。
 桐乃を俺から護ろうと真剣に考え抜いた末にたどり着いた結論が、前もって俺を強姦することだったってわけだ。
 下の欲求が解消――それも最悪な形で解消されれば、俺が桐乃に手を出す理由なんかなくなっちまうからな。
 ……穴だらけどころかいかにもあやせらしい気違った論理だが、俺は見るからに甲斐性なしだし、
 ある意味では正解なんじゃないかと思えてしまうのが情けないところである。
 先だって真剣に考え抜いた末に云々とつい早まって述べてしまったが、
 今の俺は、おそらくあやせは前々からこうなる機会をうかがっていたのだろうと考えている。
 桐乃や桐乃の両親がいつ帰ってくるかもわからないのに、
 発作的にこんなけしからんことをおっぱじめてしまうほどあやせは軽率ではないはずだ。
 この日、桐乃は門限ぎりぎりに帰宅したし、後で聞いたところによると読モがらみの用事だったという。
 そもそもプレイ中の妹ゲーを見たくらいで、あそこまで激昂するのは不自然というものだ。
 激怒する機会を見計らい、ヒステリーの発作の応用で俺を手込めにしようって魂胆だったんだろうよ。
 ……まあ、こんなことはみんな憶測に過ぎない。被害者の思い込み、でっち上げの後付け根拠、
 いわば馬鹿げた饒舌だがね。
 あやせもあやせで、ぶちきれたら自分自身何をしでかすかわからない人種だからな。
 恋人にどっちつかずの態度をとられたはずみにそいつを刺し殺したりとかしそうだもん。
 とにかく俺は今回のことで思い知らされたよ。あやせがどれほど桐乃のことを大切に思っているのかをさ。
 あやせは桐乃が大好きだ。そりゃもう気持ち悪いくらい大好きだ。
 ことによると桐乃がエロゲーを愛する以上に、桐乃に執着しているのだろう。
 だからどうせ俺なんか、桐乃に比べたら路傍の石みたいなものなのだ。
 あやせにとっては、俺と初体験しちまったのだって、どうせ犬にかまれた程度のことなんだろうさ。
 当時の俺も、今の俺ほどの確信は持たなかったが、まあ似たり寄ったりの諦念に達していたんだと思う。
 あやせは嘘が大嫌いだから俺に嘘なんかつくはずがない。したがって彼女の罵倒は強がりなんかじゃ断じてない。
 すなわち言葉通りに俺のことが大嫌いってわけさ。
 俺はこんなにもあいつのことが大好きなのにな。まったく、ひどいやつだぜ。
(誤解されないよう宣言しておくが、あんなことやこんなことがあった今でも、俺はあやせが大好きだ。
 超好きだ。我ながらマゾなんじゃないかって思うくらいだ。あいつが俺をぞんざいに扱えば扱うほど、
 なぜかもっとかまって欲しくなる。実にかまってちゃんなのである)
 しかし当時の俺は今の俺ほど図太くなかった。
 途方もない快楽と失望の板挟みに翻弄され、軽口を叩く余地もものを考える余地もなく、
 まあなんだ、アレだ、ものすごく情けない状態に立ち至っていたってことだ。

「……不快、です。こっち見ないで、ください……。あっ……?」

 種馬ってこんな気持ちなのかもなぁ……と考えながら、俺は抜かずの三発目に達したのであった。
 こってり搾られるとはこういうことだろう。
 天井の染みを数えようにも目が翳んで出来なかったという記憶が、生々しく残っている。

 アフターケアもひどかった。

「わたし、お兄さんに襲われました」

 あやせは床で身繕いをしながら言った。

「お兄さんが、わたしを襲ったんです」

 下半身丸出しでベッドに伸びている俺には見向きもせず、
 その口調はまるで事実を述べるように淡々としている。

「なっ……あ、あやせおまえ……」
「ド変態のキモオタ野郎とこのわたし。みなさんは、どちらの言い分を信じると思いますか」

 脅迫である。口封じである。

「さて、と」

 薄紅色の染みたティッシュを傍らのくずかごに捨てて立ち上がると、
 あやせは視線を部屋中にさっと巡らせてから、あらためて俺に振り向いた。

「ねぇ、お兄さん」

 あやせの浮かべたとっても可愛い微笑みに、不覚にも心の男根が反応してしまう。
 散々に鍛え直された理性は警鐘を鳴らすが、
 「目を、瞑ってくださいませんか?」と懇願するあやせの美声は、
 愛情に飢えた俺には天上のもののように聞こえたのだ。
 「あやせってばもう! この照れ屋さんめ!ちゅっぱちゃっぷすなら望むところだぜ!」
 などと懲りずに胸をときめかして言いなりになる。
 ベッドの上にちょこなんとかしこまり、目を瞑って十数秒――

「えいっ」
「ぶべらっ!?」

 なに? 今のなに? コキャッっていったよ? 軟骨? 軟骨すごい角度なってない?
 鼻を押さえて顔を上げると、あやせが俺の学生鞄を振りかぶって、
 今にも第二撃を繰りださんとしているところだった。瞳の中の光彩は、案の定失せている。

「は、早まるなあやせ! 殺さないでくださ――」
「とうっ」
「う゛ぉるてすっ!」

 俺はいつか親父に殴られたときのように吹き飛び、壁に後頭部を強かに打ち付けた。
 がっくりとうなだれて、すると絶え間なく流れ出る鮮血が腕を伝い降りシーツが俺の血にまみれてしまう。

 あやせの小さな血痕が、もはや気にならないくらいになってしまう。

「ふぅ……。もぉ、お兄さんたら、ドジなんだから。――シーツが汚れてしまいましたよ?」

 あやせはそう言いながら俺の鼻に乱暴にティッシュをあてがい、ぽいとくずかごに放り込む。
 止血どころか、ぐっちゅんぐっちゅんと左右に揺らして出血を促すのである。
 これはひどい。実にひどい。
 まもなく、赤々と血の滲んだティッシュの玉がこんもりとくずかごに盛り上がった。
 俺は、ぼんやりとそれを見つめたはずみでついにどっとむせび泣いた。
 その有様はというに、わびしく丸まった背中からラララというオノマトペが流れ出んばかりである。
 口惜しさに歯噛みして、ギギギという音さえ漏れる。
 この女は証拠を隠滅するためだけに、俺をこんな目に遭わせたのだ。
 痛い……心も体もとても痛い……。
 くやしいよう、くやしいよう……桐乃……。

「今日のところはこれくらいで失礼させていただきます」

 と、あやせは男泣きに泣きじゃくる俺にかまわずドアに手をかけた。

「……今日のことは、わたし、黙っていてあげます。なので、お兄さんも――黙っていてくださいますよね」

 髄の髄まで躾けられてしまった俺は、泣きながらでもうんうんと頷いてしまう。

「ではお大事に」

 突っ込む気力も持てなかった。
 換気で窓の全開されているせいか、窓越しではあんなにも心地よかった雨音は、
 うちひしがれた俺の耳にはもの悲しく響いていた。
 きっとあやせも同じ頃、雨に打たれていたのだろう。俺の臭いを消すために、わざと濡れて帰るんだ。





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最終更新:2011年06月29日 14:02
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