風(後編) 06


*  *

 ついに野点が開催される土曜日がやってきた。
 いつものように教室のやや後ろに座っていた俺は、二限目の講義が終わったので、教科書やノートを
バッグに仕舞い、うつむき加減で立ち上がろうとした。だが、

「高坂さん、いよいよ本日です。あやせさんとご一緒に午後二時半よりも少々早く拙宅へお出でいただけれ
ば幸いです」

 鈴を転がすような優しげな声がしたので、おもてを上げると、俺の眼前に保科さんが笑みを浮かべて立っ
ていた。いつの間に……。
 超絶美人のご令嬢と、名もなきよそ者。誰がどう見ても不釣り合いな組み合わせに反応してか、教室の
ざわめきが一気に拡大した。
 「なにあれ?」、「保科さんと、あのさえない野郎ってどういう関係?」、「拙宅って、保科さんの邸宅
か?」といった驚愕と猜疑と嫉妬が込められた囁きがいやらしい。

 なんてこった! 保科さんとの野点の件は、学内では、悪意のなさそうな陶山や川原さん以外の者には
内緒にしておきたかったし、保科さんとの関係も、今回の野点だけでお仕舞いだろうと思っていたのに……。
 よりにもよって、教室に学生がわんさか居る状態で、俺との関係を匂わせるようなことを言うのだから
たまらない。

 これも保科さんが恐るべきド天然だからか?
 それはともかく、

「え、ええ、了解致しました」

 とだけ、手短に答えて、俺はそそくさと席を立ち、半ば駆け足で逃げるように教室をあとにした。
 何だよ、畜生! 俺が望まない方向に、事態がどんどん悪化していきやがる。
 クラスで変に目立ちたくなんかない。俺は無難に単位を取って、ここでの四年間を無事に過ごしたいだけ
なんだ。
 週明けに大学へ行くのが、憂鬱になっちまったじゃね〜か。保科さんよ。
 これからその保科さんの邸宅で野点だが、のっけから波乱を予感させやがる。どうなっちまうんだろうね。

 ガタゴトと路面電車に揺られながら、俺は車窓から流れゆく街並みを見やった。
 ノスタルジーを感じさせる雰囲気は嫌いじゃないが、所詮は四年間だけの仮の居場所なのだ。

「だが、無事に四年間を過ごしたとして、俺はいったいどこへ行く?」

 桐乃が留学だか結婚とかで実家を出てくれない限り、俺が実家に戻れる可能性はほぼないだろう。
 親父は俺の理解者ではあるが、結局はお袋に頭が上がらないことが、俺と桐乃をどうするかという家族
会議で証明されてしまった。
 そのお袋は、もはや俺のことは眼中にないようで、桐乃に全てを賭けている。桐乃には、高校でも陸上で
頑張ってもらい、大学はT大に合格してもらう心づもりであるらしい。
 もう、実家に俺の居場所はないのだ。

『だったら、こっちでずっと暮らすんですか?』

 あやせにはそう詰め寄られたが、もしかしたら、否が応でもそうなっちまうかも知れねぇな。だからこそ、
変に目立つのはまずいんだ。
 それだけに、先ほどの保科さんの大学での振る舞いは迷惑千万であるし、そもそも野点に招待されたこと
自体が今となっては災難でしかない。

 げんなりした気分で下宿に帰着すると、そこの女主人であるお婆さんが、珍しく妙にうきうきとしていや
がった。

「高坂さん。今しがた、あやせさんから電話がありましたけど、今はタクシーでこっちに向かっているそう
ですよ。到着したらすぐに着物の着付けをするとかで……。私も着付けのお手伝いをしますけど、大忙しで
すね」

「そ、そうですか……」

 招待状を保科さんから受け取った翌日に、件の招待状を見せた時のお婆さんの驚きときたら、まるで別人
の様だったからな。それだけで、保科さん一族のこの街でのステータスが分かろうかというものだ。

「はぁ……、ため息しか出ねえや……」

 単純な奴なら有頂天になるのかも知れないが、俺は到底そんな気分になれなかった。
 野点に招待されているのは、俺とあやせを除けば、相応な地位の者ばかりだろう。
 そんな中に、この地方の出身者ですらない只の学生が紛れ込んでいいはずがない。

「高坂さんも早く支度を……。その前に、手早く食べられるように、おむすびを作っておきましたよ」

 見れば、ちゃぶ台の上には、ラップが掛けられた握り飯が六個ほど置かれている。俺とあやせとで三個
ずつということらしい。そういや昼飯時だってのを忘れていたな。
 緊張感からか食欲はなかったが、腹が減っては戦ができぬ。俺は三個の握り飯を喉に押し込むようにして
食い、白味噌を使った味噌汁をすすり、お茶で喉をうるおした。

 握り飯を食い終えた頃、下宿の前に車が止まる音がした。そして、

「ごめんください」

 という、あやせの声が玄関から聞こえてきた。

「まぁ、まぁ、まぁ!」

 妙にはしゃいでいるお婆さんとともに玄関へ急ぐと、前回よりもさらに大きい特大のキャリーバッグを
引いた新垣あやせが笑顔で佇んでいた。

「今回もお世話になります」

「遠いところをようこそ……。あやせさん、お昼は食べました? もしよかったら、おむすびでも……」

「せっかくですけど時間が惜しいので、お昼は新幹線の中で済ませました。これから着物の着付けを致しま
すので、済みませんが宜しくお願い致します」

「まぁ、段取りが宜しいですね。では、早速、始めましょうか」

 お婆さんがあやせを伴って、一階の奥の方にある、俺も立ち入ったことのない部屋に向かって行った。
 俺の前を通り過ぎる際に、あやせが大きな瞳で、俺をじろりと睨んだような気がした。

『いよいよ正念場です。気を引き締めてください』

 とでも言いたげだったな。

「俺もそろそろ着替えないとな……」

 自室に入り、箪笥からスーツ一式を引っ張り出した。これに袖を通すのは入学式以来じゃねぇか。
 はっきり言って安物だが、ダークグレーの無難な色合いが幸いしてか、それほど見苦しくはない。
 ネクタイを黒にグレーのストライプのものでシックに決めれば、今回の野点のようなあらたまった席でも
大丈夫だろう。

「頭はどうするかな……」

 いつぞや加奈子のマネージャーを装った時のように、オールバックにしようかと思ったが、やめておいた。
妙に大人ぶるよりも、年齢相応な姿の方が変に目立たなくて済むだろう。
 それよりも、清潔感が大事だ。髪は、今朝方シャンプーしたから、その点は大丈夫かも知れない。
 ついでに、靴下も下着も、真新しい物に替えた。

「さてと……」

 和服に比べれば、スーツの着替えなんて一瞬みたいなもんだ。ネクタイだって、高校の制服で結び慣れて
いるから、一発で、大剣と小剣の位置がぴったりと合った。

 俺は自分の両肩、腹部、脚部に目をやり、スーツ姿の自分を確かめた。安物の既製服だが、俺の身体に
ぴったりと合っており、雰囲気は悪くない。むしろ、ブランド品であっても、体型に合ってない物の方が
安っぽく見えるだろう。
 ただ、昨今の若者向けの流行なのか、ズボンが細身にできており、若干だが圧迫感を覚えなくもない。

 時計を見ると午後一時過ぎだ。あやせの支度はどれ位かかるのだろうか。
 俺はズボンにシワが寄らないように脚を伸ばして座布団の上に座ると、気象庁のホームページでこの地方
の時系列天気予報を確認した。

「曇り時々晴れ……。気温も十五度から二十度弱といったところか」

 スーツ姿にはちょうどいい陽気だろう。しかし、振袖姿では少々暑いかも知れない。
 時刻が午後一時半になろうとする頃、階下から俺を呼ばわるお婆さんの声がした。あやせの着付けが終
わったらしい。予想外に早かったな。

 階下に降りてみると、八畳間には、長い髪をきれいにまとめ、空色を基調とし、芙蓉らしい花模様が控え
めにあしらわれた振袖姿のあやせが立っていた。

「おお……、さすがに似合うなぁ」

 月並みな感想だが、実際にそうとしか表現できないんだから仕方ねぇな。
 あやせも、スーツ姿の俺を見て、

「お兄さんも似合ってますよ。特に、そのネクタイ、なかなかいいですね」

 と言ってくれたじゃねぇか。外交辞令かも知れないけどよ。

「そうですね、高坂さんのスーツ姿もなかなかです。でも、あやせさんには本当にびっくりです」

「妹がどうかしましたか?」

「いえ、こんなにお若いのに、着物の着付けの心得があって、このような方は、今では本当に珍しいですね」

 そりゃそうだ。高校一年生とはいえ、和服も着こなす現役のモデルだからな。お婆さんが驚くのも無理は
ない。

「それはそうと、お兄さん急ぎましょう」

 和服に合わせたポーチを手にしたあやせが俺を急かしている。だがな、

「保科さんは二時半の少し前頃に来いとかって言ってたぞ。今出発したんじゃ、だいぶ早く着いちまう」

「お兄さん。わたしが振袖姿だってのを気遣ってください。わたしはスーツ姿のお兄さんほど機敏には動け
ませんから、早め早めの行動を心掛けたいんです」

 もっともらしい理屈だったが、“敵状視察”のために早く出発したいんだな。

「じゃぁ、タクシーを呼びましょうか?」

 お婆さんの申し出に、あやせは「宜しくお願い致します」と即答した。
 俺は俺で、もう一度自室に戻り、財布や学生証の入った定期入れをスーツの内ポケットに入れた。
 取り敢えず学生証を見せれば、保科さんの同級生であることは主張できるだろう。
 それと、保科さんから受け取った招待状も、封筒ごとスーツの内ポケットに収めた。

「お兄さん早く! タクシーが来ましたよ」

 呼んだらすぐ来たのか。どうやら、タクシーの営業所が下宿屋の近くにあるらしい。
 玄関に行くと、玄関先に止まっているタクシーにあやせが乗り込もうとしているところだった。

「おい、おい、俺が靴を履くまでは待っていてくれよ」

「お兄さんがグズっているからです。もう、早くしてください」

 相変わらず容赦がねぇな。まぁ、これでこそ、あやせたんだ。

「どちらへ参りますかね?」

 俺が乗り込むなり、そう言った初老の運転手に、俺は保科さんの住所を告げた。

「おや、保科さんのお屋敷ですかな?」

「分かりますか?」

「あの辺りは、保科さんのお屋敷ぐらいしかめぼしいものがありませんからなぁ。すぐに分かりますよ」

 俺とあやせは思わず顔を見合わせた。どういうことだろう。
 タクシーは、土地勘のない俺たちを乗せて走り出した。どうやら、北の方に向かっているらしい。
 タクシーは二十分ほど走り続け、人家が途絶え、木立が目立つようになった頃、

「こちらです……」

 運転手は、そう言ってタクシーを止めた。

「ここ、ここが保科邸……」

 寺の山門にも似た重厚な門があり、その門の左右には、白壁に瓦の屋根が葺かれた塀がつながっていた。
白壁の塀は高く、中の様子はさっぱり窺えない。
 屋敷の背後には山々が迫っているようで、その山々は鬱蒼とした森で覆われている。

「たしかに周辺にめぼしい建物はねぇな……」

 おそらくは、背後の山々も含めて、屋敷周辺の土地は、すべて保科家のものなんだろう。
 土地だけで資産価値はどれだけになるのか見当もつかない。

「では、一千八百六十円をいただきます」

 運転手に告げられた料金を支払って、さて下りようかという時に、

「待ってください!」

 あやせが、ポケットから財布を取り出そうとした俺を制止した。

「何だよ、いきなり」

「このまま下りて門をくぐったら、保科邸の規模がよく分からないかも知れません。ですから、タクシーに
乗ったまま、保科邸の周辺を見てみましょう」

 敵状視察というわけか。幸い時刻は二時過ぎだった。
 それに、言い出したら聞かないあやせに、敢えて逆らっても不毛だしな。
 俺が、無言で頷き、財布を内ポケットに入れ直すと、あやせは運転手に、

「では、お願いします。保科邸の周辺をちょっと一回りしてください」

「宜しいですが、保科さんのお屋敷は、背後が山で、左右は森で塞がれています。そっちの方に道はござい
ません。ですから、お屋敷の前の方にある道路を行ったり来たりするだけになりますが……」

「それで結構です」

 運転手は、「承知致しました」と呟くように言って、タクシーをゆっくりと走らせた。
 門から右手方向、おそらくは東の方に二百メートルほど行っただろうか。白壁の塀は、そこまで続き、
そこから先は背後の山と同じく、鬱蒼とした森になっていた。

「こちら側は、ここまでですね」

「では、引き返して、門から左手方向も行ってください」

 門から左手方向も、右手方向とほぼ同様で、門から二百メートルほど離れたところで、白壁の塀は途切れ、
あとは鬱蒼とした森だった。
 ただ、自動車が出入りするためらしいゲートが白壁を穿つように設けられている点だけが違っていた。

「ここまでですね……」

「……分かりました。これで結構です。車を門前に戻してください」

 結局、保科さんの邸宅が、やたらと大きいということしか分からなかった。
 あまり意味のある行動ではなかったかもな。

「では、これでお願いします」

 タクシーが門前に止まるや否や、あやせは運転手に一万円札を差し出していた。

「おい、おい、そんなもん、俺が払うよ……」

「いいえ、保科邸の周囲を走ってくださいっていう余計なお願いをして、支払うべき料金を高くしたのは
わたしですから、おかまいなく」

 強情だからな、こいつは。言い出したら聞きゃしない。
 俺は支払いはあやせに任せることにして、先にタクシーから下り立った。

「伏魔殿、っていう感じじゃないですか」

 タクシーを下りて、俺に寄り添ったあやせが、心持ち眉をひそめて言い放った。

「せめて、威風堂々って言ってやれよ」

 かく言う俺自身も、あやせの家を伏魔殿と表現したこともあったな。お互い様か。

 門構えは、保科さんと出会った禅寺にも引けを取らない。いや、あの禅寺以上の規模だろう。白壁の塀の
高さは三メートル近くあり、侵入者を阻むのみならず、屋敷の中の様子を完全に隠蔽している。
 あやせの言う通り、これこそが、本当の伏魔殿なんだろうな。

「でも、古くさいですね。防犯装置とかはどうなっているんでしょうか?」

 保科さん憎けりゃ、門まで憎いってか。あくまでケチをつけたいらしい。
 先日川原さんから教えてもらった鬼女伝説とか、保科家の婿が早世する噂を、あやせが知ったら大変だな。
 そんなあやせにちょっとうんざりした俺は、指を差さずに、顎を門の軒の方にしゃくってみせた。

「あれを見ろよ」

 よく見ればそこには、灰色の小さなドーム状の装置が取り付けられていた。

「カメラ……、ですか?」

「多分な。これ以外にも、あちこちにあるんだろう。俺たちが到着したことは、屋敷の中には筒抜けさ」

 そうなると、屋敷の前をタクシーで右往左往したのはまずかったな。警備責任者だか何だかには、不審者
と映ったかも知れねぇ。
 だが、ここまで来て引き返すのは癪だし、門前払いはもっと腹が立つ。
 俺は、ごくり、と固唾を飲み込むと、門にしつらえてある呼び鈴のボタンを押した。

『はい、どちら様でしょうか』

 落ち着いた中年女性の声がインターホンから聞こえてきた。保科さんの家の女中頭といったところだろうか。
 俺は、落ち着くつもりで軽く咳払いをしてからインターホンのマイク部分に近づいた。

「あの〜、本日こちらで開催される野点のご招待に預かりました、高坂京介と、高坂あやせと申します……」

 それから先はどう言うべきか正直迷った。『だから門を開けてくれ』というのでは、ちょっと図々しい
だろう。結局、

「……本日は宜しくお願い致します」

 と無難に締めくくった。
 だが、インターホンの相手は、

『かしこまりました』

 とだけ告げて、インターホンをプツンと切っちまったじゃねぇか。
 当意即妙でこっちのことを認識してくれたのなら幸いだが、それにしてはあまりにもそっけなさ過ぎる。

「ここで待て、ってことですか?」

「そういうことになるんだろうな……」

 かしこまりました、ってんだから少なくとも門前払いではないだろうが、やはり俺たちは保科さんの野点
では場違いな存在だな。
 俺たち以外の招待客は、この地方の名士ばかりなんだろうから、タクシーではなく、運転手付きの車で
やって来るに違いない。そうなると、さっきタクシーで走り回っている時に目にした自動車専用のゲート
みたいなところから保科邸に入っていくのだろう。
 この門を徒歩でくぐる招待客なんて、俺たちぐらいなもんだ。

 てなことを、うだうだと思っていた矢先、門の脇にあった人一人が身を屈めて通れるだけの小さな木戸が
軋むような音とともに開いた。

「まぁ、まぁ、ようこそお出でくださいました」

 木戸から現れたのは、鴇色っていうんだろうか、わずかにくすんだ感じがする淡紅色の振袖をまとった
禅寺の君だった。

「ほ、保科さん?!」

 てっきりお手伝いさんとか、執事とか、悪くすると警備責任者とかが出てくるんじゃないかって思って
いたんだがな。まさか、振袖をまとったお嬢様じきじきのお出ましとは驚きだ。

「何をそんなに驚いてらっしゃるんです? ここは、わたくしの家ですし、そのわたくしのお客様がお出で
になったのですから、こうしてお迎えに参った次第です」

「え、ええ、そりゃ、そうですね。は、ははは……」

「そうですとも!」

 そうきっぱりと言いながら、保科さんは端正な瓜実顔を、俺の方へ押し出すように向けてきた。
 ヤバイ。間近で見ると、その美しさにめまいを覚えそうだ。あやせも可愛いし、このところ一緒に昼飯を
食う機会が増えた川原さんも結構な美人だが、保科さんには到底及ばない。

「……お兄さん。何、鼻の下をデレっと伸ばしているんですか。この変態」

 呟くようではあったが、場の雰囲気に似つかわしくない罵声で、あやせが一緒であることを思い出した。
 その自称俺の妹様は、双眸を半眼にして、恨めしげに俺の顔を睨みつけている。

「お前なぁ……。これからあらたまった席だってのに、なんてこと言いやがる。野点の最中にそんなことを
口走ろうもんなら、大ひんしゅくだぞ」

「高坂さん。そんなに目くじらを立てなくても宜しいじゃありませんか。こんな風に言い合えるなんて、
本当にお二人は仲がいいんですね。わたくしは兄弟がおりませんから、あやせさんのことがうらやましいです」

「い、いえ、でも、まぁ、そうですか……」

 要領を得ないことを口走ってしまったが、保科さんは、微笑しながら軽く頷いている。
 どっかの自称俺の妹様のように、人の揚げ足を取るなんてことはしないんだろう。そうした品格が、目に
見える形で美貌にも反映されているのかも知れない。
 午前中の講義後、学生でごった返していた教室で、保科さんは俺を呼び止め、野点が本日であることを
他の学生にも聞こえるような声で告げたが、それは保科さんがド天然だからだ。
 人のことを悪し様に言うことなどあり得そうにない保科さんにとって、単に俺が野点にちゃんと来るか否
かを確認しておきたかっただけであり、他意はないのだろう。

「では、狭いですけど、こちらからお入りください」

 保科さんは、舞うような足取りで門脇の木戸をするりとくぐり抜けていく。俺たちも、それに続けという
ことなのだろう。

「こんな狭いところをくぐるんですか?」

「みたいだな……」

「もう! 晴れ着を変なところに引っ掛けたら、大変じゃないですかっ!!」

 あやせの振袖だって結構な品なんだろう。それだけに、彼女の当惑というか、不満はごもっともだ。

「でも、保科さんがやったようにすれば、大丈夫なんじゃねぇの?」

 郷に入っては郷に従うのがルールだ。俺は、むずかるあやせの手を引いて、ゆっくりと木戸をくぐって
いった。 
 木戸は、思ったよりも間口や高さがあり、俺もあやせも無難にくぐり抜けることができた。屈めていた身
を伸ばして周囲に目をやると、大きな門の袂に俺たち二人は立っており、俺たちの目の前には、ちょっと
悪戯っぽく笑っている保科さんが居た。

「いきなりでびっくりされたでしょうが、この木戸は、極々近しい者しかくぐらないんですよ。お二人は、
今回、特別なお客様ですから、門ではなくて、こちらの木戸を通っていただいたんです」

「そ、そうですか……」

 俺は、口ごもりながら笑顔の保科さんをチラ見した。こんな風にも笑うんだ。こういうときは、どっかの
お嬢様っていうよりも、普通の女の子っぽくていい。
 さっきの木戸を保科家の極々近しい人だけが通るというのが本当だとしたら、保科さんをはじめとする
保科家の人々は、徒歩で出掛ける時、この木戸を通るんだろう。そう思うと、束の間の窮屈な思いも悪くは
ない。

「では、参りましょうか……」

 保科さんが先に立って歩き出した。俺たちもその保科さんについていく。大小不揃いな石を組み合わせた
石畳の通路が、門から母屋の方へ伸びていた。だが、保科さんは、そっちの方ではなく、石畳から分岐して
点々と続いている玉石の上を進んで行く。

「保科さん。そっちは建物じゃなくて庭ですけど……」

「大丈夫です。こちらに、お茶の作法をお教えする場所がございますから……」

 保科さんは振り返りもせずにそう告げた。
 俺とあやせは、当惑して顔を合わせた。
 しかも、あやせの奴は、口をへの字に曲げて、首を左右に振りやがった。
 保科さんは当惑する俺たちには構わず、玉石の上をしずしずと進んでいく。玉石の周囲には枯山水で使わ
れるような白い砂利が敷かれていて、玉石ともども白っぽい帯となって庭の奥へと続いている。その白っぽ
い砂利の帯から外は、しっとりとした緑色の苔が絨毯のように地面を覆っていた。

「今は、お花があまりありませんけど、春には背後の山の桜がきれいなんです。それに、もうしばらくすれ
ば、夏の花が色々と咲くんですよ」

 いや、花なんかなくても、白い砂利と緑の苔のコントラストが美しい。
 見る目がなければ、単に苔が生えた地面に石と庭木が不規則に並べられているようにしか感じないだろう。
だが、保科さんと出会った禅寺の庭園もそうだったが、石と苔と緑の庭木が織り成す空間は、ある種の荘厳
さに満ちていて、自ずと背筋が伸びるような気がした。
 計算し尽くされた不規則性が、保科さんの家の庭園にはあるのだ。

「こちらです……」

 俺たちは、庭園のどん詰まり、保科邸の背後の山々の木々が間近に迫る場所に来ていた。
 そこには、草葺の小さな庵が、背後の木立と庭の植え込みで隠れるように、ぽつねんと建っていた。
 それが茶室の庵であることは、俺にも分かった。だが……、

「入り口は、ここなんですけど……」

「こ、ここって……」

 俺とあやせは思わず顔を見合わせたね。
 だって、保科さんが言う入り口ってのは、戸棚か何かの引き戸かと思うほど小さかった。

「ここは、さっきの木戸よりもさらに狭いですから注意してくださいね」

 言うなり、保科さんはその引き戸を開け、身を精一杯に屈めて、滑るように茶室の中へと入っていった。

「では、高坂さんにあやせさんも入ってください」

 気は進まなかったが、仰せの通りにした。
 先ほどの木戸とは比較にならないほど狭かったが、それでも、しっかりと身を屈めると、肘や背中をどこ
にも擦らずに中へ滑るように入ることができた。
 今にして思えば、さっきの木戸は、ここをくぐり抜けるための予行演習みたいなもんだったのかもな。

「これが本物の茶室か……」

 何かの書籍で写真を見たことはあったが、実際に目にし、その中に入ったのはこれが初めてだ。
 写真でも草庵風の茶室というものは、狭いという印象だったが、この茶室も、たしかに狭い。何かの書が
掛けられている床の間のような部分を別にすれば、広さは四畳半程度だろうか。俺が住んでいる下宿の方が
格段に広く感じる。

「本物だなんて……。茶室の作りに厳格な様式はありませんから、流派によってまちまちですし、各流派も
茶室の様式にそんなに神経質ではありません。要は、世俗から切り離された空間で、お茶をいただけるもの
であれば、どのような様式でもよいのです」

 保科さんは笑顔でそう言い、座るよう、俺たちを促した。

「でも、座布団がないじゃありませんか!」

 あやせが不平丸出しの刺のある口調で保科さんに噛みついている。たしかに、座布団なしで畳の上に正座
はきついな。

「茶の湯で座布団は使いません。座布団というものは、茶事のような正式な席で使うべきものではありませ
んからね」

「座布団は下品だってことですか?」

「う〜ん、下品とまでは申しませんが、決して上品なものではありませんね」

 そうなんだ。知らなかった。
 あやせも、座布団が上品な代物ではないことを保科さんから指摘されたら、未だに不服そうではあったが、
押し黙った。
 保科さんは、嫌味な言い方だが、上流階級としての躾をちゃんと受けている。
 その彼女が上品ではないと言うのであれば、それはそうなのだろう。

「では、お言葉に甘えて、失礼致します」

 俺は保科さんに近い方に座ろうとしたが、それはあやせに止められた。

「お兄さんは保科さんを意識し過ぎです。ですので、保科さんの間近に座らせるわけにはいきません」

「て、おい、おい……」

 とんだ、おてんばだな。こんなんで野点で粗相でもされたら、たまんねぇ。
 だが、保科さんは、そんなあやせを微笑ましくさえ思うのか、涼やかな笑みを微かに浮かべながら炉が設
けられた一角に座り、炉の上で湯気を立てている茶釜の蓋を取り上げている。

「お湯を沸かしておいたんですか?」

「ええ、最近は炭火ではなく電気の炉ですから、準備も簡単なんです」

 にしても用意周到だな。
 保科さんも大学から戻って着替えとかが必要だったろうから、茶室で湯を沸かしていたのは、お手伝い
さんとかなんだろうか。
 おっと、余計なことを考えている場合じゃない。

「では、本当に短時間ですが、これからお二人に茶の湯の一連の所作について簡単にお教えできればと思い
ます」

「よ、宜しくお願いいたします」

 かしこまった保科さんの居住まいで、場の空気が一段と引き締まってきたような気がした。
 茶室という狭い空間は、こうした緊張感を演出するためのものでもあるらしい。

「でも、今日の茶会は野点ですから、そんなに緊張されなくても大丈夫です」

「は、はぁ……」

「野点には、特別にこれといった作法はございません。ただ、全く気楽なものかといいますと、そうでも
ありません。昔から野点というものは、『定法なきがゆえに定法あり』と言われておりまして、様式や作法
がないということが、野点の易しさでもあり、難しさでもありましょうか」

 う〜ん、定型がないものほど難しいってのは、何となく分かるな。それでも、手本となるべき所作はある
んだろう……。

「要は、マナーや常識を心得た自然な振る舞いができればいいのです」

「自然な振る舞いですか……」

「ええ、ただ自然に振舞うには、俗なところが無く悟った境地にある者でないと難しいという茶人もおりま
す。しかし、わたくしどものような世俗の者は、そこまでの境地に至ることは難しいでしょうから、先ほど
も申しましたように、マナーや常識を心得た自然な振る舞いであれば、十分でしょう」

 そう言うと、保科さんは、黒漆塗りで掌に乗るほどの大きさの器の蓋を開けた。その中にはモスグリーン
の粉が入ってた。その器は、名前だけは俺も耳にしたことがある棗とかいう、抹茶を入れるものらしい。

「今回の野点では、濃い目のお茶を点てますから、この練習でも、ちょっと濃い目に点てますね……」

 保科さんは、竹製のへらのようなもので棗から抹茶を掬うと、それを茶碗に入れ、柄杓で湯を注ぎ、茶筅
を使って点て始めた。
 茶を点てているときの保科さんは、先ほどとは別人のように真剣だった。そのぴりぴりする空気に、俺は
もちろん、あやせも圧倒されて、居住まいをあらためるように、背筋を伸ばしてかしこまった。
 保科さんは、茶碗の中で茶筅をゆっくりと優雅に巡らせると、その茶筅を漆塗りの盆の上に戻し、茶を点
て終わった。

「では、あやせさんからどうぞ、と申し上げたいのですが、その前に一つだけ確認をさせていただきたい
ことがございます」

「何でしょうか?」

 勿体をつけられて不服なのか、あやせの奴がまなじりを吊り上げていた。
 本当に、保科さんに対してはガキ丸出しだな。

「拙宅の野点は、茶事の様式で行われます。ご存知かも知れませんが、茶事とは少人数のあらかじめ招待
された方々で行う密接な茶会であり、一つの椀で同じ濃茶を回して飲んでゆくものです。ですから、あやせ
さんは、出されたお茶を軽く含むだけにして、茶碗を高坂さんに渡すようにしてください」

 『一つの椀で同じ濃茶を回して飲んでゆく』を聞いたあやせが目を剥いた。

「そ、それって、か、か、か、か、間接キスじゃないですかぁ?!」

 た、たしかにそうだわな。でも、うろたえるこたぁねぇだろうが。一回だけだけど、特濃ディープキスを
やってるんだからさ。

「う〜ん、そのようなことは、わたくし考えたこともございませんが……。あやせさんは潔癖症のようです
から、気にされるんでしょうか……」

「気にならない方が、余程どうかしていると思います。第一、不衛生じゃないですか」

 おい、おい、それってなにげに失礼な発言だぞ。
 捉えようによっては、自分以外の者は病原菌を持っていると言ってるようなもんじゃねぇか。

「不衛生って言われればそうかも知れませんね……。しかし、気休めですが、飲み終えた方は、椀の飲み口
を懐紙で拭ってから次の方に椀を渡すことになっています」

「で、でも……」

「おい、もう、その辺にしておけ」

 俺は肘であやせの脇腹を小突き、彼女をたしなめた。これ以上無作法な真似をされては敵わない。
 だが、あやせは、小突いた俺をムッとして睨み返し、なおも保科さんに食らい付いていやがる。

「こ、今回の野点の席順は、もう決まっているんですか?」

 もう、厳かな雰囲気が台無しだ。何をやってるんだろうね、本当に。
 それに引き替え保科さんは泰然としたもんだ。

「ええ、お茶を点てる先生の側から、他の招待客の皆様が並ばれて、その後にわたくし、それから高坂さん、
最後にあやせさんが座ることになっています」

「じょ、冗談じゃありません!」

「どうしてですか? わたくしは、今回お茶は点てませんから、末席の方に控えるべきですし、高坂さんや
あやせさんは、他のお客様とは面識がありません。ですから、間にわたくしが居た方が、お二方もお気が楽
になるのではないかと思いまして……」

「そ、それはそうですが、その席順では、あ、兄が……」

「高坂さんが、どうかなされるんですか?」

「ど、どうって、言いましても……」

 保科さんに食らい付いたはいいが、保科さんの論が至極妥当だからか、気の強いあやせが口ごもってし
まった。
 こいつ、保科さんと俺とが間接キスするのが嫌だったんだな。不衛生云々は、単なる口実だったのか。

「困りましたねぇ……。一つの椀で同じ濃茶を回して飲んでゆくのは、茶事における鉄則とも言うべきもの
なのですが……」

 ぶーたれている、あやせに対しても、保科さんはあくまでも笑顔だった。

「……では、茶事様式が苦手なあやせさんは、野点が終わるまで拙宅のどこかで控えていただき、野点には
高坂さんだけが参加されるということに致しましょうか」

「そ、それは困ります!」

「では、あやせさんも、茶事の様式を守っていただき、席順も先ほど申し上げた通りでお願い致します」

「は、はい……」

 一応、頷きはしたが、あやせには不満の火種がくすぶっていやがる。
 唇を悔しそうに引き結び、眉をひそめているからな。今日の野点、本当に気が抜けないぜ。

「では、仕切り直しです。それはそうと、お二人は懐紙はお持ちですか?」

「いえ、持っておりません……」

 不勉強過ぎたよな。同じ茶碗で回し飲みすることも知らなかったし、茶事に懐紙が必要なことも知らな
かった。

「では、この袱紗挟みをお使いください」

 保科さんが、布製の四角い物入れをどこからか取り出し、それを俺たち二人に手渡した。

「その中に懐紙が入っています。和服姿のあやせさんは、その袱紗挟みを懐に入れて、野点の席に着いて
ください。スーツ姿の高坂さんは、その袱紗挟みを手にして席に着いていただければ結構です」

「は、はい……。開けてみてもいいでしょうか?」

「どうぞ、と申すよりも、この練習でも使いますから、そのままお膝元に置いていただいて構いません」

 袱紗挟みには、高級そうな和紙でできた懐紙が十枚ほど入っていた。袱紗挟み自体は木綿かと思ったが、
微妙に風合いが違う。どうやら、紬でできているらしい。

「では、遅くなりましたが、あやせさん、お受け取りください」

 保科さんは、やりこめられて凹んだままのあやせに茶碗をそっと手渡した。
 それを両手で不器用に持ったまま、あやせは固まってしまっている。

「こ、この後は、どうすればいいんでしょう……」

「この前、お寺さんでお抹茶をいただいた時と同じようでいいのです。型に嵌った所作は、かえって無粋で
す。先ほども申しましたように、自然な振る舞いが第一ですよ」

「は、はい……」

 自然な振る舞いねぇ……。気持ちが昂っている今のあやせには、かなりきつい要求だな。
 それでも、あやせは頑張って、どうにかこうにか自然そうに振る舞うことができたようだ。

「あやせさんは、椀のお茶を半分ほど飲んだら、椀の飲み口を懐紙で拭い、その椀を高坂さんにお渡しくだ
さい」

 あやせが、言われた通りに飲み口を懐紙で拭い、それを俺の方にそっと差し出してきた。
 あやせから受け取った茶碗には、細かい泡が微かに残ったお茶が、椀の底の方に溜まっていた。

「高坂さんは最後の方ですから、残ったお茶をゆっくりでいいですから、全部飲んでください。飲み終えた
ら、わたくしがその茶碗を引き取りに伺います」

「分かりました」

 俺は保科さんが点ててくれたお茶をゆっくりと味わった。なるほど。濃い茶というだけあって、先日、
禅寺で飲んだものよりも格段に濃厚な味わいだ。しかし、変な苦味は全くない。おそらく最上級の抹茶を
使い、かつ保科さんの点て方が上手なのだろう。

「では、椀は、わたくしにお返しください」

 俺の前にやってきた保科さんに空になった茶碗を差し出した。
 茶椀を受け取った保科さんは、炉の前に座り直し、懐紙で茶碗を丁寧に拭っている。

「ひとまずは、これでよいでしょう。後片付けは、野点が無事に終わってからですね」

 それから保科さんは、「え〜と、炉の電源は……」と呟きながら、何かのスイッチを切ると、正座して
いた俺たちに、茶室を出るように促した。
 練習はこれでお仕舞いらしい。時計を見ると、午後三時十分前だ。時間的にも頃合いだな。
 この練習がなかったら、とんでもないことになるところだった。そもそも、一つの椀で回し飲みすること
すら認識していなかったんだから、ぶっつけ本番だったら、あやせがパニックになったかも知れない。

「では、お兄さん。先に参ります」

 そのあやせが、つと立ち上がって、茶室の出入り口に向かっていく。俺も、立ち上がって、あやせの後に
続こうとした。だが、

「……?!」

 立ち上がることはできたが、両足に違和感を覚え、俺は不覚にもよろめいてしまった。

「高坂さん、どうかなさいましたか?」

 保科さんが心配そうに見詰めている。

「な、何でもありません。ちょっと、足がもつれただけです」

 取り敢えずは、そう言い繕った。しかし、何なんだ、この唐突に感じた足の異常な痺れは。
 こっちに来てからというものの、下宿は座り机だったから、正座には慣れているはずだった。実際、時折、
膝を崩すときはあったが、何時間でも座っていられた。それなのに……。

「高坂さん、もしかしたら、ズボンがきついんじゃありませんか?」

「え?」

 そうかも知れなかった。今風のスリムなシルエットが仇になったようだ。椅子に座る程度では何も問題は
ないが、正座では膝を目一杯曲げるから、細身のズボンだと生地で血管を無用に締めつけてしまうんだろう。

「今は、そうしたスリムなスーツが多いですから仕方がないのでしょうけど、困りましたね……。
拙宅に高坂さんも着用できそうな着物がありますが、それに着替えられてはどうでしょうか?」

「せっかくですが、もう時間が……」

 時計を見ると、野点の時間まで、あと八分程しかない。

「お兄さん、何をぐずぐずしているんですか!」

 いち早く茶室の外に出ていたあやせが、俺と保科さんが未だに出てこないのでヒスを起こしていた。

「そうですか、でも、ご無理なさらないように。もし、足に違和感があったら、遠慮なく仰ってください。
健康上の理由で茶事を中座しても、それは非礼にはあたりません」

「は、はい……」

「とにかく、あやせさんも痺れを切らしているようなので、ここを早く出ましょうか」

 そう言って、保科さんは悪戯っぽく笑った。
 俺の足の痺れと、あやせがヒスを起こしていることを洒落ているのだ。
 俺は保科さんに促されて、茶室の出入り口をくぐり、外に出た。次いで、保科さんが優雅な振る舞いで、
滑るように茶室の外に出てきて、俺の傍らに並んだ。

「お兄さん、本当に、何をやっているんですか。んもう、時間がないんですよ!」

 時間云々は見え透いた口実で、束の間であれ、茶室という密室に、保科さんと二人きりだったのが気に
食わないだけだ。
 俺のことを気遣ってくれた保科さんに比べて、やっぱガキだな。

「まぁ、まぁ、あやせさん。そんなに不機嫌ですと、せっかくの美人さんが台無しですよ」

 保科さんにたしなめられて、あやせはその形相をいっそう歪めた。
 こうなると、もはや般若の面とどっこいどっこいだな。
 保科さん一族が鬼女の末裔とかいう伝説があるようだが、こいつの方がよっぽど鬼女らしい。

「保科さん、そろそろ……」

 時刻は午後三時五分前だった。野点の開始に間に合うのかどうか不安が募る。第一、当の野点が保科邸の
どこで行われるのかさえ、俺とあやせは把握していないし、この広い保科邸のどこに何があるのかも分から
ないのだ。

「こちらです。お二人とも、わたくしの後についてきてください」

 やや小走りに歩き出した保科さんに従って、俺たちも道を急いだ。その保科さんは、来た道とは別の方角
に伸びている丸石が敷かれた小径をずんずん進んでゆく。

「あの離れの角を右に回り込めば、野点が行われる中庭に着きます」

 言われたとおりに、その角を回ると、母屋と離れに囲まれた中庭に飛び出した。その中庭は、俺たちから
見て、右手方向が枯山水になっていて、屹立する岩山をイメージさせるいくつかの庭石の間には白い砂が敷
かれていた。その白砂には水が流れる様を表現した箒目が付けられている。

「あそこが、野点の会場です」

 保科さんの目線を追うまでもなく、中庭の左手方向には、赤い絨毯のような緋毛氈が敷かれ、朱色の大き
な傘が立てられているのが目に付いた。
 その大きな傘の下には炉が据えられ、その上の茶釜からは湯気が湧き出していた。

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最終更新:2011年07月26日 22:18
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