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222年

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soutoku

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222年

黄初三年(魏)


皇帝

曹丕(魏文帝)

皇后

→郭氏(文德郭皇后・安平広宗の人)

三公(魏)

呉王:孫権

太尉:賈詡
相國:華歆(前御史大夫)  
御史大夫:王朗(前大理)


その他の要職(魏)

太常:邢貞
光禄勳:
衛尉:→
太僕:
廷尉:→
大鴻臚:→
宗正:→
大司農:→
少府:→

大司馬:曹仁(前大將軍)
大将軍:孫権
驃騎将軍:?
車騎将軍:公孫恭(遼東太守)
衛将軍:?


地方官

郢州:
荊州牧:孫権



主な事件

  • 黄初三年春正月丙寅朔、日食があった。《三国志魏書文帝紀》
  • 正月庚午、許昌宮に行幸する。詔に曰く「十室の邑にも必ず忠信の士はいるものだ。もし年齢を限れば、是呂尚や周晋不顯はどうだ。郡国に令す。老幼に拘らず、儒経学に通じ、文・法に達者な士は到らば皆試用する」と。《三国志魏書文帝紀》
  • 癸亥、孫権は上書して説明するに、「劉備が兵四万人、馬二三千匹をもって秭帰を出ました。行って殲滅しようと思います」《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 二月、鄯善、亀茲、于闐王が各々使者を遣わし奉献してくる。この後西域は遂に通商し戊己校尉を置く《三国志魏書文帝紀》
  • 三月乙丑、斉公の曹叡を平原王と為す。帝の弟の鄢陵公の曹彰等十一人を皆王と為す。初めて封建の制を定める。王の庶子は鄉公、嗣王の庶子は亭侯、公の庶子は亭伯。《三国志魏書文帝紀》
  • 甲戌、皇子の曹霖を河東王と為す《三国志魏書文帝紀》
  • 甲午、襄邑に行幸する《三国志魏書文帝紀》
  • 夏四月戊申、鄄城侯の曹植を鄄城王と為す《三国志魏書文帝紀》
  • 癸亥、許昌宮に戻る《三国志魏書文帝紀》
  • 五月、荊州揚州をもって江表八郡を荊州と為す。孫權が牧を領していたためである。荊州の長江以北の諸郡を郢州と為す《三国志魏書文帝紀》
  • 閏月、孫権が劉備を夷陵において破る。文帝は初め劉備が兵を東下させて孫権と交戦し、樹柵を連ね兵営七百余里と聞き孫権の勝利を予測した。《三国志魏書文帝紀》
  • 秋七月、冀州で大いに蝗す。民飢え、尚書の杜畿に節を持たせ遣わし、倉を開き廩を振舞う。《三国志魏書文帝紀》
  • 八月、蜀の大将の黃権が兵を率いて降る。《三国志魏書文帝紀》
  • 孫権及び南郡太守を領する史郃等三百一十八人は、荊州刺史の下に参上し、仮の印綬、棨戟、幢麾、牙門、鼓車を奏上する。孫権等は行在所に参上し、帝は酒を置き楽を設けた。承光殿に引見する。孫権、史郃等は事の次第を披瀝し、帝は軍旅成敗の因果を論説する。諸将で喜悅しないものは無かった。孫権に金帛、車馬、衣裘、帷帳、妻妾を賜り、以下偏裨を下し皆有差があった。孫権を侍中鎮南將軍に拝し、列侯に封じ、即日召して騎乗させ、及び史郃等四十二人を皆列侯に封ず。為に將軍郎は將に百余人。《三国志魏書文帝紀に引く魏書》
  • 九月甲午、詔して曰く、「婦人が政に参与するのは乱の本だ。今後、臣は太后の奏事を得てはならない。后族の家のものは輔政の任に当たっては為らない。また茅土の爵を得てはならない。この詔を後世に伝え、もし背違あれば天下は共に之を誅すべし。《三国志魏書文帝紀》
  • 九月庚子、郭氏を皇后に立てる。天下の男子に爵二級を賜う。寡婦や篤実な者及び貧しくて自存できない者に穀を賜う《三国志魏書文帝紀》
  • 冬十月甲子、首陽山の東を寿陵と為すと表明した。臨終の制度を定めて、漢文帝と光武帝の陵墓の違いを引いて薄葬にするよう戒めた。この詔を宗廟に蔵し、尚書、祕書、三府に送るよう命じた。《三国志魏書文帝紀》
  • 冬十月、孫権がまた叛く。郢州を荊州と復す。帝は許昌から南征し、諸軍兵は進撃した。孫権は長江に臨んで守り拒んだ。《三国志魏書文帝紀》
  • 十一月辛丑、宛に行幸する。《三国志魏書文帝紀》
  • 庚申晦、日食あり《三国志魏書文帝紀》

  • この歲、靈芝池を掘る。《三国志魏書文帝紀》



誕生者




死没者

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